第126話 カナンの贋作壁画(2)
「奴らは必ず謎の絵画を所持している人の元に現れてる。父さんのところにも、サーカス団にも。絵の在り処は限られた人間にしか知らされていない。にもかかわらず……だからきっと、この町に絵の所持者がいることも」
「ちょ、ちょっと待て!」
アダムに言葉を遮られ、ルカは素直に口を噤んだ。
「つまりこっちの情報があっち側に洩れてるってことか? それともアレか、俺たち尾行されてんのか……?」
「尾行はよくわからないけど。今までのことを考えると、コルテに絵の一部が隠されてることは向こうも知ってる可能性が高いと思う」
「なるほどな――いや結局情報が漏れてるのは変わらねえよ」
年上の少年は情けなく身震いした。いつだって彼は追われる身になることを極端に恐れる。つまるところ、肝が小さいのだ。
一連のやりとりを咀嚼していたニノンは、「だとしたら」と総括する。
「ルカの作戦っていうのは、この町に残って仮面の人たちがやってくるのを待つってこと?」
ルカはこくりと頷いた。相手の居場所が特定できない以上、向こうからやって来るのを待つほかない。そうして待つ間にも、別の方法は模索できる。
「しばらくしても奴らが現れなかったら、諦めてこの町を離れよう」
「いやっ、諦めちゃダメだろ」
アダムが思わずといったように笑ったが、ルカは顔色ひとつ変えずに続ける。
「それで、その後はボニファシオに行こうと思う」
「ボ――はあ?」
にやついていた少年の口から、今度は意表を突かれたような、間の抜けた声が飛び出した。隣でニノンが眉頭をぴくりと反応させる。
「なんでそうなる。さてはお前、俺の話聞いてなかったな?」
「聞いてたよ」
「嘘つけ!」
そんな提案は断固阻止せんとばかりに、アダムはびしりと人差し指を鼻先に突きつけてくる。
「ボニファシオっつったら首都アジャクシオよりももっと南の町だぞ。というか島の最・南・端!」
アダムはそのまま腕を振り下ろすと、自身の足元を勢いよく指差した。
「今まで来た道を逆戻りだ。ド長距離ドライブだぞ。何回充電が必要だと思う? その町にベニスの仮面が現れるって根拠でもあんのかよ」
「約束したんだ」
「会う約束を? 窃盗集団と?」
「ニノンの故郷に行って、失くした記憶の手掛かりを探すって」
「ああ?」
雲の多かった月夜の晩に、一枚の写真を囲ってひっそりと交わした約束だった。
その写真にはボニファシオの海にせり立つ断崖と、その岩の壁に斜めに掘られた階段から身を乗り出す、桃色の髪の少女が収められていた。ニノンの故郷がボニファシオであるという確かな証拠。そこにいけばきっと失くした記憶を取り戻す足掛かりになるに違いないのだ。
「そういやニノンの出身地はボニファシオだったっけか……じゃなくて! 絵はどうすんだって話だよ」
「相手の居場所が分からない限りどこにいたって一緒だろ。道すがら情報を集めることもできるんだし」
「うん、うーん? まあそりゃそうか……?」
だんだん自己の主張が曖昧になってきたらしい。ついに首を傾げはじめたアダムだったが、目が覚めたようにぱっと顔をあげ、ルカではない方に目を向けた。
「そもそも、ニノンはそこに行きたいのか?」
「えっ、私?」
突然話の矛先を向けられたニノンは、きょとんとしたまま膝を抱えている。手元の袋は既に栗の実でいっぱいだ。
「ボニファシオには昔の記憶を探りに行くんだろ。俺はてっきり、お前はまだ思い出す決心がついてないのかと思ってたんだぜ」
「私は……」
ルカも彼女をまっすぐ見つめて答えを待つ。
しばらく揺れていた瞳が、きつく閉じられた。やがて、ニノンは遠慮がちに首を横に振った。それから今度はもっと強く、ぶんと音がなるくらい動かした。
「行く。行きたい――連れていってください」
アダムは口を真一文字に引き結び、何かを堪えているような顔で腕を組んだ。ルカとニノンは懇願を視線に込めて、頭の中で天秤を揺らめかせているであろう男を真正面からじっと見つめる。
「……お前らそれ、わざとやってるだろ」
ついに真一文字に引き結ばれていた口から、深い息が吐き出された。
訳がわからず傾げた首の動きが、ルカとニノンとでシンクロする。
「どれだ?」
「そ、れ! 捨てられた子犬みたいな目で、こっちを、見るな!」
「連れていってくれるのか?」
「アダム、ありがとう!」
肩で息をする少年に、またしても二人分の無垢な瞳が追い打ちをかける。
「ああーっ、もう、仕方ねえな!」
半ばやけになりながらも、アダムは一行のボニファシオ行きを承諾した。ただし、交通費を捻出するために旅費の節約をすること、もっと修復依頼を受けて収入を増やすことなど、細かな条件が付け加えられた。
「ほんと、お前らってば俺のこと大好きだな」
「うん! 頼りにしてる!」
「ばか、嫌味だよ」
つまらなさそうな口振りでも、その表情の端々には照れ臭さが滲んでいる。
「そりゃ俺は運転だって上手いし島のことも詳しいし? 愛嬌があって優しくて、おまけに顔もスタイルもいいけどさ――」
「アダムくん」
これみよがしに己の偉大さを語っていた男に、突如声がかかった。「うお!?」と大げさに肩を揺らして振り返ったアダムは、声の主を判別してほっと安堵のため息を漏らす。
「なんだよ、テオじゃねえか」
そこにはルカと同じくらいか、あるいはほんの少しだけ身長の高い少年が立っていた。
蜂蜜色の柔らかいくせ毛は日の光を受けて飴細工のように煌めいている。おそらく同年代なのだろうが、あどけなさの残る顔立ちだからか、ルカよりも幼く見える。
「なんだってなんですか。酷いですよ」
「いや、さっきちょっと怖い話してたからよ」
「怖い話? まさか幽霊が怖いんですか、そのナリで」
「お前も大概酷いヤツだよな」
二人の親しげな様子をじっと見つめているのに気付いたのか、アダムはこちらに向き直り、テオと呼ばれた少年の肩を軽く叩いた。
「こいつはテオ。絵画科の学生だ」
「パオリ学園の? あ、初めまして。ニノンです」
「どうも。テオドール・マネです」
二人は互いに挨拶をし、握手を組み交わす。
外壁周辺に群がっていた人だかりは、いつの間にか波が引くようにいなくなっていた。どうやら学生集団が揃って見に来ていただけのようだ。その集団のなかにテオもいたのだろう。
くすんだ緑色の目がこちらを見てにこりと笑ったので、ルカは思い出したように口をひらいた。
「初めまして。修復家の、」
「ルカくん、ですよね」
「え――あ、はい……?」
知ってるよ、と、テオは人好きのする笑みを浮かべて右手を差し出した。戸惑いつつも握り返した手はひんやりと冷たく、どこか弓なりに細めた眼差しと同じ温度を思わせる。
「なんだ、お前ら知り合いだったの?」
「いえ。僕が個人的に知っていただけです」
「なんだそりゃ」
「風の噂ってやつですよ」
その個人的な部分をルカは知りたかったが、テオは別段説明する気もないらしく、話題はすでにアダムとの馴れ初めに飛んでいた。
二人はたまたま広場で絵を描いているときに知り合ったらしい。
「一時期、パリのアートスクールに通っていたことがあるんですよ。小さい頃ですけどね。その教室の名前が『アトリエ・目覚まし時計』っていって――」
「あ。それ、カヴィロさんとシャルルさんの教室だ」
驚いて口を挟むニノンに、テオは頷く。
「そうなんですよ。アダムくんは先生たちの知り合いだって、話しているうちにわかったんです。そこから懇意になったんですよね?」
同意を求めてテオが振り返れば、アダムはふむ、と大真面目に腕を組んだ。
「思い返せば、ありゃナンパだったのか?」
「またそういう質の悪い誤解を招きそうな言い方を……。どうせ声を掛けるなら可愛い女の子にしますよ」
「違いねェ。俺だってそーする」
あははと笑うアダム。彼もニノンと同じく、どこでもすぐに友だちを作ってしまう。二人はルカの修復作業を見てたびたび「魔法みたいだ」と口にするが、ルカからすればそっちの方が魔法に見える。
「同類みたいに言わないでください」と膨れるテオの目はくりくりと丸く、凄んでもさほど怖くない。経歴から言動まで、共通して優等生の風を感じさせる少年である。
「でもすごい偶然だよね。ゆかりのない町で、知り合いの知り合いに出会うなんて」
とニノンがフォローすれば、テオは「そうでもないですよ」と首を振った。
「レヴェイユは人気のあるスクールなんで、探せばこのあたりにも通っていたって人はけっこう見つかるんじゃないかな」
「へえ〜、カヴィロさんたちってそんなに人気だったんだ」
そのアトリエが経営者間の軋轢により店じまいしたことを、元教え子が知っているか否かは定かではない。
「ニノンさんのこともアダムくんから伺ってますよ」
「えっ、なんて?」
教会の天井を舞う天使よろしく、テオはにこりと微笑んだ。
「『よく食べる』って」
期待に瞳を輝かせていた少女の顔がぴしりと固まる。天使の笑みだと思っていたテオの笑顔は、正しくは悪魔が面を被って演じていた紛いものだったようだ。
腹黒だ――ルカの脳裏に、目の前の人間を正しく体現する単語がさっと過ぎった。
「もーう、アダムぅ!」
「なんだよ、嘘は言ってねえだろ!?」
「この際嘘でいいよー!」
ニノンは顔を真っ赤にしてアダムを追いかけ回す。そんな二人を眺めながら、テオは相変わらずにこにこしている。底が知れない人間だと横目に警戒しているときだった。
「ルカくん、幼い頃からアルタロッカの方で修復家やってたんですよね」
不意に問われて、ルカはどきりとする。
「どうしてそれを? アダムから聞いた……?」
「さぁ、どうでしょう」
情報は正しい。ゆえに恐ろしさが際立った。
彼とはもしかしたら、学園の廊下で一、二度すれ違ったこともあったかもしれない。けれど正直覚えていない。それほどに、ルカはテオドールという男のことを何も知らない。
以前にもこういうことがあった。
それは遠い地、パリのルーヴル発電所――薄暗い玉座の間で、かのサンジェルマン伯爵から一方的に懐古の眼差しを向けられたときだ。
ルカは唐突に思い出す。己の与り知らないところで他人に自身を掌握されている、あの居心地の悪さ。心を毛羽立たせる奇妙な感覚と同じだ、と。
テオは答えず、微笑んだままさらに問いかけを重ねる。
「どうして修復家になろうと思ったんですか?」
「え?」
「志すきっかけがあったんじゃ?」
「ああ……それは、うちが代々修復家を営んできたからで」
「物心ついた時から、ってやつだ」
「まぁ、そう言われればそう……だけど、この道を選んだのは自分の意思だから」
ふぅん、とすぐ近くで相槌の声がした。
気がつけばテオの目はじっとこちらを見据えていた。
「ルカくんが絵画を修復する理由ってなんですか? エネルギー還元率を上げるため――だけじゃないよね?」
若いオリーブの色の瞳は、その奥底にどんな光をも飲みこむブラックホールを飼っているようだった。顔は笑っているのに、目は昏いままだ。
「……俺の何を知ってるんだ?」
「知りませんよ」
あっけない答えが返ってくる。
「知らないからこそ知りたいんです、君の考えを。……普通じゃないんでしょ? 修復家って、ルーヴルとか大きな組織に所属するもんね、普通は」
決めつけるような物言いだった。
何故他人に己の立ち位置を判断されなければならないのか、といった不快感がルカの中で鎌首をもたげる。
普通か異常か――そんな曖昧な定規で自身を測られれても、嬉しくはない。
露骨に眉をひそめたとき、遠くから二人の名を呼ぶ声がした。すっかり人気のなくなったシタデルの壁際で、アダムとニノンがこちらに向かって手招きしている。
「普通とか普通じゃないとか、そんなのは関係ない。傷付いた絵画がそこにあるなら修復する。それが絵画修復家の仕事じゃないですか?」
「ふぅん――結局そこ止まりなんだ」
「は……?」
落胆か、ともすれば失望を伴った溜め息をついて、テオはルカに背を向けた。
「もっと普通の人とは違う考えを持ってるのかと思ったんだけど、見当違いでした。すみません、今の話は忘れてください」
え、と問い返した声には振り返らず、少年はそのまま広場から立ち去っていった。
風が吹いて、足元で乾いた落ち葉がゆるく舞う。
――普通、普通って。なんなんだ。
出会い頭になぜそんなことを言われなければならないのか。ルカは不快感に顔をしかめたが、それ以上に胸に受けた言葉の拳が効いていた。
"結局そこ止まりか"
――一体なにを知ってるって言うんだ……。
咀嚼しきれない感情が喉元につっかかっている気がした。ルカは咽頭を上下させて無理やりそれを飲みくだしてみたが、重みを伴ってただ腹のなかにどすんと落ちただけだった。
難しい顔をして少年の消えた先を見つめていると、遠くから再び「おーい」と呼ぶ声がした。顔を向ければ、慣れ親しんだ二つの顔がじれったそうにこちらを見ている。
「なにしてんだよ、ルカ。早く来いよー」
「あ……うん、いま行く」
かくして壁の目の前に立ったルカは、赤茶けた煉瓦の上に、大きな旗を掲げる女神の姿を見たのだった。




