第126話 カナンの贋作壁画(1)
オート=コルス県、旧首都コルテ。その頂に君臨するパオリ学園――東棟二階の一番奥まった場所に、その部屋はある。
学長室はいつも静寂に満たされている。
時刻は朝の八時二〇分。
窓を開ければ目下から生徒たちの賑やかな声が聞こえてくる頃だ。ブラインドの閉まった室内は日中だというのに薄暗く、窓際から僅かに漏れる光の中でだけ、やわらかいうぶ毛のような埃が漂っている。
この部屋の主である男は、ゆったりと大きな肘掛椅子に腰掛け、手にした雑誌の紙面に目を走らせた。
『今からおおよそ五〇年前。××年×月×日に、世界最高峰の芸術要塞”ルーヴル美術館”はその長い歴史に幕を下ろした。
AEPによる電力供給が認められると、各国はそれを現時点でのエネルギー供給手段の最有力候補と判断した。ルーヴル美術館が国から収蔵美術品提供の要請を受けたのは、電力が復旧してからわずか一週間後のことであった。
閉館までの約二年間、美術館長を務めたアンリ・フェルメール氏(当時四十歳)は「長年いち学芸員として携わってきた者として、美術品にとって最も忌避すべき終局を迎えてしまったことに、残念であるとともに申し訳なく思う気持ちでいっぱいです」と閉館挨拶文で述べている。――中略――』
四方の壁の上部には歴代学長たちの肖像写真がずらりと並ぶ。動かぬ眼差しのそれぞれが、立派な燻銀の長髪をハーフアップに結わえた壮年の男――パオリ学園の五十代目学長、ヨハネス・ゴドフリーを静かに見下ろしている。
びっしりと字の詰まったページは白黒印刷で、掲載されている写真はただ一枚のみ。若かりし頃のアンリ・フェルメールが、ハンカチで額の汗を押さえている。
その横顔はまさに、精魂尽き果てたという表現がぴったりなほどやつれていた。
ゴドフリーはマグに注いだブラックコーヒーを一口ふくみ、記事の続きを再び読み進めた。
『最近になって、収蔵されていた全ての美術品が提供されたわけではないことが関係者の証言により明らかになっている。元ルーヴル美術館学芸員は「国からの要請を受ける直前、フェルメール氏は数十点にも及ぶ絵画を関係者らに売り渡している。元美術館収蔵品は、個人所持物として国からの要請を免れました」と述べている。未だに収蔵品の行方は分からず――』
細々とした文字を目で追っていると、コンコン、と扉をノックする音が響いた。ゴドフリーは銀縁の眼鏡越しに学長室の扉を見やる。
「どうぞ」
「失礼します」と一言断ってから、品のあるスカートスーツを着こなした眼鏡の女性が入ってきた。
「ゴドフリー学長、いらっしゃるのでしたら電気くらいつけてください」
「モリゾ、君か。おはよう」
「ええ、おはようございます――日中とはいえ、こんなに暗いと目に悪いですよ」
女性は真っ先に室内の照明のスイッチを入れると、無駄のない動きで真っすぐにデスクへとやって来た。
モリゾは若くして副学長を務める教諭だ。落ち着いた暗い色の髪を後ろでぴっちりと纏め上げていて、容姿も言動も出来る女のお手本といって差し支えないだろう。彼女の手には目を通さねばならない大量の資料が束ねられている。
「なに、節電をしようかと思ってね」
「個人がおこなったところで誤差みたいなもんでしょう?」
口を動かしながらも、彼女の手は資料を目的別に仕分けるのに暇がない。
「ははは。『大河の流れも一滴の雫から』と言うだろう」
「でしたらせめてブラインドを開けてください」
「それはいい提案だ。次からそうしよう」
「学長、今日はゆっくりお喋りしている暇はないんですよ」
副学長は肩をすくめて息を吐いた。
「学園の資料館の壁にやられた落書きの処理をどうするかも決まっていませんし、新聞社の取材も数件入ってるんですから――おまけに現場には野次馬がてんこもり! 資料館を利用したい生徒たちに迷惑がかかります。直ちに立ち入り禁止にすべきです!」
勢い余って机にプリントの束を叩きつけた副学長は、ゴドフリーが持っていた雑誌に気が付き「なんですか、それ?」と視線を下げた。
「読むかね? よくあるゴシップ誌だが」
「いえ、結構です」
彼女はゴドフリーが差し出した雑誌をきっぱり断ったが、すぐに視線を戻して、開かれたページの見出しをちらりとだけ覗き込んだ。
「ルーヴル……美術館?」
『ルーヴル美術館崩壊のその後』と打ち出された特集は、「かつて世に名を轟かせた画家たちの作品は、世界のどこかで未だに眠ったままである」といった内容で締め括られている。
「学長も俗世的なものをお読みになるんですね。少し意外です」
「読みたい記事があったのでね」
「このページのことですか?」
「ああ」
ルーヴル美術館がルーヴル発電所として再起した当時の話をさらっとしてみたが、彼女の食いつきはいまいちだった。自身が生まれるより以前の話なのだから、当然といえば当然だ。
かく言うゴドフリーも、当時は一〇にも満たない痩せっぽっちな少年であった。
「ほかにも、最近読んだ本ならサッカー選手の自伝が面白かったな」
「お好きですもんね、サッカー……ではなくてっ」
憤慨する彼女を尻目に、ゴドフリーは「ははは」と笑う。
「偏食はよくないな。稀にこうして夾雑物に紛れた中身の詰まった実を見つけることもできるのだから」
「それはどういう意味です? この記事が何か――あら、そういえば」
紙面の文章を探りかけたところで、彼女は思い出したように抱えていた郵便物の中から一通の封筒を摘まみ出した。
「お手紙が届いていましたよ、ルーヴルから」
ゴドフリーは口元に見本のような微笑を湛えたまま、差し出された黒い封筒を受け取った。
山の斜面に沿って広がる坂道だらけの町〈旧首都・コルテ〉には、頂上に古い要塞が建っている。赤煉瓦を積み立てて作った長方形の建物で、数百年前に勃発したコルシカ島独立戦争で司令基地として使われた過去を持つ。外壁には生々しい銃弾の跡も残る、歴史的な建造物でもある。
今はパオリ学園の図書館、あるいは資料館として活用されているのだが、今日に限って言えば館内に立ち入る人間はほぼいない。
その代わりに、何でもない外壁の一箇所に不自然な人だかりが出来ていた。
「どう、アダム。見えそうか?」
「いやー全然ダメだな」
朝っぱらから、アダムとルカは人混みの最後尾で背伸びを繰り返していた。
目当てはシタデルの壁――に描かれたとある落書きである。コルテの町はいま資料館の煉瓦壁に大層な落書きが発見されたというニュースで持ちきりだ。二人もそんなニュースを耳にし、身支度もそこそこに実物を確かめようと急いでやって来たのだ。
ニノンとニコラスは朝支度があるらしく、後から合流する予定になっている。
「”壁画”っつーからにはもっとでけェのを想像してたんだけど」
「案外小さいな」
「おかげで野次馬に隠れちまってる」
かく言う二人も野次馬の一部である。
「ルカ、お前見たことある? カナンの壁画」
前方に注意を向けたまま、アダムが何とはなしに尋ねてくる。
「いや、ないよ。でもそういう画家がいるって話は聞いたことがある」
二年ほど前だっただろうか。実家の工房で作業をしていたとき、父親の光太郎がそれらしき話題を口にしていたことがあった。世界各地で公共建造物の壁に落書きをするいたずらが増えているというニュースだった。
「描かれる絵の大半が、大昔の有名な絵画を模写したものなんだっけ」
「模写ってほど細かくはないらしいぜ。っつっても、俺も実物は見たことないんだけどさ。カナンの壁画ってだいたいが大都市で見つかるって言うじゃん」
「そうなんだ」
「どうしてコルテなんだろうな?」
「島の中じゃ二番目か三番目くらいに大きい町だからかな」
「それをいうならアジャクシオだろ。首都だし、人の数も桁違いだ。外国人観光客も多い」
アダム曰く、画家集団カナンは"自らの絵をなるべく多くの人の目に触れさせる"という目的をもっているらしい。ならばより人口密度の高い大都市で活動するのは理に適っているし、コルテに痕跡を残していったのが不可思議だということも頷ける。
「しっかし全然退かねえな。蹴散らすか?」
「蹴散らすのは駄目だろ」
「――おーい」
捌けない人混みに行く手を塞がれていると、背後から二人の名を呼ぶ声がした。
振り返れば、赤いフードを被ったニノンが一人で駆けてくるところだった。
「すごい人だかりだね。壁の絵、もう見た?」
ニノンは上気した頬を手でぱたぱたあおぎながら、人で賑わう資料館の外壁を見渡した。
「それがまだ見れてねえんだよ。それより、ニコラスは?」
少女の隣にいるはずの人物が見当たらず、アダムは視線をきょろきょろさせた。
「ニキ先生にお仕事頼まれちゃって」
「またかよ?」
アダムが眉根を寄せるほど、最近のニコラスはニキに連れ回されている。それはもう良い手足を見つけたと言わんばかりなのだが、無料で宿を提供してもらっている立場上、三人は胸に手を当てて感謝することしかできない。
「壁の絵は時間見つけて適当に見にいくって」
「こき使われてんなー」
「ニコラス、まるで何でも屋だな」
本人が耳にしても特に嬉しくはないだろう同情の言葉が飛び交う。
「助手になってくれってお願いされてたよ」
「え! まさか、ならないだろ?」
「断ってたよ」
だよな、とアダムは安堵の息を吐く。
そのまま三人でしばらく喋っていたが、前方の人が捌ける気配はない。ニノンは会話をしながらも人垣の向こうを気にしていたが、自らそこに踏み入ろうとはしなかった。
以前の彼女なら、好奇心に任せて人混みへと飛び込んでいったに違いない。
それをしないのはきっと、自身が内包する不思議な力が最近になって徐々にその威力を増してきているからなのだろう、とルカは思う。
ひまわりの村・ミュラシオルに滞在していたときからその片鱗は見え隠れしていた。
変化が顕著にあらわれたのは、フェルメール邸での一件だ。
修復を終えた絵画を前に、感受と呼ばれる力が意図せず増幅した。その結果、若かりし頃のフェルメールの思い出、ルーヴル美術館で館長を務めた過去の栄光の姿、果てはその席から追いやられた憐れな背中まで――彼の人生とも呼べる断片の数々が白日の下に晒されてしまったのである。
ニノンは己の力が意図しない形で発現するのを恐れている。たとえ対象が”壁に塗りたくられた落書き”だとしても、干渉しうる感情がそこに込められているのなら、無用意に近付くのは危険なのかもしれない。
「せっかくだからゆっくり見たいよな? 人が捌けるまであっちに居ようぜ」
アダムは気遣いを感じさせない軽い口調で提案する。そして、建物とは反対側の、崖の近くに植わった栗の低木を指差した。
「うん。ありがと」
控えめにはにかむ横顔はすぐに後ろを向き、ニノンは壁から遠ざかるように崖のふちへと歩いていった。
ルカとアダムは一瞬だけ視線を合わせ、先をゆく少女の背中を追った。
*
「ねぇ見て、栗がたくさん落ちてるよ」
ニノンは嬉しそうに地面を指さした。コルテの町とは反対側に位置するこちらの崖向こうは、急峻な山々が端から端まで広がっている。遥か先には、島の最高峰と思しきチントゥ山塊がうっすらと見える。空は透き通る青色だった。
野性味あふれる大自然をバックに生える、崖のふちの低木。その根元に、手のひら大の毬栗が大量に転がっていた。
秋は新鮮な実が手に入るいい季節だ。
「デカい栗だな」
「ちょっと拾って帰ろうよ」
ニノンはしゃがみ込んで、そのうちの一つを指でつつく。
「俺、袋持ってる」
ルカはポケットから紙袋を二つひっぱり出した。
「おめーのポケットは何でも出てくるな」と、アダムが関心と呆れの入り混じった目を向けてくるが、この袋はここへ来る道すがら二人で立ち寄ったベーカリーのものだ。他人の分のゴミまで仕舞っていたことに感謝くらいしてほしい。
ニノンはというと、先ほどの大人しさは何処へやら、ふんふんとよく分からない鼻歌を歌いながらもう栗拾いを楽しんでいる。
「栗粉のクッキーにしたら美味しいだろうな。サルシッチャとオリーブでパスタにするのもいいよね」
「栗粉のパンも焼こう」
ひたすら列挙される食べたいものリストに、ルカはさり気なくメニューを加える。熱心に栗を拾い集めていたニノンは、餌を見つけたリスの如く素早い反応を示した。
「余ったらフェルメールおじいちゃんのところにお裾分けしていい?」
「いいよ」
「あと手芸屋のおばあちゃんと、お菓子屋さんのラーラおばさんと魚屋さんの――」
「大丈夫。たくさん焼けるから」
「やったー!」
ニノンは両膝に手をつけて、顔じゅうで喜んだ。
たかだかひと月ほど滞在しただけなのに、彼女のこの町での顔見知りは多い。誤差ほどしか交友関係が広がらないルカには到底成し得ない技である。
「パンでも肉でもいいんだけどよ」
やにわにアダムが口を挟む。彼は転がる毬栗を足先で蹴りながら、重い腰を上げるようにこう切り出した。
「いい加減、これからどうするか考えようぜ」
これからとはつまり、盗まれた絵画のピースを追う旅路の方向のことだ。
確かにそれは至極妥当な意見だった。
「おやじさんの持ってた手紙だと、次はもともと最後の絵画を持ってるニキ先生のところに行く予定だったんだろ?」
「うん。カルヴィへ向かう予定だった」
南方の山岳地帯、アルカロッタ地方・山村レヴィ。辺境の村フィリドーザ改め、首都アジャクシオに滞在中だった虹のサーカス団。そしてここ旧帝都コルテに、北西の港町カルヴィ。
その四箇所が、手紙に記された絵画の在り処のすべてである。
当初はルカの実家を除く島の三箇所をまわり、絵画を回収する手筈になっていた。
「けど、最後の訪問先だった先生はこの町に引っ越してきてた――」
アダムは足で弄んでいた青い実を崖下に蹴落として、くるりとこちらを向いた。
「だから、カルヴィに行く必要はないよな?」
「えっ?」
押しつけるような訊ね方に、ルカは一瞬どきりとした。彼の顔がいつになく真剣味を帯びているように見えたせいでもあっただろう。
なぜ、と訝しむ一方で、ルカは一連の話題とは直接関係のないことを思い出してもいた。
カルヴィは、アダムの故郷だ――。
「そっか、カルヴィには行かないんだ」
隣からぽつりと聞こえてきた沈んだ声に、ルカはふと我に返った。
「なんでそんなに残念そうなんだよ」
アダムの訝しげな目がニノンを見定めている。
「え? 別にそういうワケじゃないけど、でも、だってその町は……」
「オイオイ、まさか海に行きたいからとか言うんじゃねえだろうな?」
「ちっ、違うよー! 私はその、行くのちょっと楽しみにしてたんじゃないかなって思ったから……ほら、アダム、孤児院に頻繁に手紙書いて送ってるから……」
事実、アダムはよく孤児院宛に手紙を送っている。幼馴染のミモザと妹たちに向けて、旅の道中で起こった様々な出来事を、簡素なスケッチと共に綴っているらしい。一度、不用意に後ろを通り過ぎて、大慌てで手紙を隠されたことがある。
ニノンが言葉を濁している間に、アダムの顔はすでに呆れたものに変わっていた。
「最近エネルギー価格がバカみてェに値上がりしてんの。なるべく無意味な移動は避けたいんだよ」
「あっ、なるほど」「そうなんだ」と、素直な二人の納得した声が重なる。
「なるほどそうなんだァ〜、じゃ、ねーッ! 無料で車が動くと思うなよ!」
いいか、と、地面に並べた四つの毬栗を足先でコツコツと弄りながら、アダムは続ける。
「手元にある絵画は三枚。盗まれたままの残りの一枚を取り返そうにも、奴らの居場所の有力な手掛かりはない――ってのが現時点での状況だ。そうだな?」
「新聞にも今のところ窃盗のニュースは載ってないよね」
頷きながら、ニノンが補足する。
「とっくに島外に逃げちまってるかもしれねェな」
そんなあ、とニノンは眉をハの字に下げて嘆いた。
次いでアダムの視線がルカに向けられる。
「ルカ、村出てくる前に被害届け出してたよな?」
「うん、まぁ一応」
「一応ね……」
そう、一応なのである。
望み薄だな、と呟く声に同調してルカは頷いた。ただでさえ小さな村の中で、盗まれたのがエネルギーにもならない紙切れ同然の代物だったのだから、進展が望めないのは目に見えている。
だからこそルカは、己の足で不気味な仮面の影を追うと決めたのだ。
「――これからの予定なんだけど」
「うん?」
一旦言葉を区切り、おおぶりの栗の実でいっぱいになった紙袋の口を閉じる。そしてルカは立ち上がると、何でもないことのように続けた。
「しばらくこの町に滞在して、集めたピースの修復を進めようと思ってる」
「初耳だぞ!?」
アダムは耳を大きくして分かりやすく驚いた。その後ろで、ニノンもびっくりした顔をしている。
「幸いニキ先生はいくらでも家に泊まっていいって言ってくれてるし、学園が開放してくれてる教室は設備も整ってるから、修復作業を進めるにはこれ以上の環境はないよ」
「それってただ問題を先延ばしにしてるだけなんじゃねえの?」
「いや、この町に留まることが重要なんだ」
二人の不思議そうな視線が一斉にこちらを見た。
「……どういうこと?」




