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コルシカの修復家  作者: さかな
side:Louvre Ⅵ

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152/206

隙間のない鉄格子

 *side:???



 ストリート・アート。

 かつてそう呼ばれる作品(・・)が、世の中には数多く存在した。


 ごみごみした都心の薄汚れた壁、あるいは薄暗い高架下の柱。その名の通り、目の前に存在する空間ならば何だって巨大なキャンバスに変えてしまう。描かれるものの大半は、スプレーを使ったサイケデリックなイラストやポップな文字であった。

 言語に昇華される前の荒削りな感情の塊や、ときに暴力的で猥褻な表現は、大半が悪質な落書きだとみなされた。


 しかし、なかにはアートと呼ばれ称賛されるものも出現した。

 鋭いメッセージ性は人々の心に突き刺さり、感覚の麻痺した世に一石を投じるその存在に傾倒する者すらいたという。AEPが発明されてからは、どこの街角を覗いてもそれらに出会うことはなくなったけれど。

 ただただ余白が広がるばかりだった壁に変化が現れ始めたのは、ここ数年のことである。謎の画家集団が現れ始めたあの日から――。


 今日も彼らは闇夜に紛れて壁にスプレーを吹きつける。描き出すのは、喪われた名画の模倣品、あるいはオマージュ、もしくはレプリカの皮を被った批判的メッセージの数々である。

 フード付きのパーカーを羽織った集団は、一区切りついたのかぱらぱらと作業の手を止めはじめた。集団のうちの一人が手持ちのペンライトを点灯させる。細長い光の筋が拡散モードに切り替わり、ぼんやりとした丸い光が、夜空に向かって突き立つ巨大な要塞の壁を照らしだした。

 丸い光は暗闇のなかを手探りするようにジグザグと動き、やがて彼らの描いた作品を断片的に浮かび上がらせた。


 それはかつてルーヴル美術館に飾られていた、今や永遠に失われてしまった絵画のオマージュであった。


 ペンライトを持っている者とは別の人物が、無言で前に進み出る。彼は最後に、壁画の右側に青いスプレーでサインを施した。


――"canaan.(カナン)


 ぱっとライトが消え、あたりはたちまち暗闇に逆戻りした。目的を遂げた集団は、無駄口を叩くことなくその場から立ち去っていった――ただ一人を除いては。



 その者は肌寒い夜風の吹く丘の上で立ち止まり、巨大な要塞を見上げていた。

 要塞の上には満点の星空が広がっている。


 彼女は自前のペンライトで壁面を照らし、他のメンバーに内緒でこっそり描いた自身の絵の出来栄えを確認した。

 誰もその落書きに気がつかなかった。自ら手掛ける大作に夢中になっていたから。それほど取るに足らない落書きだった。ここ最近話題になり始めたこのゲリラ・アートがニュースとして取り上げられた際、写真の片隅に少しでも自分の絵が写ればいい。そう少女は思っていた。

 不特定多数の人間に向けたメッセージではない。これは、とても個人的なレターである。


 それは幼子がクレヨンで描いたような女の子の絵だった。

 丈の長いドレスに身を包んだ女の子の頭には、小さな王冠(・・)がひとつ乗っていた。




 * side:Louvre




「君は、カナンの噂を知っているか?」


 男にそう尋ねられたとき、ユリヤは車窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めていた。先ほどから赤茶けた木々が茂る風景ばかりで、村はおろか牧草地すら見ていない。北の玄関口バスティアを出発したコルシカ特急が、勾配のある山中へと差し掛かってからはずっとこの調子だ。

 代わり映えしない景色に欠伸が出そうになっていたユリヤは、睡魔から意識が戻ってきたところで、豊かなまつ毛をゆっくりと動かした。


「この世で初めてAEPを生み出した『はじまりの絵画』――その創造主。ブラックアウトした世界に、たった一枚で三日三晩のエネルギーを供給したといわれる伝説の画家……canaan.(カナン)


 ユリヤは淡々と言葉を並べると、ようやく視線を目の前の男に戻した。


「単なる都市伝説では? シャルル・ド・シスレーさん」

「そのフルネーム呼び、長くて疲れないか?」


 シャルルは生真面目な顔で問うた。真ん中できっちり分けた髪や、清潔感のあるネイビーのジャケットを着こなす身だしなみからも、彼の生真面目さが滲み出ていた。その胸元には『L』を象ったゴールドのバッチが輝いている。

 同じものがユリヤの心臓の上にもひとつ、光を放っている。

 三角形のピラミッドの中に納まるブラック・レター体の『L』。ルーヴル発電所のシンボルマークである。


「一、二日の付き合いというわけじゃないんだ。シャルルでいい、レーピン」

「そうですか」


 うんと一つ頷いて、シャルルは手元の朝刊に目を落とした。色白の頬にさらさらと髪が落ちる。男は骨ばった指で掬った髪を耳にかけると、そのまま手でなめらかな顎を擦った。

 この男の顎には髭という概念が存在しないのだろうか、とユリヤはどうでもいいことを考える。

 つまるところ、暇なのだ。


「近ごろ噂になっている画家集団が自らを"カナン"と名乗っているのは、やはりその都市伝説から来ているのだろうな」

「さぁ、どうでしょうね」


 鉄橋に差し掛かり、車両はガタガタと激しく揺れた。住み慣れた故郷を離れ、ようやくパリのメトロに馴染みはじめたユリヤにとって、自然の荒々しさがダイレクトに伝わってくるコルシカ鉄道は少々乗り心地が悪い。

 冷たい返答を気にも留めず、シャルルは熱心に紙面を眺めている。ユリヤから見える面のちょうど右下には、大きくはないがとある見出しが躍っていた。


『コルテ市街地に"カナンの壁画"か』


 最近巷を賑わせている画家集団がいる。

 名を、カナンという。彼らは世界各地の比較的大きな都市に出没し、公共施設の壁や建造物に落書き(・・・)をしてまわっているという。画家集団(・・)と表現されるのは、描かれるタイミングや場所、絵のタッチを考慮して、単身の行動ではないとみなされているためである。


「スプレーで描かれる絵はどれも、大昔の偉大な画家が残した傑作と呼ばれる絵画のオマージュらしい。"この世で最()も価値のあ()る絵を描く者()"などと名乗るなんて、『我こそは偉大なる画家なり』とでも言いたいのか――」


 シャルルは朝刊を畳むと、おもむろにユリヤへと顔を向けた。


「君はどう思う?」


 問われてユリヤはじっと相手の目を見つめる。向けられた双眼には、純粋な疑問の色が浮かんでいるように見える。しばらく沈黙を貫いてから、ユリヤはゆっくりとうすい唇を開いた。


「わざわざ壁に描いてAEPに還元できないよう仕組んでいる……我々に敵意を向けているように感じます。なんにせよ、迷惑行為には変わりないわ」


 ガタン、と車両が一際大きく揺れる。

 平日の中途半端な時間だからか、乗客はほとんどいない。ボックス席は九割が空席だ。なぜ残りの一割にわざわざ他人と向かい合って座っているのだろう、などとユリヤは真面目な顔の裏で不毛なことを考える。

 得体の知れない男に心を許す気などさらさらないし、できれば業務時間外は不干渉を望んでいる。

 けれど、業務上仕方がないのだ。こうして向かい合う時間が長いのは。


 シャルル・ド・シスレーとユリヤ・レーピンが初めて顔を合わせてから、まだひと月も経っていない。

 研修期間を終えたばかりのユリヤは、自身の配属先がシュリー翼であることを告げられた。

 奇才〈シモン・レンブラント〉率いる研究所・リシュリュー翼ではなく、組織のナンバーツー〈ダニエラ・ダリ〉が統括する、運営のためのあらゆる業務を担うシュリー翼である。


 メイン業務は放置絵画の回収作業。法の改定を受けて拡大された部門である。リシュリュー翼で研究員として働くことを少しだけ期待していたユリヤだが、それは今後のキャリアプランにでも組み込んでおけばいい。

 同部門にはあの陽気でおしゃべりな小麦肌男子の同期、グァナファトも配属されている。同部門といえど、シュリー翼のカバーする業務は幅広い。就業中に顔を合わせる機会はほとんどないが、人見知りの気があるユリヤにとってグァナファトの存在はひとつの救いだった。


「入職して早々、新人同士で組まされるなんて災難だな」

「パートナーになる予定だった先輩が突如退職されたんだから仕方ありません。それに、ほかの先輩方もサポートに入ってくれるそうですから――すべて、同期から聞いた話ですけど」


 本来ユリヤの教育担当は日本人の女性だった。しかし数週間前、彼女はいきなり退職届を提出すると、その足で祖国に帰ってしまったらしい。

 グァナファトはあらゆる噂話に精通している。彼の情報収集癖はもはや趣味の枠を超えて、生き甲斐と言ってもいいくらいだ。同期のよしみなのだろうが、彼は新鮮なゴシップをいの一番にユリヤへ届けてくれる。


「君の同期は耳がいいな」

「ええ……」


 そこでユリヤは口を噤み、目の前の男をちらりと盗み見た。


 シャルル・ド・シスレー。中途で入職した三十二歳。

 以前はパリの一等地でカヴィロ・アングルと共にアトリエ〈Réveil(レヴェイユ)〉を経営していた腕利きの画家だという。その彼がルーヴルへと入職するに至った経緯こそが、ユリヤの口を噤ませる要因となっていた。


 なぜならば、彼は――。


「エリオ・グランヴィルの未発表作品を見つけ出した功労者とでも聞いたか? それとも、裏切り者(・・・・)?」


 シャルルは朝刊に目を落としながらさらりと言った。


「いえ――はい、そうですね」


 咄嗟に否定して、だがユリヤはすぐに言い直した。

「正直者だな」とシャルルは笑う。


 去る夏に開催されたサロン・ド・コルシカ。そこで、消息を絶っていた画家エリオ・グランヴィルの未発表作品が提供された。

 夏空の下で咲き誇るひまわり畑と二人の人物を描いた巨大な油絵で、タイトルを『孤独に咲くひまわり』といった。


 秘密裏に制作された絵画は画家の手により巧妙に隠されていたという。それを発掘したのが、学生時代から交流のあったカヴィロ・アングル、シャルル・ド・シスレーの両名であった。

 彼らは現地で修復家を雇い、絵画を元ある姿へと蘇らせたらしい。


 だが、シャルルは単独で未発表の絵画をルーヴル側に提供したのだ。まるでカヴィロから手柄を横取りするかのように。

 故に、彼のことを噂するものも世間にはいるのだ――『卑怯な手を使う裏切り者』だと。


 その内の何パーセントが真実なのか、ユリヤは知らない。すべては、グァナファトが肩に力を入れて語ったゴシップに過ぎないのだから。


 グァナファトと会ったのはひと月ほど前のことで、仕事終わり、パリの街角でよく目にするコーヒー・チェーン店へ立ち寄ったのが最後だった。

 路上に面したテラス席の小さな四角いテーブルを挟んで彼は、不満げに眉を寄せていた。子犬そっくりの丸いくて黒目がちな目は普段以上に大きく見開かれていて、ユリヤは指で触ったら弾けてしまいそうなその目玉を毅然とした態度で見つめ返していた。


『んー。うーん、むむむ……』

『何よ』


 返す声に棘が含まれていることに、グァナファトは気付かない。カーディガンを羽織るユリヤの向かいで、彼は半袖のポロシャツをさらに腕まくりするように擦っている。


『いやあ、相手のよくない噂を耳にしたもんだから。エリオ画伯の絵画を発見した渦中の二人、なんでもアカデミー時代からの仲だったらしいんさ。ルーヴルに入職するためには気心の知れた仲間でも平気で利用する、つまりユリヤが組む相手はかなりのやり手ってこと……』

『ただの噂でしょ』

『そうなんだけど』


 ふう、と大きく息を吐いて、グァナファトはオーバーな動作で両手を頭の後ろに回した。


『厄介ごとに巻き込まれなきゃいいなーって思ったんさ。ま、ユリヤなら大丈夫か』

『なによ、その大丈夫っていうのは。根拠は?』

『ない!』


 向かいに座る小麦色の少年は口を大きくあけてワハハと笑った。

 グァナファトの発音は訛っていて、いつも語尾が尻上がりになる。真剣な話でもどこか気の抜けたような感じになるのは、きっとそのイントネーションのせいだ。

 のんびりと喋っていたグァナファトは、パンッと両手を自身の膝に打ち付け、反動をつけて勢いよく上体を起こした。


『でも、何かあったらすぐに相談してよ! 困った時に助け合うのが『友情』さ』


 決まった、とでも思っているのか。グァナファトは親指を立て、若干古臭いジェスチャーをしてのける。


『…………あんたってクサイ台詞好きよね』


 いい顔をしているグァナファトを白い目で見つめてから、ユリヤはカップの中身を飲み干した。



「――裏切り者と揶揄されても仕方ない。やったことは事実だしな」


 呑気な同期のことを思い出していたユリヤは、男の静かな呟きにぱっと意識を引き戻された。


「……シャルルさん」


 ん、とシャルルが首を傾げる。

 ユリヤは己の目で確かめたことしか信じられない性質(たち)だった。それ故、実体のないものが苦手なのだ。本人のいないところでむくむく成長する黒い噂然り、それに踊らされる人間然り。

 当事者間でしか知り得ない事情もあるだろう。結局ヒトは、他人のおおよそを輪郭でしか捉えられない。着色はすべて空想だ。


「シャルルさんは、何か、ルーヴルに入ってやりたいことでもあったんですか?」


 尋ねると、シャルルは軽く笑っただけだった。が、やがて真顔になり、唐突に「時折り」と切り出した。


「ルーヴルは鉄でできた四角い箱のようなものなんじゃないか、と考えることがある」

「鉄でできた、四角い箱……ですか?」


 いきなり何の話だろう。ユリヤは相手の言葉をそっくりそのまま反芻してみたが、やはり意味はよく分からなかった。

 シャルルはしばらく顎に手を当て思案していたが、やがて思いきったようにこう続けた。


「オンファロスが生み出すエネルギーは絵画に眠っている。誰もが知っている事実だ。けれど、どのような(・・・・・)絵画がどれほどの(・・・・・)エネルギーを内包しているのか、詳しいことは分からないままだ。分からないまま、俺たちは手探りの状態で絵画を作り続けている。効率を謳うルーヴルが、根本的な部分では原始的で非効率的なままなんだ」


 言われてユリヤは小さく息を吸いこんだ。


「莫大なエネルギーを生み出す絵画が描けるかどうかは、運と一握りの才能(・・・・・・・・)に掛かっていると言っていい。努力や経験など関係ない。そんな神の気まぐれや恩恵にばかり頼っているのでは、この世界はいずれ駄目になる」

「駄目になる、とは……」

 問うたはいいが、答えは明白だ。

「最悪、エネルギーショックの再来だ」


 思った通りの言葉が返ってきて、ユリヤの咽頭がごくりと上下した。


 世界の中心で淡く発光するガラスのピラミッド(オンファロス)

 人々を支える箱の中身を誰も知らない。


 それはつまり、鋼鉄でできた床に立っていたはずが、足元に広がっていたのが実は腐りかけた木板だったということだ。


「まぁ、再来は言い過ぎだが……」


「――絵画から」


  ユリヤは静かにシャルルの言葉を遮った。


「絵画からAEPを取り出すロジックが解明されれば、もっと効率よくエネルギーを生み出すことができる。もしかしたら、それらを応用した新しい発電方法だって発明できるかもしれない。けれど現状、ルーヴルは閉鎖的で、情報を開示することに消極的」


 ユリヤは自身の手元に落としていた目線を上げて、目の前の男を見据えた。


「だから『鉄の箱』なんですね」


 シャルルは意外そうに目を瞬き、すぐに頷いた。


「けれど人々は、鉄の箱にまるで触れようとしない。さわれば消える蜃気楼だとでも思っているのか、今の平穏を崩したくないのか、そもそも考えることを放棄しているのか……。きっと麻痺しているんだ。あるいは変化を拒んでいる」

「まるで、人の脳が進化を止めてしまったような物言いですね」

「あながち間違っていないかもしれないな」

「嬉しくないですね……」


 鉄の箱状態がいかに危険であるか、少し考えれば分かるはずだ。今までまったく気にしなかったわけではない。いや、分かっている気になっていたが、深くまで考えたことがなかった、と言うほうが正しいだろう。

 そっと肩を揺り動かされ、今まで現実だと思っていた世界から目を醒ます――そんな奇妙な感覚だけが、ユリヤの頭の片隅にうすぼんやりと残っている。


「今までふんわりとしか考えていなかったけれど、何か……輪郭がはっきりとした気がします」


 そうか、と小さな同意が聞こえたすぐ後に、力のこもった言葉が続いた。


「そう思ったから話したんだ、君に」

「はい?」


 顔をシャルルのほうに向けると、彼の真面目な眼差しと目があった。


「以前、二人で話したことを覚えているか? 君が――」


 男の声は時を二週間ほど遡る。


 ルーヴル発電所、ドゥノン翼棟。

 資源保持者に対する回収の手順などを擦り合わせる会議を終えて、二人は長い回廊を歩いていた。左右の青い壁面に空っぽの額縁がいくつも並ぶ大回廊である。

 以前ここを通ったときにはまだ、一つか二つ絵画が残っていたものだ。供給量に対して絵画の回収が間に合わず、備蓄資源を還元したのだろうか、とそのときのユリヤはぼんやりと考えていた。


『絵画を手放したくない人のところに回収に行くのは気が引けるな。なんだか借金取りみたいじゃないか?』


 シャルルが冗談を口にすると、ユリヤは『はぁ』と気のない返事を返したという。


『エネルギー還元とともに絵画が消滅するからいけないんです。システムを変えれば私たちの仕事はもっと減るはずですよ』


 はたとユリヤの足が止まる。どちらからともなく見上げた先には、神々の物語が天井画としてどこまでも続いていた。


『あれも厳密には絵画ですが、建造物と一体になっているという観点から資源の対象にはなっていませんよね』


 天井画のところどころは酷く色褪せている。何百年と時の流れにさらされてきた証拠だ。


『資源と非資源の間に明確な溝はあるのだろうかと、時々不思議に思うことがあります。資源の幅を広げれば、現状よりももっとエネルギー事情は潤うはず。余裕があるなら賛同的ではない人間の元へ回収に行く必要もありません。もっとも、最近では新たな資源発掘の動きもあるようですが』


 それもまた、グァナファトから聞いた話である。新たにドゥノン翼長補佐に就任したクロード・ゴーギャンという男の功績は、まさに新資源の発掘であったという。彼は数ヶ月前、コルシカ島のヴェネチアンマスクからエネルギーを抽出することに成功している。


『隠れ資源――つまり絵画が提供されずに埋没している原因が、手続きの面倒さから来るものなのか、なんらかの拒絶心による提出拒否なのかは、調査してみないとわかりません。ですがもし後者だとしたら……』

『絵画を手放したくないと考えている人がいるとしたら、ということか』

『はい。これは一つの手段ですが、エネルギーを生み出したあと、本人に絵画を返還すればいいのではと思うんです』

『返すだって?』

『エネルギー還元の前と後で絵画本体に損傷が出ないように改良できるなら、可能だと思います。そうすれば、回収に応じる保有者も増えるような気がしますけど』

 口を引き結んで考え込む年上の男を相手に、ユリヤは畳み掛ける。

『思うに、発電に伴って絵画が消滅してしまうのは、過還元が原因なんじゃないでしょうか?』

『それは……原理を知らないからどうにも……』

『ゆくゆくはそういうことを考えていかなければならないんだと思います』


 AEPが発明されてから、人間はより電気に依存するようになった。"掘り出す資源"から"作り出す資源"に変わったことで、精神的に気持ちが緩んでいるせいもおそらくあるだろう。

 電力を無限につぎ込むことにより実現した技術も数多く存在する。最近であれば、現リシュリュー翼長シモン・レンブラントが考案した、廃棄物系バイオマス油化システム。湯水のように電力を使ってゴミからプラスチックを生成する技術などがそれにあたる。


 絵画(しげん)は人間がその手で作り出せばよい。つまりAEPは、人間が滅びない限り、永久機関と言っても過言ではない。

 世の中はそう思っている。

 だけどそれは違うと、ユリヤは考える。


『どんな資源も無限ではないんです。人間が、際限なくエネルギーを使い続ける限り』


 回廊の突き当たりまで来たところで、ユリヤは正面の壁に掛けられた巨大な額縁を仰ぎ見た。かつて、ヨハネの福音書の一場面を描いたとされる絵画がここに保管されていた。イタリアの修道院食堂に飾られていた巨大なキャンバスはもうこの世には存在しない。


 空っぽの額縁が増える度、ユリヤはかつて人間の生活を潤わせていた太古の死骸に想いを馳せた。地球の資源も、こうして掘り尽くされていったのではないか、と。


 だからこそAEPに関する研究の意義は何にも増して大きいのだと、ユリヤは思うのだ。



「――絵画が消滅しない方法を模索しようだなんて前進的な意見を抱いている。もしかしたらこの子は、自分と同じような考えを持っているんじゃないかと」


 にこやかにシャルルが言うので、ユリヤは誤魔化すように視線を逸らした。

 シャルルほど現在の体制に危機感を抱いていたわけでもない。既に完成している土台の上へ上へと新技術を乗せていくことばかりを考えていただけで、土の中に埋まった根の部分にまで視界を広げたことなどなかったのだ。

 一目置く一方で、若干悔しくもある。心情は複雑だ。


 それに、絵画の消滅を防ぐという着想の発端は自分ではない。だが、言い出す雰囲気ではなかった。

 絵画が消滅しない未来を真に望んでいたのは、ルーヴル発電所のドゥノン翼で出会ったとある少女(・・・・・)なのだ。


――ニノン。今頃、どこで何をしてるのかしら。


 名前しか知らないユリヤの友人。

 誰も知らない未来の景色をその目に秘めている女の子。

 もう一度会いたい。そうでなくても元気でいるならば、と、気がつけば願っている。そんな自分にユリヤは戸惑いを覚えてしまう。


 ユリヤが難しい顔をして黙りこくっていると、反してシャルルは口元を和らげた。


「偉そうなことを口にしているが、本当はただ恩恵(ギフト)一択な世の中に嫌気がさしているだけなんだ。努力や経験が結果に繋がることもあっていいはずだと、自分は思う」


 枯木色の目が空を彷徨い、やがて車窓の外に向けられた。そのガラスのような瞳の上を、赤茶けた木々が流れていく。


「ギフトを持つが故に振り回される者を見るのも、持たざるが故に報われない者を見るのも、もう飽き飽きだよ」


 吐き出された言葉に篭るわずかな感情も、遠くを見つめる眼差しの寂しげな色も、すべて本物なんだろうとユリヤは思った。


 シャルルはきっと、鉄の箱を内側からこじ開けたいのだ。


「シャルルさんは……いいんですか?」

「ん?」と色の薄い顔が傾いた。

「まだ人となりすら分からない、私みたいな人間にこんなことを話して」

「別に、誰彼構わず話しているわけじゃないさ。というかこんな話、人前で口にしたこともない」

「いえ、そういうことではなく……すみません、なんでもありません」


 あけすけと答える言葉に嘘はなさそうだが、ユリヤが言いたかったのはそういうことではない。語らうには、出来合いの相棒ではなく、もっと相応しい人間が――彼には同志がいたはずなのに。


「何かを捨てられない者は、何も得られない――世の中の多くはそういう風にできている」


 ユリヤが黙りこくっていると、シャルルは意図を汲んだのかぽつりとそんなことを零した。


「それは……言い訳ですか?」

「前々から思っていたが、君の言葉は結構辛辣だな」


「そうですか?」とユリヤは首を傾げる。相手の顔は苦笑いに変わっていた。


「言い訳か。そうかもしれないな。何かを諦めなくても望んだものを手に入れる人間だっている。あいにく俺は腕を五本も六本も持っているわけじゃない。ほら、貧しい画家はよくキャンバスを使い回すと言うだろう。表と裏に絵を描いても、結局還元できるのはどちらか一枚だけなんだ」


 彼の表情は言葉とは裏腹に開き直ってなどいなくて、彼の心に名残惜しい何かが残っていることを顕わにしていた。


「シャルルさんって、顔に出なさそうな雰囲気出しておいて案外正直者ですね」

「君のその手厳しさはデフォルトなんだな」

「別に、貶してませんけど」


 またシャルルの笑顔が苦笑いに変わった。


 ふと狭いボックス席のなかで他人と真剣に話し込んでいる珍妙な現状に気がついて、ユリヤは顔をしかめた。先程までは「あとどれほど退屈な景色を眺めれば終着駅に着くのだろう」などと不遜なことを考えていたのに、不思議なものだ。


「君は聡明だな」

「光栄です。わたし、研究員志望なので」

「そうか。頼もしいな」


 シャルルは自然な笑みを浮かべた。

 そのとき、ブブッとポケットで携帯端末が震えた。取り出して画面を見れば、そこには一件の通知が表示されていた。


――オルセーのそばに新しくカフェがオープンしたんだよ。 今度一緒にいこう!


 そんな一文と共に添えられた写真には、満面の笑みを浮かべる小麦色の少年……と、なぜか彼に抱えられた毛の長い白い猫が映っていた。店の看板娘かなにかだろうか。

 背後には彼の同僚が数人映り込んでおり、皿に乗った三角形のチョコレートケーキを食べていた。たっぷりの生クリームとチョコレートを練って焼き上げたケーキはユリヤの好物であり、また故郷の味でもある。


 ユリヤの舌がすっかり濃厚なスイーツの気分になったところで、またもやバイブレーションが鳴った。写真が追加で一枚送られてくる。

 目つきの悪い白猫がアップになった写真だった。


――これはユリヤにそっくりな猫。


 思わず眉を顰めると、向かいでシャルルが控えめに噴き出した。


「何か悪いニュースでも届いたか?」

「いえ」

 短く答えて、再度画面を確認する。

「同期からの呑気なニュースです」


「それは良かったな」とシャルルは愉快そうだ。

 片や海を渡って遠方に出張、片や昼間からのんびりランチ。呑気以外にどう言い表せばいいのだ、などと思いながら、指先で「OK」と二文字だけのメッセージを送り返す。

 おおよそ一週間ぶりの連絡を終えると、ユリヤは返信も待たずに端末をポケットにしまいこんだ。


 車窓の外に目をやれば、流れる景色は相変わらず赤茶けていて、代わり映えのない自然の風景が広がるばかりだ。


「……コルテ、遠いですね」

「じきに着くさ」


 いつの間にか遠くにうっすらと、空と地の隙間に横たわる雄々しいチントゥ山脈の姿が見えていた。

 ゴツゴツとした岩肌が剥き出しになったその山の麓に到着するまでには、まだ少し時間が掛かりそうだ。

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