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コルシカの修復家  作者: さかな
side:Asindra

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151/206

スターティング・オーヴァー(6)

 孤児院に住まう、もう一人の少年がぱったりと姿を見せなくなって半月が経った。


 本棚に目をやる度に他人の持ち物が存在感を放つ。一人で塔に居るはずなのに、違う誰かの影がうろつくのは釈然としない。毎朝変にそわそわした気分になるのも落ち着かない。

 そんなこんなが積み重なり、しぶしぶながらアシンドラは自らアダムに接触を図ることにしたのだ。


 スケッチブック片手にあたりをあてどなく彷徨っていると、よく廊下や部屋の前で修道服姿の少女たちに出くわした。記憶の中のルクサナより大きい子もいれば、まだまだ舌足らずな幼子もいる。彼女たちは普段姿を現さない兄を見つけるなり、ぱっと花の咲くような笑顔を向けた。もっと奇異の目で見られるかと思っていたのに、なかには人懐っこく声を掛けてくる者すらいた。

 アシンドラは居心地の悪さを感じつつ、彼女たちを適当にあしらいながら、建物内を歩き回った。ロビー、食堂、リネンルーム、備品庫、寝室のずらりと並ぶ廊下。普段ほとんど院内をうろつかない者にとって、身内と言えども人探しは一苦労だった。

 手当たり次第に捜索してみたが、アダムの姿はどこにも見当たらない。


 正方形の中庭を囲むようにして続く柱廊の途中で、アシンドラの足はついに止まってしまった。


――孤児院にはいないのか?


 早起きしすぎた(シガール)がどこかでジージーと鳴いている。円柱とアーチ状の天井に切り取られた中庭に、強い日差しが降り注ぐ。地面を覆う芝生も、中央に植わる大木の葉も、匂い立つほど緑が濃い。ギラギラした色合いを見ているだけで肌がじっとり汗ばんでくるようだった。


 手立てのなくなったアシンドラは、苛立ち混じりに溜息を吐いて、廊下の柱に身をもたせかけた。中庭から吹き込んでくる風は生ぬるく、やはり潮の香りがした。


――俺は一体何をしているんだ。こんなものに振り回されて……。


 手慰みに手元のスケッチブックをパラパラとめくっていると、それまで白黒の鉛筆画ばかりだったページの中に、一瞬、色の付いたものが混じっているのが見えた。行き過ぎたページを戻し、その絵の場所をもう一度開く。


 赤、オレンジ、黄色、紫。夕暮れの色に染まる空に、影絵のように切り立つ鐘楼のシルエット。その頂上部分を、何か大きな生き物の影が覗き込んでいる。地を這うトカゲに翼が生えたような、けれどその体は尖塔の切っ先をまるまる吞み込むほど大きくて――。


「アダムが人にスケッチブックを見せるなんて珍しいね」


 すぐ向かいから柔らかな声がして、アシンドラはぎょっとした。勢いよく顔を上げれば、修道服姿の少女がにこにこしながらスケッチブックを覗き込んでいた。


「私も見たことないの。お願いしても恥ずかしがって見せてくれなくて。それ、アダムのでしょう?」

「お前は……」

「ミモザ」


 長いこげ茶の髪を黒い布で覆った少女は、くすんだ緑色の瞳をこちらに向け、愛想良く笑った。


「皆同じ服だし、名前を覚えるのも一苦労でしょ? でもここに住んでいる子たちは全員牧師様から『花の名前』を与えられるから、一旦覚え始めたらきっとすぐよ」


 尋ねてもいないことを勝手に喋り終えたミモザは、もう一度興味深そうにスケッチブックを覗き込んだ。


「綺麗な絵……空飛ぶドラゴンなんて、おとぎ話みたいね」

「――ドラゴン?」


 おっとりとした口調で呟いた彼女の言葉に、アシンドラは思わず顔を上げた。

 うん、とミモザは頷く。垂れ目がちな少女の目尻は、笑うと一層垂れ下がる。


「緑や茶色じゃなくて、銀色をしているのが素敵だって思う。アダムの頭の中でドラゴンはこんな色をしてるのね……」


 先週孤児院を訪れた男性が持ってきた手土産の包み紙みたいだと、ミモザは小さく笑う。けれどアシンドラの耳はもう、彼女の言葉を捉えてはいなかった。


 初めて目にしたドラゴンは思った以上に図体が野太く、ずっしりとしていた。しかも驚くべきことに手足がついている。翼の生えた大蛇ではなく、蜥蜴のほうがしっくりくる。

 なによりも、鮮やかなオレンジ色の空を抱えて飛ぶドラゴンの毛並はとても美しかった。


「そうか……これが……」


 気がつけば、アシンドラの体はじんわりと温もりを持った何かで満たされていた。痺れにも似たそれは、縮こまってしまった心を身体の中から掬い出し、遠く懐かしい場所へと連れて行ってくれるのだった。


 絶対に壊れない、兄妹だけの要塞。その中に広がる自由を積み立てて作られた世界。

 太陽を覆い隠さんとばかりに両翼をひろげ、優雅に空を舞う巨体。


 幼い兄妹を背に乗せた愛すべき化け物(ドラゴン)に、いま、再び巡り会う。


「アシンドラ?」


 ミモザが不思議そうに首を傾げていた。アシンドラは小さく顔を振る。


「これを返そうと思ったんだが……あいつはどこかへ出掛けているのか?」


 スケッチブックを持ち上げると、ミモザは誤魔化すように視線を彷徨わせた。


「アダムは今ちょっと――家出中?」

「は?」

 ミモザは眉尻を下げ、そっと肩を竦める。

「牧師様と喧嘩したみたい。それで院を飛び出しちゃって。帰ってきてないの、二週間ほど」

「馬鹿かあいつは」


 ミモザは困ったように笑った。かと思えば周囲をちらりと気にして、徐ろに口元を耳に寄せてきた。


「実はね、私、居場所は知ってるの。アダム、この町にやって来てる画家さんたちに絵を教えてもらってるのよ」

「絵を? どこで」

「四丁目のブーランジェリーの裏手。大通りを一本入った路地よ」

「路上生活をしてるのか? 食事はどうしてるんだ」

「それは、私がこっそり届けてるから」


 さらっと答えたあと、ミモザはアシンドラの腕をそっと引っ張った。何か、期待の籠った眼差しを向けられている。


「アダムを迎えに行ってあげてくれないかな」

「は? なんで俺が」

「私が言ったんじゃ戻ってこないんだもの」


 まったく合理的ではない方法を、しかし彼女はなぜか本気で提案しているようだった。


「だってスケッチブック(それ)を貸し借りするほど仲がいいんでしょう?」

「いや、これは――」


 仲が良いとか悪いとか、そういう話ではない。そもそも借りたわけではなく、アダムが置き忘れていっただけである。今の状態でアシンドラが迎えに行ったところで、二人の間に気まずい空気が流れるのは分か

りきっている。けれどミモザも「お願い」の一点張りで、退こうとはしない。

 しばらく不毛な攻防を繰り広げていると、カツカツと足音を響かせて別の修道女が柱廊の向こうから近付いてきた。それも、物凄い勢いで。


「ちょっとそこのあんた、ミモザになにしてんのよ!」


 挨拶もなしに勢いよく詰め寄られたアシンドラは、眉間にしわを寄せて対抗した。


「いきなり何の用だ。というか、お前誰だ?」

「家族に向かって『誰だ』ですって!?」


 金属のようなテカリのある縮れた赤毛に、たっぷりのそばかす。大きな目は転がりかけたアーモンドのようにキュッと吊り上っている。初っ端から怒髪天の彼女は、飛ばしてくる感情まで勢いのある赤一色だった。


「マリーゴールド! ちょっとお話してただけよ、アダムのことで」


 異性の胸倉を豪快に掴む少女の手を、ミモザが慌てて引き剥がす。


「ふん、そうなの?」


 ミモザが小声で事情を説明すると、マリーゴールドと呼ばれた少女はくるりと声色を変えて「あら、お行儀が悪かったわね。わたしったら」と両手を後ろに隠した。そして、ミモザににこりと品の良い笑顔を浮かべた後、間髪入れず一際キツい目でアシンドラを睨みつけた。


「わたし、あんたのことまだ許してないから」


 いきなり宣告されても、アシンドラには何のことか分からない。顔をしかめていると、マリーゴールドは早口で続けた。


「アダムくんがあんたを拾ってきた時に受けた罰の傷、まだ背中に残ってんのよ」

「罰?」

 そんな話は初耳だった。

「ちょっと、マリーゴールド……」

「止めないでミモザ。知らないとは言わせないわ」


 焦ったようにミモザが咎めるも、マリーゴールドは勢いを弱めない。詰め寄ってくる彼女の鋭い視線を一身に受けながら、アシンドラもまた彼女を睨み返す。


「この孤児院には少女しか住めないって、あんたも知ってるでしょ? それでも放っておけないからって、アダムくんが身を(てい)して庇ってくれたの。なのに毎日死にたいみたいな顔するのやめてくれない?」

「そんな顔はしてないし、別に助けてくれなんて頼んでもない」

「あんた、この期に及んで何様のつもりなの!?」

「二人とも、お願いだから喧嘩しないで……」

「喧嘩じゃないわよミモザ、これはお説教なの――あっ、アダムくぅーん」


 マリーゴールドの声の端々から、突然ハートマークが飛び散った。彼女はつい今まで露わにしていた激しい表情を引っ込めると、柱廊の先に向かって元気よく手を振った。意中の相手が声に気付いて手を振り返す。少年はそのまま廊下を駆けてきた。


「よっ。久しぶり、マリーゴールド」

「もーう、アダムくんってば、どこ行ってたのよ? 本っ当に心配してたんだからね!」

「おう。心配してくれてありがとな」


 半月ぶりに姿を現したアダムは服も体も浮浪者並みに汚れていたが、顔はどこか清々しさに満ちていた。


「もう、なにしてたのよ、そんなに汚して? お腹空いてない? おやつ食べる?」


 心配そうに問われて、アダムは得意げに鼻を擦る。


「いままで師匠の元で修行してたんだぜ! 腹はへってるけど、その前に牧師(おやじ)に謝ってこなきゃ」

「お師匠様? なぁに、なんの修行をしてたっていうのよ?」

「へへ、それは秘密」


 えーっと可愛くむくれるマリーゴールドの隣で、ミモザが心配そうに眉尻を下げる。


「アダム、牧師様にはどう説明するの……?」


 半月も無断で行方をくらましておいて、あの牧師が黙っている筈がない。能天気なアダムは「んー」と考えているのかいないのか分からない相づちを打った。


「『自分探しの旅にでてました』とか?」

「えーっ、そんなので本当に大丈夫なのお?」


 嘆く赤毛の少女にアダムは笑う。それからミモザに目くばせすると、片手を挙げるジェスチャーで「ありがとう」だか「ごめん」だかを伝えていた。

 やがて彼の視線がこちらを向く。アシンドラは自身の顔が引き締まるのを感じた。気まずいとはこのことだ。

 対してアダムは半月前と変わらぬ様子で「よう、アシンドラ」と笑った。


「……これ」

 アシンドラは相手の方を見ずに、ぶっきらぼうにスケッチブックを突き出した。

「え、わざわざ届けに来てくれたの?」

「お前が取りに来ないからだろ」

「ここんとこ孤児院にいなかったからな」

「さっきこいつらから聞いた」

「ちょっと、人のこと指ささないでくれる?」

 すかさずマリーゴールドがアシンドラの人差し指を手で押し下げる。

「耳元で騒ぐな」

「騒いでないでしょーがっ」


 二人が互いを睨めつけあっていると、そのやり取りを眺めていたアダムが声を出して笑った。


「あっ、アダムくんってば」

「ごめんごめん、マリーゴールド。アシンドラ、届けてくれてサンキューな」

「ふん、別に……」


 アシンドラはすげなく返して顔を背ける。内に秘めた力は、取り繕った笑顔の裏に隠れたアダムの本当の気持ちを何の抗いもなく探り当てる。伝わってくるのは少し怯えたような、それでもどうにか平然を装おうとしているような、つつけば破れそうな張りつめた空気。

 半月前に塔の上で放った言葉がアダムの心に深い傷を負わせていた。それだけではない。マリーゴールドの話を信じるならば、知らないうちに彼の身体にまで消えない傷跡を残していたらしい。


 〝やっぱりお前は災いを招く〟

 〝あいつは呪われた子どもだ〟


 名もなき群衆の糾弾が耳の中でこだまする。

 だがそこに、違った声が紛れて叫ぶ。


 〝呪いなんかじゃない。それは病なんだ、アシンドラ!〟


――うるさい、やめろ。


 〝僕は君たちを幸せにすると誓う――〟


――幸せになんかなりたくない……。


 アシンドラは他人を傷つけてまで生き延びている自分にうんざりしていた。

 けれど同時に、生きていてよかったと思ってしまう浅ましい自分もいた。

 もう一方の自分は今や、認めざるを得ないくらいその存在を大きく膨らませている。そいつは、「他人から与えられる予期せぬ幸福を信じてもいいのだ」と、耳元で囁いてくる。


 そのとき、一匹の影が脳裏をよぎった。

 自由を駆る翼が地に影を落とす。見上げた先の青空を覆い尽くす銀色の羽。幼い兄妹の話し声が聞こえる。


 〝にいに、物語のつづきをきかせて〟


 銀色の毛に覆われた瞳がわずかに笑んだ。

 おかえりと言っているようだった。

 懐かしい友に再び出会わせてくれたのは紛れもなく、今目の前にいる、太陽のような少年だった。


「…………アダム」

「ん?」

「お前の絵、よかった」

「はあ……え?」

「銀色のドラゴンの」


 きょとんとしていたアダムだが、遅れて顔を真っ赤にさせ、「見たのかよ!」と大きな声で叫んだ。


「おっ、おまえっ……勝手に塔に入ってくるなって他人(ひと)に言っといて、自分はプライバシー侵害してんじゃねーか!」

「すまない。見る気はなかった」

「見る気はなかっただァ? しっかり見てんじゃねえかこの薄情者っ……信じらんねー!」

「元はといえばお前が置き忘れていったのが原因だろうが。そもそも塔に忍び込むのが悪い」

「あーあーウルセー、薄情者の言葉なんか俺は聞かねー」

「聞けよ、耳を塞ぐな」


 怒りは口先だけのもので、アダムの感情は何も描かれていないスケッチブックのように真っ白だ。もしもアシンドラに怒りや悲しみ以外の感情を捉える力があったなら、白紙のページはきっと違う色に染まっていただろう。


「ええい、うるさいっ!」


 ごちゃごちゃ言いあっていると、間に挟まれていたマリーゴールドが堪え兼ねて叫んだ。彼女の後ろで青い顔をしたミモザが右往左往している。


「なんだかよくわからないけど、目の前でうだうだ喧嘩しないでくれる? ただでさえ暑いのに鬱陶しさ倍増よ。男は潔く、こう!」


 と、双方の腕を掴み、手のひらをばちんと叩き合わせると、無理やり握手を交わさせた。


「それからこう!」


 マリーゴールドは最後の仕上げと言わんばかりに男共の手を両手で挟みこみ、ぶんぶんと上下に振った。されるがままに和解させられた二人と、口を開けたり閉じたりしているミモザを置き去りにして、マリーゴールドは「はい、おしまい!」と己の両手をぱんぱん払ってみせた。


「あの、ま、マリーゴールド、俺別に喧嘩なんて……」

「さっきわたし、あんたのこと許さないって言ったけど!」

 ひ弱な声を出すアダムを押し退けながら、マリーゴールドは、

「あんたがその生意気な態度を改めるってんなら、特別に許してあげるわね」

 と、アシンドラに向けて勝気な笑みを放った。

「いつから俺はお前に許しを請わなきゃならない存在になったんだ?」

「な――」


 一瞬、マリーゴールドから凄まじい怒気が噴出したが、彼女は片眉をぴくぴくさせながら己の感情をなんとか押し込めたようだった。


「ふ、まぁいいわ。つまらないことで喧嘩しているわけにもいかないもの」


 自分のことを棚に上げておいて酷い言い草である。言い返してやろうと口を開いた矢先、マリーゴールドは「いいこと」と言い置いて、アシンドラの鼻先にびしりと人差し指を突きつけた。


「いつか姉さんたちも順にここを出ていくわ。年長者はやがてわたしたちになるのよ。協力して孤児院(ここ)を仕切っていかなきゃいけないの」

「……なぜそれを俺に言う?」


 アシンドラは本気で分からない、という顔をする。「何言ってるの?」と、マリーゴールドは心底バカにした声で堂々と言い放った。


「あんたもわたしたち(そこ)に含まれてるからに決まってるでしょ! 一人だけ楽しようったって、そうはいかないんだから」


 アシンドラは眉を顰め、周囲に目をやった。ミモザもアダムも、同じような顔をしてアシンドラのことを見ている。散々故郷で向けられていた、化け物を目の当たりにしたような視線とは正反対の、同胞(なかま)を見るような目で。

 化け物を仲間に迎え入れるなんて、馬鹿げている。


「俺は――」


 人殺しなんだぞ、と口にする前に、アダムが勢いよく肩に手を回してきた。


「ま、そーいうことだからさ。これからは俺も勝手に塔に上っていいだろ?」

「……は?」

「だって俺たち同胞(なかま)だし?」


 そう言って、オレンジ色の髪の少年は白い歯を見せた。

 馬鹿らしい。あまりにも馬鹿らしくて、アシンドラのなかで張りつめていたものが、ぷしゅうと音を立てて萎んでいった。馬鹿らしいのは果たしてどちらだろう。


「勝手にのぼるななんてもう言わせねえからな。俺は好きな時にてっぺんに行って好きなように絵を描くぜ!」

「……それとこれとは関係ないだろ」

「よっしゃ、ありがとうアシンドラ!」

「話を聞け」


 アダムが笑い、アシンドラが不機嫌そうにしながらも言葉を返す。

 二人の意外な様子に、ミモザとマリーゴールドは目を丸くして顔を見合わせた。


 少しこそばゆくて、どこか懐かしい。

 アシンドラはその感情に名前を付けたくなかった。目に見えないそれを認めたくなかった。けれど心の中をじんわりとあたためるその感情が消え去ることはなく、むしろどっかりと腰を据えて、居座り続けるのだ。


 それは希望でもあり絶望でもあった。

 幸せという名の、絶望だった。


――ルクサナ。


 それ(・・)に近寄り過ぎた時、ふと我に返った時。アシンドラは心の中で何度も忘れてはならない名を呼び続けた。曇天の夜空に一番星を探すくらい愚かな行為だと分かっていても、秋を迎えた鐘楼の頂上から、雪のちらつくカルヴィを見下ろしながら。同じ空の下、どこかの地で今も生きていることを祈り続ける。



 *



「……サナ……」


 己の掠れた声とともに、アシンドラはうすく目を開けた。見慣れない白壁の天井に、カーテンから漏れ出た夜明け前の薄明かりが帯を作っている。ここはどこだったかと昨日の朧げな記憶を辿る。やがて、コルテに向かう途中の山村にある安宿だったと思い至る。


 そっと指先で自身の頬に触れる。干乾びた涙の痕が一筋、顎の先まで伸びていた。


――母さん……ルクサナ……。


 長い、長い夢を見ていた。

 そして、目が覚めたら世界は絶望に浸っていた。


――…………チャスマ……。


 すぐそばで身じろぎする気配がして、アシンドラは身を起こす。


「起こしたか、モナ。すまない」


 ベニスの仮面として行動を共にする妹・モナルダが、ベッドの上で身を起こし、ぺたりと足をつけて座り込んでいた。三人一部屋で借りた安宿は、部屋のほとんどをセミダブルベッドが埋め尽くしており、お世辞にも快適とはいえないつくりだった。

 幼い少女は視界を隠すほど長く伸びた黒をふるふると揺らしながら、懸命に首を振る。


「お兄ちゃん、うなされてた。……ルクサナ、って、言ってた」


 そうか、と頷いて、アシンドラは自身の右手をじっと覗き込んだ。


「夢を見ていたんだ。母と妹の三人で、物売りをして路上で暮らしていた頃の」

 長い夢の中で見てきたことを、アシンドラはぽつぽつと口にする。

「それだけじゃやっていけなくて、俺は今と同じように盗みをはたらいて生計を立てていた。――ルクサナは、ある日突然人身売買組織に売られた実の妹の名前だ」


 モナルダは黙然と俯いている。その背後では、もう一人の少女が長い手足を放り出し、いびきをかいて眠りこけている。


「俺は妹を売ったのが母と婚約中の男だと勘違いして、その男を殺した。だがそいつじゃあなかった。すぐに本当の犯人がわかって、俺はそいつも殺した。母は、俺が家を空けている間に殺された。妹の姿はもうなかった。生きているのか死んでいるのかさえ分からない。母の婚約者は馬鹿みたいにお人よしで、いい奴だった……それを、俺は……」


 言葉にする度に、塗りたくられていた嘘は剥がれ落ち、真実が顔を覗かせた。醒めない悪夢の中にいるようだと思って、すぐにそれを否定する。今立っている現実こそ、悪夢の延長線にある世界なのだ。


 両手にこびりついた赤い血はヴェンデッタのために流れたものではない。

 これは、ただの殺人鬼が人間を殺めた――そのときに流れた血だ。


「憎しみに溺れて罪のない人間を殺した。その現実から逃がれようとして、俺は、この島に……」


 不思議なことに、アシンドラの喉からは、どこか客観的な冷めた笑いが漏れ出た。

 と、小さな両手がそっと左手を握りしめてきた。少女の長い前髪の隙間から、対の茶色い瞳が覗いている。口数の少ないモナルダは人一倍心配性で、事あるごとにつぶらな瞳を向けてきた。それはまさに、雨の降る路上に転がったガラス玉のように濡れそぼっている。


 アシンドラは瞳に帯びた不安を払い落とすかのように、少女の頭に手のひらをぽんと乗せた。


「もう過ぎたことだ。過去は変えられないし、赦されようだなんて思っていない。どうして今更思い出したんだろうな……」


 アシンドラは自分に言い聞かせるように呟いた。


「きっと頭が過去を全部清算しようとしてるんだろう。次が、最後の……仕事だから」


 ”オペラ”と呼ばれる、右半分が黒く塗り潰された仮面を被った少女・モナルダ。”ペスト”という名の鳥の頭に似た仮面を被る少女・フィーコ。そして、飾りのない真白のフルフェイスマスク”ボルト”を身につけたアシンドラ。

 三人は”ベニスの仮面”を名乗り、牧師から与えられたリストを頼りに邸宅へ侵入しては、盗みを働いてきた。盗品として命じられるのは、ある事情(・・・・)から持ち主が必ず手放さないことが分かっている名画の数々。盗む本人たちには価値も分からぬ品々である。


 だが、それもじき終わる。

 〈白金の乙女〉と呼ばれる引き千切られた絵画を集め終えれば、アシンドラは妹たちの手を引いてどこか静かな土地へ身を移し、慎ましやかな生活を送ると決めていた。


「仕事を依頼してきた人……本当に、なんでもお願い叶えてくれるの……かな」


 最後の窃盗の依頼人。彼はルーヴル発電所の上層部だという若い男だった。冷徹な雰囲気を醸し出してはいたが、かえって約束したことはきちんと守りそうなタイプに見えた。


「相手が言うには、探している絵画はどうやら莫大なエネルギーを秘めているものらしい。本当かどうかは定かじゃないが、一番最初にエネルギーに換わった絵画を描いた画家の作品だそうだ。下手に牧師(あいつ)を通して揺すられても面倒なんだろう」


 儲け話に目のない牧師のことだ。そのような重要な情報を掴めば、きっと何倍もの見返りを求めるに違いない。


「牧師様、私たちの仕事はもうおしまいだって、言ってた……発電所が自分で絵画を回収できるようになったからって……。じゃあ、今追っている最後の絵画も、私たちが盗む必要はなくなるんじゃ……?」

「ああ――だからルーヴル(やつら)に奪われる前に、はやく見つけ出さないとな」


 自身の手のひらの向こう側を見つめるアシンドラを、モナルダはやはり不安そうな眼差しで見つめ続けていた。


「この仕事が終わったら、新しい家に引っ越すんでしょ……全員、連れて行けるのかな……」

「当たり前だろう。誰一人取り残さない。牧師(あいつ)の元になんか絶対に残すものか」


 アシンドラは奥歯を噛み締める。エドガー・オーズが「牧師」という表の姿に隠れて繰り広げてきた悪行は数知れない。だが、その事実を知る者はもう三人しか残っていない。

 ミモザとアシンドラ、そして、アダム。


「…………アダムお兄ちゃんも、連れていく?」


 モナルダの声には確かめるような物言いが含まれていた。


「アダムは、」


 アシンドラは言い淀む。

 俺たちは同胞だと胸を張った幼いアダムが、顔に火傷の跡などない美しいミモザが、勝気で元気だった頃のマリーゴールドが――次々と眼裏に蘇っては消えてゆく。


 月日は人を如何様にも変えてしまう。

 まだ純粋だった頃の幼い自分たちだけが、汚れを知らずに心の中で笑い続けている。


「あいつは俺たちと違ってやりたい仕事(・・・・・・)を与えてもらってるんだ。誘ったってついてこないさ。牧師(やつ)の元を離れる必要なんてないんだからな」


「わ……わたしはっ」


 じっと耳を傾けていたモナルダが突如声を荒げ、アシンドラの胸に縋りついた。


「わたしは今の仕事、やりたくないなんて……思ったことない、よ。アシンドラお兄ちゃんと仕事できるなら、私、どんな仕事だって、嬉しいから……」


「――だったら笑えよ」


 アシンドラは縋りついてくる少女の顔を片手でぐっと掴み、唸るような声で言い放った。手の中の顔が引き攣り、見開かれた瞳は恐怖で揺れている。


「お……お兄ちゃ、……」

「嬉しいなら笑ってみせろ。どうした、モナ。笑ってみろよ。笑えないんだろ?」


 乱暴に手を放せば、モナルダの小さな体は抵抗もなくベッドに倒れ込んだ。

 彼女にはある表情が欠けている。それは笑顔だ。物心ついた頃からそうだった。モナルダは笑わないのではなく、笑えないのだ。

 そうと分かっていて、アシンドラは残酷に問い質す。


 モナルダだけではない。言動のあべこべなフィーコ。顔に大火傷の跡が残るミモザ。男児のアダム、アシンドラ。重篤な欠陥のある子どもたちは、孤児院の主催する主日演奏会には参加できない。孤児たちにとって、主日演奏会に参加することはなにより重要な仕事(・・・・・)なのだ。それに参加できない不良品には、いつも理不尽な仕事ばかりが与えられる。


「いつか本を作ろうって、アダム(あいつ)と約束した。あいつが絵を描いて、俺が話を書いて。本が売れれば金になる。……そう、あのころはまだ、絵本が売れるなんて思っていたんだ……。金を稼げるようになったら、妹たちを連れて孤児院を出ようと……」


 まだ本当のこと(・・・・・)を知らなかった幼い男児二人は、そんな不公平な体制から逃れたくて手を組んだはずだった。


「でもあいつは裏切った。あいつだけやりたいことができるようになったから、一人で孤児院を出て行った。結局みんな離れていくんだよ初めからわかってた、わかってたのに!」


 アシンドラは固いマットに拳を叩きつけ、ひと思いに熱のこもった吐息を吐き出した。すっかり消えたはずの手のひらの細かな傷が、今更になってざわざわと疼く。


「……こんな仕事、お前だってやりたいわけないだろ……。化け物(ひとごろし)なんかと一緒にいて、嬉しいわけないだろうが……!」


 シーツに突っ伏した少女から、しくしくとすすり泣く声が聞こえてくる。空気を伝って流れてくるモナルダの心は悲しみでいっぱいだ。そこに、侮辱した相手に対する憎しみや不満は一切含まれていない。

 アシンドラにはもうわけがわからなかった。怒りや憎しみが湧かないその心が理解できない。もっと憎めばいい。なのに何故、まだ相手の肩を持とうとするのだ。


 やがて気持ちが落ち着いてくると、今度は罪悪感でいっぱいになった。アシンドラはやるせなさを口から吐き出して、片手でくしゃりと前髪を握る。色褪せた白い髪はしっとりと汗ばんでいた。


「すまない、モナ……。最低なことを言った」


 そっと幼い背中に手を伸ばしたが、その腕は臆病風に吹かれて、途中でゆるゆると空を掻いただけだった。


「最後の仕事が終わったらお前たちを自由にしてやれる。だからそれまでは、我慢してくれないか。こんな化け物と共に行動するのは嫌だろうが、それでも……お前たちを屑みたいな男のもとに置いておくわけにはいかない」


 両膝をつき、懇願にも似た声で情けなく呟く。

 今さらになって、心のあちこちで吹き出物のようにネガティブな感情が膿みはじめていた。


 文字を与えてくれた男。

 妹に夢を与えてくれた男。

 母の愛した男。母を愛した男。


 世界じゅうに散らばる物語を見せてくれた男。


 父親になるはずだった男。


 どうしようもなく身勝手で稚拙な理由を振りかざし、アシンドラはそのすべてを殺した。

 やり直せないと分かっていて、他の誰かに失った者たちの影を重ね合わせている。そのことに、アシンドラは気付いていないけれど。


「いやなわけない……」


 夜明けのしんとした空気に、蚊の鳴くような声が混じって消えた。


「こんな私でも、ずっとそばに置いてくれたお兄ちゃんのこと……イヤになんか、なるはずない……」


 モナルダはむくりと上体を起こす。そして、息を潜めているアシンドラの元へ、眠りから覚めたばかりの生き物のようにゆっくりと這いよった。


「私はずっと、お兄ちゃんのそばにいる……置いてったりなんか、しないよ。……絶対に」


 モナルダは静かに、しかし並々ならぬ熱意を込めて言いきると、アシンドラをそっと抱きしめた。そして、たどたどしい口ぶりで歌いはじめた。孤児院の姉たちが妹たちにするように、コルシカ島の子守歌(オールドラングサイン)を、耳元でそっと、囁くように。


「…………、……」


 アシンドラの喉から微かにひしゃげた声が漏れた。抑えきれなかった感情が、目のふちからぼとりぼとりと落ちてゆく。(つたな)い子守歌は絞り出された嗚咽を紛らわせ、乾いた頬をしとどに濡らす涙は少女の腕によって隠された。

 いつのまにか、カーテンの隙間から柔らかな光が差し込んでいた。


「For auld lang syne ……」


 今度こそ己の手で大切な者たちを守りたかった。

 そしてもう二度と失いたくなかった。


 ただひとつの願いを叶えるために、アシンドラは最後の目的地であるコルテへと向かう。



挿絵(By みてみん)

彼らの作った物語。


「鐘塔守りの少年」

https://ncode.syosetu.com/n4004ck/



次回はルーヴルサイドのお話です。

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