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コルシカの修復家  作者: さかな
side:Asindra

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150/206

スターティング・オーヴァー(5)

 そこでは常に潮風が吹いていた。


 希薄された海が溶け込んだ町。

 日曜の朝、コーラルピンクの教会から少女たちの歌声が響いてくる町。

 地上に突き刺さった(つるぎ)のように威風堂々とそびえ立つ鐘楼。荘厳なるその建造物がシンボルの、コルシカ島北西の港町・カルヴィ。


 アシンドラが命からがらこの町に辿り着いてから、季節はもうすぐ一巡しようとしていた。

 未だに嗅ぎ慣れない独特の潮の香りは、故郷を離れ遠い地までやってきたことを度々アシンドラに思い出させる。楽園と呼ばれた島にすがりついてはみたものの、大地はただの土でしかなく、両手にこびりついた血の色を消してはくれなかった。


 罪の証を手の内に抱いたまま、アシンドラは〈(セント)フローラ孤児院〉に拾われた。

 そうしてただ目的もなく今を生きている。



 その日もアシンドラは白い息を吐き、朝が来る随分前から鐘楼の螺旋階段を登っていた。静かな冬の朝。靴を履いていてさえも、冷えきった石階段は容赦なく足元から体温を奪ってゆく。


 孤児院の長、エドガー・オーズ牧師。彼が煩わしそうな顔をして脱色症の少年に与えた仕事は、”鐘楼の鐘を毎日決まった時間に撞く”ことだった。

 行き倒れていたところを拾ってくれた年長のシスターによると、この孤児院に住まう子どもたちはみな入口に設置された『エンジェルボックス』に投函された者ばかりで、赤ん坊の頃からここにいるのだという。しかも、”投函していい性別は女だけ”という暗黙のルールがあるようで、見渡す限り孤児院に住む子どもたちは確かに少女ばかりだった。


 何もかもイレギュラーな存在が牧師に冷遇されるのは仕方のないことなのだ。

 至って冷静だったアシンドラは、だからこそ真心を込めて接してくる先住の姉妹たちの気遣いをことごとく突っぱねた。そもそも拾ってくれと懇願した覚えもないのだし、むしろなぜ捨て置いてくれなかったのか――他人が聞けば理不尽以外の何物でもない反発心が、腹の底でわだかまっていたせいもあったのかもしれない。

 生きる為に必要な最低限の関わり以外を持ちたくなかった。死ぬタイミングがあればいつだって飛び出せるつもりでいた。ただその機会がないから、こうしてのうのうと生きているだけで。


 そんなことを繰り返すうちに、姉妹たちは新入りの刺々しい態度に恐れをなすようになった。

 やがて誰もアシンドラに近づかなくなった。



 巨大な鐘が釣り下がった頂上部は、一際冷たい風が吹きすさんでいた。アシンドラは両手に白い息を吐きかけて、かじかむ指先を擦り合わせる。

 ふとアーチ状の窓の向こうに目をやれば、空の色が下の方から徐々に夜明けの薄むらさき(ドーンピンク)に染まり始めていた。


 この町の一番の早起きはニワトリではない。

 一日の始まりは、日の出とともに鳴る鐘の音から始まるのだ。


「――いつまで隠れているつもりだ?」


 アシンドラは、後方の柱の陰に向かってやにわに言い放つ。「うえっ」と分かりやすい声をあげ、隠れていた人物が観念したように姿を見せた。


「あー、おはよう。……元気?」


 うす暗闇の中で、少年は苦笑いを浮かべながらぎこちなく片手をあげた。肩につくほどの長さの髪が僅かに揺れる。ほとんどが少女で成り立っている聖フローラ孤児院において、異例の存在。二人しかいない男児のうちの一人。

 名を、アダムと言った。


「この塔は鐘撞き以外は立ち入り禁止だ。何度も言ってるだろ。さっさと出ていけ、そして二度と上ってくるな」

「いやっ、おいおい待ってくれよ、アシンドラ!」


 馴れ馴れしく名前を呼んでくるアダムを無視して、アシンドラは鐘打ちの準備を始める。装置に被せてあった布を取り去れば、使い込まれたバトンが六本、綺麗に整列した姿で現れた。バトンは内部にある鐘撞き棒とワイヤーで繋がっていて、このバトンを押し込むことで鐘が鳴る仕組みになっている。

 装置をぐるりと回り込んだアダムが、大げさに両手を動かして訴える。


「日の出を見るにはここが一番眺めがいいんだって。別に仕事の邪魔しにきたワケじゃねーよ」

「存在が邪魔だ」

「なんだとー!」


 叫んだアダムの鼻先が真っ赤になっていることに気付く。一体どれほど早くから塔に忍び込んでいたのだろうか。図らずもアシンドラの表情が少しだけ弛んだ。珍しい反応を見たからか、アダムがどこか得意げな顔になったので、アシンドラはさっと顔を背けた。

 空はいまやそのほとんどを薄い桃色に染めている。


「ちょっとぐらい見せてくれたっていいじゃんか、ケチ――」


 アダムが唇を尖らせたとき、一筋の閃光が海と空の隙間から飛び出した。

 二人の視線は途端に空の彼方へと吸い寄せられる。

 それはまたたく間に空をあかるく照らしだし、首を捻って塔の外を見つめるアダムの髪を黄金色(こがねいろ)に染め上げた。冷えきった身体に太陽のぬくもりが染みわたる。


 アシンドラは握り拳をつくってバトンを押し込んだ。

 大きな釣鐘がグラリと揺れて、ガーン、ゴーンと空気を震わせる。左右上下に並ぶ小釣鐘も、バトンの動きに合わせて揺れ動く。

 鐘の音は精巧に編み込まれ、金属音の美しいヴェールとなって町全体を包みこんだ。


 昨日と変わらない今日がまた始まる。死ぬために消費していく一日が。


「……間近で聞くと、大きいな。やっぱ」


 はー、と感嘆のため息をついたアダムが、続けざまにぽつりとそう呟いた。彼の目に朝日が反射して、アンバーの瞳は鐘の音よりもきらきらと輝いている。

 やがてアダムは思い出したようにアーチ窓まで走っていき、桟から身を乗り出して町を見下ろした。波の尾を引き進む漁船の、ボーッという音が響く。朝もやと静けさに沈む町のあちこちで、徐々に起床をはじめた人々の営みがそわそわと音を立てている。


 窓のヘリで頬杖をつきながら、アダムは海原から生まれたばかりのオレンジ色の塊をうっとりと眺めていた。

 いつかの自分もまた、同じ。

 倒壊しかけたビルの上で、同じ太陽を眺めていた。

 たった一人で――ひとりで?

 そう、たった一人(・・・・・)で。

 どこか懐かしいその景色を、アシンドラはオレンジ色の髪の少年とともにじっと見つめていたのだった。



 *



 何度冷たくあしらっても、アダムは懲りずに鐘楼へ忍び込んだ。冬が終わり、春が過ぎ、やがて夏が訪れようとしていた。

 その日の朝も少年はアーチ窓の桟に身をもたせかけ、目下町の様子を眺めていた。最近では隠れることすら怠る始末。我が物顔で塔内を歩き回るアダムを見て、アシンドラは大きなため息をついた。そして、平然と長居を決め込もうとする少年の首根っこを掴み、窓から引きずり下ろした。


「ちょ、服、服がのびる!」

「その耳は飾りか? もう一度言うぞ。さっさと、ここから、出ていけ。今、すぐに」


 アシンドラは石階段を指差し、厳しく言いつけた。


「わ、わかったって」


 アダムが慌ててアシンドラの腕を振り払った瞬間、彼の肩に掛かっていた麻鞄がずり落ちた。


「あっ」


 二人の視線が鞄を追った時には既に、がちゃがちゃと音を立てて中身が盛大に散らばってしまっていた。アダムは素早くしゃがみ込み、床に這いつくばるようにしてそれらを搔き集める。大きなノートが一冊と、鉛筆が数本、定規、それから角の丸まった消しゴムがひとつ。


「あーやべ、鉛筆一本折れた」


 アダムは芯の部分が無くなった鉛筆を持ち上げて落胆している。丸まる背中を脇目に、アシンドラは足元に落ちていたノートを拾い上げた。

 無断でページを開く。そこには鉛筆で描かれたカルヴィの町並みが何枚にも渡って続いていた。広がる町の上に水平線が引かれているもの、ドゥオモが描かれているもの、沈んでいるのだか昇っているのだか分からない太陽が町全体を照らしているもの。

 こいつ、絵を描くのか、とアシンドラは意外に思った。

 時折孤児院で目にする少年はいつもうるさく走り回っていて、静かにノートと向き合う姿など微塵も感じさせなかったからだ。


「――おい、勝手に見るなって!」


 叩くようにノートを奪われて、ラフ絵はあっという間に隠されてしまった。顔を真っ赤にして眉を吊り上げるアダムに、アシンドラはムッと眉を顰め返す。


「お前、俺がいない間にも勝手にここに忍び込んでるな?」

「はあ? なんだよいきなり」

「ノートの中に鐘を撞かない時間帯の風景が混じっていた。早朝以外にここにいるからそんなスケッチがあるんだろうが」

「うっ」


 途端に女の子のような大きな目が泳ぎだす。


「それは、その…………そうだよ、ちょっと前まではたしかに忍び込んでたよ!」

 言い訳が面倒になったのか、アダムは潔く開き直る。

「でも最近は朝しか来てねえって。ほかの時間に来たってお前、いないことも多いし」


 まるで塔に人が居る時を狙って侵入しているかのような言い分だ。

 普通、逆ではないだろうか?

 口をもごつかせるアダムに、アシンドラは鋭い視線で先を促した。すると、アダムは蛇に睨まれた蛙の如く肩を竦ませる。


「や、俺はただ、寂しくないのかなって思ってさ。アシンドラ、孤児院の妹たちとか姉ちゃんたちとも喋んねェし。一人ぼっちでいっつも鐘楼に閉じこもりっきりじゃん? だから、話し相手にでもなってやろっかなーなんて……おわっ!?」


 アシンドラはヘラヘラ笑うアダムの胸倉を鷲掴みにした。


「別に寂しくないし誰かと喋りたいとも思わない」

「でも俺がここに来たら喋ってくれるじゃん」

「喋らなきゃ帰らないからだろ」

「はあ!?」

「俺が喜んでいるとでも思ったのか?」

「な――」


 無性にイライラしていた。無遠慮にお人好しな行動を見ていると、何かを思い出しそうになる。その記憶が埋まっている近辺にピントを合わせないようにして毎日を暮らしているのに、無断で掘り起こされそうで気分が悪くなる。


「偽善者ぶるな。目障りなんだよ」


 苛立ち任せに吐き捨てた瞬間、アシンドラはハッとした。

 目の前の顔がみるみるうちに強張っていく。

 だが、言葉はもう止まらない。


「わかったら俺に構うな。もう塔にも上ってくるな、絶対にだ!」


 叫ぶと同時に、アシンドラは握っていた拳ごとアダムの身体を突き放した。はずみで再び鞄がずり落ち、中身が床に散らばった。

 よろける相手の体から、針のように細い痛みの感情が飛んでくる。その感情と寸分の狂いもない表情を、アダムは顔いっぱいに浮かべていた。


「なんだよ……」


 それは何か大切なものを踏みにじられたような、悲痛な表情だった。


「友だちになりたかっただけじゃんか」


 鞄の中身を拾い上げながら、アダムはぽつぽつと言葉を零した。胸元で抱きしめた麻鞄には深くしわが寄っている。


「孤児院には女しかいねーんだよ。男はお前だけだよ。姉ちゃんも妹もたくさんいるけど、そうじゃねえんだよ。お前が聖フローラにやってくるまで俺は、ずっと一人ぼっちだったんだよ」


 込み上げるものを堪えて必死に言葉を続ける声は、頼りなく波打っている。


「やっと友だちできたって、嬉しかったんだよ……!」


 最後に本音を残して、アダムは逃げるように鐘楼の階段を駆け下りていった。俯いていたから分からなかったが、先ほどまで彼が立っていた石床が、ところどころ水玉模様に濡れている。


 音になって耳に入ってくる言葉と、相手の心から発せられる直接的なメッセージは、やはり重ね写しても同じ意味を模していた。

 嘘がつけない人間なのだろう、アダムという男は。


――人間はバケモノとは友だちになんかなれない。あいつだって、いつか本当の俺を知ったら離れていくに決まっている。


 変化は心を疲弊させる。いつか離れていく関係なら、初めからないほうがいい。

 もう随分と高いところまで昇ってしまった白い太陽から目を逸らしたとき、視界の隅に一瞬見慣れない物が映り込んだ。先ほど鞄から落ちた一冊のノートだった。


――あいつのスケッチブック。忘れていったのか。


 A四サイズの使い古されたスケッチブックを拾い上げ、アシンドラは後を追おうか一瞬悩んだ。が、一考した末に、塔頂のフロアに唯一置いてある本棚へ仕舞うことにした。どうせ明日になればまた上ってくるだろうから、その時に手渡せばいいと考えたのだ。

 けれど、次の日になっても、その次の日になっても、アダムが塔頂を訪れることはなかった。

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