第13話 星の降る村
昨日と同じ、風のない穏やかな夜だった。
ただ一つ違うのは、弱々しくも輝いていた月の姿が、今日の夜空にはどこを探しても見当たらない点だ。そのせいでメンヒルの遺跡は普段よりも闇夜に紛れていたが、人々の賑わう声があたりに響いており不気味さは感じられない。「遺跡に来たのなんていつ振りじゃったかね」「足元も見えないわねえ」などと囁きあっているのは、皆フィリドーザの村人だ。
アダムの提案を受け入れた後、その場に居合わせた者は散り散りになって、村の扉という扉を叩いて回った。今夜メンヒルの遺跡に集まるようにと村人への説得を試みるためだった。
はじめは三分の一ほどの人数でも集まれば上出来と踏んでいたのだが、蓋を開けてみれば遺跡には溢れんばかりの村人達が集っていた。その中にはジルダの母親と父親の姿もあった。
「南のばぁば、来てくれたんだね」
ニノンは冬用のグレーのマフラーを首に巻いた老婆の姿を見つけると、嬉しそうに側まで駆け寄った。
「ええ、ええ、来るともさ。なにやら面白そうなことをするんだって?」
「うん。今からここで、トレミーさんの描いた景色を見るんだよ」
湖畔に背を向けて立ったアダムは、一つ咳払いをして村人の注意をひいた。
「えー、みなさん。今夜はお集まりいただきありがとうございます」
と、仰々しく宣言して、軽く頭を下げた。
「なぜみなさんに集まっていただいたのかと言いますと、あの名高きトレミーの名作『星の降る村』の元となった景色をその目でご覧いただくためでございます」
途端に民衆はどよめいた。暗がりでも落胆の表情を浮かべる人々が多いことは、声のトーンではっきりと分かる。「まだそんなことを言っているのか」と厳しい声まで飛ぶ始末である。
「わざわざこんなところまで連れ出しておいて、何を見るだって?」
「我々を馬鹿にしているのか? 見ろ、この村の有様を。トレミーの星空が存在するなら、今頃こうはなっていないだろう!」
「この手の話はもうウンザリじゃ!」
そうだそうだ、と反発感情の波は群衆をあっという間にのみこんでいく。予想以上の否定的な圧力に耐えるべく、アダムは口を引き結び、ぐっと足を踏ん張った。
「だ、大丈夫だって! 今日こそは絶対に幻の景色が見られるんだよ。信じてくれよ――なあ、そうだろルカ?」
話を振られたルカはゆっくりと一歩踏み出し、遙か頭上に広がる夜空を仰ぎ見た。雲ひとつない快晴。あたりは無風。湖畔の水面に波風ひとつ立ってはいない。
完璧な夜だ、とルカは思った。
「『星の降る村』の景色は実在します」
「まだ言うかい、ぼっちゃん」
真ん前の暗闇から呆れ声が飛んでくる。
「あんたたちみたいなぱっと立ち寄っただけの旅行客にね、この村のなにが分かるってんだよ」
「トレミーさんが教えてくれたんです」
「トレミーだって?」
その名を出した途端、群衆からどっと笑いが起こった。
「バカを言っちゃあいけないよ。どうやって聞いたっていうんだね? あの画家はもう随分と前に死んじまってるってのに」
「そうです。本人の口からじゃない――彼が全霊をかけて遺した絵画に全部、記されていたんです」
波が引くように、ざわめきが静まった。あたりを包み込む暗闇はいっとう濃くなり、葉擦れの音さえしない静けさのなかでは、村人の生唾を飲み込む音すら聞こえてきそうだった。
「元となった風景を見るためには、三つの条件が必要になります。一つ目は『雲ひとつない快晴』。二つ目は『新月の夜』」
ルカは群衆に向けて、指を一本ずつ立てていく。
「そして三つ目は『無風』です」
ルカはジルダに目くばせした。説明は任せた、という合図だ。ジルダはこくりと頷いて、ルカのあとに続けた。
「雲のない夜は星の輝きが隠されない。新月の夜は月明かりがないから星の輝きが一番明るく見える。フィリドーザはもともと風のあまり吹かない村、特に今日は髪だってなびかないわ。風がない日は湖畔の水面も揺れないの。この三つの条件が揃ってはじめて夜空は湖畔にはっきりと映し出される。そう、まるで鏡のようにね」
そこまで言いきって、ジルダは腕時計で時間を確かめた。午後十時を過ぎた頃だった。ジルダが頷くのを合図に、ルカたちは村人が前方の景色をよく見渡せるよう脇にはけた。
ジルダは昂る気持ちを抑えるように、大きな深呼吸を一つした。
そして、人差し指を天高く掲げ、こう告げた。
「三つの条件がそろった夜に流星群が降り注ぐ――それが、『星の降る村』の正体だよ」
その瞬間、せきを切ったように流星が夜空を駆け巡った。幾千の流れ星が弧を描いて光の線となり、地平線に飛び込んでゆく。光の雨は湖畔になだれ込み、水面が鏡となって星空を映し出す。まさに村に星が降っているような光景だった。
「まぁ、なんということ……あなた、これは」
「ああ。『星の降る村』と同じ景色だ。まさか現実にこのような幻想的なことが起こるなんて……」
村人はその美しい光景に息をのんだ。トレミーの描いた景色は空想などではなかった。フィリドーザの宝とも言うべきこの景色を、彼は皆に知らせたかったのだろう。
そしてその願いは長い年月を経て今まさに叶ったのだ。しがない絵画修復家の少年と、小さな天文学者の信念によって。
「みんな、聞いて」
いまだ星空を眺め続ける村人たちに向かってジルダは声を張り上げた。
「この夜空は偶然でも奇跡でもなんでもない。地道な観察と計算を重ねればいつ見られるのか予測ができるの。つまり、フィリドーザが本物の綺麗な星空の村だって証明できるんだよ! だからもう一度……がんばってみようよ、みんなで」
言い終わるや否や、ジルダは言葉を詰まらせた。暗がりの中で星の光が反射したのが見えたのだ。
ジルダの父が泣いている。その瞳を濡らしていたのは己に対する恥であり、先祖を信じきれなかった悔いであり、また娘がいつの間にか大きく成長していたことへの喜びでもあった。
村人たちは再びざわめき始めた。痩せこけた大地に水が降り注ぐように、彼らの心に幾筋もの希望の光が射しこんだ。先のない寂れた村の、再起復興のビジョンがありありと浮かぶ。「そうだ、ここは星の降る村フィリドーザだ!」と村人たちが口々に囁きはじめた頃、アダムが今度こそ自信たっぷりの笑顔を浮かべて村人たちに呼び掛けた。
「ここでひとつ、あんたたちに提案がある」
「なんだよ兄ちゃん、提案だって?」
「トレミーの連作をAEP発電所に送るんだ」
「AEP発電所に……ですか」
ジルダの母は自信なさげに呟いた。それほど有名でない昔の画家の絵はたいしたエネルギーにしかならないことが多く、輸送料や手数料の方が高くつくため発電所に送る例は少ないのだ。トレミーは決して有名な画家ではない。
しかし、修復作業を施した今ならば、と思い至ったのだろう。ジルダの母はおずおずと頷いた。
「せっかく修復してもらったんですものねぇ。あなた、送ってみましょうか」
「うん、うん、そうしよう」
「おいおい、ちょっと待った。俺の提案はここからだぜ」
アダムはジルダの両親から民衆へと向き直った。
「あの絵画がどれぐらいのエネルギーになったのかを宣伝ポイントにするんだ。詳しいことは解明されてねェが、AEPが高い絵画ってのは似通ってることがあるって話を耳にしたことがある。もちろん例外もあるけどさ」
「ってことは……つまり?」
難しそうな顔をしてニノンは首を傾げた。
「つまり、フィリドーザの星空を描いた絵画が高いAEPに還元されたとなると、この村に星空の絵を描きにくる画家がわんさか増えるってことだ」
「ほお。なるほど、そりゃええですな」
白髪混じりの小太りの男性が嬉しそうな声をあげる。
「けど、それだけじゃあ駄目だぜ。肝心なのはこの景色を確実に見られるようにすることだからな」
「して、どうすれば?」
すると、今度はニノンが笑顔で答えた。
「この村には素晴らしい天文学者がいるじゃない!」
「……!」
ジルダの零れそうな瞳がルカを見つめた。ルカはその視線に応えるように、一つ頷いた。
「ジルダ――君の力が、この村には必要だと思う」
少女はそれからこの遺跡に集まった村人の顔を見渡して、最後に両親を見た。二人は今や立派に育った娘に微笑みかけ、優しく頷いていた。
「うん……うん、みんな、ありがとう……私、がんばるね」
夜空を翔ける流れ星が人々の瞳に飛び込んでいった。そこにはいくつもの『星の降る村』が描かれていた。瞳の数だけ、美しい景色が。
これが、トレミーの見たかった本当の景色だったのかもしれない。星降る夜空の下で、ルカはふとそんなことを思った。
*Ninon
「南のばぁばの言った通りだったね。この村のことも、ジルダの夢のことも全部うまくいっちゃった」
大きなメンヒルのたもとに腰を下ろした老婆に歩み寄ると、ニノンも隣にそっと座り込んだ。
「ほっほっほ。それはあの子らが信じ続けるだけじゃなく、ちゃあんと努力したからだよ。それよりもほら、あんたには星の声が聞こえるかい?」
「星の声?」
老婆はシワだらけの手を耳に当てて、星空からこぼれ落ちる声を拾うため耳を澄ました。ニノンもそれにならって右手を耳の裏にあててみた。
「こうやってじっと耳を澄ましているとねぇ、たまぁに元気な流れ星が『シュン!』って声を出すのさ」
ニノンはそっと目を閉じた。村人のざわめきが遠のいていく。意識がふわふわと身体を離れる。それは遠い記憶の向こうへと吸い込まれていき――。
『こっちだよ、こっち!』
『ニノンったら、そんなに急がなくっても大丈夫よ。ねえ、絶対に手を離さないでね?』
『早くしないとお星さま全部流れちゃう』
ベージュの長い髪の毛をなびかせながら、その女性はふふ、と笑った。
『大丈夫よ、ニノン。流れきったりしないわ。だってお星さまの数はこの海岸の砂の粒より多いんだもの』
それでもニノンは早く丘の上へ行きたかった。いくら砂の数より多くたって、こんなにも夜空を流れ星が駆け巡っているのだ。いつ無くなってしまうか分かったものではない。
柔らかな草が風になびく丘に辿り着いた時、ニノンは終わりのない流星の群れを目にした。
『わぁ、すごい、すごい!』
『ほら、耳を澄ましてごらん。星の声が聞こえてこない?』
『星の声?』
ニノンは言われるがままに目を伏せる。その時、星が空を擦るシュン、といった音がたしかに聞こえたのだ。
『ほんとだ、星の声!』
はしゃぐニノンを優しく見守りながら、女性は続けた。
『私にはもっとたくさんの星たちの声が聞こえるわ』
『私もお姉ちゃんみたいにもっと星の声が聞きたいな』
『いつかきっと聞こえるわ。ここよりもっとたくさんの流れ星が見えるところなんて、この島にはうんとあるのよ』
『じゃあ一緒にそこに行こうね、約束だよ』
『ええ、そうね』
――絶対ね。約束だよ、お姉ちゃん……。
「ニノンや」
老婆の心配そうな声に、ニノンは白昼夢から目覚めた。
いつのことだか分からない、けれど今日みたいに流れ星のたくさん流れる夜だった。傍らには美しい女性がいて、ニノンは彼女を姉と呼んだ。
「私には……お姉ちゃんが、いたんだ」
一度思い出してしまえば、彼女に対する親しみの感情はこんこんと胸に溢れ出した。
「大丈夫かい」
「え?」
気がつくと、ニノンの頬には一筋の涙が伝っていた。
「あ、うん。なんでだろう、勝手に涙が……」
まばらに蘇る記憶の中で出会う人たちはいつも笑顔で、側にいると温かい気持ちになったことをニノンに思い出させてくれた。
しかしそこでニノンはふと我に返るのだ。まるで自分だけが世界に取り残されて、独りぼっちになってしまったかのように感じる時がある。自分のことを誰も知らない。自分でさえ自分のことを知らない。真っ暗闇に放置されたような、孤独と恐怖。漠然とした寂しさは、記憶の欠片に触れるたびにぶくぶくと膨らんでいく。
――お姉ちゃんに会いたい。
ぽたり、とニノンの瞳から涙が落ちた時、老婆のからからに干からびた骨と皮だらけの手がその頭をゆったりと撫でた。
「ばぁばはいつでもここにいるからねぇ」
「……私のこと、憶えていてくれる?」
「憶えておくともさ。それにね、心配することはないよ。お前さんの側にはコースケの孫がいるんだから」
そして老婆は三日月のような笑みを絶やすことなく、子どもをあやすように優しく囁いた。
「なにしろ、南のばぁばの言うことだからねぇ」
ニノンは涙をふいて頷いた。そうして二人は互いに笑いあい、終わることのない流れ星を気のすむまで眺めたのだった。
*
「ゾラさんという方の家を探してるんです」
寝ぐせの残る黒髪を揺らしてルカは尋ねた。
一枚板のテーブルには今日も所狭しとサラダやフルーツやチーズ、パンが並べられている。流星群の観測が夜遅くまで続いたということで「是非夜ご飯でも」という夫妻のお言葉に甘えて、ルカたちはありがたく連泊させてもらうことにしたのだ。
何だかんだでタイミングを逃していたが、本来の目的は隠された絵画の所持者を訪ねることである。爆睡するアダム達を叩き起こしたルカは、朝食もそこそこに本題を切り出した。
「ゾラさんですと?」
昨日は眠りこけて朝食の席に姿を現さなかったジルダの父も、今日ばかりはヒゲもさっぱりと剃り切った状態で席につき、焼き立ての栗のパンをほおばっていた。
頬がぱんぱんの状態で口を開いたので、パンくずや栗がぼろぼろとこぼれ落ちた。隣の席に座っていたアダムが思わず眉をしかめる。
「おっと失礼。ゾラさんと言えばもうこの村にはいないよ。なぁ、母さん」
「ええ、もう何十年も前に出て行きましたよ」
「引っ越した……ということですか?」
ルカの問いにいいや、とかぶりを振ってジルダの父はその短い手をぞんぶんに伸ばして分厚いベーコンにフォークを突き刺した。弾みで飛んだ油をアダムはすんでのところで避ける。
「『サーカス団を結成します!』 とかなんとか言ってね、出ていっちゃったんだよ。今もどこかでサーカスを開きながら各地を点々としてるんじゃないかなぁ。ほほっ、このベーコン本当にジューシー!」
かぶり付いたベーコンから飛び散った油を避けて、アダムはついに「さっきから汚ねーんだよおっさん!」と暴言を吐いた。
「この人が言ってるのは『虹のサーカス団・アルカンシェル』のことですよ」
ジルダの母がにこやかに答えると、アダムが耳をぴくりと動かした。
「俺、聞いたことあるぜその名前」
「サーカス団って?」
もちろん今のニノンにとって初めて聞く言葉だ。興味津々といった風に瞳を輝かせている。
「人間とか動物がテントの中で色んな芸をするショーみたいなもんだ」
「アルカンシェルには動物はいないよ。人間だけで曲芸をやってのけるすごいサーカス団なの!」
と、ヤマモモをかじっていたジルダも会話に混ざる。
「……そのアルカンシェルの団長が、ゾラさんなんですか?」
ルカが会話の流れを元に戻した。ジルダの母は「そうねぇ」と首を傾げて続ける。
「この村にサーカスがやって来てからもう何年にもなるし、はっきりとは言い切れないけれど……。そういえばアジャクシオにいる姉が今度サーカスを観にいくって言っていたわ。もしかしたらゾラさんはアジャクシオにいるのかもしれないわねぇ」
アジャクシオといえばここから北西に進めばすぐの、フィリドーザと目と鼻の先に位置するコルシカ島最大の街だ。
そうと決まればもたもたしてなどいられない。ルカはすっかり気に入ったグリーンサラダをかき込んで、夫妻にお礼を言って席を立った。
「ルカ君、もう少しゆっくりしていけばいいのに」
「そうだよ。ルカお兄ちゃんもう少しここにいてよ。宿代はもちろんタダだよ?」
ジルダは駄々っ子のようにルカの腕に巻きついた。
「お気持ちはありがたいんですが、やらなきゃいけないことがあるので」
迫る親子の顔をやんわりと遠ざけて、ルカは苦笑いした。と、今度はニノンが「そういえば」と口をひらいた。
「ついでに私も聞きたいことがあるの。ダニエラさんって人を知らない?」
ニノンの問いに三人は一様に首を捻った。それから揃って期待する答えの返ってこなさそうな表情をした。
はじめに言葉を発したのはジルダの母だ。
「この村にはいないわねぇ。ほかにもっと特徴はない? 年齢とか見た目とか」
「な、名前以外……ないです……」
「あらあら、それは随分厳しいわねぇ。人を探すなら名前だけじゃなくて、ぱっと思い出せるような情報もあったほうがいいと思うわよ」
それもそうだなぁ、とニノンは肩を落としてしまった。ダニエラという四文字だけでは圧倒的に情報量が足りないのだ。
「南のばぁばなら何か知ってるかもね」
ぽつりと、ジルダは思いついたように呟いた。
*
後部座席に大きなリュックサックを乗せると、ルカはバタンと音を立ててドアを閉めた。
村の入り口では村人が総出で一行のお見送りをしようとずらりと立ち並んでいた。初めてフィリドーザを訪れた時のような、土気色の顔はもはやどこにも見当たらない。
「これ、よかったら使ってくれよ」
アダムはA4サイズ程の紙袋をジルダに手渡した。
ジルダは不思議そうに中身を取り出す。出てきたのはキャンバスで、昨夜の流星群が絵本の挿絵ように柔らかいタッチで描かれていた。上部には白抜きの文字で『ようこそ星の降る村、フィリドーザへ』と書かれている。どうやら村の入り口に設置する新しい看板のようだ。
「かわいーい! これ、アダムお兄ちゃんが描いたの?」
「あ? そうだよ。悪かったな、かわいーい絵で」
俺はそういう絵が好きなの、とふてくされるアダムにジルダはぶんぶんと首を何度も振った。
「本当にありがとう。私、大事にする」
満面の笑みに嘘はない。気恥ずかしさに耐えきれなくなったのかアダムはぷいっとそっぽを向いてしまった。
「アダムの絵ってやっぱりあたたかいよね。なんだか懐かしい感じがする」
「柔らかくて優しい。俺、好きだな。この雰囲気」
「うん。私もアダムの絵、好き。そうそう、優しい感じするよね」
「え、そ――そうか?」
ルカとニノンの本気の誉め言葉が、アダムの口元を緩めさせる。
「アダムがこの絵を描いてるところを想像すると、なんだか可愛いよね」
「うん。普段の言動と真逆っていうか」
「お前らやっぱり見るの禁止!」
三人が言いあっていると、村人の山の奥から聞きなれた笑い声が聞こえてきた。季節外れのグレーのマフラーとぎょろりと飛び出た二つの目玉はどんな人混みの中でもよく目立つ。
「南のばぁば! よかった、ちょうど聞きたいことがあったんだ」
老婆はえっちらおっちらとニノンたちの前まで歩いてくると、太い木の枝をずしんと地面に突き立てた。
「何が聞きたいって?」
「ダニエラさんって人、ばぁばは知ってる?」
「ダニエラ……多くはないが探せばその辺にいる名だね」
老婆は相変わらずどこを向いているか分からない目玉でしばらく空を見つめていた。だが、いきなり伸びきったくすんだ爪をニノンの鼻先に突きつけたかと思うと、にやりと笑ってこう言った。
「昔、同じ名前の人間を探している若人に会ったことがあったかねぇ」
「ホント? それはどこで? なんて人? 今どこにいるの?」
老婆は笑い声をあげて、「そうせかせかするんじゃないよ」と諭した。
「あれはサーカス団がこの村にきた時だったね。名前は確か……ニコラス、だったと思うよ」
ニコラス、とニノンは反芻した。サーカス団といえばこのあと向かう目的地もサーカス団だ。結局のところ次の行き先はアジャクシオで変わりはない。ニノンは老婆に礼を言って、最後に別れを惜しむようにぎゅっと抱き着いた。
「いつかまた会いにくるね」
「いつでもおいで。待ってるよ」
老婆は身を離すと、ニノンの背中をぐっと押した。いっておいで、と言うように。
話がまとまったところで、三人はフィリドーザを出発することにした。
「本当に、お世話になりました」
「そんな、こちらこそですよ。あなたたちはフィリドーザを救ってくださったんですから」
「気が早いぜおかみさん。もしトレミーのじいさんの絵画がものすごいエネルギーになったら教えてくれよ。俺、こっそりここに絵を描きにくるからさ」
「こっそりだなんてアダム君、この村にやってきたら僕たちの宿屋にぜひ泊まっていってね」
「おう。そんときゃおっさんと別のテーブルで朝メシ食うからよ。頼むぜ」
賑やかに別れの挨拶を交わす中、ジルダはルカの前で寂しげに立ちすくんでいた。
「本当に行っちゃうんだね。寂しいなぁ……」
「これから忙しくなるんだから、寂しさなんてすぐに忘れるよ」
そう言うと、ジルダは以前より少し大人びた笑顔を浮かべた。
「私ね、自分が一番自分の夢を信じてあげられてなかったんだなって、分かったの。アダムお兄ちゃんの言うとおりだよ。信じ続けていれば夢は叶うんだね」
「うん」
「だからね……次の夢はちゃんと信じてあげようって」
「次の夢?」
もう次のことまで考えてるなんて、とルカは感心した。ジルダはうつむいていた顔をがばっと起こした。頬はりんごのように真っ赤に染まり、大きなヘーゼルの瞳は水分をたっぷりと含んで潤いに波打っている。
そのとき、突如手を握られた。
「えっ」
そのまま下へぐいっと腕ごと引っ張られ、ルカは思わず体勢を崩す。そして――。
「次の夢は、ルカお兄ちゃんのお嫁さんになること!」
ちゅ、と音を立てて少女の唇がルカの頬に当たった。ほっぺたにキス。それは少女の精一杯のアプローチだった。ジルダはぱっと手を離してそのまま老婆の影へと隠れてしまった。ニノンの手から荷物がドサドサッと落ちる。
「おっ、お嫁さんって……気が早すぎない!?」
「とんだおませさんだな、ジルダ」
悲鳴にも似た声をあげるニノンに、ニヤニヤと笑うアダム。その隣では、何が起こったのかやっと理解したルカが珍しく頬を染めて呆然と立ち尽くしていた。
ついに村を飛び出した一台のビートルに向かってジルダは大きく手を振った。
「待ってるからねー、ルカお兄ちゃん!」
次第に遠のいていくフィリドーザの入り口には、元気に手を振り続ける村人たちの姿があった。それはきっと、彼が信じたもう一つの『星の降る村』だった。
生まれ変わった村の姿を、トレミーもきっとどこかで眺めていることだろう。
〈第四章 星の降る村・完〉