スターティング・オーヴァー(4)
いつもの路地に帰り着いた頃には、既に雨は降りだしていた。
日中にもかかわらず、あたりはまるで日没後のように暗く、空は黒い雲に覆われている。少しでも雨風を凌ごうと、道端にうずくまる人々は身体にボロ布を巻き付け、肩を寄せあい俯いていた。
――何かがおかしい。
大きな雨粒にバチバチと肌を打たれながら、アシンドラは四方から寄せられる「哀れみ」の感情に眉根を寄せた。もやのようだった感情は次第に具体的な言葉へと変容し、アシンドラに向かって飛んでくる。
〝母と妹があんなことになって、可哀想に〟
普段の怯えたものとはまったく違う、同情にまみれたそれらの感情によって、アシンドラは家族の身に何かが起こったことを悟った。
〝白い悪魔はやはり災いを招く〟
〝家族に売られただなんて、気の毒なことだ〟
纏わりつく具体的な言葉の数々が、焦燥感に拍車をかける。
アシンドラは泥水を跳ねあげて駆け出した。
鼓動が耳元でうるさく響いている。頬を強く叩く雨粒が目や口の中にまで入ってくる。
――家族に売られた? なんのことだ?
それらは断片的で、けれどおそらく確実な情報だった。いくつもの見えない弾丸が心臓を突き抜けてゆく。視界を邪魔する白い髪も身体に張り付く衣服にも気を留めず、ただ我武者羅に足を動かした。
やがてアシンドラは濁った視界のなかに住み慣れた粗末な寝床を見つけ、中に飛び込んだ。
ムワッとした雨のにおい、生臭い血の臭いが充満している。
「か……」
雨漏りでぐしゃぐしゃに濡れた絨毯の上で、母親が右手を伸ばすようにして倒れていた。
「母さん!」
アシンドラはもつれる足で無残に転がる母親に駆け寄った。
強張った身体を無理やり抱え上げれば、触れたところすべてがひやりと冷たかった。眠るように瞼を閉じるその顔や、伸ばしたままの腕にはぽつぽつと紫斑が浮き出ている。アシンドラは汚れを拭うかのように皮膚の上をごしごしと擦った。まだら模様は消えない。肩を強く揺すぶって母の名を叫ぶ。何度も、何度も叫ぶ。まるで精巧につくられた人形の様に、それはただぎこちなく揺れ動くだけだった。
「なんで…………っ」
ふと、アシンドラは身体の下に何かが下敷きになっていることに気が付いた。赤く滲んだ絨毯と冷たい身体の隙間に、一冊の本が隠されていた。それはチャスマから贈られた赤い布張りの本だった。
「本よりも……、大事なものが、あるだろ……」
絞り出すように叫んだとき、アシンドラの目が母親の右腕を捉えた。視線が、伸ばされた指の先へと導かれる。
いつも本を飾ってある食料ボックスの上。そこに、ルクサナが大切にしていた絵本の姿はなかった。
「――ルクサナ!」
アシンドラは再び激しい雨の中に飛び出した。道端の排水溝はもはや受け止め切れない雨水で溢れ返り、濁流が轟々と音を立てて道の左右を流れていた。
「ルクサナ、どこだ! 返事をしろ!」
荒れ狂う雨風に負けじと声を張り上げる。
アシンドラは後悔していた。住処を不在にしていなければ、何者かがやって来ても返り討ちにできたはずだった。
ルクサナは賢いから、母に言われて寝床から逃げ出したに違いない。兄妹揃って足だけは速い。きっとどこかで怯えながら兄が迎えにくるのを待っているはずだ。そんな妹の姿を思うと、アシンドラの胸は焦りで張り裂けそうになった。早く見つけだしてやりたかった。そして、もう大丈夫だと小さな体を抱きしめて、安心させてやりたかった。
「ルク――」
突如、背後から誰かに強く肩を掴まれて、頬を思いきり殴られた。アシンドラは勢いよく地面に倒れ込んだ。濁った飛沫があがる。見上げずとも、激しい怒りの感情がこちらを見下げているのが伝わってきた。
「お前のせいで俺の嫁がひでえ仕打ちにあったんだぞ!」
「は――?」
「お前らを探してるっていう黒ずくめの男たちがこの辺りを荒らしにきたんだよ! それで俺の嫁さん引っ張り出してよ、嫁さんは、お前らの居場所ちゃーんと教えてやったんだ。なのにあいつら、殴りやがった!」
アシンドラはずぶ濡れの男に胸倉を掴まれ、矢継ぎ早に大量の罵声を浴びせられた。目の前にあるのは、この路地裏でよく見かける貧弱そうな男の真っ赤な顔だった。
「嫁さんの顔は虻に刺されっちまったみたいにひどい有様だ! やっぱりお前は悪魔なんだよ、災いを撒き散らしやがって!」
興奮気味に捲くし立てられる言葉では何が起こったのかさっぱり分からないが、ひとつだけはっきりしていることがある。それは、この男が騒動の起こった場所に居合わせていたらしいということだ。
出し抜けにアシンドラは叫んだ。
「おいあんた、そこにいた小さな女の子の居場所を知らないか!?」
「はあ!?」
「黒くて長い髪の、四つになる女の子だ!」
勢いよく問い質せば、男は憎悪の渦巻いた瞳を露骨に吊り上げた。
「ガキなら連れてかれたよ! 人攫いじゃねえぞ。家族に売られたから、引き取りに来たんだとよ! へへ、家族ってお前のことじゃねえのかよ――おぶッ」
アシンドラはニヤニヤと下品な笑みを浮かべる男の鼻っぱしを思いきり殴りつける。顔を両手で押さえながら這い蹲る男の胸倉を、今度はアシンドラが掴み返した。男の口元は鼻血と雨でドロドロに濡れていた。
「家族って誰だ? 誰の指示でやって来た? そいつらはどこにいった?」
「しら、知らねえよ……!」
アシンドラが拳を振り上げると、男は「ヒィ」と呻いて血にまみれた手を挙げた。
「シンさんとかなんとか言ってたよ! 本当にそれしか知らねえって!」
「シン……?」
その名を反芻した瞬間、アシンドラはそれがつい最近耳にした音であることを思い出した。
どくりどくりと、心臓がいやな音を立てる。まるで血の代わりに毒が全身を巡っているかのように、残酷な痛みが全身をじわじわと這い回る。
「まぁ、どうせもうどこかに売り飛ばされてるだろうけどな――ギャア!」
アシンドラが顔面をもう一度殴りつけると、男はひっくり返りながら逃げていった。
拳から滴る血はすぐに土砂降りの雨に流された。轟々と吹き荒れる雨風が、砂色の町を濁流に呑み込んでゆく。
「シン」
アシンドラは先ほど男が口にした名を繰り返した。
シン――ラヴィ・シン。
それは偶然にも、母親と婚約を交わした男の名前と一致していた。
偶然。
果たして偶然だろうか?
家族に売られた母と妹。
カチ、カチ、と脳裏でパズルのピースが組み合わさってゆく。
「――チャスマ」
あいつの目的は、最初から。
「ああ……」
奇妙なことに、口から漏れたのは軽やかな笑い声だった。
やっぱりな、とアシンドラは思った。
やっぱり人間には裏があるじゃないか。
人間の本質は悪じゃないか。
他人から与えられる幸せなんて存在しないじゃないか、と。
「騙されるところだった」
激しい嵐のただ中に立ち竦んだアシンドラは、口元を奇妙に歪めて笑った。
どれほど雨に打たれていただろう。やがて背後から慌ただしい足音が聞こえてきた。
「アシンドラ!」
男が一人、バシャバシャと飛沫を飛ばして駆け寄ってくる。
「酷い雨だ――大丈夫かい? ルクサナや、パドマさんは……」
「チャスマ」
「中に入らなくては。風邪をひく」
のうのうと姿を現した男は、濡れそぼるアシンドラの手を引き入り口のボロ布を捲り上げた。
そして、その中で息絶える愛しい人のなれの果てを目にして悲鳴をあげた。
「パドマさん、パドマさん……!? どうして、こんなっ……、医者を……! ああ、そんな……!」
男は冷たくなった手首に触れるなり、その身に再び血が巡ることはないと悟ったようだった。血と雨でぐしゃぐしゃに濡れた身体を抱きよせ、その場に泣き崩れた。
アシンドラはゆらりと男の背後に立ち、震える大きな背中を表情のない顔で見下ろした。
酷く深い悲しみが、男の背中からとめどなく溢れ出ていた。
アシンドラの頭はおかしくなりそうだった。
お前がそれを言うのかと。
どの立場で悲しみを抱えることができただろう、と。
「母さんが死んだのは、お前のせいだろ?」
気を緩めれば爆発しそうな感情を、冷たい鉄の仮面の下に押し込めて、アシンドラはひどく落ち着いた声でそう言った。聞こえていないのか、チャスマは顔を伏したまま嗚咽を漏らしている。だから今度は一言、一言、刻み付けるように呟いた。
「売ったんだろ? ルクサナを、お前が、その手で」
男はようやくアシンドラの声に気がついたようだった。「売った……?」と戸惑う声を漏らし、突っ伏していた顔を上げた。
「それは、どういう――」
一瞬のことだった。チャスマが振り向いた瞬間に、アシンドラは男に体当たりし、その腹に太いガラス片を突き刺していた。
「ア、シ……ッ」
「お前が、妹を売った……母さんは妹を庇って、死んだ」
さらに深く、さらに鋭く。
「お前が殺した。お前が、母さんを……!」
ほとばしる憎しみをその切っ先に込めて、アシンドラは男の腹にガラス片を食いこませた。
「な、に……を……」
「言い訳なんか、聞きたくないんだよッ!」
アシンドラは腹に突き立てたガラスをひと思いに抜き去った。
返り血が飛んで、頬を伝う。
「人攫いは吐いたぞ。家族が妹を売ったと……お前は、そのために母さんに求婚したんだ……医者なんて嘘だ……金に困ってたんだ……!」
困惑の表情とともに向けられたのは、深く傷付いたという感情。
何か弁明しようと開かれたチャスマの口から、ごぼっと血が溢れ出た。伸ばされた手はアシンドラに届く前にだらりと地面に落ちていった。彼はそれきり何かを発することもなく、母親の上に折り重なるようにどさりと倒れこんだ。
アシンドラは肩で息をしながら僅かに後ずさった。
開いた手のひらが真っ赤な血にまみれている。皮膚がズタズタに切れていた。力を込めてガラス片を握り過ぎたからだ。雨がそれを流しても、痛みは止まず、鮮血は次々と皮膚の隙間から溢れ出ていた。
*
この町のどこかにまだ、ルクサナはいるかもしれない。
アシンドラは空っぽの頭を抱えて一心に町中を駆け回った。いつもの路地裏から、大通りに連なる建物の窓の中、住宅の密集地まで、集団が雨を凌ぎそうな場所はすべて探した。けれどそのどこにも、妹はおろか男たちの姿さえ見つけることはできなかった。
やがて、嵐が去った。
濡れそぼる大通りは昼どきの賑わいが嘘のように閑散としている。気配も感情もすっかり姿を潜めていた。まるで町自体が死んでしまったかのようだ。
冷えきった体を引きずりながら通りを歩いていると、向こうから人影がやってくるのが見えた。ふらつきながら、アシンドラはその人物に近付いていく。
「よぉ、アシンドラ。景気はどうだ?」
「……!」
片手をあげて挨拶を寄越したのは、緑の制服に身を包んだ警官だった。アシンドラは倒れ込むようにして男にすがりついた。
「妹が行方不明なんだ!」
普段の構えた態度も、許せない仕打ちに対する憎しみも全部投げ捨てて、恵みを乞う浮浪者のごとく懇願する。
「探してみたが見当たらなくて……あんたたちの力を貸してほしい!」
男は涼しい顔をして「ああ」と気のない返事をする。アシンドラは縋る手に一際力を込めた。
「頼む……っ」
「俺も探してたんだよ、アシンドラ」
「早くしないと――」
「だってもうお前『用済み』だからさ」
警官はにこりと笑って、唐突にアシンドラの腕を捻りあげた。
「ラヴィ・シンという医者を刺したな?」
そして、恐ろしく低い声でそう告げた。
「は……離せっ……」
「俺はずーっとお前のこと評価してたんだぜ、アシンドラ。本当によく稼ぐ優秀な人材だった。けど最近はどうだよ、すっかり腑抜けちまって。なぁ? 言いたいこと、わかるよな?」
男はゴミを見るような目でアシンドラを見下ろした。
「稼がない家畜に用はないわけよ。残念だがお前は殺人容疑で逮捕だ。一生ブタ箱で働いてく、ら、せ」
ゾッとする声で言い放つと、警官の男は湿った縄でアシンドラの両手を縛り上げた。
「俺のことはブタ箱にでもなんでもぶち込めばいい! その代わりッ、妹を探してくれ!」
「よく喋るゴミだなー」
男は腰からナイフを抜き取り、アシンドラの口元に鋭利な先端をひたりと当てた。
「いいか。お前の妹はもうこの町にはいないんだ。別の業者に渡っちまってる。そいつらは今頃どこかの港にでも向かっているだろうな。売られる先は全世界。行き先がどこかなんてわからんのよ」
オーケー? と饒舌に語りながら、男は何度も滑らかなナイフの先端でぺちぺちとアシンドラの頬をなぶった。
縛り上げられ半ば絶望的だったアシンドラは、しかしあることに気付いてぴくりと眉を動かした。
冷や汗が一筋、背中を流れる。
「……どうして」
「ん?」
「どうして、妹が売られたことを知ってる?」
「……ああ?」
男の片眉が吊り上がり、瞳孔が開く。
ふらついていたアシンドラの焦点がぴたりと合って、男の胸元に光る名札を捉えた。
見てはいけない。
S・i・n……。
読んではいけない。
g・h……。
わかったら、終わり。
Singh。
「お前が――シン」
口にした瞬間、アシンドラの足元はぐらつき、ひび割れ、積み上がった石段が一気に崩壊した。
落ちた先には取り返しのつかない事実が眠っている。
「なんだお前、文字読めるの?」
男がつまらなさそうに胸元のネームプレートを指で擦った。
「そうだよ、お前が刺したラヴィ・シンは俺の兄貴さ。ちょっと前に俺んとこにやってきたと思えば、しばらくしてからありえない話を始めたわけよ。なんだと思う?」
男はがく然とするアシンドラの顎を掴んで楽しそうに問いかけた。
「そう。なんと、お前んとこの母ちゃんと婚約したって言うじゃないか! アッハハ、バカかってな!」
そう言って、男はまるで気の置けない友人とパーティーでも楽しんでいるかように高笑いした。
「なんてつまんねー冗談だよって思ったよね。いくら愛し合ってたって、ヒトと家畜とは結婚できないだろ? 赤ん坊でもわかることを、兄貴とお前の母ちゃんはわかってなかったのさ。兄貴は頭はいいんだけど変わり者でね。お前の母親だってどうかしてるよなあ? まさか本当に結婚して、人並みの生活が送れるとでも思ったのか? そんなの俺が認めるかよ、バーカ!」
アシンドラは高笑いする男を虚ろな目で見上げていた。男の背後に隠れた太陽が、濡れそぼる町を容赦なく照りつける。雨上がりの空はいつだって痛いほどの綺麗な青色だ。
「道端で暮らす家畜どもと家族になるなんて耐えられるか? 俺は耐えられない。だから売ったんだよ。だって家族なんだから、その権利はあるよな? 売られたって言っても死ぬわけじゃねえんだから。ちょっと距離が離れるだけさ。で、そのあと縁談話は自然と破綻、って算段だったんだけどな、本来は。母親が死んだのは想定外だったよ――だからバカに仕事を任せるのは嫌なんだ。頭に血が上りやすい奴はガサツでヤだねえ」
揚々と語られる男の言葉は、バラバラに刻まれたアルファベットとなり、あたりを飛び交った。耳に入ってきても、何を言われているのかまったく理解できなかった。
「ま、済んだことは仕方ない。それよりもアシンドラ、お前だって俺とは家族でいたくないだろ? 気があうねぇ、俺もだよ! 人殺しの甥なんてまっぴらごめんだ」
男はばしんばしんとアシンドラの肩口を叩き、目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。
「だからさ、この話は水に流そう。綺麗さっぱり忘れて今日から別々の人生を歩むんだ。俺はこの町の警官として。お前はこの町の屋根つきの箱の住人として。もう頑張って家族を養うこともない。お前はお前一人分の働きをして、エサを貰い、雨風を凌げる寝床を手に入れ、死ぬまで鉄格子の中で衣食住に困らない暮らしを送るんだよ。……おーい、聞いてる?」
反応が薄いことに苛立ったのか、男は笑顔のまま、顔をなぶっていたナイフでアシンドラの頬に一筋の線を入れた。ピリッとした痛みの後、ツ、と生暖かい液体が垂れ落ちる。
「あー、わかった。君にも理解できるように簡単な言葉で教えてやろうか」
顎髭を生やした男の顔が間近に迫る。鼻先に生暖かい息が吹きかけられた。その両目はいかにも楽しそうに弓なりに曲がり、瞳孔は針のように細く、細く、見開かれていた。
「――お前の大切な妹を売ったのはこの、オ、レ、だ」
男の放った一音一音が収束し、意味のある言葉を成した。
「いい金になったよ。おかげでお前がサボッてた分くらいは回収できた」
背け続けていた現実にピントが合ってしまう。
やがて、理解する。
ラヴィ・シンは妹を売っていない。
ラヴィ・シンは母を殺していない。
ラヴィ・シンは――無実だ。
「……ゥゥ…………」
体の奥底から今までに感じたことのない力強さで何かが猛烈にせり上がってくるのを、アシンドラは感じた。粘り気のある、真っ黒なマグマのような何かが、凄まじい勢いで渦を巻き――。
「あ、泣いてんの? 俺も泣こうか、兄貴を亡くした悲しみに」
男の声がいっとう低くなる。
「お前一人だけ被害者面するんじゃねえよ。そもそもお前らが存在してなけりゃこんな面倒ごとだって起きなかったんだよ。そうだろ、全部お前らのせいなんだよ。お前らはただ盗んで作って売ってりゃよかったんだよ、なのに身の丈にあわない幸せを望んだ、お前ら自身が! そうだろ!? なぁ、アシンドラァ!」
男が苛立ちをほとばしらせ、ブーツの踵を振りかざした。
その時だった。
「ゥアアアアッ!」
激しい怒り、憎悪、後悔、絶望。言葉に例えきれないあらゆる負の感情を凝縮した集合体が、膨れ上がり、うねり――やがておぞましい化け物に擬態した。
「!?」
身体を蹴やぶり、それは雨上がりの空に飛び出した。ばさりと黒く大きな両翼を広げ太陽の光を広く遮る。その姿はまさしく有翼の大蛇そのものだった。
「なっ……お、おい、」
黒く醜い姿の化け物は口を縦に大きくひらけ、ぎょっとしている男に灼熱の炎を吐きつけた。
「うわァッ!? や、やめてくれ……っ、助けて……ヒイッ!」
男は震える声で叫びながら、がむしゃらにナイフを振り回した。やがて手に持っているものを放り投げると、今度は地面に転がりのたうち回った。力が暴走していた。感受の逆流入。アシンドラの膨れ上がった憎悪は幻影の炎となり、身ではなく男の精神を燃やした。
存在しない化け物相手に男が抗っている間に、アシンドラは後ろに飛び退り、手綱に繋がれたままの両手で転がるナイフを拾い上げた。そして、取り乱す男に馬乗りになった。
「ああ、アシンドラ、助けてくれ……! 手を……」
一瞬安堵に包まれた表情が、アシンドラの手に光るものを見つけて瞬く間に凍りついた。
「ハッ……なに、物騒なもん持ってんだよ……やめろ、おい――家族だろッ!?」
泣きながら懇願する男の顔を、アシンドラは蔑視する。
「お前、俺とは家族でいたくないんだろ?」
「ち、違う! あれは、ほんのジョークじゃないか……」
「俺も、人殺しの男が家族だなんてごめんなんだ」
男の喉から「ヒッ」と引き攣った声が漏れる。アシンドラは無慈悲に腕を大きく振りかぶり――ドスッ、とナイフを心臓の真上に突き立てた。
*
そのあとどうやって町から逃げ出したのか、アシンドラには朧げな記憶しか残っていない。
男の懐から有り金をすべて奪うと、見知らぬ観光客に金を払って車に乗せてもらい、なるべく遠くを目指した。母の亡骸を置いてきてしまったことだけが心残りだった。けれどあの町に引き返すことはもうできない。
嵐が幸いしたのか、その後追っ手がやって来ることはなかった。
荒々しく揺れる後部座席に座り、アシンドラは頭の中でルクサナに物語の続きを語って聞かせる。
意地の悪いドラゴンは、自由気ままに冒険を続ける。相変わらずの冒険譚。激しい嵐を乗り越え、悪者をやっつけて。妹は物語の続きをせがむ。母親の優しい眼差しが兄妹を見守っている。
そんな、時間が進んでいるのか止まっているのかも分からない世界のなか。砂色の景色を窓越しに眺めていた時、唐突に一枚の写真のことを思い出した。
『この島には昔、ヴェンデッタと呼ばれる風習があったんだ。血で血を洗う、一族同士の復讐の風習だ』
ハッとして、アシンドラの意識は現実に引き戻された。
ヴェンデッタ。
――あれは、復讐だったんだ。
ただ、家族を殺された報復に相手を殺しただけ。
母を殺し、妹を売ったシン兄弟に、復讐しただけだ。
アシンドラは無意識のうちに、何度も何度も自分に暗示をかけた。
物語を作るのは得意だった。だからアシンドラは、自分のために物語を作り出した。
母親と再婚した男に暴力を振るわれ、妹を売られた。
だからその男を殺した。
繰り返される物語により、嘘は事実にすり替わった。
その事実が真実だと誰かに認めてほしかった。
幸い、男から盗んだ金は相当な額だった。アシンドラは有り金すべてをはたいて足を変え不正をはたらき、国境を越えて、地中海に浮かぶ島を目指した。
コルシカ島に行けば、両手にこびりつく赤黒い血も跡形もなく消えるのではないかと、心のどこかで思っていたのかもしれない。
そうしてとうとう、アシンドラは身ひとつでその地に辿り着いた。
雪のちらつく、寒々しい冬の日だった。資金はすでに底を尽き、今日明日を過ごす手立ては何も残されていない。ここがなんという町なのかも、本当にコルシカ島なのかも分からない。指先という指先はかじかみ、頬には冷え切った石畳の感触があった。空腹を通り過ぎた胃や渇いた喉が悲鳴を上げているが、身体は泥のように重たく、ぴくりとも動けなかった。
「姉ちゃん、ほら、ほら。こいつだよ!」
無遠慮に近づいてくる足音が石畳を叩いたかと思えば、今度は頭上から甲高い声が降ってきた。アシンドラはきんきんとした少年の声を、ぼんやりとした意識の中で感じとる。
「まぁ、アダムの言うとおり。本当に男の子が倒れているわ」
「俺、嘘なんかつかねーよ!」
「あらあら、大変。こんなに薄着で……凍傷を起こしかけてる」
別の声がそう言い、温かい何かにふわりと身体を包まれる。嗅いだことのない甘くていい香りが、アシンドラの鼻先を掠めた。
――母さん。
「ひとまず応急処置をしなくてはね。アダム、この子を運ぶのを手伝ってちょうだい」
「うん。牧師が何か言ってきたら俺が言い返してやるからさ。姉ちゃんたちは、俺が勝手に拾ってきたって言っていいよ!」
「うふふ、ありがとう。でも大丈夫よ。人の命を助けたと知れば、牧師様はきっとあなたをお褒めになるわ」
「そーかなー? きっとすげェ怒るぜ。余計なものを拾ってくるんじゃねえ! って」
「まぁ、滅多なことを言うんじゃありません」
背の低い誰かに担ぎ上げられ、不安定な足取りでどこかに運ばれる。アシンドラは半分眠りに落ちながら、つたない温もりを身体の片隅で感じていた。




