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コルシカの修復家  作者: さかな
side:Asindra

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147/206

スターティング・オーヴァー(3)

 ツルツルとした小さな液晶を指で触れば、チャスマの撮った作品は画面いっぱいに映し出された。アシンドラは視線だけで操作の仕方を確かめながら、切り取られた風景を指で次々と繰り出した。

 真っ青な絨毯を大地に敷き詰めたような、海と呼ばれる地。その海を背景に椰子の木の下でニヤリと笑う日焼けした老人。橋の闌干に身をもたせかけ、不機嫌そうな眼差しをどこかに向けている女性の横顔。見渡す限りの地平線を背に、カラフルな紐飾りを掲げながら踊る丸刈りの少女。


 ずっしりとした四角い機械の中には、何万何千という風景や人物が仕舞い込まれていた。

 そのすべてに物語が閉じ込められている。

 それは言葉によらない物語、動かない彼らが放つ表情豊かな物語。


 アシンドラの中に珍しく、前のめりな感情が生まれかけた時だった。


「チャスマ、これ、なんて書いてあるんだ」

「ん?」


 ふとある写真に気をとられ、アシンドラは画面をこつんと指でさした。鮮やかなライムグリーンの草原にぽつんと建てられた石碑。その前に佇む男の子の背中。

 チャスマはメガネをずらし、画面をためつすがめつ眺めた。角が丸く削れた石碑には文字のようなものが刻まれている。しばらくして、ああ、とチャスマが思い出したように声をあげる。


「コルシカ島だよ」

「コルシカ島? どこだ、それは」

「ここからずっと西にいった海に浮かぶ島だね。緑は濃く豊かで、紺碧の海は吸いこまれるほどの鮮やかさ。朝焼けの空は見たこともないくらい美しいピンク色に染まる。まるで楽園だったよ、あの島は」


 コンクリート床のヘリに腰掛けるチャスマは、遠い目をして、かつて訪れた美しい島の情景を語った。その視線の先には瑠璃石よりも鮮やかな青い海が広がっているんだろう。写真に写っていた、無限に広がる絨毯のような大海原が。

 チャスマの背には自由を駆る翼がある。

 さながら世界を駆け巡るドラゴンのように、翼を持った彼は何処へだって行けるのだ。

 アシンドラの目には崩れかけのコンクリートに切り取られた空の青しか映らない。それから砂埃にまみれた渇いた町と、町に蔓延る黒い感情と。それだけだ。


「で、かつてこの島には『ヴェンデッタ』と呼ばれる風習があったそうなんだ」

「ヴェ……? なんだそれは」

「『血の復讐』――現地ではそういう意味だそうだ。一族の誰かが殺されたとき、その家族は相手の一族を死をもって罰することが許される。まさに血で血を洗う報復だよ。まぁ、警察が存在しなかった大昔に犯罪の抑止力として受け継がれていたものだから、今はもうそんな風習はないけれど――」


警察(あいつら)がっ……」


 ぴくりとチャスマが片眉を動かしてこちらを見た。


「犯罪の抑止力になんか、なるものか」


 咄嗟に飛び出た言葉は、アシンドラが思うよりも力強く響いたようだった。チャスマは少しだけ驚いた顔をしていた。

 アシンドラは投げやりになって袋の中からザクロの実を鷲掴み、両の親指でぐっとふたつに裂いた。てらてら光る赤い粒がぎっしり詰まった断面にかぶりつけば、血を何倍にも薄めたようなピンク色の汁が飛んで、生成り色の服を汚した。


「……この石碑はね、戒めなんだそうだ。かつてヴェンデッタが行われていたことを風化させないための。普段は人を中心に撮ってるんだけど、ここを訪れたのも何かの縁だからと思ってね――とまぁ、こういう写真をたくさん撮って回っているんだ。お金になるわけでもないのに」


 最後に自虐めいた言葉を吐いて、チャスマはカメラを首にかけ直した。


「でもチャスマお前、無銭なわけじゃないだろ」

「うん。あ、でも普段の食費は節約しているし、宿代だってタダなんだ。弟の住まいに寝泊まりしているからね。この町に来たのもツテがあったからで……」

「そういうことを言ってるんじゃない。その高そうなカメラ、拾ったものじゃないんだろ。金のない奴がそんなものを持ってるとは思えない」

「まぁ、そうだねえ」


 身なりの良さ、羽振りのいい行動からして、こいつは金持ちの類なんだろうとアシンドラはずっと思っていた。それなのに一銭も稼いでいないなんて、そんなはずがないのだ。生まれながらに家も金も持ち得ない人間がいるならば、その逆も存在するということなのか?

 チャスマは「うーん」と首を捻りながら、意外な事実を吐露した。


「普段は医者として働いてるんだ」

 医者、と反芻して、アシンドラは頭に疑問符を浮かべる。

「で、お金が貯まったら一旦辞めて、世界のあちこちを旅して写真を撮って回ってる。今はちょうど写真家としての生活を送ってるんだ」


 いつもの癖で疑うような目をしていたのだろう。チャスマは「本当だよ」と笑った。それから、声色を落ち着いたものに変えてこう言った。


「僕が最後に診ていたのは君みたいな子どもたちだ」


 まるで知らない人間がそこにいるようだった。アシンドラの心に言い様のない不安が忍び寄る。


「……チャスマ?」

「ひと目見たときから分かっていた」


 男のどこか冷たささえ感じる目が、青みがかった白い髪を捉えた。


「アシンドラ、君は脱色症だろう」



 *



 ルクサナとパドマが物売りから帰ってくると、路地裏は異様な雰囲気に包まれていた。

 普段から閑散としている通りだが、静けさがどことなくいつもと違う。左右に並ぶボロ絨毯の上で身を縮こめる人々は、なぜか怯えているようだった。


「なにかあったのかな……?」

「わからないわ。とにかく帰りましょう」


 パドマが娘の肩を抱き、地を踏む足を速めたときだった。


「おい、あんた」


 ふと、しわがれた声が二人を呼び止めた。

 振り向けば、頭頂の禿げあがったみすぼらしい老人が、地面に座り込んでこちらを見上げていた。


「そっちには行かないほうがいい」

「はい……?」


 彼は長年この裏路地に住んでいる人間で、いわばご近所のような間柄の男だ。直接言葉を交わすことはないが、お互い顔くらいは覚えている。


「あんたたちを探して数人の男がこの辺りを荒らしておる」

「え――」

 老人は白濁して丸まった爪先をゆっくりと親子に突き付けた。

「ありゃあきっと人(さら)いの組織だな」


 老人が歯の抜けた口をあけて笑ったとき、角の向こうから物をなぎ倒す音が聞こえた。続け様に、聞き覚えのない男たちの声が何事かを叫んだ。

 確かに彼らは何かを――誰かを探しているようだった。

 追って老人の言葉の意味を理解した瞬間、パドマの肌はたちまちのうちに粟立った。


「悪いことは言わん。あんたは娘を連れて逃げたほうがいい」

「でも、息子が、息子がいるんです……!」

「残念だが諦めなされ――おい、お嬢ちゃん!」


 ルクサナは母親の手をなぎ払い、寝床へと一目散に走り出した。


「ルクサナ、待ちなさい!」


 角を曲がる直前、パドマはなんとかルクサナの腕を掴み、ぐっと身体を抱き込んだ。


「だって、にいに……っ」

「――しッ」


 パドマは恐怖に引き攣るルクサナの口を塞ぎ、素早く物陰に身を隠した。建物を曲がった向こうから木板や廃材を蹴散らす音が聞こえてくる。影からそっと覗き見ると、黒いスカーフで顔を隠した男たちが数人、路上生活者の寝床を踏み荒らしていた。

 男の一人が寝床の中から粗末な身なりの女を引きずり出して、問い質す。


「あんたが『パドマ』か?」

「ち、違います……ッ」

「そうか。では、パドマという女とその家族がどこにいるか知ってるか?」

「あ、あ、あっちです……!」


 パドマはぎくりとする。女が指差したのは間違いなく自分たちの寝床だったのだ。

 男はふむと頷いた後、女をゴミのように投げ捨て、寝床へと足を向ける。

 ルクサナが腕にぎゅっとしがみついてきた。男が入り口に近付き、ボロ布に手を掛ける。パドマはもう一人の子どもの無事を祈りながら、腕の中にある小さな身体を強く抱き締めた。布が捲り上げられる――。


「なんだ、いないじゃないか」


 二人の膝からドッと力が抜けた。中は、もぬけの殻だ。アシンドラはどこかに出掛けたらしい。


 寝床の中に誰もいないと分かると、男たちは憤りを先ほどの女にぶつけ始めた。仲間の一人が「嘘つきやがって、このアマ!」と叫び、怯える女の髪を引っ掴む。女は痛ましい声を上げながら路地の奥へと引き摺られていく。

 地面をずっていく音に耳を塞ぎ、パドマはルクサナの手を引いて踵を返した。心を痛めている余裕はない。なぜ男たちがパドマを探しているのかは分からないが、今すぐにでもこの場を去らなければ危険だということだけは確かだった。


「ああ? いっちょまえに本なんか持っていやがる」


 パドマは思わず足を止める。仲間の一人が不在の寝床に土足で入りこんで、中を物色していたようだ。一瞬の隙に手を離れたルクサナが、路地を引き返して物陰にかじりついた。あっとパドマが息を呑む間もなく、男が腰を屈めて寝床から這い出てきた。

 その手には一冊の本が携えられていた。赤い、布張りの本だ。


「にいにの本……ッ」


 ルクサナが絞り出すように小さく叫んだ。


「どうせ盗んだもんだろう。手癖の悪い溝鼠め。これ破っちまうか?」

「おいやめろ。シンさん(、、、、)には子どもを連れてくるだけだと言われているだろう。余計なことはするな」

「はいはい、わかったよ……」

 言いながら男はパラパラと本を捲る。

「はは、アルファベットの本じゃねえか。明日食べるものもないってのにご苦労なこったな――」

「さわるな!」


 嘲る男の笑い声を、少女の咆哮がかき消した。

 黒い布に囲まれた男たちの目玉がぎょろりと動いて、次々にこちらを向く。そして、納得したように口の端をニヤリと吊り上げた。


「あんたがパドマさんだね。で、そっちの威勢のいいのが娘さんか」

「兄のほうは不在か? お勉強でもしてるのかな?」


 ニタニタと笑いながら、男は手の内で本を弄ぶ。やがて適当なページを開くと、おもむろにその角をつまんで引っ張った。


「これ破ったらお兄さん泣いちゃうかな、ハハ」


 ルクサナの咽頭が上下する。その動きが、痩せた肩に乗せた手から伝わってきた。

 ぴん、と紙がいまにも千切れそうに張りつめ――。


「きたない手で……にいにの本に、さわるなッ!」


 ルクサナが爆風のごとく物陰から飛び出し、男のひとりに飛びかかった。


「ルクサナ!」


体を引き剥がそうと伸びる男の手を交わし、ルクサナは勢いのまま脛にかじりつく。


「いってえ! なんだこのガキッ踏み殺すぞ!」

「ウー、ウー!」


 男は噛み付かれた衝撃で本を取り落とした。決して離さないと言わんばかりに必死で食らいつくルクサナ。パドマは叫んで娘に駆け寄った。だがすぐに仲間の男に突き飛ばされる。地面に頭をぶつけ、激しい痛みが走る。土埃が舞い、一瞬視界が真っ白になる。


 ついに男たちがルクサナを引き剥がし、今にも折れそうなか細い腕を捻り上げた。


「はなせっ!」

「大人しくしていれば痛いことはしない――今はな」


 男はにやりと笑ってルクサナを担ぎ上げた。


「お願い! 娘を返してください!」


 パドマは力の入らない身体に鞭打ち、必死で手を伸ばした。図体のでかい男がしゃがみ込み、パドマの髪の毛を掴んで頭を引き上げる。


「うぅッ……」

「パドマさんよォ、残念だかそれはできない相談だ。あんたの娘を引き取るよう依頼されてるんだ。諦めな」

「ひ、人攫い……ッ、警察を呼ぶわ……!」


 男たちは互いに顔を見合わせると、何が可笑しいのかせせら嗤ってみせた。


「わるいが俺たちは人攫いじゃない。仕事としてここに来てるんだからな、あんたの『家族』からの依頼で」

「かぞく……?」


 黒いスカーフの隙間から見える褐色の両目が、蔑むように笑った。


シンさん(、、、、)は、あんたの家族なんだろ?」

「シ――」


 パドマは大きく目を見開き、唇をわななかせた。

 黒いスカーフの中に潜む両目がひときわ邪悪に歪んだ後、男は冷徹な声で「連れていけ」と告げた。


「ア……ッ、お、お願いします……なんでもしますから……娘だけは、娘だけは連れて行かないで……!」

「ババアに用はねえよ!」


 黒いブーツに縋りついたパドマの身体はいとも容易く蹴り払われた。何人もの影がぐるりとパドマを取り囲む。間髪入れず、鉛のように重たい足がいくつも振り落された。体中に焼けるような痛みと衝撃が走る。


 寄ってたかって暴行を繰り返されても、肺が引き攣れて呼吸がままならなくなっても、パドマは男たちに縋ることをやめなかった。


「かあさん、かあさんっ! かあさんをけらないでッ!」

「ルク、サナ、を……」


 返して、と声にならない声で懇願を続けた。


 伸ばした手をどれだけ踏みつけられようと、パドマは決して諦めてはならなかった。幼い娘が男たちの手によってどこかに運び出されるのを、地面に這いつくばって見送っていいはずがなかった。



『にいに、きのうのつづき、おはなしして』

『昨日はどこまで話したんだっけ……』



 冬が訪れたように冷たい土の上で、日没後の空よりも真っ暗な場所で、パドマは思い出す。

 夜ごと物語を聞かせてやる兄の優しい声。

 嬉しそうにそれを聞く妹。

 かあさんはお姫様みたいねと笑った幼い少女の顔を。


――ルクサナ、プリンセスはあなたよ。




 パドマはいつものように入り口のボロ布をたくし上げ、せまい寝床に帰りつく。

 いつもと変わらない質素な食事を摂り、今日の出来事を口々に語り合い、パドマは絨毯の上で子どもたちを両脇に抱き寄せる。

 そして、夏の夜の優しい夜風のように、そっと耳元に語りかける。



 そうだわ、ルクサナ。


 あなたの好きな絵本を一緒に読みましょう。


 天窓を開けて、星空を眺めながら。


 アシンドラと、母さんと、三人で。



 *



「……だ……?」


 アシンドラは鸚鵡返しすることもままならなかった。なにしろ初めて聞く言葉だったのだ。チャスマはいささか驚いた様子で、知らないのか、と独り言のように呟いた。


「『脱色症』。珍しい髪の色、目の色を持って生まれてくる人間のことをそう呼ぶんだ。女性は遺伝――お母さんや、お婆さんから受け継ぐことがほとんどだけど、男性はなんの前触れもなく、いきなり病に冒される。確率はかなり低いけれど」


 チャスマは難しい言葉を噛み砕いて、分かりやすいように説明してくれた。けれど、その内容はアシンドラの耳には半分だって入ってこなかった。


「原因もまだよく分かっていない、治療法も確立されていない。謎の多い病なんだ。今分かっていることと言えば、脱色症の患者は往々にして感受性が豊かだということ。いや、そんな言葉には収まりきらないと個人的には思う。彼らが内包している力はもはや、超能力に近いだろう。十分な研究がなされていないだけで、もっとデータを集めていけばきっと解明されるはずだ」


 投げ掛けられる言葉が募るほど逃げ場がなくなり、追い込まれてゆくようだった。


――病気。この色は病気のせいだったのか? 祟りではなく?


「アシンドラ、生活しているうえで心当たりはないか? たとえば、他人の気持ちが必要以上に分かってしまうとか、動物の考えていることが分かるとか……」


 そっと肩に置かれた手を、アシンドラは咄嗟に振り払った。チャスマの顔が、驚く写真家から真面目な医者の顔に変わる。


「あるんだね、心当たりが」

「ない――ない、そんなものは」

「さっきの、町中で住民と会った時のアレは……」

「ないと言ってるだろうが!」


 アシンドラは伸ばされた手を思いきり払い落とした。ガバッと立ち上がれば、乱れて顔にかかった髪色の白さが目に付いて、視界がぐるぐると回る。


「アシンドラ、もし君がその力に疲弊しているのだとしたら、それは治療すべきなんだ。脱色症は短命だなんて噂がある。残念だがその一部は事実だ。たとえばネガティブな感情に晒され続けたり、絶え間なく他人の感情が脳内を往き来する場合――強すぎる感受性が精神を蝕む恐れがある。精神の疲弊が体調不良を起こすこともあるし、場合によっては、自らの手で最悪の結末を招くことだってある」


 一歩ずつ近付いてくる男が得体の知れない化け物のように思える。アシンドラはじりじりと後退し、距離をはかった。


「確実性はないが、代用できる薬も少なからずある。感受性を鈍らせる薬だ。それに、ストレスを受け流す方法を身に付けられれば、疲弊量も減る。それでいつか治療法が確立されたら、そのときは――」

「俺は病気じゃない! 勝手なことを言うな!」


 顔じゅうに血を滾らせて、アシンドラは叫んだ。心が焦りに支配されていた。


 病に伏せるとどうなるか――だいたいが短期間のうちに死ぬ。

 死ねば金を稼げない。

 女手二人じゃ、今の暮らしは維持できないだろう。


「写真家を装って近付いてきて、かと思えば病人扱いして。なんなんだよ、お前……」


 稼ぎ頭が必要だ。

 死んでいる暇など、一秒たりともないのだ。


「いい加減、本当の目的を言えよ!」


 目の前の男にあらん限りの力を込めて叫んだときだった。


「パドマさんと、婚約を交わした!」


 激昂を受け止めて、男は、そう叫び返した。

 アシンドラは氷色の瞳を見開き、男を凝視する。


「町で最初に君を見かけたとき、すぐに脱色症だと分かった。僕は知らず君を追いかけていた。そこでパドマさんに出会ったんだ。君は馬鹿げていると思うか? でも、運命だと……思ったんだよ」


 チャスマは崩れ落ちるように膝をついた。


「君の母親を愛している。一目見たときから……! だから、認めてもらいたいんだ――アシンドラ、君に、僕たちの結婚を!」

「お前、本気で言ってるのか?」

「嘘をついてまで愛なんか叫ばない!」


――嘘だ。


 人間の本質は悪だと、アシンドラは信じて疑わない。

 この世の人間は、口に出す言葉の数十倍以上はあるであろう悪意を隠し持って生きている。分かるのだ。生まれた時からずっと、人間の悪意ばかりを透かし見ていたのだから。隠したって無駄だ。悪意で成り立っている人間社会において、限りなく純度の高い幸福なんてあるはずがない――アシンドラは光の中に闇を見つけようと必死だった。なにかきっと裏があるはずだ、と。


 だからこの、見上げてくる真剣そのものといった瞳だって、嘘でできたまがい物なのだ。


「パドマさんだけじゃない。アシンドラ、君も、ルクサナも、全員だ! 僕は――ラヴィ(、、、)シン(、、)は、君たちを幸せにすると、今ここで誓う!」


 幸せとはなんだろう。

 渦を巻く思考の中心に陣取るのは、曖昧なのに明確な問い掛けだった。

 目に見えないものを、どうやって認知すればいい?


 吹き抜ける風が、男の張りつめた宣誓が、青い空に流れる雲が、すべてスローモーションに感じられた。『幸せ』という単語が三半規管の中で暴れまわり、ゲシュタルト崩壊を起こす。

 町のすぐそこにまで、分厚く黒い雲が迫っている。


「だから、信じてほしい……アシンドラ」


 もしも燃え滾る愛情が視えたなら、一体どんな色だっただろう。

 それは怒りとは異なる、鮮血のような赤色だったんじゃないだろうか。


「――アシンドラ!」


 心の中でせめぎ合う正体不明の感情を悟られたくなくて、アシンドラはその場から逃げ出した。背後で何度も何度も、チャスマが名前を叫んでいた。


 皮肉なことに、そこで初めてアシンドラは彼の感情を汲み取った。

 それは彼の作品に映っていた大海原をにごった水でうすく溶いたような、どこまでも淡い、悲しみの青だった。

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