スターティング・オーヴァー(2)
「怪しい男がうろついている」
ある日、アシンドラは仕事を終えて帰宅するなり、開口一番にそう告げた。
このあと売りにいく品物を畳んでいた母と妹は、揃って振り返りキョトンとした。
「怪しい男なんてそこら辺にいるじゃないの」
「なにがあやしいの、服?」
「違う」
アシンドラは短く否定する。
「俺たちを付け狙っているような、見張っているような感じがするんだ。それも、何日も前から」
「え……」
大通りの雑踏に紛れて、あるいは路地裏の角の向こうから。度々感じた男の奇妙な視線にマイナスの感情が含まれていないのが妙だったが、とにかくつけられていることだけは確かだった。
正体が分からない以上、相手は敵とみなすべきだ。
「とにかく今日は売りに行かなくていい。しばらく様子を見る」
すかさずルクサナが「えっ」と批難の声をあげる。
「こんなにいいお天気なのに?」
「そうだ」
「もったいない。きっとたくさん売れるわ」
「駄目だ」
「なによ、にいにはお外にいってたくせに!」
兄妹で言いあっていると、入り口で見知らぬ男のボソボソとした声が聞こえた。
ぴたりと言葉を止めて、二人は声のした方を見やる。
布の向こうにシルエットが透けていた。大きな、男の形をした影だ。
寝床の中に緊張が走る。
「あの、すみません」
今度ははっきりとそう告げる声がした。
ボロ布が半分持ち上がり、その隙間から、見知らぬ眼鏡の男がこちらを覗き込んでいた。
小さな丸眼鏡を鼻先にちょこんと乗せた短髪の男は、入り口の外に立ったまま身振り手振りを交えて説明した。この町よりもっと東の方からやってきたこと、危害を加えようと思っているわけではないこと。
それから、自分は『写真家』だと名乗った。
「ぜひ君たちをフレームに収めたいんだ。このとおり、お願いします!」
男が顔の前でバチンと両手を合わせる。アシンドラは腕を組み、その太ましい首から下がった真っ黒な機械が重たそうに揺れるのを、冷ややかに見つめていた。
もちろん頷くつもりなどない。余所者はさっさと自分の巣へ帰ればいいのだ。どれだけ懇願されても、徹底して口を引き結んでいたのだが――。
「いいですよ」
「ルクサナ!」
隣で妹が即答した。アシンドラは目くじらを立てて叱りつけたが、当の本人は素知らぬ顔だ。一方、男は「本当かい!?」と手放しで喜んだ。直ぐにアシンドラの鋭い視線が飛んで、男はぴしりと背筋を正す。
「あんたはさっさとここから出ていってくれ。ルクサナ、適当に返事をするな」
ルクサナは兄の叱責を無視して、ずいっと男に手を突き出した。
「そのかわり、おかねをください」
え、と男は間の抜けた声を漏らす。
「おしごとでしょう。だったらおかね、はらってください」
背の高い男を力強く睨み上げるルクサナを、母親が慌てて後ろに下がらせる。
「あ、ああ。もちろんだ。お金はきちんと支払う。約束だ」
「すみませんが、お引き取りください」
母親は突き放すように言い、入り口のボロ布をシャッと下げた。締め出された男は片手を上げたまま、長い間その場に立ち尽くしていた。
やがて男が去ったことを確認したアシンドラは、振り返りざま、すぐにルクサナから苛立ちを含んだ感情をぶつけられた。
「ねぇ、どうしてダメなの? あのひと、おかねくれるって言ってたわ」
「あのな――」
むくれるルクサナに一言言ってやろうとアシンドラは意気込んだが、母親がそれを制した。母は膝立ちになり、少女に優しく語りかける。
「ああ言って近付いてくる人攫いもいるのよ」
「ひとさらいじゃない。シャシンカって言ってたわ」
「言うだけなら誰でもシャシンカってやつになれる」
「にいにはだまって!」
いがみ合う兄妹を母親は視線で嗜める。
「とにかく、あまり見知らぬ大人を信用してはダメ。うまい話ほど裏があるものなの。いいわね、ルクサナ」
「……でもあたし、あのおじさんはこわい人じゃないとおもう。ねぇ、にいに」
ちら、とルクサナがアシンドラを見た。母も同様に確かめるような目を向けている。
二人とも、アシンドラの中に備わっている不思議な力を信頼している。その力は人間が放つ『陰に寄った感情』を汲み取ることができるが、つまり、敵意を持ってこちらに向かってくる人間を見極められるということでもある。
実際のところ先ほどの男はどうなんだと、二人は言いたいのだ。
「確かに、害があるわけではない……とは思う。むしろ、なにも感じない」
「なにも?」
母親が眉をひそめて問い返す。
「そのままの意味だ。マイナスの感情を、なにも感じない」
「ふぅん……?」
と、今度はルクサナが眉根を寄せた。「じゃあやっぱり、わるい人じゃないんじゃないの」と。
疑わしげに呟くルクサナの言うとおり、明確に害のある人間と判明したわけではない。
「わるいことをかんがえてる人間はわかるって、いつも言ってるのはにいにでしょ?」
アシンドラは釈然としないまま、ボロ布が掛かった入り口の向こうをじっと見つめていた。
*
一度追い払われてからも、男は性懲りもなくアシンドラたちの寝床を訪れた。その度に冷たくあしらってやるのだが、男は小さな丸メガネの奥でヘラヘラと笑顔を浮かべて何度も両手を合わせた。
「ここに来る時間が無駄だとは思わないのか? チャスマ」
「いやあ、全然」
男が訪れるようになって約一週間、アシンドラたちは彼を眼鏡と呼ぶようになっていた。初めに告げられた名前などとうに忘れてしまっていた。まさかこんなにも長く滞在するなんて、考えてもいなかったからだ。
「今日はお土産を持ってきたんだ。ルクサナにはこれを」
「おかねですか?」
チャスマは困ったように笑いながら、一冊の本を手渡した。
「絵本というんだ。お金よりももしかしたら価値があるんじゃないかと、僕は思う。今は製造されていないから、もう随分見かけなくなってしまったけれどね」
開かれたページには、黄金の冠を頭に乗せた女の子の絵が描かれていた。ルクサナは真顔のまま、鮮やかな衣装の上に広がる花の刺繍をじっと見つめている。傍から見れば反応が薄いように見えるが、もしも尾があれば激しく左右に揺れているに違いない。
「お前の目的は一体なんだ」
それはもう何度目かになる詰問だった。
アシンドラは妹を背に庇うように立ち阻み、揺るぎない疑いの眼差しをナイフの如く差し向ける。一方のチャスマは特に気にした風もなく、「アシンドラにはこれを」と、鞄からやはり一冊の本を取り出した。乾いた血の色をした、布張りの分厚い本だった。
「文字を覚えるのに役立つ」
「文字……?」
なぜ、という疑問が顔に浮かんでいたのだろう。チャスマはにこやかに続けた。
「毎晩、君が物語を話してくれると聞いたんだ。文字を覚えれば話の幅も広がるだろうと思って」
「…………ルクサナ!」
ぴゃっと飛び上がったルクサナは、慌てて母の背中に逃げ隠れた。あんなに心を許すなと言ったのに密かに会話を交わしていたのか、という怒りがひとつ。毎夜お伽話を話して聞かせてたという、私生活の部分を覗かれた恥ずかしさがひとつ。
「受け取ってくれるかい、アシンドラ」
「…………」
アシンドラは食べ物に毒が仕込まれているか見定めるような目つきで、差し出された本と男の顔をじろじろ見比べる。やがて、距離を保ったまま素早く本を奪い取った。母親の背後から非難めいた感情が飛んでくる。アシンドラは毛を逆立てたまま、じり、と一歩後退するに留まった。
「はは、警戒されてるなあ。でも受け取ってくれてありがとう。じゃあ、また来ます」
「来なくていい。さっさと故郷へ帰れ」
人のよさそうな笑顔を浮かべた後、チャスマは出ていった。
彼の背中を追うように、遅れて母親が寝床から出ていく。子どもたち二人に贈り物をしてくれた礼を言いに行ったのだ。母親もアシンドラと同様に彼への警戒は解いていない。けれど、それと義理を通すのとはまた別の話なのだろう。
ルクサナは寝床の隅に座り込み、先ほど贈られた絵本にもう夢中になっている。アシンドラは手元に視線を落とした。ずっしりと重たい赤い背表紙の本。開いてみれば、簡素なイラストと単語らしきものが一セットになって載っている。随分古いもののようで、ページは擦り切れ、端っこが日焼けして茶色くなっていた。
『文字を覚えれば話の幅も広がるだろうと思って』
アシンドラは静かに入り口へと近付き、ボロ布の隙間からそっと外の様子を窺った。一本の長い三つ編みを垂らした母親の背中と、向かい合わせに立つチャスマの姿が見えた。どうやら彼は母親にも贈り物を用意しているようだった。
なぜ先ほど手渡さなかったのか。もし母親が寝床から出てゆかなければ、渡さずにそのまま持ち帰ることになっていただろうに。
そのとき、ボソボソとした頼りない声でチャスマが何事かを呟いた。
「パドマさんには、これを……」
アシンドラは反射的に目を背けていた。なにか見てはいけないものを見てしまったような、妙な居心地の悪さで胸がいっぱいになる。
久々にパドマという名を聞いた。
この町には、母親を「母さん」と呼ぶ人間しかいない。だから違和感を覚えたのだろう。
母を本来の名前で呼ぶ男の手には、路地裏の汚れた景色には不釣り合いな一輪の真っ赤なバラが添えられていた。
*
女の特性なのだろうか。ルクサナは日々変化してゆく二人の関係を機敏に察知しているようだった。時折、「きょうはあたしひとりで市場に売りにいくわ」と分かりやすい気遣いを見せたりもした。そうして本当に、大人びた足取りで市場へ出かけていくのだった。
アシンドラはといえば相変わらず尖った態度を取り続け、いつもチャスマの眉を八の字に下げさせていた。
そんな冷遇に懲りることもなく、チャスマは住処に通い詰めた。そして、時間の許す限りアシンドラに文字を教え、ルクサナに絵本を読んでやった。母の縫い物が終われば二人で外へ出ることもあった。
一文字、一単語。アシンドラの中に文字が蓄えられてゆく度に、寝床を厚く覆っていた氷は、少しずつだが確実に溶け出していった。
溶けた氷は水となり、水はそこに流れを作りだし、やがて流れは河となる。
「一度、見晴らしのいい場所からこの町を撮りたかったんだ。僕には土地勘がないからありがたいよ」
「別に、仕事だから」
その日、どうしたことかアシンドラはチャスマと二人並んで表通りを歩いていた。もちろん、白い髪はフードを目深に被って隠した。チャスマは出店でスパイスをまぶした鶏肉の串焼きに、食事パンとザクロをふたつ、気前よく購入した。
『お金を払うからこの町を案内してほしい』
そう頼まれたとき、母親と妹は東の市場に物売りに行っていて不在だった。もしも二人がその場にいたら、アシンドラはきっとその頼みを断っていただろう。しぶしぶながらも金と引き換えに依頼を受けたことをルクサナが知れば、何を言われるか分かったものではない。
砂埃の舞い上がる大通りを抜け、中心街から外れる方向へと歩いていく。
道中、やはり町の人間は嫌な色の感情と共にちらちらとフードの中に視線を投げ込んできた。中には口元に手をあてて囁きあう者もいる。
「あれが噂の……」
「しっ、目を合わせたら呪われる……」
アシンドラは牙を剥いて周囲を威嚇した。
途端に、人々は蜘蛛の子を散らしたように去っていく。
一部始終を見ていたはずのチャスマは、住人たちの口にしたことについて何も聞いてこなかった。同情や憂いといった感情が伝わってくることもなかった。二人は雑踏の中をただ黙って歩いた。後ろからは、アシンドラの後についてもくもくと歩く男の足音だけが聞こえていた。
通りはやがて急勾配の坂道に変わり、ごみごみとした居住区域へ入っていく。
ひしめく建造物の間にひっそりと、今はもう誰も住んでいない六階建てのアパートメントがあった。外装のペンキはほとんど剥げ落ち、浸食してボロボロになったコンクリートが剥き出しになっている。窓ガラスはすべて取り外されていて、空いた穴から荒れ放題の内装が覗いていた。
いわゆる廃墟である。正確には住んでいないのではなく、住めないのだ。
「うわ……。ここ、本当に大丈夫かい? 崩れない?」
「大丈夫だ」
かつて扉があったはずのアーチ状の穴を、チャスマは不安そうにくぐり抜ける。内装もひどい有り様で、壁の隙間からぼうぼうと雑草が生い茂っている。
アシンドラは一足先に階段を使って最上階まで上り、バルコニーだった場所に腰を下ろした。
「早く上ってこい」
下の方から「えっ」とか「そんな」という情けない声が聞こえた。
窓も外の柵もごっそり無くなっているこの場所は、景色を邪魔するものが何もない。おそらくどの場所よりも眺めはいいはずだ。目下には砂色の町が広がり、そのずっと向こうには尖った山々と、ビーズのように透き通った青い空が続いている。
アシンドラは時間が余ると一人でよくここを訪れた。
誰もいない分、他人の声が休息を邪魔してくることもない。歩けば誰かしらとすれ違う目下の息苦しい町とは違う。母親やルクサナにさえ、この場所を教えたことはなかった。
遅れてやってきたチャスマが、背後で感嘆の声を漏らした。
「これはたしかに、見晴らしがいいね」
チャスマは感心しながら、パシャパシャと何度もシャッターを切った。先ほどまで腰が引けていた男とは思えないほど前のめりになっている。夢中になってファインダーを覗き込むその横顔を、アシンドラはじっと眺める。
「お前、シャシンカって言ってたな」
「うん? うん」
パシャ、パシャ。
「それは儲かるのか?」
「うん――いや、儲からないよ」
パシャ。
「儲からないのにシャシンカなんてやってるのか」
「そうだねえ」
パシャ、パシャ。
「生活していけるのか、それで」
「んん、まぁ……」
チャスマは最後に俯瞰した町の風景を撮って、そのままレンズをアシンドラに向けた。
――パシャッ。
「おい、何してる!」
「うん、いい顔だ。素の表情が撮れたぞ!」
ファインダーから顔を離したチャスマは嫌味なくらいにこにこしていた。
「勝手に撮るなと言ってるんだ」
「言葉で返事を待っていたら人生が終わってしまうからって、ルクサナにアドバイスをもらったんだ。不意打ちを狙うのがいいって。許可は妹さんにとってるよ」
「あいつ、余計なことを」
小さく舌打ちして、アシンドラはそっぽを向いた。騙し討ちにあったようで気に食わないが、写真の一枚や二枚、撮られたところで痛くもかゆくもない。昼食代の代わりということにしてやろう、とアシンドラは誰に言い訳するでもなく心の中で独りごちて、肉の串焼きを齧った。
「三人とも快くモデルを引き受けてくれたことだし、お金を払わないとね」
「誰が快くだ」
チャスマはあははと笑ってポケットから財布を取り出した。三人とも、と言うからには、ルクサナと母親はとっくのとうに目の前の男と打ち解けていたようだ。
アシンドラはごそごそと中身を漁っている姿からふいっと顔を背けた。
「いらない」
「え?」
今まさに札束を手渡そうとしていた手がぴたりと動きを止めた。
「代金は先にもらってる。だからいらない」
「え、先にって……本のことかい?」
アシンドラは黙って肉を咀嚼した。
ここ最近、真っ暗な寝床の中で、ルクサナに語って聞かせてやる物語がひとつ増えた。貧しかった少女がやがて美しい姫君になるまでのお話だ。少女は己の生い立ちをひがむことなくまっすぐに生き、最後には王子に見初められて姫になる。頭には黄金の冠。身を包むのは艶やかなシルクに宝石が散りばめられた美しいドレス。
『まっすぐ生きてたら、おひめさまになれるのかしら』
ルクサナの珍しくうっとりとした呟きが、やけに耳に残る。
『ねぇ、にいに。わたしもいつかおひめさまになれるの?』
『なれるさ。いつか、真面目に……生きていたら』
アシンドラがごわついた髪に触れると、ルクサナはくすぐったそうに身をよじった。未来を語る幼い声を側で見守っていたのだろう。布擦れの音と共に、母親が二人の子どもをそっと抱き寄せた。
『母さん』
母親は柔らかい声でん、と返す。
『チャスマは、いい奴か』
肩に頭をもたせかけながら、もう分かりきっていることを敢えて訊いた。隣でルクサナが聞き耳を立てている。
母は勿体ぶって、何度も何度も子どもたちのパサついた髪の毛を撫で梳いた。
『そうね……ラヴィさんは、いい人ね』
母親もチャスマのことを本名で呼んでいた。
チャスマもまた、母親をパドマと呼んだ。
『かあさん、おひめさまみたいね』
母の胸元に顔を擦り付けて嬉しそうに呟いたルクサナの言葉を、アシンドラはきっとずっと忘れない。
そして同時に、心の中でそっと、誓うように呟きもしたのだった。
次はお前の番だよ、ルクサナ。と。
「――ルクサナはあの本を喜んでいた。それに、写真を撮られることも……たぶん、本当は喜んでいる。お前のサクヒンの一部になることは、あいつにとって非日常なんだ。貧しい少女が姫君になることくらい」
「作品、か。そうか……」
この町一番の大通りがここから真っ直ぐ下ったところに見えている。露店が多く立ち並ぶ大通りは、昼時だからか大勢の人で賑わっているようだった。
それにかなり遠くだが、上空に大きな入道雲が浮かんでいるのも見えた。頬を撫でる風が熱気を孕んでいるから午後には一雨来るかもしれない。家に帰って食料品と本を布に包んでおいたほうがいいだろう。今の季節の雨は、短い間に滝のように降ることが多いのだ。
アシンドラがこの後の予定をぼんやりと考えつつ肉を咀嚼していると、背後に立っていたチャスマが隣にやってきて腰を下ろした。
「実は、僕の撮った写真は一枚も売れたことがない。そして、依頼を受けたこともない」
「――は?」
片膝を立てて座っていたアシンドラは、思わず隣を振り返った。
「金にならないのか?」
「うん。AEPに還元できるなら、あるいはお金にはなるかもしれないけど」
「イープ……ってなんだ?」
アシンドラが眉根を寄せると、チャスマはハッとして付け加えた。
「エネルギーのことだよ。世界中の電力はAEP発電によりまかなわれている。その原料となるのは絵画なんだ」
「ふぅん」
学のないアシンドラは、そういった事情にあかるくない。エネルギーが何から生み出されているのか、この時初めて耳にしたが、具体的にどうやって発電されているのかは想像すらできなかった。
「絵画と写真はどことなく似ている部分もあるんじゃないかと僕は思うんだけどね。規定では写真はルーヴルには送れないから、資源になるかは試したことないんだけど」
ふぅん、とアシンドラはまた気のない返事をした。難しい話はよく分からない。だがアシンドラには、チャスマがいたずらに時間を消費し、本当にただあちこちの景色を撮ってまわっているだけのように思えてならなかった。
「だったら、どうしてシャシンカなんてやってるんだ。写真が金になるから撮ってるんじゃないのか?」
金がなければ、人は生きていけないのに。
「そこに物語があるからだよ」
チャスマははっきりと言った。
琥珀色の両眼は空のずっと遠いところを見つめていた。
「僕は、僕の目で捉えた世界を形にしたい。僕の中に生まれた物語を、誰のためでもなく……けれど、いつか見つけてくれる誰かのために。アシンドラ、もしかしたら君も同じなんじゃないか?」
「なに……?」
一拍置いて、チャスマはゆっくりと振り向く。
「夜ごとルクサナに物語を語って聞かせているね。それは本当に妹のためだけかい?」
一羽のハゲワシが、両翼を広げて上空を横切っていった。
試すような、けれど限りなく優しさに満ちた眼差しに見つめられ、アシンドラは口籠る。
妹のため以外になにがあるというのだ。
それ以外に、誰が自分の物語を楽しみにしているというのだ。
一体、誰が。
「見てみるかい、僕の『作品』」
チャスマはそう言って、首から下げたカメラを差し出した。




