スターティング・オーヴァー(1)
アダムと共に孤児院で育った少年・アシンドラの半生の物語。
長い夢の中で、幼いアシンドラはひたすら走っていた。
太陽の照りつける繁華街、両脇に軒を連ねるバザールや、ごった返す人混み。その間を縫い、時折道行く人々とぶつかりながら。
「財布がスられたんだ! 捕まえてくれ、フードを被ったガキだ!」
背後から怒号と、真っ黒に膨れ上がった怒りの感情が追いかけてくる。
アシンドラは一瞬だって振り返らない。使い慣れてない足を必死に動かしたところでこの距離じゃもう追いつけないだろう。そんな余裕があった。
それに、スリの少年を捕まえようだなんて考える人間はここにはいない。少なくともこの町には。
アシンドラは砂埃を巻き上げて地を蹴り、賑わう大通りを疾走すると、折を見て路地裏に飛び込んだ。
喧騒から離れた途端、名も知らぬ旅行客の真っ黒な感情が、背後からふっと姿を消した。
夏の太陽が直に照りつける表通りと違って、建物の影が落ちた裏通りはひんやりとしている。
この町の裏通りは路上生活者の吹き溜まりだ。壁に沿うように敷き連ねられたボロ切れの上には、屍然とした人間が幾人もぴくりとも動かずに座り込んでいる。
「アシンドラ、今日のは大物だった?」
「楽勝だったんだろ?」
何処からともなく背格好の似通った子どもたちが集まってきて、ぞろぞろと後ろをついてくる。
彼らの言うとおり、確かに今日の相手は大物だった。高級そうな携帯機器を片手に歩いていたから「当たり」だと思ったが、想像以上の収穫だった。アシンドラは手にずっしりと重たい財布から札束をすべて抜き取ると、空になった財布をぽいと投げ捨てた。そして、手の中に残った札束から数枚を抜きとって、雛鳥のようについてくる子どもたちに押し付けた。
子どもたちは受け取った者から順に自らの寝床へと戻っていく。
彼らに纏わりついていた、べったりとした感情も散り散りになって消えていった。
日々の仕事で培われた脚力と、元々備わっている並外れた運動神経は、ここら一帯の子どもたちの中でも群を抜いている。
だからアシンドラがヘマをやらかすなんてことは万に一つもない。
そういう意味でも、この町の路地裏でアシンドラはちょっとした有名人だった。
だが、アシンドラが有名な理由は――本当の理由は、別にある。
内に篭った蒸し熱い空気を追い払うようにして、アシンドラはばさりとフードを取り去った。
その途端、道のそこここで人々が首をもたげ、ちらちらと遠慮がちな視線を向けてきた。皆、フードの下から露わになった、透き通るような白い――正確に言えば薄い青色交じりの――髪の毛を気にしている。
向けられたのは視線だけではない。
嵐の前のどす黒い雲の色。あるいは道端でひしゃげている虫の臓器、そのおぞましい混ざりものの色。禍々しいどろりとした紫色。恐怖、鬼胎、畏怖。そのすべてが空気を伝って向かってくる。
アシンドラが鋭い目で睨み返すと、人々はたちまちのうちに顔を背けた。
白は死の色。不吉の色。
彼の眼はナイフのように研ぎ澄まされた氷の色。
彼に関わると病にかかる。災いに見舞われて悲惨なことが起こる。『脱色症』という病の存在が認知されていなかったこの町では、そんな根も葉もない噂がまことしやかに囁かれていた。不気味な容姿は生前に犯した罪への罰、あるいは祟りなのだと誰もが思っていた。今は彼を慕ってか、それとも金が目当てか、寄ってくる子どもたちもいずれは近寄らなくなるだろう。今までずっとそうだったのだ。
人々は皆、似たような気配を放って離れていく。その気配を――すなわち人間が抱く〝陰の感情〟を、彼は機敏に感じ取ることができた。それが脱色症患者特有の力だということを、誰も知らなかった。
そう、本人でさえ。
これはアシンドラが白い悪魔だったころの物語。
そして、先に待つ、太陽の髪を持つ少年と出会うための物語。
「にいに、おかえり」
薄暗い路地裏の一角。廃材で組み立てた寝床――入口のボロ布を捲ると、幼い声がアシンドラを出迎えた。
「ただいま、ルクサナ」
妹の長い黒髪はパサついていて、今日も埃にまみれている。「おかえり」と奥から母親が顔を出した。胸元まで垂れた髪の毛はルクサナと同じ黒色で、アシンドラと真逆の色だった。
「ただいま。これ、新しい生地とビーズ」
「ありがとう。ちょうど無くなりそうだったのよ」
縫いかけの青いストールを一旦脇に退けて、母親は骨の浮いた手で安物の生地と小袋をありがたそうに受け取った。
「にいにあのね、わたし今日、東の市場までいったのよ。それでね、ほら、こんなにも売ってきたの」
側にやってきたルクサナは、大事そうに握っていた両手を開いてみせた。手のひらには銅貨が五枚。アシンドラは小さな頭を優しく撫でると、ポケットから干したデーツを取り出して、硬貨の上に乗せてやった。「きゃあ」と珍しく喜びの声をあげて、ルクサナは寝床を飛び出していく。
大物が釣れた日じゃないと干した果物は手に入らない。今日はいい日だ。
アシンドラは浮かれる妹の背中を眺めつつ、盗んだ金で買ってきたパンと、奮発して手に入れた干しイチジクを木箱に仕舞い込んだ。
「アシンドラ」
背後から、沈んだ声がそう呼びかけた。
「無理――してないのよね」
「なにが?」
アシンドラは札束を数えながら素っ気なく返す。
後悔と罪悪感の混ざった感情がじわじわと空気を侵食してきているのが分かる。
「…………いつも、感謝してるのよ。だから、心配で……」
「いいよ」
母親は逃げるようにして俯き、再び手元のストールを縫い進めた。
アシンドラが資金を調達し、母親が作り、妹が売る。
母親は息子の行いを見て見ぬ振りをする。娘に物を売らせるのも、子どものほうが同情を誘いやすく観光客への売れ行きがいいからだ。ここではそうやって生きていくしか方法がないのだから、仕方がない。
「にいに……」
そのとき、外から助けを求めるひ弱な声が聞こえた。アシンドラが立ち上がるより早く、ボロ布が乱暴に捲り上げられる。
「相変わらずくっさいなあ。鼻が曲がりそうだ。や、アシンドラ。こんにちは」
「……!」
鼻をつまんで寝床に踏み込んできた大男は、毛を逆だてるアシンドラに気付いてにこやかに笑いかけた。きっちり着こなした深緑色の警官服は、脇の部分が汗で黒く濡れている。
「景気はどうだい――おっとっと、物騒なものをこっちに向けるな」
「中に入ってくるな。表に出ろ」
ガラスの破片を突きつけて近付けば、男は両手を挙げてじりじりと後退した。アシンドラは怯えた様子で動けずにいたルクサナを素早く中に入れ、後ろ手でボロ布をシャッと降ろした。
「おいおい、もういいだろ? 危ないから下ろせよ、それ」
男がおどけたように言う。
アシンドラはガラスの切っ先を男に突きつけたまま、場所を移すよう促した。警官の男は面倒臭そうにため息をつく。
「自分のテリトリーに入られたことがそんなに嫌か? お前らの土地でもないくせに」
ぶつくさ文句を言いながらも、男はアシンドラと共にすえた臭いの立ち込める別の路地裏へと移動した。ここならば、寝床の中で待つ母と妹にまで声は聞こえない。
「ふん、俺だって好きで入るもんかよ。仕事だよ仕事。で――『景気はどうだ』?」
「…………」
男は手のひらを上にして片手を差し出してくる。繰り返されるその言葉は、この辺りで流用されている合言葉のようなものだ。
財布をスられたと騒ぐ観光客の元へ駆けつけるのは警察の仕事だ。そこで警官は犯人の特徴とおおよその被害額を聞き出し、情報を得る。
つまり、誰がどれほど稼いだのかということをだ。
焦げ付くほど相手を睨みつけていたアシンドラは、差し向けていたガラス片を放り投げると、ポケットから札束をむんずと掴み出した。先ほど表通りで旅行客から盗んだ有り金すべてを、男の手のひらへと叩きつける。
男は口笛をひと吹き、受け取った札束をペラペラと数える。一度数え終わるともう一度始めから、二度、三度。
ンン、と唸って男の片眉が蛇のようにうねる。
「おっかしいな。何度数えても被害額よりかなり少ないんだよなぁ。うーん。どうしてだろう――なあ、アシンドラ?」
訊き終えるか終えないかのところで、ドグッと音を立てて腹を蹴り上げられた。アシンドラは低く呻いて地面に手をつく。すかさず黒いブーツが飛んできて、二発、三発とつま先が腹にめり込む。
「ぐぅッ……!」
「警察に渡す前に使うなって何度も言ってるんだけどなぁ。計算はこっちでして、一割はちゃんと君たちに回すって。説明したよな? もしかして言葉通じてない?」
ドカ、ドゴッ、と鈍い音が光の遮られた路地裏に響く。アシンドラは両手で己の身を守り、ひたすらうずくまる。
「一連の薄汚い行動ぜーんぶお咎めなしにしてやるって約束も、こっちは律儀に守ってんのよ? それなのにさあ……こう、毎回毎回ルールを破られると、さッ」
最後の一発がみぞおちに入り、アシンドラは背を丸めて芋虫のように地面に這いつくばった。男はその場にしゃがみ込むと、アシンドラの白髪を鷲掴み、乱暴に顔を上げさせる。
「ゥ……ッ」
「使った分で一割は十分いってるだろ。これ全部回収な。次は先に使ったりするなよ? わ、か、っ、た、な?」
男はペシペシと札束で頬をなぶった後、掴んでいた髪ごとアシンドラの頭を地面に投げ捨てた。
霞む目では見下げてくる男がどんな顔をしているのかまでは分からない。けれどアシンドラには、蔑みの目を残して去っていく男の後ろ姿をくっきりと感じ取ることができた。
*
ここは犯罪者の町だ。盗人と警察が裏で結託している。結託しているが、ピラミッドの底辺に位置するのはやはり盗人のほうだった。
それでも生きるのに必死な底辺の人間は、反旗を翻さずに毎日毎日バカ真面目に搾取され続けている。
正義の服を纏った悪魔のような男が、しかしほかと違うのは、この奇妙な青白色の髪を忌み嫌っていないところだとアシンドラは思う。
不気味な髪色の子どもは災いを招く。この町に蔓延る噂をあの男とて耳にしているはずだ。なのに彼からは住人の大勢が抱くようなドロドロとした感情は感じとれない。
鼻持ちならない警官の男が放つのはただひとつ。こちらを見下し、蔑む感情だけ。手にした権力で呪いや噂など叩っ斬れるとでも考えているのだろうか。それとも端からそんなもの信じていないのかもしれない。彼は他所から来た流れ者だから。
「――にいに、大丈夫?」
すぐ側からルクサナの心配そうな声が聞こえてきて、アシンドラは考えに耽っていた頭を持ち上げた。日が落ちた後の寝床はすっかり暗闇に溶けきっている。ただ一か所、天面に開いた四角い穴の向こうにだけ煌めく星空が見えていた。天窓よろしく、ボロ布を一部捲れるようにしてあるのだ。
「お腹、まだいたむのね」
「大丈夫だ。たいした傷じゃない」
治る前に新しいものができるので、アシンドラの腹にはいつも濃さがまちまちの青あざが浮いている。外から足音が近付いてきて、母親が寝床に戻ってきた。母は、「これで冷やしなさい」と水を絞った布切れを差し出した。ルクサナが受け取り、衣服をそっと捲りあげて患部にあてがった。ひやりとした布の冷たさに、アシンドラは静かに息を吐く。
「これで今日はもうおやすみのじかんよね?」
弾む声がそう言ったかと思うと、小さな身体がぴたりと隣に寄り添ってきた。
「にいに、昨日のつづき、おはなしして」
真っ暗な寝床のなかでも、その笑顔が目に見えるようだった。
「昨日はどこまで話した?」
「おそろしいドラゴンが砂漠のあおい花をのみこんじゃったところまでよ」
「そうだったな。『あおい花を呑み込んだ老竜の元に、一人の少女がやってきて――』」
月明かりもほとんど届かない世界の隅っこで、兄は毎夜妹のために物語った。
二人の様子を、母親はそばでそっと見守っている。
アシンドラは文字が読めない。だから紡ぐ物語はすべて自分の頭の中で編む。少し意地のわるい、老いたドラゴンが各地を巡っては起こす騒動の数々。無垢なる子どもたちとの出会い。冒険。戦い――。
「ドラゴン」という言葉も、本当の意味は知らなかった。ロカンタの裏手で昼食時のゴミが出るのを待っていた時、裕福そうな子どもが身振り手振りで親に話していたのをたまたま耳にしたのだ。
曰く、それは全身をつるりとした鱗に覆われた生き物で、背中から生える翼でゾウの数倍はある巨体を支え、空を舞うのだと。
それは口から火を吹き、あらゆる町を焼き尽くす化け物だと。
それは災いを呼ぶ伝説の存在らしい。
そして、最後には勇気ある若者に剣でひと刺しにされるのだそうだ。
その化け物が火を吹いたのは、人間に心ない言葉を投げつけられたからではないのかと、ゴミを漁りながらアシンドラは思った。
頭の中でドラゴンは、大きな蛇に翼の生えた禍々しい姿で描かれた。いたずら好きで、傷つきやすく、知見が狭いゆえに薄情なところもあって、敵とみなしたものには容赦なく炎を浴びせ、けれど親しくなった者は全身をかけて守りぬく――アシンドラが創り出したのは、愚かしくも愛嬌のある化け物だった。
いつしか翼の生えた大蛇は、ばさりばさりと大きな両翼を動かして、夜な夜な妹を夢の中へと誘う使者の役割を果たすようになる。
二人は大きな絨毯よりも広い背に乗り込み、口にしたこともない異国のご馳走を食べ、嗅いだこともない花の香りを堪能し、熱帯の中で見たこともないほど美しい蝶を追いかけた。そしてやはり、時折り人間の街を焼き尽くしたりもした。
そうやって幼い兄妹は、砂色の町から毎夜不思議な世界へと飛び立った。
――やがて訪れる別れの日まで、ずっと。




