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コルシカの修復家  作者: さかな
11章 世迷いウィルと不思議のハロウィンナイト

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第125話 ウィリアム・クレーは眠らない

「三十八・五℃。まだまだダメだね」


 ニノンの口から体温計を取り上げたニコラスは、ガラス棒の中で血管のように伸びる水銀の先端を睨みつけたあと、自身の頬に手をあてて呟いた。

 うー、と、ニノンは分厚い布団の中から掠れた声で呻く。


 昨晩、ずぶ濡れの状態でニキ邸に帰り着いた頃には既に、風邪の兆候は現れ始めていた。

 ひどく慌てふためくニコラスと肩を怒らせたアダムに出迎えられたところまでは覚えているのだが、そこから先の記憶は曖昧だった。ニコラスに脱がされるままに熱いシャワーを浴び、ふかふかの布団に包まれ寝かされて――それでも、ニノンの身体に蔓延る気怠さと寒気は徐々にひどくなる一方だった。

 悪夢にうなされて目を覚ましたのが明け方前。以降高熱に見舞われたまま、現在に至る。


「真夜中の湖に落っこちたわりに、熱だけで済んでよかったじゃないか」


 落水した原因がウィルにあることをニコラスたちは知らない。昨夜はバタバタしていて、とても話す暇などなかったからだ。どちらにせよ、こっぴどく叱られたことに変わりはない。

 あの夜水辺で起こった出来事は、今のところニノンとルカだけの秘密なのだ。


「なに、数日寝込めば元に戻るさ。少しの辛抱だよ。ああ……こっちもダメだね」


 ニコラスが隣のベッドから同じ形の体温計を取り上げて呟いた。ごほごほっ、とルカが布団の中で盛大に咳き込む。

 修復作業に没頭すれば平気で徹夜を繰り返す少年である。それでも普段は体調を崩さないのだが、さすがに夜中の潜水は体に堪えたらしい。


「ま、果敢さを讃える勲章ってやつだね」


 ニコラスは囁くような声で「ありがとうね、ルカ」と続けた。聞こえているのかいないのか、プロヴァンス柄の布団がもぞもぞ動く。


「みず……」


 僅かなその隙間から、助けを求める干乾びた声が漏れ出た時だった。


「おらーッ、アダム特製あったかスープができたぜ!」


 下品な雄叫びと共に、勢いよくドアが蹴り開かれる。絞り出された弱々しい願いは瞬時に吹き飛ばされ、ルカはそのまま息絶えた。


「お、ルカは寝てんのか?」


 アダムは両手で盆を支えながら、ずかずかと部屋に入ってくる。盆に乗せられた丸い食器からは、ほかほかと湯気が立ち上っている。彼の細い腰には黒いエプロンが巻かれたままだ。調理を終えて、キッチンから直接二階に上がってきたのだろう。


「ちょっとちょっと! アダム君、人ん家のドア乱暴に開けないでよ」


 後ろからすぐに、この家の主人であるニキ・ボルゲーゼが水桶とタオルを抱えてやってくる。


「あ、ごめん先生。いま手ェ塞がってっからよ」

「塞がってっからよ、ってそれ関係ないでしょーが」

「こら。あんたらね、病人がいるんだからもうちょっと静かにしな」


 ニコラスの叱責を受けて、顔のいい男コンビは「はーい」と声を揃えた。

 壁掛け時計の短針が指しているのは午前十時を回ったところだ。普段はとっくに授業が始まっている時間だが、今日は日曜日だから学校は休みなのだ。当然、病院も閉まっている。

 とにかく何か栄養のあるものを、とアダムがキッチンに立ち、腕をふるってくれたようだ。


「それにしてもなんだって真夜中に湖なんか……ほんと、世話の焼ける子たちだよ」


 ニコラスはアダムからスープボウルを受け取ると、そっとベッドの枕元に腰掛けた。それから、丸い木のスプーンでスープを掬い、慣れた手つきでふぅふぅと湯気を冷ます。差し出されたスープをひとくち含めば、温かさが口内にじわりと広がった。


「どう、食べられそうかい?」


 ニノンはこくりと頷く。潰した白インゲン豆のまろやかさ、煮込まれてとろとろになった野菜くずの甘みは、弱った身体にどこまでもやさしい。

 よかった、と安堵の笑みを浮かべながら、ニコラスは二口目を掬ってふぅふぅと冷ましている。まるで母親(マンマ)のようだなとニノンは思う。

 一方隣のベッドでは――。


「ほら、どんどん食えよ。鍋にたっぷり作ってあるからな!」

「ちょっとで……いい……」

「なんだよ遠慮すんなって」


 アダムが湯気の立つスプーンに荒々しく息を吹きかけ、確実に冷めていないであろうそれをルカの口に突っ込む。「うっ」と小さく呻いてルカはベッドに突っ伏し、苦悶の表情を浮かべながら必死に口の中のものを咀嚼する。ベッドサイドではニキがタオルを固く絞りながら、憐憫の眼差しを粗暴な修道士に向けている。


「それにしても、誰かさんだけ風邪引かずに帰ってくるなんてね。一番薄着だったのに」

「半分笑いながら言ってんじゃねーよ、ニコラス」


 余所見しながら突っ込まれた二口目に、ルカがまたしても「うぐっ」と呻く。彼には申し訳ないが、ニノンは心底隣のベッドじゃなくてよかったと思った。


「で、祭りは楽しかったの?」


 水差しからコップに水を注いでいたニキが、何気なくそんなことを尋ねる。


「そうそう、それがさあ」


 アダムは待ってましたとばかりに顔を突き出した。それまで冗談を言って笑っていたのが、一転して真面目な顔になっている。


「昨日の夜、ダンスに誘ってくれた女の子がいたんだよ」


 ニノンは意識半分で会話に耳を向けた。昨晩突然訪ねてきた女生徒は、やはりアダムに踊りを申し込んだらしい。だが聞けば、アダムはその誘いを断ったようだった。


「暇なら踊ればよかったのに。アダム君のいじわるぅ」

「俺ってば意外と純情だからさ――じゃなくて」


 三口目のスプーンが飛び込んでくるタイミングで、ルカは今度こそ力を振り絞って顔をよじった。


「その時はなんつーの、ヤな予感がしたんだよ。予感? 悪寒? とにかく断って広場の中央に戻ったわけ。そしたらさ……」


――彼女のことなど知らないと、誰もが口を揃えて言ったらしい。


 まるで秘密を打ち明けるかのように、アダムは口の横に手をあてて囁いた。

 黙って話を聞いていたニキは、どこか勝ち誇ったようにニヤリと笑うと、


「アダム君。それはこの町のハロウィン七不思議のうちの一つだね」


 と言った。


「七不思議? なんだよそれ」

「ウィル・オー・ウィスプ。世迷いウィリアムの鬼火伝承なんて定番のものから、気がついたら一人増えている仮装集団の列、ハロウィンにまつわる曰く付きの絵画の噂、森の中をうろつく巨大怪物の影――」


 アダムは神妙な面持ちで、指折り数えながら話を聞いている。


「でね、アダム君の話は『移り気のバンシー』って噂にそっくりなんだ。ハロウィンの夜、ひとりのバンシーが大焚火の広場でダンスのお相手を探してさまよってるって話。声を掛けられるのは決まって若い男で、彼女は命を奪うどころか逆にその男たちに心を奪われるっていう……」

「なんだそりゃ。ンな惚れっぽい幽霊いるかあ?」

「だから、この町の七不思議だよ」


 ニキはニヤニヤしながら、反論するアダムの鼻先にぴしっと人差し指を突きつけた。


「おそらくアダム君はハメられたんだね」

「ああ?」


 アダムは露骨に形のいい眉をひそめた。


「知らないフリしたんじゃない? イタズラか、拒否されたショックを和らげるために用意していた嘘か……」

「え、じゃあ俺女の子の誘いを断ったただのヤな奴じゃん」

「今頃吊し上げられてるね」


 ニキは胸の前で十字を切る。

 マジかよ、とアダムは舌を出した。だがそれも束の間のことで、嘆きの顔はほっと安堵の表情に変わる。


「ああそっか、俺がお菓子を渡してなかったからか。ハロウィンだもんな。イタズラってことね。タチ悪ィぜまったく。つうかオバケなんていねェよな、普通に考えて!」


 口早に喋るアダムの隣で、ニキは顎をさすりながら深々と頷いてみせる。


「七不思議ってのは、その手の雰囲気を楽しむためのお飾りだからねえ。移り気のバンシーしかり、世迷いウィリアムしかり。学園のどこかに眠っている呪われた絵画だってそう、結局は根も葉もない噂にすぎないんだよね」


 呪われた絵画。

 飛び交う会話のなかに紛れていた単語に、ニノンの耳がぴくりと反応する。


――学園のどこかに眠ったままの、曰くつきの絵画。


 その言葉を反芻したとき、熱に浮かされた頭の中に一枚の絵画がくっきりと浮かび上がった。それは禍々しい暗闇のただ中に立つ、青い灯のランタンを携えた男の肖像画だった。


「なんだよもーすげェ怖かったんだけど! 戻ってきたらルカもニノンもいなくなってるしよ……っておおい、なんだよ!?」


 アダムは奇怪な声をあげ、驚きざまに勢いよく振り返る。気がつけばニノンは、ひとり納得するアダムの腕を掴んでいた。


「……きたい」

「あ?」

「パオリ学園にいきたい」


 ボサついて乱れた桃色の髪の向こうに、訝しむ顔が見える。


 七不思議の大半はただの噂話やイタズラかもしれない。

 けれど、ウィルは違う。ウィルは――ウィリアムの本体は、おそらく学園のどこかに眠っている。


 ニノンは掴んでいた腕をぐっと引っ張って、はっきりと告げた。


「ウィルがいるの。学園のどこかに。彼をさがしにいきたいの」

「え、ウィルって……うおおい!?」


 またしても突飛な悲鳴があがる。今度は反対側の腕だ。同じく蘇った屍のような面構えのルカが、ベッドから這い出してアダムの腕を掴んでいた。


「ゾンビか、お前らは!」

「俺も……いく……」

「いやいや、まずはその風邪を治せ。ていうかなんで俺に言うんだよ。つか俺、学校のことなんて詳しくねェし――」


 と、言葉半ばで、その場にいた者すべての視線がある男に集中した。

 この中で一番学園に精通している男、ニキ・ボルゲーゼは、呆けた顔でぱちぱちと目を瞬かせた。



 *



 ウィリアムの肖像画を探したいといっても、当然部外者がぬけぬけと校内を歩き回ることはできない。現在借用している教室の一部以外へ踏み込むには、関係者であるニキの力が必要不可欠だった。


 しかし当初、彼はニノンの話を信じようとはしなかった。つまり、夢の中でパオリ学園の資料室と思しき場所を訪れたこと、そしてそこでウィリアムの肖像画を見かけたことをである。


 しつこく訴えかけたことで、折れたのはニキのほうだった。さすがに肖像画の男の行方を追っているなどと説明するのは怪しいので、学園側には「ここの卒業生が、校内のどこかで失くしたという作品を探している、云々……」と、若干無理のある言い訳を用意した。絶対オーケーしてもらえないよ、とぶつくさ文句を言いながらも、ニキは最終的に学長へ掛け合ってくれた。


『ええ、いいですよ』


 ところが予測は見事に外れ、結果は快諾。唖然とする本校教師を余所に、なんの問題もなく、資料室および備品室への入室許可が下りたのだった。――ただし、ニキ・ボルゲーゼが責任を持って引率するという条件付きで。


 はたして一行は、ニノンとルカの熱が引くのを待って、二日後にパオリ学園を訪問したのであった。



「うわ……本当にあったよ!」


 薄暗く埃っぽい備品室。その最奥の、さらに隅に寄せられた背の高いスチール戸棚の隙間から、男の興奮を帯びた声が響いた。部屋のあちこちに散らばっていたニノンたちは、声を聞いてぱらぱらと戸棚の前に集まった。

 ほどなくして、ニキがずらした棚と壁の隙間から後ろ向きに這い出てくる。右手には四つん這いの背丈と同じくらいの長さの筒が携えられていた。

 黒塗りの筒は特殊な加工が施されていて、ある程度の湿気と乾燥を防ぐことができる。絵画の保管に利用される容器である。


「ニノンちゃんすごいや。本当に絵画のありかを当てちゃうなんて。まるで鼻利きのトリュフ豚だね」

「ぶ、ぶた……」


 何気ない男の一言がニノンの心に擦り傷をつけていく。褒めているのか貶しているのかは分からないが、この男にデリカシーがないことだけは確かだ。むくれるニノンの頭を、ニコラスがぽんぽんと優しく撫でる。

 ニキはのんびりと立ち上がり、膝に付いた埃を払うと「さて」と息を吐いた。


「僕の役目はここまでだな。あとは専門家に任せようか」


 そう言って、手に持っていた筒をルカに手渡した。



 *



 通常、絵画はキャンバスの形――つまり、木枠に画布がピンと張られた状態で存在している。

 だがそうでない場合もある。たとえば巨大な絵画を長距離輸送する時。そのままでは運べないから、絵画は木枠と画布に分解される。パーツ毎に運ばれて、現地で再度張り直されるのだ。

 ウィリアムの肖像画がどこかに運ばれる予定だったのか、はたまた別の事情により仕舞わざるを得なかったのかは定かではない。ただ、とにかく絵画として復活させる為には、画布を木枠へ張り直す必要があった。


 ルカとニノン、アダム、ニコラスは、特別に湿度・温度の管理できる部屋を借用し、半日かけて冷たくこわばった絵具層を柔らかくした。

 この工程をすっ飛ばしていきなり布地を引っ張るのは愚行である。無理に湾曲させれば、乾いた絵具層はたちまちのうちにひび割れるだろう。それは今まで碌に運動をしてこなかった人間にいきなり前後開脚を強いるようなもので、絵画にとっては拷問以外のなにものでもない。


 そうして塗り重ねられた材質が柔軟度を取り戻した翌日、作業用教室の一角を陣取り、ようやく木枠に画布を張り直す作業は始まった。


 まっさらなキャンバス地を張るのとは違い、下地や絵具、ワニスが塗り重ねられた生地を扱うのはとても難しい。あらゆる材質の耐久性を考えながら、湿度や温度に気を配り、生地を慎重に張り続け、キャンバス釘(タックス)を打ち込んでゆかねばならないのだ。

 ルカとアダムの二人で張り直し作業は進められ、ニノンとニコラスは指示を受けるままに、タックスやプライヤーを手渡したりして、助手に徹した。


 道具を手渡す合間、ニノンは時折こちらに向けられる視線を敏感に感じとっていた。ここから対角線上に位置する出口付近である。イーゼルに乗せられたキャンバスの陰からは、艶やかな赤毛が覗いていた。


 アルテミシア――ミーシャ。


 彼女は今日もルカを気に掛けている。いや、きっと修復作業に興味があるのだろう。

 その理由が大半であると、ニノンは信じたかった。


 彼女の視線から逃げるように視線を隣に向けると、釘を咥えたルカの横顔があった。それは真剣そのものといった表情で、ニノンは思わずどきりとする。

 向かいでアダムが何か言い、それに同意するようにルカは無言で頷く。そうして、瞬き一つせずに画布の張り具合に神経を尖らせ、咥えていた釘を正確な位置に突き立てる。トトトト、とハンマーが小気味よいリズムを刻む――ニノンはせめて邪魔になるまいと息をひそめ、手の内にある釘をぎゅうと握り込んだ。



 下校の鐘が鳴る。教室からぱたぱたと人が減ってきた頃、慎重に慎重を重ねた作業はようやく終わりを迎えた。

 窓の外は一面オレンジ色の時間を通り越し、上空からじわじわと濃紫色が染みだしてきていた。


「こいつがウィルって野郎で間違いねェのか?」


 厳しい声でそう言い放ったアダムの前には、たった今完成したばかりの絵画が一枚。


「う、うん……」


 ニノンが頷いたのち、各々の視線は吸い寄せられるようにキャンバスへと集まった。


 幾種類もの黒色で塗り潰された空間。のっぺりとした闇を背に佇む、鼻筋の通った背の高い男。彼の右手には青い炎を灯したランタンが掲げられ、もう片方の手には一枚の銀貨が光っている。

 真正面からこちらを見据えてくる男の顔は青白く、生気がない。けれど、ランタンと同じ色の瞳だけは、生者さながらに爛々と輝いている。


 蘇ったキャンバスに描かれた青年は、たしかにニノンの知るウィルで間違いなかった。


「つまり」

 と、ニコラスが首を傾げて確かめるように言った。

「このクレーって画家の描いた『世迷いウィリアム』が、ニノン、あんたの力でひとり歩きしたってこと?」


 答えるべき言葉を探すように、ニノンの目は自然とキャンバスの右下を向いた。


――〝A.Klee〟


 左足のつま先に沿って、血の色で小さく明記された画家のサイン。


 クレー――ウィリアム・()()()


「今まで私が絵画からいろんな人の感情を汲み取れたのは、描いた人や持ち主の強い気持ちがキャンバスに染み込んでたからなんだと思うんだ。でもこの絵をとおして私は、ウィルそのものに出会ったの」


 もう動くことのない男の頬を、ニノンは冷えた指先でそっとなぞった。乾ききった絵の具は凸凹に波打っている。温かみも冷たさも、そこには存在しない。


「クレーさんはきっと、この『世迷いウィリアム』を完全なフィクションとして描き上げようとしたんだ」

「そしてその試みは、成功した……」


 ニコラスは言葉を引き継いで、そう結論付けた。

 ニノンは静かに頷く。


 ハロウィンの前日、突如目の前に現れたウィリアム・クレー。彼という存在こそ、クレー画伯の描いた「空想の肖像画」が「完全なるフィクション」として完成した何よりの証拠だった。それは同時に、彼と過ごした数日間がすべて、油で練られた顔料の紡ぎ出した幻だったのだと認めることでもあった。


 何も語らない絵画を前にして、えも言われぬ感情がニノンの胸を満たしていく。

 たとえばそれは、長い夢から覚めたあとの、虚しさに支配された朝によく似ていた。


 そのとき、背後で扉の開く音がした。四人は一斉に振り返る。


「修復の進み具合を確認に、と思ったのだが――これはなかなか。既に作業を終えているとは」


 入口から顔を出していたのは、銀ぶちのめがねを掛けた壮年の男性だった。彼はイーゼルや机の間を縫って、しずしずとこちらに近付いてくる。


「ゴドフリー学長」

「ああ、こんばんは」


 誰からともなくその名を呼ぶと、耳に心地よいテノールの声であいさつが返ってきた。眼鏡のフレームと同じ銀色の癖のある長髪はハーフアップにまとめられ、肩幅のある体躯は重厚な群青色のローブに包まれている。上背があるので、ニコラス以外の者は皆、自然と彼を見上げる形になった。


「ルカ・ミチノ君。きみは随分と腕がいいようだ。いや、きみたちと言ったほうがいいだろう」


 パオリ学園の学長を務めるヨハネス・ゴドフリーは、ぐるりと四人の顔を眺めたのち、控えめな笑みを浮かべた。におい立つ気品の前に、一同はすんと背筋を伸ばす。


「この絵画を制作したのが、ここの卒業生の……」

「はい、俺の――そう、親戚です」


 慌てて片手を挙げるアダムに、鋭い視線が飛ぶ。


「えっと、あー、父親の弟の奥さん、の祖父……の従兄弟……だったかな」


 アダムの声はだんだんと尻すぼみになった。背後に立つニコラスが手で顔を覆う。これはもう正直に話すしかないと、ニノンが決意を固めた時だった。


「実は、わたしたちも探していたんだ」

「いやあの、俺たちはただ――え?」


 眼鏡の奥で灰緑色の目がふっと柔らかく笑んだ。


「その昔、この学園で大きな改修工事があってね。そう、五十年ほど前だ……資料から寄与された絵画も含め、一旦別の場所に保管をしたんだよ。その際に数点、行方が分からなくなったものがあるのだ。本来ならあってはならないことなのだが」


 ゴドフリーは深く息を吐くと、次に力強い眼差しをそれぞれに向けた。


「しかしこの度、行方知れずだった一枚が我が校に戻ってきた。感謝しよう。ありがとう、年若き修復家たちよ」


 そう言って、ゴドフリーは大きな右手を差し出した。その手を遠慮がちに握り返しながら、ルカは尋ねる。


「この絵は今後、ルーヴルに?」

「うむ、そうだな。それに関してはそちらの――」

「アダムです」


 潔く名乗ったアダムにゴドフリーはひとつ頷き、続ける。


「アダム君の親戚がそれを希望するならばそうしよう。ただし……」


 ガタン、と机の上からキャンバス用のプライヤーが落ちた。動揺したニノンの手がうっかりプライヤーに当たったのだ。

 ゴドフリーは言葉を止めてニノンを見やる。視線が、発言を促している。「えっと……」とニノンはたじろぎつつも、意を決して口を開いた。


「その絵はもう、何十年もずっと倉庫の中で埃をかぶってたんですよね。それでいきなり、ルーヴルに送っちゃうのはなんだか可哀想だなって思うんです……あっもちろん絵画の所持が違法なのは知ってます。でも、誰にも観てもらえないままサヨウナラっていうのも、彼、きっと寂しいんじゃないかなって……」

「彼?」

「か、かいが、絵画です」


 鋭い眼光が飛んできて、ニノンは慌てて言い換える。

 そこでふと、自分の言葉に引っ掛かりを覚える。


 ウィルは本当に寂しいと思うだろうか?


 独りぼっちで永遠に彷徨うくらいなら『永遠』なんていらないと、彼なら言うかもしれない。絵画の命を永遠に保ちたいと願うのは、単なる異端者のエゴに過ぎないのかもしれない。ニノンの頭は途端に疑問でいっぱいになる。


「……本当は、私、この絵を失うのが悲しいんです」


 一呼吸置いて、ニノンは観念したように続きを口にした。


「だって皆でこんなにも綺麗に修復したんだもん。なのに全部失くなっちゃうなんて、やっぱり寂しい。だけど、この絵はそうは思ってないかもしれない。永遠なんていらないって。だったら、やっぱり早くエネルギーに還元してあげたほうがいいのかな……」


 最後の言葉は己に向けた独り言だった。

 項垂れて暗くなった視界の外で、人が通り過ぎる気配がした。


「アダルベルト・クレー。彼はこの絵を七十年前に制作している」


 キャンバスの前に立ったゴドフリーが、静かな声で言った。

 七十年前。つまり、AEPが開発されるよりももっと昔に描かれた絵画だということ。


「人々が絵画を描いてきた歴史は、エネルギーに換わる以前より遥か昔に遡る。資源だと判明していなかったにも拘らず、なぜ彼らは筆を取り、苦悩し、己の人生をキャンバスの上に捧げてきたのだろうね」


 誰に向けてでもない問い掛けに、ニノンはそっと顔をあげる。


「それは……どうしてですか?」

「わたしにはわたしなりの答えがある。が、それは君たちにとってイコールではないだろう」


 ゴドフリーはキャンバスに視線を移し、目を眇めた。


「彼ならどう思うだろうね。アダルベルト・クレーななじゅうねんまえのがかなら」

「七十年前の……」


 各々の視線が自然とキャンバスに向いた。

 絵画の中のウィルは、相変わらず不敵な笑みを浮かべてこちらを見つめていた。



 *



 翌朝のコルテは見事な快晴に見舞われた。両翼を広げて旋回する王族鷲が迷ってしまいそうなほどに、今日の空はどこまでも高い。

 濁りのない黄色い葉が秋風に吹かれて揺れている。

 午前九時。ギリシア建築のごとく均一に並ぶ銀杏並木を下り、ニノンたちは約束した通りの時間にパオリ学園の正門をくぐった。


「西の昇降口は……と」


 正門をはいってすぐ、設置された案内板の前で腕を組んでいたアダムが、「こっちだな」と先頭をきって歩き出す。後に続くニコラスの背中を追って、ルカとニノンも移動した。


 『特に資源として活用する強い意向がないのであれば、引き続き我が校にて管理を行わせていただこう。延いては資料のひとつとして、授業で利用させていただきたい』


 昨日、人のいなくなった教室で、ゴドフリー学長は思わぬ提案を口にした。

 曰く、絵画の個人的な所有は違法であるが、教育機関が資料として活用する場合、或いは他の組織が然るべき理由により絵画を所有するぶんにはその限りではないという。


 『彼はなかなか印象的な目をしている。表情の描き方、身体のバランス、いずれも模写の練習として学生の役に立つことだろう』


 呆然としつつも、代表してアダムが首を縦に振ったことで――画家の親戚ということになっていたので――クレーのウィリアム像は学園に居残ることとなった。


「学長さん、アダムちゃんの嘘を見抜いていたね」

「やっぱり?」

「あの目はきっとそうだよ」

「俺、嘘は得意なんだけどなァ……ってなんで俺『の』嘘になんだよ。共犯だろ、共犯!」


 賑わう前方の二人を眺めつつ、ニノンは隣を歩くルカに話しかけた。


「授業で使う日以外は玄関ホールに飾られるって、すごい待遇だよね」


――画家クレーならどう思うか。


 ゴドフリーの問い掛けを、あれからニノンは自分なりに考えていた。


 絵画がエネルギーにならず、永遠の名の下に存在できていた時代。絵画とは画家の写し身であり、言葉の代わりでもあり、あるいは所持者にとっては権力の象徴であり、はたまた空間を彩る飾りのひとつに過ぎなかったのかもしれない。


 けれど、対岸にはいつも“見る者”がいた。

 額縁を隔てて、サインの刻まれた絵画と観覧者は、ふたつでひとつだった。


 だとすればやはり、彼が得た“存続”という形は、絵画にとってひとつの幸福なのではないか。そう信じてもいいのではないかと、ニノンは思い至ったのであった。


「これからいろんな人の目に触れられるんだから、ウィルも退屈せずに済むよね。独りぼっちはつまらないって言ってたし」

「……結構気に掛けるんだな、あの男のこと」


 え、とニノンは隣を振り返る。

 ルカは表情の薄い顔を前に向けている。ああそうか、とニノンはひとり納得する。彼はおそらくハロウィンの夜に起きた出来事を思い返しているのだ。あんなに怖い思いをしたのに、それでもまだウィルを気に掛ける義理があるのかと。


「それを言うならルカもでしょ。ルカだって酷い目に遭ったけど、あの絵を修復してくれたじゃない。だって、傷付いた絵画を直すのが修復家の役目だもんね」


 ニノンはずいっと顔を近づけて、にんまりと笑った。

 彼がどこまでも絵画に情熱を注ぐ人間であることを、ニノンはもう十分すぎる程分かっている。


「それはそうだけど……いや、そうじゃなくて……」


 珍しく煮え切らない様子のルカに首を傾げていると、前方から「おー、あったあった」という声が聞こえてきた。


「ほら、見に行こう、ルカ」


 ん、と頷くルカと共に、ニノンは玄関ホールへと駆けていく。



 赤煉瓦造りの建物の中、天井の高い空間の壁に掛けられた一枚の絵画。

 燻んだ金色の額縁に彩られ、青年は今日も青いランプを携えて、あの世とこの世の狭間を彷徨っている。


 絵画の前には、青年を熱心に見つめる老婆が一人。

 絹のように白い髪を後ろでひとつに結わえ、失ったかつての髪色を思わせるすみれ色の衣服を身に纏っていた。


 そして、彼女の後ろにもう一人。

 頭の後ろで両手を組んだ青年が、すっかり小さくなってしまった背中を楽しげに見つめていた。



挿絵(By みてみん)


〈第十一章 世迷いウィリアムと不思議のハロウィンナイト・完〉


次回、幕間を挟み、「12章 贋作美術館」へ続く。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 11章まで読み終わりました! たのしいハロウィンのお祭りのはじまりのはずが、ちょっとしたすれ違いから一人になってしまうニノンちゃんを誘い出したウィルという少年。彼の正体をドキドキハラハラ…
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