第124話 嘘つきウィリアム(2)
「わ!?」
突然、目の前の壁が姿を消したような感覚があった。支えを失った体はぽっかりと空いた空間へ転がり込む。
ニノンはすぐに膝をついて立ち上がり、あたりを見回した。薄暗くて無音の空間には、溢れ出る真っ黒い絵の具も、手芸屋のカウンターを隔てて座る老婆の姿も見当たらない。
夜目が効いてくると、どうやらここはどこかの倉庫、あるいは物置部屋のような場所であることが分かってきた。両脇にずらりと並ぶスチール戸棚は天井につくほど高い。棚には分厚いファイルや筒状の入れ物、大小様々な箱類が仕舞われている。
倉庫というよりも、資料室だろうか。
何気なくファイルの背表紙に目をやれば、かろうじて『パオリ学園』の文字が確認できた。その下には修繕や計画など、小難しい単語が続いている。ファイルは年度別に並んでいるようだ。
静まり返った空気は、埃や古紙といった古いもののにおいがした。
閉塞的な通路を奥へと進むうちに、ニノンはとうとう部屋の最奥まで辿り着いた。そこは小部屋くらいのひらけたスペースで、やはり薄暗く、平積みされた段ボールや筒状のケースによって雑然としていた。
そして、部屋の中央では男がひとり、腕を組んでニノンを待ち構えていた。彼の足先は文字通り床から一〇センチ以上も離れたところで浮いている。
「あーあ。見られちゃったか」
「ウィル……」
なんと声をかけていいのか分からず、ニノンはそのまま閉口した。空中で揺らぐ体は蛍よりも淡く発光している。行き場を失くした裸の魂――世迷いウィリアムは、両手を頭の後ろに回してお気楽そうに笑った。
「ハロウィンが近くなると、皆が『世迷いウィリアム』の存在を思い出してくれる。その力をもらえば、オレは少しの間だけ自由になれるんだ」
「力を借りるって、どういうこと?」
「想像力――人を人たらしめる力は、オレたちに有限の時間を与えてくれる」
「想像力……? 信じる力が、ウィルの姿を形作っているの?」
ウィルはにぃっと口角を引き延ばした。
「ヒトの頭には、人間が思っている以上のエネルギーが渦巻いてるってことだな」
と、半透明の指で自身のこめかみをトントンと叩く。
「よく言うだろ、ハロウィンの夜は人じゃないモノも町をうろつくって。中には人々の想像力を拠り所にして姿を現わす奴もいるのさ。ま、オレはオバケじゃないけどね」
どこか他人事のように呟いた後、ウィルは「それにしても」と改めてこちらに向き直った。
「ニノンの『不思議な力』は本当にすごいな。こんなにも長い間自由になれるなんて」
「私はなんにも……」
「ニノンのおかげなんだよ」
燻る指先が桃色の髪に少しだけ触れる。
鼻先を掠めた不安定なもやは、時間の経った油のにおいがした。
「長い間彷徨っていると、たまにニノンみたいな人間に出会うことがある。想像力とは違う、別の力を持った人間だ」
おそらく、紫色の髪の少女が有していた力のことを指しているのだろう。ある時は「見えざる者を視る力」、ある時は「絵画に込められた思いを汲み取る力」となり得るエネルギー。
またの名を、感受という。
「彼らはオレたちのように不確定なモノを、まるで目を通して視るように、耳を通して聴くように感じ取る。普通はその力を持ってる人間にしかオレの姿は見えないし、声だって聞こえない。でもニノンは違う。周りの人にさえオレの姿を見せてしまえるんだ。ニノンの力は特別なんだよ」
熱っぽく語るウィルに対して、ニノンはただ戸惑うしかなかった。
ニノンだって初めはそうだったのだ。ただ絵画の声が聞こえただけ。それがいつしか白昼夢を見るようになり、ある時から他人にまでその不思議な現象を共有できるようになった。
もはや力の及ぶ範囲は絵画だけに限らない。老婆から譲り受けたイヤリングまでもが感受の媒介となったのである。
一体この力はどこまで増幅されるのだろう――先の見えない成長に、ニノンは人知れず恐怖を抱く。そんな胸中などいざ知らず、ウィルはひとり喋り続ける。
「ニノンのおかげで買い物もできたし、甘いお菓子も食べられた。ハロウィンの前のそわそわした空気の中を歩くことだってできた。いつも居ないものとして扱われてたのに、今年は違ったんだよ。みんな、オレのこと普通の人間みたいにさ…………」
ウィルはほんの一瞬だけ口を噤み、パッと笑ってニノンの前に舞い戻った。
「だからニノンにはお礼を言っておきたかったんだ。ずっと一緒にいてほしいって思ったのは嘘じゃないけど、力づくで連れて行こうなんて本当は思ってなかった。いや、思ってたのかな……とにかく今はもうそんなこと考えてない」
「本当に?」
ニノンは眉をひそめて訊いた。
「ほんとうだよ」
「嘘じゃない?」
「嘘じゃない」
それでもニノンは妥協を許さない眼差しでもって、青色の瞳をじっと覗き込んだ。相手がたじろぐ気配はない。
やがてニノンは持ち上げていた踵を降ろし、むすりと一言呟いた。
「――怖かった」
「ごめん」
「ルカにもひどいことした」
「……ごめん」
謝りながら、ウィルは本当に申し訳なさそうな顔をした。
「ニノンは死んでない。アイツが――あの黒髪の奴がちゃんと助けてくれてる。だから早く目を覚まして、アイツを安心させてやってよ」
自分でやっておいて酷い言い草だが、今の彼にとってはそれが精一杯の謝罪なのかもしれない。そう思うと、目の前の男が少し滑稽に見えてきて、憤慨する気にもなれなかった。
ウィルはほっと溜息を吐くと、体を捻りながら少しだけ浮上した。
「そういうわけで、ニノン。短い間だったけど楽しかったよ。向こうに戻ったらアイツにもよろしく。じゃあ、元気でな」
出会った時と変わらない笑顔でこちらを見下ろしたウィルは、まるで明日も会えるというような軽さで片手を挙げた。
「え、ちょっと、待ってよ!」
一方的に別れを告げて消えようとするウィルを、ニノンは大きな声で引き留めた。咄嗟に伸ばした手は身体を掴むことなく空を切る。彼の靴のつま先がふわっと崩れて、また元通りになった。
「ウィルが会いたかったのは私じゃない。紫色の髪の女の子でしょ? なのにそんな、満足したみたいな顔しないでよ」
半透明の眉間に一瞬だけしわが寄る。それからウィルは、もう一度ニノンの目の前に舞い戻った。
「もう何十年も前の話だよ。ずっと一緒に居たいと思ってたのも、ただの一方通行だったってこと。相手もオレのことなんか忘れてるよ」
ウィルは諦めたように肩を竦めた。
「ま、自惚れ屋はこれからは大人しくしてますよ。ニノンもいなくなっちゃうし、お祭りは終わっちゃうし、もうオレが世に出られることもないしな」
「違うよ。忘れてなんかない……」
自嘲気味に笑っていた半透明の男が、ぴたりと動きを止めてニノンを見た。
「視える力が失くなっちゃっただけ。好きって気持ちが薄れたわけじゃない。むしろ、逆だよ」
脱色症の少女が青年に会うために無理して力を使ってきたことを、ニノンは今しがた知ったばかりだった。
いつか見えなくなることを恐れながら、それでも少女は青年に会うことをやめなかった。時間切れになる前に、二人で孤独を乗り越えようと手を伸ばしたのだ。
そこに愛がなかったのだとしたら、この世界はきっともう、とっくのとうに干乾びている。
「お婆ちゃん、ハロウィンの夜にお店の外でずっと人気のない商店街を眺めてた。ウィルを探してたんだよ。見えなくなった今でもいつか会えるかもって……一人で、ずっと」
「その悲しみにもいつか終わりはくる。もう会えない相手に心を捧げ続けるなんてナンセンスだ」
声は冷めていたが、その目には僅かに湿った感情が見え隠れしていた。
「そんなの、独りぼっちで永遠を過ごすのと変わらないじゃないか。敢えてそんな道を選ぶなんて馬鹿げてる――ニノン?」
ふと、呆気にとられた顔がこちらを向く。
「なんでニノンが泣いてんの」
言われてはっとする。まばたきした瞬間にまた一筋、頬を涙が伝っていく。
「なんでって……わかんない」
「はぁ?」
困惑したような、呆れたような声だった。
わからない、とニノンは繰り返す。自分のことじゃないのにどうしてこんなにも悔しいのか、分からない。
浮遊する塊が間近に迫ってきて、ニノンの目元を拭おうとした。いつの間にか溢れた涙は、彼の指先をすり抜けて落ちていく。
ややあって、ウィルはぷっと吹き出した。
「そんなだからオレなんかに騙されるんだよ」
「なっ、それは今関係ないでしょ!」
ニノンは声を荒げながら握りこぶしを突き出した。が、ウィルはそれを軽々と避けてみせる。まさにじゃれつく子猫相手に遊んでやっている、といった態度で、それがさらにニノンを腹立たせる。
「お人好しって言ったの。お人好しニノンちゃん」
「それ、絶対良い意味じゃないよね」
ウィルは軽く笑ったあと、声のトーンを抑えて言った。
「結局さ、どれだけ願ったってずっと一緒にはいられない。オレたちはこれで良かったんだよ」
「だけど……」
人差し指の形をしたもやが唇にあてがわれ、ニノンはぐっと押し黙る。
「じゃあ、目が覚めたらまたあの子のお店に遊びに行ってあげてよ。土産話のひとつでも持っていって」
「……ウィルはそれで、いいの?」
「いいんだよ」
言葉少なに頷くウィルの答えが、強がりなのか本音なのか、ニノンには分からない。伝わってくるのは、現状を否定しない強い意志だけだ。ウィルはもうこの話題を続けるつもりはないらしく、さっさと背を向けてしまった。
「んー、でも、どうしてもって言うなら」
かと思えば、いきなり思いついたような口ぶりでそんなことを呟いた。ウィルは徐ろに人差し指を薄暗い部屋の中心へと向ける。
その瞬間、ボウッという音と共に、指差した場所で大きな火柱が上がった。
「え? なに、この――焚火?」
振り返ったウィルの瞳が妖しく輝いている。
「踊りなおそうか、ニノン。ハロウィンの夜のダンスは本来、大焚火の周りで踊るものだからね」
火の粉を散らして燃え盛る大焚火は、まさにパオリ広場の中央を陣取るそれと同じだった。
差し出された右手は今や実体を伴っており、しっかりとした輪郭を保っている。
ニノンはごくりと咽頭を上下させ、おそるおそる彼に歩み寄った。ニヤリと笑うウィルの背後で、大きな焚火が明々と燃えている。
罠だろうか。この期に及んで?
半信半疑のまま、ニノンは右手を伸ばす。
指先同士が僅かに触れる。
そして――差し出された手を、払い除けた。
「私は、誰かの代わりになるなんてイヤ」
ウィルは呆然とした後、何かを言おうとしたのか少しだけ唇を開き、結局は口を噤んだ。代わりに聞こえたのは小さな笑い声。そして、「なんてね」と言って拒まれた手を引っ込めた。
「オレだって、誰かの代わりはごめんだな」
おどけたように肩を竦めるウィルの表情は、どこか晴れ晴れとしていた。
「でも、楽しかったよ。ありがとう」
ニノンは頷き返した。
パチパチと薪の爆ぜる音が聞こえる。大きな焚火に照らされて、彼の左頬は橙色に染まっている。
ゆっくりと透明になっていくその橙色の向こうに、一枚の扉が見えた。あれがこの世界の出口なのだと直感的に理解する。
ニノンは躊躇せず、出口に向かって歩き出す。
カーン、カーン、と、どこか遠くで鐘が鳴り響いている。
三十一日の終わりを告げる鐘の音だ。
ハロウィンナイトが終わるのだ。
「……ニノンッ」
ドアノブに手を掛けた時、背後から名を呼ばれた。
腕を引かれてニノンは、え、と振り返る。ウィルの顔は思った以上に近いところにあって――。
バタンと音を立てて扉が開く。吹き込む風が髪を煽る。
残されたのは十二回目の鐘の音。
静かに燃え立つ赤い炎の残像。
それから、重なった唇の柔らかい感触。
風に煽られる桃色の髪の隙間から、ニノンの目は暗闇の奥に佇む何かを捉えた。
あれはイーゼルだ。暗幕の掛かったキャンバスが乗せられた、一脚のイーゼルだ。
吹き荒ぶ風が、分厚い暗幕を捲りあげる。
すべてが暗転する間際、ニノンは露わになったキャンバスを見た。
そこには確かに、不敵な笑みを浮かべるウィリアム・クレーの姿が描かれていた。
*
「――ノン、……ニノン」
誰かに激しく肩を揺すられている。目が覚めた途端、ニノンはあまりの苦しさに盛大にむせ込んだ。
「ニノン!」
涙でぼやける視界を上にずらせば、珍しく憔悴しきったルカの顔が飛び込んできた。周囲は相変わらず薄暗く、夜空には擦り切れそうな三日月が浮かんでいる。
「ルカ……げほっ、ごほっ……」
再び咳き込むと、今度は力強く抱きしめられた。皮膚に貼りつく衣装はぐっしょりと水分を含んで重たく、氷のように冷たい。ルカの服も、ワックスで撫でつけていたはずの髪も、ぐしょぐしょに濡れてしまっていた。けれど、密着する体からは、確かな温もりが伝わってくる。
「よかった……」
耳のすぐ側でため息にも似た囁きが聞こえた。距離の近さに思わず顔が熱くなる。しかし同時に、引き攣るような肺の痛みと酷い寒気に襲われて、ニノンは身を震わせた。
「ルカ、どうやってここに……?」
「なかなか戻ってこないから、捜しにきたんだ」
ニノンの後を追って町中を駆けているうちに、アーケード街まで辿り着いたのだとルカは言う。そこで件の老婆に出会ったらしい。
「森のはずれに湖があって、捜してる女の子はそっちの方に歩いていったって、教えてくれたんだ」
「そう、お婆ちゃんが……」
ウィルと二人でアーケードを駆け抜けた時には気付かなかった。あの時も、老婆は店の軒先でひとり椅子に腰掛けていたのかもしれない。
「そうだ、ウィルは――」
弾かれたように顔を上げれば、ルカは静かにかぶりを振った。
「わからない。ただ、湖の中にはいなかったよ」
溺れたということはないだろう。
彼は文字通り消えてしまったのだ。ウィリアム・クレー――感受によって実体を得た絵画の中の男は。
もしあのまま夢を見続けていたら。そんな気は毛頭なかったけれど、もしダンスに誘う彼の手をとっていたら……。
ニノンの身体は風もないのにぶるりと震えた。
同時に、別れ際に彼が残していった感触を思い出して、顔が熱くなる。
「助けてくれて、ありがとう」
ニノンは慌てて礼を述べ、頬の火照りをごまかした。
ルカは黙りこくったまま俯いている。不安になって顔を覗き込むと、何やら眉間にしわを寄せて難しい顔をしていたのでぎょっとした。
「夜の水の中は真っ暗なんだ。修復用のペンライトがなかったら絶対に見つからなかった。もし駆けつけたのが別の人間だったら、間に合わなかったかもしれない」
怒っているのだ、とニノンはようやく気がついた。当たり前だ。あれだけ注意されたにもかかわらず、怪しい男についていき、挙句の果てに死にかけたのだ。言い訳の余地もない。ただひたすら項垂れていると、
「すぐに引き揚げたのにかなり水を飲んでたし……それで……」
言いづらいことでもあるのか、ルカの声が急激にしぼんでいった。ややあってちらりとニノンの口元に目をやり、またすぐに視線を逸らして「とにかく、目を覚ましてよかった」と強引に締めくくった。
「?」
不自然な言葉に首を傾げていると、視界の端を黄緑色の光がスーッと横切った。
「あ、蛍」
二人はそろって水辺に目をやる。一粒の小さな光が飛び立ったのを合図に、草むらから次々と蛍が姿を現した。光の粒はあっという間に水辺に広がり、森の中に小さな星空を作り出した。
「わぁ、キレイ」
「トレミーさんの絵画みたいだ」
トレミーの絵画は、寂れた宿屋が集まる小さな村〈フィリドーザ〉で出会った連作である。『アルマゲスト』と命名された一連の絵画は、流星の降りしきる夜空が写実的に切り取られていた。あちらが手の届く星空ならば、こちらもまた、触れられる星空だ。
一粒の光がふわりと飛んできて、ニノンの手の甲に止まった。
明滅するリズムはどこか命の鼓動に似ている。永遠ではないからこそ際立つ有限の輝き。ウィルが少女と見たかった景色が、そこには広がっていた。
「あのね、ルカ」
群れの中に舞い戻ってゆく蛍の軌跡を見届けながら、ニノンは思いきって口を開いた。
「私ね……」
折り悪く冷たい風が吹き、ニノンはぷしゅん、とくしゃみをした。ルカはニノンの手をとり、立ち上がらせる。
「とりあえず帰ろう」
「うん。風邪ひいちゃいそう」
「ニコラスと、多分アダムも心配してる」
「絶対に怒られるよ。やだなあ、帰りたくない」
二人の名前を聞き、ニノンの顔は途端に曇ってゆく。アダムはともかく、ニコラスの本気の説教はなかなか恐ろしいのだ。
「門限破りは二人で怒られよう」
「うう、ありがたいようなありがたくないような……。そういえばルカ、もしかして――ダンス参加できなかった?」
茂る木々を掻き分ける音の隙間から、「うん」と短く返事があった。
「だよね……。ごめん、私のせいで」
ミーシャと踊れなくて、とまでは口にできなかった。
ニノンの失踪がなければ二人は必ず手を取りあって踊っていたはずなのだ。その手を振り払ってまで追いかけてきてくれたことが嬉しい。けれど反面、人の恋路を邪魔して喜ぶ浅ましい自分にうんざりもした。
先導する背中の向こうで、ルカはどんな顔をしているだろうか。呆れているだろうか。はぐれないように繋がれた手から、ネガティブな感情が伝わっているのではないか。そんな妄想に取り憑かれ、ニノンは泣きそうになっていた。
「ニノンのせいじゃない」
だから、前の方からぼそぼそと小さな声がした時は、思わず身を強張らせたのだった。
「それに、最初から参加するつもりなんてなかった」
「でも誘われたんじゃ……」
「断った」
うえっ、とニノンの口から変な声が出た。慌ててルカの隣に追いつき、相変わらず無表情な横顔を凝視する。
「なんで?」
「なんでって……踊る相手は一人しか選べないんじゃなかったっけ」
「うん、え? そうだけど」
そっちの「なんで?」ではない。
誘いを断った理由が、一人としか踊れないからだというのなら。つまりそれは、誘いたい相手がいたということになる。
誘いたい相手。
ルカが知っている数少ない女性。
つまりそれは。
先ほどまで鬱屈した気分に支配されていたのが嘘のように、いまやニノンの頭の中はショッキングピンク一色に染まっている。そしてその中央には、都合の良い解釈がエネルギーの切れかかった電球のようにチカチカと点滅している。
そんな自惚れたことを口にしてもいいのだろうか?
「あの、もしかして……一緒に踊ってくれるつもり、だった?」
ニノンは恐る恐る、髪の乱れたヴァンパイアの横顔を仰ぎ見る。薄暗がりの中で、形の良い顎先が僅かに動いたのが分かった。
「誘ったけど、踊りたくなさそうだったから……」
「さっ……!」
誘われてないよ!
ニノンは胸の内で声なき声を爆発させた。
口をパクパクさせていると、ルカは首を捻って不思議そうにこちらを見た。
「それよりミーシャに誘われたってどうして知ってるんだ?」
「わ……!」
わかるよ! 見てたらわかるよ!
ニノンは本日二度目の心の声を轟かせた。
少しだけ騒がしくなった森のどこかで、誰にも知られることなく男がこっそりと笑ったのだった。




