第123話 嘘つきウィリアム(1)
頭上から降り注ぐ日の光。頬を撫でる生ぬるいそよ風。
つい先ほどまで薄暗く冷たい湖の中で溺れかかっていたというのに、まるで真反対の穏やかな空気だ。
すべての元凶であるウィルの姿も今は見当たらない。
――ここは……。
石畳の上で、ニノンはあたりを見回した。
坂道は時折湾曲しながらもずっと下まで続いており、その両脇には背の低い煉瓦造りの建物が建ち並んでいる。どことなく見覚えのある街並みだと思った。
流れる雲の影が石畳に落ちてきて、ニノンはふっと背後を振り返った。仰ぎ見た町の頂上には円柱状の建物がそびえ立っている。あれはかつて、コルシカ島で独立戦争が勃発した際に要塞として使われた場所だ。そして今や、旧都・コルテのシンボルともなっている建造物である。
――コルテ?
視線を少し下にずらすと、横長に広がる銀杏並木があり、その隙間から大きな煉瓦造りの建物が見えた。あれはニキの勤め先であるパオリ大学だろう。
けれど、現実のコルテとは少し違う。
違和感の正体にはすぐに気が付いた。
『色』だ。
頭上に広がる空や地平線に沿ってぐるりと連なる山々、坂道にへばりつくようにして広がる町もすべて、一様に劣化した絵画のように色褪せているのだ。
――なんなんだろう、ここ。人もいないし、物音もしない。
昼下がりの静寂に包まれた町をあてもなく歩いていると、不意に背後から忙しない足音が聞こえてきた。振り返る間もなく、一人の少女が風を切ってニノンの傍を駆け抜けていく。
長くたなびくその髪だけは褪せることなく、すみれの花びらのような濃い紫色をしていた。
――脱色症の女の子……?
慌てた様子で坂道を駆け下りる少女は、街角を曲がってあっという間に姿を消した。なんとなく彼女のことが気になり、ニノンは後を追って同じ角を曲がった。
少女は長いスカートの裾を遠慮がちに持ち上げながら、肩を浮かせてひた走る。やってきたのは大焚火が行われていたパオリ広場の一角である。
向かう先にはひとつの人影が佇んでいた。
その人影は足音に気付くなり、親しげに片手を上げた。
『ウィル、おまたせ!』
『そんなに焦らなくたって、オレは逃げも隠れもしないんだけどな』
『あの……あの、ごめんなさい』
『ちょっと待って、髪に何かついてる』
男がそっと手を伸ばす。少女は上擦った声を上げて首を竦ませた。
何かいけないものを見ているような気分になり、ニノンは咄嗟に物陰へと隠れた。
軽口を叩く男は、紛れもなくあのウィリアム・クレーで間違いない。
どうしてここに?
植え込みからこっそりと顔だけを出して、ニノンはもう一度二人の様子を窺う。屈託なく笑うウィルの向かいで、紫の髪の少女は恥じらうように俯いている。ただの友人と言うにはやや色めいた雰囲気がそこにはあった。
彼は、また新たなターゲットを見つけたのだろうか。だとしたら湖に落ちた後、どうにかして二人とも助かったのかもしれない。
でもどうやって?
それよりもルカは無事だろうか?
目を覚ます以前の意識は、湖に落ちたあたりでぷっつりと途切れている――。
不明瞭な記憶を遡っているうちに、二人は一言、二言、言葉を交わし、連れ立って歩き出した。ニノンも彼らの後を追う。
ぶらりと商店街を散策したかと思えば、街角のベーカリーに立ち寄ってみたり、路上脇でまどろむ野良猫に構ってみたり。彼らはさしたる目的もないまま石畳を歩いては、途切れることのない会話を楽しんでいる。
二人の背中に、出会った当初のウィルと自分の姿が重なって消えた。
『じゃあ、また』
『うん。また明日、いつもの場所で』
ウィルは片手を挙げて背を向けた。日暮れの町を目下に遠ざかってゆく背中を、少女は寂しげに見送っている。
楽しい時間はあっという間に過ぎ去るものだ。名残惜しい気持ちも分かる。しかし、だからこそ少女に警告しなければならないことがあった。彼は人間ではない。甘い言葉を吐いて獲物を誘い込み、命を奪う化け物なのだ。
〝あの子、いつも一人でぶつぶつ喋ってるの〟
〝気味が悪いね〟
〝髪の色も不吉なヴァイオレットだ〟
少女に近づこうとした間際、四方からそんな忌み声が聞こえてきた。ニノンは眉をしかめて声のした方を振り返る。通りには帰路につく人々の素知らぬ顔が溢れるばかりで、誰が吐いた言葉なのかは分からなかった。
町のそこここに、見えない悪意が渦巻いている。
ゾッとしてもう一度少女の方を振り返ると――。
――え?
なぜか目の前に広がる景色は日の落ちた山の展望台に変わっていた。
薄暗闇の中でウィルと少女は肩を並べ、夜景というには質素な景色を見るともなしに眺めている。
『この町で私はずっと、独りぼっち』
目下に煌めく町の灯りが、少女の湿った目元を光らせる。
誰もが紫色の髪の毛を遠巻きに眺めてはおぞましいと囁きあった。そして、誰もいないはずの場所に向かってひとり楽しげに喋る少女を、気味が悪いと敬遠した。
俯く少女の手をそっと握り、ウィルは変わらぬ笑顔を少女に向ける。
『大丈夫。オレがずっと側にいるから』
『ありがとう。私もずっと一緒にいたい。そうして来年も再来年も、ハロウィンの夜を共に過ごしたいわ』
『ハロウィンはオレたちが出会った記念日だからね』
その後も二人の会話は続いた。少女の声に憂いの色はもうない。色褪せた世界で唯一、ウィルだけが彼女の救いだったのだ。
――ここは、ウィルの思い出の中なの? それとも……。
ニノンがそう認識した時、また場面が飛んだ。
大きな通りの左右に整列する銀杏並木を、ニノンは少女の目を通して見ていた。
頭上に茂る葉はまだ蒼い。
『おーい、何してんの?』
遠くから呼ばれて視線を戻す。
片手を上げて手招きするウィルの姿が、視界の中で一瞬霞んだ気がした。え、と思ったが、その時は見間違いだと決めつけたのだった。ヒトが霞むなんてあり得ないのだから。
しかし日が経つにつれ、それが思い過ごしでないことは徐々に明らかになっていく。
ウィルの姿が霞む時間は日増しに長くなり、ついには常にどこかしらが透けて見えるようになった。こちらに向けられる笑顔の半分から背後の町並みが覗いていても、それでも少女は、その不可解な事象を本人に打ち明けることができずにいた。
それから少し経ったある夜のこと。ニノンは姿見に映る少女の姿を見てひどく狼狽えた。濃い紫色の髪のところどころが、うっすらとまだら模様に色褪せていたのだ。
突然ではないのだろう。気付いていなかっただけで、おそらくもうずっと前からこの髪は、徐々に色褪せはじめていたに違いない。それに気付かないフリをしていただけだ。
長い髪をそっと手繰り寄せる少女の脳裏に、一抹の不安が過ぎる。
――幼い頃から、彼女には不思議な力があった。
その力は他の者には見えない『何か』を時折彼女の視界に映り込ませるものだった。それこそが、周りが一歩引いた目で自分を見る理由であり、彼女が孤立するきっかけでもあった。
『私、一度でいいから自分以外の色ナシさんを見てみたい。そうしたらこの不思議な色もキレイだと思えるんじゃないかって……』
指で梳いた髪の毛は透き通る紫色。人間が通常持って生まれる遺伝子からは編み出されない、奇妙な色。
『また気弱なこと言ってるな。オレが声掛けたの、その紫色の髪がすっごくキレイだなあと思ったからなんだぞ』
『そんなこと言われたの、初めてよ』
『じゃあこれから何十回、何百回だって繰り返すよ。聞き飽きるくらいにさ』
人間離れしているのは弓なりに細められた青い瞳もまた同じ。彼の鮮やかな虹彩には本物の青い業火が宿っている。
ウィリアム・クレー。それはハロウィンの夜、独りぼっちだった少女の前に突如舞い降りた男の名前。
彼が人為らざる者であることくらい、少女はとっくのとうに気付いていた。それでも気付かぬふりをして、互いにずっと過ごしてきた。彼女にとって、彼がこの世の存在かどうかなど大した問題ではなかったのだ。
真っ直ぐに見つめてくる青い瞳。いたずらっぽく笑う少年のような姿。時おり調子に乗る性格も、少し掠れた低めの声も、そのすべてに彼女は恋をしてしまっていたのだから。
――そっか。私の魂、いま、この女の子の魂に寄り添ってるんだ。
日めくりカレンダーのように蘇る思い出のなかで、ニノンは気が付いた。これは、凝縮された少女の人生の「追体験」なのだ。
薄っすらと脱色する程度だったまだら模様は、日増しにくっきりと輪郭を現しはじめていた。さすがの両親も娘のことを心配して、何度も医者の元へと連れていった。だが結局原因は分からずじまいだった。
このままでは、すみれ色の髪はすべて灰のように真っ白になってしまう。色と隣り合わせの不思議な力もきっと共に失われる。そうなればウィルの姿も見えなくなってしまうだろう。
こころなしかやつれた顔で「大丈夫」と繰り返す少女は、その日の夜を青年と過ごすため、ベッドに入るフリをしてこっそり家を抜け出した。
十月三十一日。
今日は彼と迎える何度目かのハロウィン・ナイト。
ウィルは見せたいものがあると言って少女を森に誘い出した。
『二人だけになれる世界へいこう。寂しさも悲しみもない場所で、ずっと一緒に暮らすんだ』
『こっちの世界は冷たくてキライ。だから私を、あなたのいる世界へ連れていって』
ウィルは嬉しそうに微笑んで、そっと手を差し出した。
窮屈で惨めな世界からやっと解放される――先に待つ喜びを噛み締めて、少女は手を伸ばした。
しかし、その指先は空を掠めただけだった。
『ウィル……?』
目の前に青年の姿はなかった。
ただ暗闇に擬態した広大な森と、泥色の凪いだ湖が広がるばかりだ。
『ウィル、どこなの?』
今しがた彼がいたはずの場所に向かって、不安げな声で呼び掛ける。
『ああ、ハロウィンだから悪戯してるのね。お菓子ならあるわ。ポケットにキャンディが……ねぇ、ウィリアム?』
返ってくる声はない。
少女の顔がくしゃりと歪む。込み上げてくるものに負けないよう奥歯を噛み締めると、鼻の奥がツンと痛んだ。
『どこかに隠れたのでしょ? 暗くてよく、わからないわ……どこにいるの……』
少女は両手を突き出しながら、暗闇の中をふらふらと探し回る。もはや髪はかつての色を一切失っていた。
遠くの方で、鐘が鳴っている。それは弱々しくも確実に時を刻んでゆく。
やがて、ハロウィンナイトの終わりを告げる十二回目の鐘が鳴り終えた。
『置いていかないで……ウィル……』
一点の曇りもない白髪を振り乱しながら地面に這いつくばり、少女は声を荒げて何度も青年の名を叫んだ。
『独りにしないで、ウィリアム!』
ひび割れるような悲痛な叫び声と共に、ニノンの魂は彼女の身体から引き剥がされた。喉奥から込み上げるマグマのような感情も同時に遠のいてゆく。
放り出された半透明の体が肩口から地面に倒れ込み、ニノンは思わず小さな悲鳴をあげた。痛みはない。急いで身を起こそうとした時、横になった視界を何かがチラついた。
ニノンは肘をついて上体を起こし、暗闇に目を凝らす。
小さな小さな黄緑色の光が、一筋の軌跡を残して目の前を横切った。
蛍だ。
この島のホタルは秋の終わりにかけてひっそりと姿を現わし、求愛を繰り返す。今や群生地はめっきり減ってしまったのだと、いつかどこかで聞いたことがある。それ故に実際彼らを目の当たりにすることは珍しいのだと。
〝見せたいものがあるんだ〟
手を繋いでアーケード街を駆け抜けた時の、ウィルのはにかみ顔が蘇る。
あれは嘘で塗り固められた彼の、ただひとつの偽りない言葉だったのだろうか。
――ウィルは、この蛍を見せてくれようとしたんだ。
示された善意を信じきれなかった。そのことが、ニノンに罪悪感と後悔を抱かせる。心で感じた方を素直に受け取っていたら、何かが変わっていたのだろうか。
儚く明滅する黄緑色の光は水際の茂みから飛び立つと、音もなく水辺を浮遊した。
『どうしたんだよ、いきなり……オレはここにいる。見えないのか? この声も、聞こえないのか? なんで…………ずっと一緒にいたいって、言ってたじゃないか』
皮を剥ぎ取られた獣のような情けない声が聞こえてきて、ニノンは視線をそちらに移した。
悲しみに乱れる少女の向かいには、狼狽する青年の姿がはっきりと見える。けれどその姿は白髪の彼女の網膜には映らない。
二つの視線は交わらない。求め合う声も、もう届かない。
ニノンは知っている。これは二人の記憶の残像なのだ。時間を巻き戻せないのと同じで、過去に起きた出来事を変えることはできない。
時の流れが急速に速まっていく。幾日もの昼と夜が訪れ、褪せていた色は徐々に蘇り――少女の身体は枯れ木のようにしわがれていった。
色とりどりの布地に囲まれたカウンター。その奥でひとり腰掛ける老婆の目の前に、ニノンは立つ。
――おばあちゃん……。
老婆は眼鏡の奥でしょぼくれた目を糸のように細め、ニノンの手に小さなイヤリングを握り込ませた。
〝綺麗な色の髪だぃねぇ〟
〝一度でいいから色ナシさん、見てみたかったんだ。ありがとうね〟
パキッと耳元で音がして、何かが床に転がり落ちた。拾い上げると、老婆がくれた紫石のイヤリングが役目を終えたかのように半分に割れていた。
たった今見ていた記憶は、このイヤリングに染み込んでいたものだったのだろうか。ニノンは手のひらに乗せた壊れたイヤリングを握りしめる。
過去は本当に変えられないものなのか?
――そんなの、やってみなきゃ分からない。
力を込めて一歩踏み込んだ瞬間、目の前で老婆の顔がドロリとした黒い絵の具に変貌した。それは行く手を阻むように増え続け、視界を塗りつぶしはじめる。
ニノンは塗り重ねられていく黒い絵の具を両手で必死に掻き拭った。べたべたと乾ききっていない絵の具が手を汚すのもお構いなしに、それらを拭って、拭って、拭い去って――。




