第122話 記憶に潜む男たち
密着した肩越しに感じる体温。耳に届く乱れた息遣い。上がった息に合わせて、少年の胸が大きく上下している。
「ル……」
ニノンは涙で言葉を詰まらせる。途切れた呼び声に呼応するように、背中に回された腕に力が入るのが分かった。
「なんだよ、お前?」
突き飛ばされたらしいウィルは、自身の肩口を手で払いながら不機嫌そうな声を出した。
「それはこっちの台詞だ」
普段よりも強い口調でルカは言い放つ。ウィルは目を細めてまじまじと邪魔者を見つめていたが、やがて「ああ」と馬鹿にしたように鼻で笑った。
「お前あれか。数日前、ニノンを店の外で独りぼっちにさせて泣かせてたヤツだ」
攻撃的な物言いに一瞬押し黙ったものの、ルカはすぐさま相手を睨みつけた。
「あんたには関係ない」
「関係ある。ニノンはオレと、憂いも悲しみもない場所で幸せに暮らすんだ。オレたちの願いを邪魔するなよ」
二人が望んでいるだなんて、根も葉もない妄言だ。ニノンは顔を青くしながら必死に首を横に振る。
縋るように見上げた先では、毅然とした態度でルカが水辺の先を見据えていた。
「俺にはニノンがそんなこと望んでるようには見えない」
「ふん。他人の心の内側なんて見えないくせに」
「あんたは泣き顔の区別もつかないのか? どこかへ行きたいなら一人で行けばいいだろ」
「はは……たった十数年生きただけの人間が偉そうに」
冷たい風が枝葉を揺らす。乾いた音に混じって、暗闇に佇む青年がぶつぶつと何事かを呟いた。
「やっと一緒に歩いてくれる人を見つけたんだ。何年も何十年も探して、やっと……わかるか? どれだけ長い間オレが一人で彷徨っていたか。でもそれももうおしまいだ。だから――」
俯いていた青白い目が、ぎろりとこちらを射抜き見た。
「オレの邪魔を、するなッ!」
突然の咆哮と共に、ウィルが牙を剥いて襲いかかってきた。咄嗟にルカは腕を振りかざす。すくみ上がるニノンの頭上で、肉のぶつかる嫌な音がした。二人はその場で揉み合いになり、攻防を繰り返すうちに森の中へと転がり込んだ。
「ルカ!」
ニノンは急いで茂みを掻き分けた。
乱立する巨木の根元で、一方がもう一方の腹の上に馬乗りになっていた。男は相手の襟首を掴み、何度もその身体を固い地面に叩きつけている。
「やめて!」
ニノンは金切り声を上げて青年の背中に縋りついた。組み伏せられているルカの口元から、苦しげな呻き声が漏れる。
「死んじゃうよ!」
化け物と化した青年を少しでも引き剝がそうと、ニノンは必死に腕を引っ張った。
「死ねば天国か地獄に行くだけだ」
「そんな……っ」
暴力的な音と緊迫で埋め尽くされた暗闇に、淡い月光が降り注いだ。
僅かな明かりは馬乗りになる人影の輪郭をぼんやりと描き出す。背中越しにちらりと彼の手元が覗き――そこでニノンは、驚くべき光景を目の当たりにした。
「ウィル、手が……!?」
ルカの襟首を掴んでいた青年の手の甲が、半分透けていたのだ。
「ヒッ」
ウィルは自身の透けた手に目をやるなり、びくりと身を怯ませた。まるで見えない化け物に手を掴まれているかのような怯え様だった。
「時間がない、時間が……みんながオレを忘れてしまう前に……はやく……」
ウィルはぶつぶつと呟きながら、それまで執着していた邪魔者をボロ雑巾のように足元へと投げ捨てた。そして必死な形相でニノンに迫ると、乱暴に二の腕をひっ掴んだ。
「は……離して!」
「いやだ。絶対に離さない。ぜったいにはなさないぜったいにはなさない」
「やだっ、痛いッ」
必死の抵抗も虚しく、非力なニノンの体はあっという間に湖の方へと引きずられていく。
「やめろ……!」
背後から放たれた叫び声に、ニノンは首を捻って振り向いた。ルカが片膝をついて立ち上がり、よろめきながらこちらに駆け寄ってくるのが見えた。
「ルカッ……」
咄嗟に伸ばした手は、しかしまだらに透けた腕に阻まれる。
背後からくぐもった笑い声が聞こえた。それは歓びを押し殺しきれなかったような、嬉しそうな声だった。
「じゃあな」
それだけを告げて、青年はニノンの顔を自身の肩口に押しつけるようにして強引に抱きしめる。
「あ――」
ぐっと重心が後ろに傾く。欠けた男の肩越しに視界がぐらりと揺れた。
必死に何かを叫ぶルカの姿、頼りない星の瞬き、爪先ほどのか細い三日月が暗闇の中で尾を引いて――ニノンは、青年と共に凍てつく湖へと落ちていった。
ひどく冷たくて、暗い。
萎縮した筋肉ではもがくことはおろか、指先すら動かすことができない。
逆さまになった足元の遥か遠くに、淡く色づいた水面が揺蕩っている。薄衣のようなその光に向かって、細かい水泡がポコポコと上っていく。
――私、死んじゃうの……?
向かい合わせに沈みゆく男は、目が合うと満足そうに目尻をたわませた。その顔の大半は深紺の湖と同化してしまっている。上げる口角を失ってなお笑う男は、道連れを見つけられたのが嬉しくて堪らないのだろう。
道連れ――あの世にもこの世にも行けない憐れな男と共に、永遠を過ごすのだ。これからずっと。
がぼり、と口から大きく泡を吐き出して、ニノンは大量の水を飲み込んだ。痛みと苦しみで身体も頭もめちゃくちゃになる。意識が朦朧とする。
――ニノン。
微かな呼び声が聞こえた気がして、ニノンは思わず手を伸ばした。
幻聴だろうか?
優しい口調でその声はもう一度名を呼んだ。
――絵画は、人が欲しくて堪らないものを持ってるんだ。それってなんだと思う?
感覚が徐々に鈍っていき、代わりにニノンの脳裏を走馬灯が駆け巡った。
眼裏に蘇るのは、紺碧の海を望む岬の上。イモータルの黄色い花々が咲き乱れる野原を前に、そびえ立つ白亜の大屋敷。
――それは〝永遠〟だよ。
記憶の中で、ニノンは紅の絨毯が敷き詰められた広大な廊下を駆けていた。視線の先で黒髪の少年と、背の高い白髪の男性が肩を並べて歩いている。
『ルカ!』
呼び掛けた声に少年は振り返り、こちらに向かって小さく手を挙げた。
隣にいたもう一人の男性も、はたと足を止めて振り返る。肩下まで伸びる後ろ髪がわずかになびき、窓から差し込む日の光を受けて輝いた。目にかかる長い前髪も、すべてが新品の絵筆のように真っ白だ。
不思議な雰囲気を纏う男。
やがて、ルカと親しくなる男。
そうだ、彼は――陽気な陽射しに包まれた春先に、食客としてこのベルナール家にやってきた研究者だった。
初めてその姿を目にした時、ニノンは彼も自分と同じ病気なのだと勘違いしたものだ。
実際は脱色症ではなく、ただの白髪であるらしかった。彼の容姿は若々しく、見たところ二〇代そこそこといった風貌だったので、しばらくはそれでも疑っていたことを思い出す。髪の根元から先端まで、一様に色素が抜けてしまうほどの時を過ごしたとは到底思えず、周囲もとかく不思議がっていた。
『お嬢様……。廊下を走ってはいけませんよ』
ニノンが追いつくのを待って、男は静かな口調で窘めた。
『ニノンでいいってば』
『はいはい、ニノン様』
男は長い前髪の下に白けた表情を隠すと、再び廊下を歩き始めた。苦笑いを浮かべながらルカもその後に続く。ニノンはあっと声を上げて、慌てて二人の背中を追った。
『またふたりでどこかに行くんでしょ。一体何を隠してるの? 今日こそは教えてもらうんだから』
『私どもは与えられた仕事をこなしているだけです』
『絶対ウソ。だってあやしいもん。ねぇ、もう――ルカ!』
男が知らぬ存ぜぬを通すので、ニノンは諦めて矛先をルカに向けた。しばらく困惑気味に視線を泳がせていたルカだったが、やがて観念したのか男に確認の目線を送った。
ついに根負けしたのか、いつもは尾行するニノンを徹底的に追い払う白髪の男が、この時だけは口を閉ざしたまま廊下を突き進んだ。ニノンは上機嫌になり、ビロードの絨毯を颯爽と踏みしめた。
研究を司る食客たちが集う研究棟を抜け、ニノンらベルナール一族の自室がある東棟へと差し掛かったところで、二人はスロープ状のくだり廊下を進んだ。
緩やかに湾曲する廊下に沿って、コバルトブルーの大きな円柱と、同色の窓枠が続いている。窓枠は天井にまで届くほど大きい。同じく巨大なガラス窓の向こうには、サファイアを敷き詰めたような海と空が広がっていた。
水平線の上をカモメが一羽、飛んでいる。
ふと、二人の足が廊下の途中で止まった。
彼らの目の前にはなんということのない一枚の扉が佇んでいた。上部にかつてプレートが貼り付けられていた跡が残っている。
『なに、ここ……倉庫?』
『だったところ、だよ』
そう付け加えて、ルカは手に持っていた鍵で錠を開け、慣れた手つきで扉を開けた。
瞬間、油のツンとしたにおいが鼻をつく。
電気のついていない室内に、背後から自然光がふわっと差し込む。何かが中央に佇んでいる。中央だけではない――。
『絵……?』
イーゼルの上に乗せられた描きかけのキャンバス。壁に沿って置かれた背の高い棚。並べられたいくつもの道具箱。そこから飛び出す何本もの絵筆、刷毛、鋭利なナイフ。
予備の修復工房か何かだろうか。
よくよく目を凝らすと、キャンバスは壁や机の傍など、至る所に立て掛けられていた。それらはすべて未完成で――いや、未完成ではない。これから描かれるのを待つ真っさらなキャンバスたちだった。
『修復工房、じゃない……アトリエ?』
隣を振り返れば、まだ幼い修復家は嬉しそうに頷いた。
『ふたりのアトリエだよ』
その言葉を聞いて、隣に佇んでいたもう一人の男が涼しげに目を伏せた。
『絵にして遺したいものがあるんだ』
――遺したいもの?
――それは、まだひみつ。
少年の控えめな笑顔だけを残して、徐々に会話が遠くなる。記憶の中の景色がすべて朧げになって消えていく。
その秘密がなんだったのか、結局ニノンが知ることはなかった。
だけどひとつだけ分かっていることがある。
それは、あの時ルカが絵画を本気で未来に託そうとしていたということ。
絵画が〝永遠〟に残るものだと信じて疑っていなかったということ。
そのこともすべて、今のルカは忘れてしまっているけれど。
――あれ?
ふと、靴底の硬い感触に気が付いた。
あれだけ身を凍て付かせていた水の冷たさも、息ができない苦しさも、そういえばさっぱり消え去っている。
不思議に思って目を開けた時、ニノンはひとり見知らぬ路地の上に立っていた。




