第121話 鬼火伝承〝ウィル・オ・ウィスプ〟
「ウィルが見せたかったものって、商店街の広場のことだったの?」
「ちがうよ。もっと綺麗な、とっておきの場所があるんだって」
アーケードを抜けると外は再びの暗闇だった。膝の裏を一筋の風がぴゅうと吹き抜ける。
真夜中に向かい始めた山間の風は冷たい。ニノンが裏起毛の黒いケープを胸の前で搔き合せていると、隣からスッと右手が差し伸べられた。その手を取ることにもう躊躇いはない。
ほんの僅かな温もりを分け合いながら、二人はゆっくりと石畳の坂道を下りはじめる。
「綺麗な光……」
不思議なことに、それまで薄暗かった町の通りの両側に、ぽつぽつと淡い水色の光が灯りはじめた。等間隔に並ぶそれらは、街灯よりもうんと低い位置で生き物のようにふよふよと暗闇に浮かんでいる。
三人で戸口を叩いてまわっていた時には無かった飾りだ。
しばし幻想的な景色に浸りながら歩いていると、しばらく行ったところで先導していた光の玉がその場にふっと留まった。まるで「こっちだよ」と二人を誘っているかのように、灯りはゆるく明滅を繰り返している。
「ニノン」
灯りのもとまで先に辿り着いたウィルが、こちらを振り返って手招きした。
ニノンはえっ、と一瞬戸惑う。彼の背後に広がるのは町はずれの森の入り口だろうか。建ち並んでいた家々はいつの間にか姿を消していた。
このぽっかりと口を開けている暗闇に飛び込めと言うのか、こんな夜中に?
二の足を踏んでいる間に、ウィルは恐れることを知らない子どものように足取り軽く中へと入っていってしまう。
「ちょっと、待ってよウィル!」
青年を追って深く暗い森に足を踏み入れた瞬間、あたりに漂っていた青白い灯りは煙の如くふわりと消えてしまった。
途端に暗闇が濃さを増し、背後から冷たい風が吹き抜けた。ギャアギャアと奥の方で鳥類が不気味な声を上げる。
「ねえウィル、もう広場に戻ろう? 暗いし危ないよ」
前方ではランタンの青白い灯りだけがぼんやりと揺れている。残された道しるべを見失わないように、ニノンは必死に青い光を目で追う。
「大丈夫大丈夫。オレがついてるんだから心配ないって」
「そういう問題じゃ……」
すぐそばでウィルの笑う気配がした。
何が楽しいのか、何故そんなにも陽気なのか、ニノンにはまったく理解できない。ハロウィンにかこつけて驚かそうなどと考えているのなら、なんてたちの悪い悪戯だろうか。
と、徐々に青年に対する不信感が募りはじめた頃だった。
「――ほら、着いた!」
一際明るい声とともに、ガサッと枝葉を退かす音がした。それまで鬱蒼としていた木々の気配が消え、目の前に拓けた土地が現れる。
茂みを避けて、ニノンは一歩前に出た。
「…………湖?」
頭上に広がる星明かりのない夜空。黒々とした水面に薄っすらと映る三日月が、冷たい夜風にゆらゆらと揺れている。
「大きいだろ?」
夜目がきいてくると、湖は確かにかなり大きいことが分かった。泳いで向こう岸に渡るのさえ一苦労しそうだ。
「あれ、どこいったかなあ。ここだと思ったんだけど」
おかしいなぁとぶつぶつ独り言を漏らしながら、ウィルは一人水際をうろついている。ニノンは遠くからその様子をじっと見つめては、薄ら寒い奇妙さを感じていた。
着飾ったアーケード街よりも美しい場所があると豪語していた割に、連れてこられたのは薄暗い湖である。こんな人気のない場所に連れ出して、彼は一体何を企んでいるのだろう?
――間違ってもそいつの後についていっちゃ駄目だぞ。
その時パッと、ニノンの脳裏に数日前の出来事が蘇った。ニキ邸のリビングでランタンを作っていた時に、アダムと交わした会話の一端である。
――ついていったらどうなるの?
――湖まで誘われて、そのままあの世とこの世の狭間に連れていかれちまうんだ。一度連れていかれると、二度とこっちには戻って来れない。
ハロウィンにまつわる鬼火伝承、ウィル・オ・ウィスプ。
生前悪さばかりをはたらいてきた男が、死後天国にも地獄にも行けず、たった一人であの世とこの世をさまよい続けるというお伽話だ。
彼の提げるランタンには、悪魔に分けてもらった青い光が灯っているという。
その物語の、主人公の名は――。
「〝世迷いウィリアム〟……」
茂みをガサガサ探っていたウィルがぴたりと動きを止めた。
「いきなりどうしたんだよ、ニノン」
にこりと微笑むその瞳は青白く輝いている。まるで闇夜に浮かぶ鬼火のように。
「この間、鬼火伝承の話を聞いたの。あの世とこの世の境が曖昧になるハロウィンの夜に、道連れを探して町をさまよう男がいるんだって」
ニノンは自身の足下から言い様のない不安が這い上ってくるのを感じた。心臓が、左胸の奥で激しく警鐘を鳴らしている。ここにいては危険だ、早く逃げなさい、と。
「あなたは――世迷いウィリアムなの?」
二つの青い光がゆらゆらと揺らめいて、こちらにゆっくりと近付いてきた。
「……だとしたら?」
「来ないで」
ざり、と地面を踏む音を遮ってニノンは叫んだ。男は半歩踏み出したままの状態で動きを止める。
「こんなところまで連れ出して、私をあっちに引きずり込もうとしたんだ」
ニノンは青い眼から視線を逸らさずにじりじりと一歩ずつ後退する。
「ニノン」
「信じてたのに……ウィルはずっと私のこと騙してたんだ。はじめから」
「オレはただ、本当に見せたいものがあって」
「来ないでってば!」
弾かれたように叫べば、ウィルはまたぴたりと動きを止めた。
裏切りへの怒り、どこか期待していた自分に対する呆れ、それから悲しみとやるせなさ。様々な感情をぶつけてから、ニノンはハッと手で口元を覆った。半分は八つ当たりだと自分でも分かっている。
気まずい沈黙の後、ウィルは俯けていた顔をゆっくりと上げた。
「――なんで?」
彼は拒絶された事実などなかったかのように、くいと小首を傾げる。
「え……」
「だって、ニノンもオレと一緒にいる方が楽しいだろ? あいつらと一緒にいたって邪険に扱われるだけだもんな。最初に会った時みたいにさ」
「あ――あの時はたまたまで」
「あいつらを庇う義理なんてない。どうせ向こうは心の中で差別してるよ、他の奴らと同じでさ。色ナシの可哀想な女の子だからって、同情心で一緒にいてくれてるだけなんだよ」
「私たちが一緒にいるのはやらなきゃいけないことがあるからだもん!」
「へえ、本当にそうかな?」
ウィルは両手を広げ、歌うように語りながら迫ってくる。その声色は異様なほど明るい。
ニノンは悪寒に粟立つ腕を抑え、もつれそうになる足を必死に動かして後ずさる。
「ルカは私のこと助けてくれるって――なにがあっても守るって、約束してくれたんだから。なにも知らないのに酷いこと言わないで」
「約束! わざわざ口にするなんて、それってつまり義務になってるってことだろ?」
「そんなこと……!」
そんなことないと、どうして否定しきれるだろう。
約束は言葉にした瞬間から義務に変わる。ルカが側にいてくれるのはつまり、父親から義務を受け継いだからに他ならない。
「言葉ってのは簡単に嘘をつく」
言葉に詰まるニノンに、ウィルは冷たい声で言い放つ。
「相手の心の内なんて、結局他人には覗けないんだ」
その時、ごつん、と背中に固いものがぶつかった。手のひらに触れたのはざらざらとした太い木の幹。
あ、と思った瞬間に、男の両腕が頬を挟むように突き立てられた。ニノンの喉から引き攣った声が漏れる。
「どうしてそんな悲しそうな顔をするんだよ?」
眼前に迫る男の虚ろな瞳に、ニノンは背筋をゾッとさせる。彼は人間ではない。本能が「もう逃げられない」と告げている。
「ウィル、わたし……」
「オレはあいつらとは違う。本気でニノンと一緒にいたいって思ってるんだ。ニノンを本当に癒せるのは、同じ孤独を抱えるオレだけなんだよ」
囁く声は不気味なほど優しく、生暖かい熱を孕んでいる。行く手を阻むように突き立てられていた手がゆらりと動く。つばの先に指が掛かり、帽子を取り去っていく。
「や、めて」
枯れ水のようなか細い懇願は相手の耳にはまるで届いていないようだった。恐怖のあまりニノンの目のふちには涙がこんもりと溜まっていく。ウィルは帽子を森の方へ放り投げると、その指で溢れそうな涙を優しく拭った。
「泣くほど嬉しいの? オレもだよ――」
そう呟く男の、熱っぽい吐息が首筋を掠める。
「お、おうちに、帰して……おねがい……」
膝をがくがくと震わせながらニノンは声を絞り出した。額がくっつきそうな位置で、男の顔が「なんで?」と無邪気に笑う。
「もう我慢しなくていいんだ。大丈夫。オレが永遠に守ってあげる。寂しくない場所へ一緒にいこう」
「やだ……やだ、いきたくない……ッ」
ウィルは桃色の髪を掬い上げ、愛おしそうに指の腹でそれを撫でた。
パサリと髪を落として、指は次に耳の輪郭をなぞり始める。湾曲する溝をくすぐり、薄い耳たぶの上に光る紫色のイヤリングを触る。
ニノンはぎゅっと瞼を閉じて、ぽろぽろと大粒の涙を零した。見知らぬ男を簡単に信用するなと仲間から再三注意されていたのに、二度も同じ過ちを繰り返した自分が悪いのだ。
だが今更後悔したところでもう遅い。ルカもアダムも、こんな森の奥深くまで決して助けになど来ないだろう。
分かっていても、心は無意識のうちに助けを求めてしまう。
「ニノン……」
うっとりと耳たぶに乗った小さな石を弄っていた指が、頬をするりと撫でる。
男が背を屈める気配がした。
ぐっと腰を引かれ、一気に顔が近付き――。
「いや……やだ、やだやだ……ッ!」
――助けて、ルカ……!
心の中で少年の名を叫んだ瞬間――何かが前方でぶつかる衝撃があった。
「!?」
密着していた身体とおぞましい吐息が引き剥がされる。同時に、横から誰かに肩口を強く抱き寄せられた。
「嫌がってるだろ」
その声は静かな怒りを湛えていた。




