第120話 Shall we dance?
ニノンは今、ウィルに腕を掴まれたまま見知らぬ路地を走り続けている。
もうどれくらい経っただろう。仮装と共に用意した安物の靴は、走る度に足裏に石畳の硬さを叩きつけてくる。
「ちょっと、待って……っ」
青い灯りを頼りに広場の出口まで行ってみると、そこに佇んでいたのはやはりウィルだった。
彼はニノンの姿を見つけると嬉しそうに笑った。そして、なぜか広場中央の大焚火とは反対方向に走り出したのだ――ニノンの腕を強引に掴んで。
「ウィル、私、一緒に踊るつもりは――」
「わかってる」
そこでようやくウィルの足がぴたりと止まった。
振り返った青年の顔に残念そうな気配はない。
「ただ最後に思い出を作りたいなって思って」
「思い出? 最後のって……」
彼はいつも通りの爽やかな笑顔を浮かべた。
「ハロウィンのお祭りは今年で終わりらしいから」
そう言って、今度は壊れ物を扱うようにそっとニノンの手をとり、薄暗い石畳の路地をゆっくり歩きだした。
コルテの市長だという壮年の男性が、似たような文言を口にしていたことを思い出す。
あのスピーチを聞いていたということは、随分前から広場のどこかにいたことになる。そうしてニノンが来ることをずっと待っていたのだろう。つまり彼は約束を破ってなどいなかったのだ。
「終わるのはお祭りだけだよ。いつかまたこの町に立ち寄ったら、その時は私、ウィルを探す。そうしたらまた会えるでしょ……?」
縋るように、ニノンは目の前の背中にそっと問いかけた。グレーのニットを着込んだ背高のっぽの男の子。常に余裕ぶっているくせに、なぜか今だけはどうしようもなく孤独を背負いこんでいるように見える。
だからだろうか、彼を放っておけないのは。
前方からの返答はない。広場の喧騒は遥か後ろに遠ざかり、もはや聞こえるのは二人分の足音だけだった。
「ねえウィル、一体どこに向かってるの?」
忍び寄る濃い闇の気配に少し気味が悪くなり、ニノンは前を行くウィルの袖をそっと掴んだ。できれば今からでも広場に戻りたかったが、夜に沈む町中を一人で戻る勇気はさすがにない。
「ニノンに見せたい場所があるんだ」
「見せたい場所?」
おもむろに振り返ったウィルは、いたずらを思いついた少年のようにニヤリと笑った。
「――えっ?」
かと思えば、掴まれたままの手をぐんっと強く引かれ、次の瞬間には二人して思いきり走り出していた。
「ええ、ちょっと待って!」
悲鳴をあげる足底を庇う余裕もない。ジェットコースターのように何度も街角を曲がり、つんのめりそうになりながら石畳を駆け下り――気がつけば、二人はハロウィンの飾りに彩られたアーケード街の真ん前にやって来ていた。
夜風をきって走ったせいか、耳の奥がズキズキと痛む。
「もう……ハァ、一体……なんなの?」
「ニノンと一緒にハロウィンを過ごせるんだって思ったら、嬉しくなっちゃって」
「な、なにそれ」
余りにもストレートな物言いに、聞かされる方が恥ずかしくなる。赤くなった顔を隠すようにニノンが俯くと、ウィルはそんな様子を覗き込むかのようにぐっと身を寄せてきた。
「お菓子いっぱいじゃん。ごくろうさま」
覗き込んだのは顔ではなくカゴの中身だったらしい。なんの躊躇いもなく、大きな手がチョコレートを数粒鷲掴みにする。
「あ、それ私の!」
「いただきまーす」
ウィルは悪びれる様子もなくお菓子を一気に頬張り、いたずらが成功した子どものように逃げ出した。
しばらく忌々しいお菓子泥棒を睨みつけていたニノンだったが、当の本人があまりにも楽しそうに笑うので、不機嫌でいることがだんだんと馬鹿らしくなってきた。仕方ないな、と溜め息をひとつ吐き出して肩をすくめる。
見上げれば、アーケードの柱からぶら下がるたくさんのハロウィン飾りが目に入った。きっと商店街の人々が今日のためにせっせと飾り付けたのだろう。オーナメントと共にぶら下がるオレンジや紫のスパンコールが、頼りないエネルギーランプの明かりを反射してギラギラ輝いている。
――せっかくのハロウィンなのにくよくよして、バカみたい。
心の中で呟いてみれば、少しだけ足元が軽くなった気がした。
普段着のままのウィルは楽しげに商店街の飾りを叩いて回っている。ニノンはフリルたっぷりのスカートを揺らしながら、青年の浮かれた背中を追いかけた。
やがて二人はアーケードの中央にある円状広場までやってきた。
床に敷き詰められた青色のモザイクタイルに、淡い虹色の月光が円く降り注いでいる。それはどこか厳かな雰囲気を感じさせる光景だった。
「わあ……」
一際高い丸天井を見上げて、ニノンは思わず感嘆の声を漏らした。昼間通った時には気付かなかったが、天井には立派なステンドグラスがはめ込まれている。
描かれているのは、岬に立つ英雄ディアーヌの御姿。
輝く銀の長い髪は風になびき、紺碧の海と青空に、イモーテルの黄色い花びらが舞っている。
幻想的な光景に息を呑んでいると、ウィルがおもむろに月明かりの下へと後ろ足で歩み出た。流れるように差し伸べられた右手を、ニノンは落ち着かない気持ちで見つめる。白くて長い指先に柔らかな虹色の光が降り注ぐ。
「今夜はオレと踊りませんか?」
「…………はい」
交わる視線に一瞬戸惑い――しかしニノンは結局その手を取った。
最後の思い出を作りたいという、彼の言葉を思い出したからだった。
囲む焚火もなければ音楽もない。それはリズムもステップもでたらめで、酷く子どもじみた踊りだったけれど。それでも心は高揚し、あたりは煌びやかな舞踏会場へと変貌した。二人しか知らない、秘密のダンスホールだ。
がらんどうのアーケード。煌めく青いモザイクタイル。夢見るように踊る二人を、淡い月光だけが優しく見守っていた。
*
時刻は八時を過ぎた頃だった。
皺くちゃになった絨毯。位置のおかしいテーブル。そこらじゅうに散乱している菓子類のゴミ。広々としたニキ邸のリビングはしんと静まり返っているが、大多数の人間が暴れまわった痕跡が随所に残されている。
「やーっと帰ったよ」
盛大にため息を吐いて、ニキはそのまま革張りのソファーに倒れ込んだ。
押し掛けた学園の生徒たちが引き潮のごとく去っていったのは数十分前のことだ。彼らも八時から行われる大焚火のイベントに参加するのだという。
「元気だね、あんたのとこの化け物たちは」
長い四肢をだらしなく投げ出すニキとは対照的に、キッチンから戻ったニコラスはけろりとしている。半年ほど前までサーカス団の一員として日々訓練に励んでいたのだ。たかだか若者数十人の襲撃ではへこたれやしない。
「元気なんてもんじゃないでしょー。今年はニッキーがいたから被害が出なくて済んだけど――お、サンキュー」
ニコラスお手製のラムスールがたっぷり注がれたグラスマグを差し出すと、脆弱な男はむくりと身体を起こしてそれを受け取った。右頬には落書きの跡が残っている。邪悪な笑みを浮かべたカボチャの絵は、もちろん生徒たちの悪戯である。
「熱いから気をつけな」
マグの縁に刺さったローストアップルからは、まだほんのりと湯気が立ち上っている。シードルにりんごとスパイスを加えて煮込むオーソドックスなレシピは、かつてベルナール家に仕えていた給仕の一人に教わったものだ。
「去年なんて朝起きたら庭の木が水玉模様に塗り替えられててさ。いやそこは血みどろの赤じゃない? って言ったんだけど、そしたら『可愛くない』だって。斬新なイタズラだったなあアレは」
「生徒たちに慕われてる証拠だよ」
「うーん、そうなのかな」
ニキは難しい顔をしながら、湯気立つマグに向かってふぅふぅと息を吹きかけている。
「ニキ先生、こっちに引っ越してくる前から先生やってたんだっけ?」
ニコラスも向かいのソファーに腰掛けてマグに口をつけた。鼻先を掠めるシナモンやジンジャーの香りは、少しだけ懐かしさを運んでくる。
「んや、カルヴィにいた頃は普通に建築の仕事をしてたんだよ。それがまさか先生になるなんてね。人生どうなるかわからないよなあ」
「まさかって。先生になるのが夢だったわけじゃないんだね」
「夢か……どうなんだろう。なりたかったのかな……そうかもなあ」
なんとも歯切れの悪い返答に、ニコラスは僅かに首を傾げる。
「合ってるよ」
ニキはヘラヘラ笑いながら、くし型のローストアップルを摘んだ。
普段はふにゃふにゃしていて頼りないが、この男もきっとその裏に『匠』のスイッチを隠し持っているのだろう。代々建築に精通するボルゲーゼの血のことを、ニコラスはよく知っている。
正確に言えば、ベルナール家に忠誠を誓った七家についてだ。
画家、建築家、科学者、修復家、演者、作家……そうした知識や技術に熱意を傾ける者、そして誠実な人間を、ベルナールの当主はどのような権力者や資産家よりも信頼し、側に置いた。彼らは皆あらん限りの忠誠を主に誓い、主は彼らに惜しみない支援を行ったのである。
もうずっと昔の話だ。
「そういえばアダムちゃんもカルヴィ出身だったね」
「え、そうなの?」
「聞いてない?」
初耳だとニキはかぶりを振る。
「そう。どこかですれ違ってるかもね」
コルシカ島の北西に位置するカルヴィは、フランスやイタリアからの観光客を受け入れる玄関口にもなっている港町だ。北の最大都市であり港町でもあるバスティアと比べると規模は劣るが、それでも人の出入りは周辺の町に比べて激しい。
ニコラスの頭に、修道服を身に纏ったアダムの姿がぽんと浮かんだ。彼はそのなりのまま軽率に道行く観光客に声を掛けていく。甘いマスクと言葉に乗せられた女性たちは、まんざらでもなさそうに頬を染めるのだ。
「どの辺りに住んでたんだろな。案外近くだったりして」
ニコラスが失礼な想像をしている真向かいで、ニキはなんとなくといった口調で呟いた。
「ほら、あのピンク色の建物の孤児院だよ。聖フローラって名前だったかな、たしか」
「え――熱ッ!」
いきなり、ニキが飛び上がりそうな勢いで足をバタつかせた。余所見でもしたのか熱々のラムスールを溢したらしい。
「だから気をつけなって言ったのに」
ニコラスはキッチンから布巾を持ってきて、腿に広がる染みを上から手早く押さえてやった。ニキは情けない声で礼を言う。垂れ下がる癖の強い黒髪は、どこかしょげた大型犬に似ている。一番年が近いようでいて、実は手の掛かる子どものようだ、などと考えてニコラスは笑いそうになる。
「あそこは女の子しかいないはずなんだけどな……」
汚れてしまった床を拭いていると、頭上からボソボソとそんな独り言が聞こえてきた。
「でもアダムちゃん、あそこの出身だって言ってたはずなんだけどねぇ」
虹のサーカス団は過去に一度、カルヴィを訪れている。その時に孤児院の団体がショーを観にきていたことはニコラスも覚えている。だが、客席に座っていたのは果たして女児だけだっただろうか?
ステージに立つと前方からのスポットライトが眩しくて、客席に並ぶ顔までははっきりと見えないことが多い。
そもそも、アダムは孤児院に『アシンドラ』という同年代の少年がいると話していたではないか。
「というか、性別で住み分けでもしてるのかい? カルヴィの孤児院ってのは」
「あ、いや……」
なんとなく思ったことを口にしてみたら、ニキはそのまま言葉を濁してしまった。
不思議に思って顔を上げたところで、ニコラスは思わず眉をひそめた。ニキの目はどこか遠くを、それも不安に駆られたような表情で見つめていたのだった。
「ちょっと、あんたもしかしてさっきのところ、火傷してるんじゃないでしょうね」
「え? あー大丈夫だって」
「薬かなにか持ってきてやるよ」
「痛くない、ほんとに!」
腰を上げかけたニコラスを制するように、ニキは自身の太腿をパンパン叩いてみせた。
「ていうかそろそろ帰ってくる頃じゃない?」
矢庭に話題を変えたニキは、視線を強引に窓辺へと向けた。
「外も暗いし、心配だよーボク。ハロウィンだしさぁ。ほら、いろいろあるじゃん、怪談話!」
今まで心配のしの字すら口に出さなかった男がよく言う。ニキはマグの中身をぐいっと喉に流し込み、いつものヘラヘラ顔で楽しそうに続ける。
「ニッキーはそういうの信じるタイプ?」
「いや……私はそういう話は」
「怖がるタイプだな!」
「興味が、ない、だけ」
「ふーん」
ニコラスのじとっとした目線などどこ吹く風と、ニキは一気にラムスールを飲み干した。
「ボクも興味あるわけじゃないんだけど、学校で生徒たちからよく聞かされるんだよなー。たとえばさあ」
と、ニキは指折り数えながら、ハロウィンにまつわる怪談話を挙げはじめた。
仮装して町を練り歩いているうちに、いつのまにか列の人数が一人増えているという話。行方不明になった呪いの絵画が学校のどこかに眠っていて、ハロウィンの夜にだけ、見初められた者の前に姿を表すという話。それから、ダンスのお相手を探してさまよう惚れやすい幽霊の話等々。
「定番のウィル・オ・ウィスプなんて何パターンもあるんだよ」
「ああ、アダムちゃんが話してたやつだね。〝世迷いウィリアム〟とかなんとか」
「それそれ」
ちょうど皆でランタン用のカボチャを掘っていた時だった。あの時はアダムが変なタイミングで驚かせようとしたから、ニノンの手が滑ってカボチャをひとつダメにしたのだ。
「ここいらじゃ『世迷いウィリアムは道連れにしたい子を湖に連れていく』ってのがオーソドックスなオチかな」
「ふぅん……ま、どうでもいいわ、その話は。それよりあの子たちが帰ってくる前に部屋を片付けておかないとね」
「えーちょっと休憩しようよ」
「したでしょうが、たった今」
ぶうぶうと文句を言うニキの尻をはっ叩いて、ニコラスは床に散らばるゴミをてきぱきと拾い集めた。
窓の向こうに広がるのはいっさいの光が失われた黒い空だけである。
ちらりと壁掛け時計に目をやれば、時刻はちょうど八時半を過ぎた頃だった。




