第119話 不思議のハロウィンナイト(3)
「残念だけど知らないなあ」
「だいたいの学生の顔は知ってるつもりだったんだけど……ねぇ?」
「新入生なんじゃない?」
外見に絞られたヒントを頼りに首を捻っていた彼女たちだったが、やがて誰もが降参とばかりに分かりやすく肩を落とした。悔しがる彼女たちをバックに、「ほらな」とアダムが勝ち誇ったように腕を組む。
「学園の生徒ってそれ、嘘なんじゃねーの?」
「そんなことないってば」
「どうしてわかんだよ」
ふんっと大きく鼻を鳴らすアダムに、ニノンは唇を尖らせた。どうあってもウィルを大嘘つきの軟派男に仕立て上げたいらしい。
「とにかくそんな変な男に引っかからなくてよかったじゃねえか。騙されかけてたんだよ、お前」
「ウィルはそんなひどい人じゃないよ!」
「なんであっちの肩を持つんだよ!?」
はいはいはい、といよいよヒートアップしはじめた二人の間にバンシーの一人が割って入る。
「ニノンちゃんはアダムくんとは踊らないってさ。諦めなさいよ」
「そんなんじゃねえっつの」
アダムは噛みつくように振り返る。
「俺はアホなコイツに変な虫がつかねェように……」
「心配してるのね。わかったからほら、離れて離れて」
「絶対わかってねーだろ!」
「あそうだ」
ぶつくさ文句を言うアダムを無視して、巻き毛のバンシーが胸の前でポンと手を合わせる。
「それよりアダムくんに話があるからって、あっちで待ってる子がいるんだよね」
「話ィ?」
「ちょっとついてきてくれない?」
くいっと顎先で示された場所は、焚火から離れた広場の隅だった。そこには確かに気弱そうな女の子がぽつんと立っている。彼女もまた丈の短いバンシーの衣装を身に纏っているが、目の前の堂々たる女性陣と違って、どこか不慣れな感じがする。
「大丈夫大丈夫。すぐ済むからさ、ね」
「でも話はまだ――っておい、引っ張るな!」
言い終わらないうちに、アダムの姿はあっという間に取り囲まれて見えなくなる。
「彼、ちょっと借りるね」
彼女たちの中で一番しっかりしていそうな雰囲気の女性が、ニノンとルカにぱちりとウィンクを放つ。二人が口を開く間もなく、集団はアダムを半ば連れ去る形で闇の中へと消えていった。
「行っちゃった……」
ニノンは唖然としたまま彼女たちの消えた方角を見つめた。一人で佇んでいた女性は内気そうだったが、勇気を出してアダムを踊りにでも誘うのだろうか。確かに彼の顔は一般的に言って整っているし、女性にもうんと優しいから、そういうことがあっても不思議ではない。
自分から誘うなんてさぞ勇気が要ることだろう。一夜限りの魔法が、彼女の背中を押したのかもしれない。自分の背中も押してくれたらいいのにと、ニノンは他人事のように思う。
「踊るの?」
ひとり考えに耽っていると、背後でルカがぼそっと呟いた。
「え? 踊るって――」
誰と、と尋ねかけたニノンの心臓は、振り返り際にどきりと大きく跳ねた。
赤い炎に照らされた青の瞳が、あまりにも真剣にこちらを見つめていたからだった。
焚火の明かりによってくっきりと浮かび上がる輪郭。意外に長い睫毛が落とす影。頬のわずかな凹凸を感じさせる肌の濃淡。それらのすべてを、ニノンは燃ゆる炎に負けないくらい真っ赤な顔でじっと見つめた。
「そのウィルとかっていう男と、ニノンは踊るのか?」
「え、あ――ううん。断るつもり、だけど」
「そっか」
素っ気ない返事とともに、こちらをまっすぐ見据えていた両目は燃え盛る炎へと背けられてしまった。
ニノンは忍ぶようにそっと息を吐く。
誘いは断るつもりだと、そう答えた後にルカの目元が少しだけ柔らかくなったように感じたこと。頬が安堵したように膨らんだように見えたこと。気のせいともとれる些細な変化が、過剰な期待をいちいちニノンの胸に募らせていく。
今しがた投げられた問いに、もしも”イエス”と答えていたら?
その時彼は一体どんな顔をしただろうか。
「あの……ルカは、いるの? その、一緒に踊る人……とか」
そうして気がつけば、そんなことをしどろもどろに尋ねていた。心臓がドクドクと耳元で激しく鼓動を繰り返している。
「俺は……」
再び向けられた双眼に頬が一気に炙られる。もう熱いのが身体の内側なのか外側なのか、ニノンには分からない。
その時、すぐ側で何者かが砂利を踏む音が聞こえた。え、と顔をあげる間もなくニノンの手元のカップが翳る。
「ルカ君、ニノンちゃん」
ニノンの全身が冷水を浴びたように硬直する。
聞き覚えのある、しっとりとした美しい声だ。
「――ミーシャ」
「よかった。こんな人だかりだから、今日は会えないんじゃないかと思ってた」
ミーシャは後ろからぐるりと二人を回り込み、焚火を背に立ち止まった。
モデル顔負けのスレンダーな身体はいま、シンプルな真っ黒のローブにすっぽりと覆われて隠されている。大きな帽子の下からチラチラと覗く燃えるような赤い髪にも、これといった飾りは見当たらない。ただ大きなエメラルド色の瞳がふたつ、高価な宝石のように並んで輝いている。
なぜだろう、同じ魔女の仮装のはずなのに――しかも衣装への手間暇の掛け方はおそらく違う――向こうの方が断然センスがよく、大人びて見える。
ニノンは咄嗟に視線を自分の足元に落とした。
「お祭り……楽しんでるみたいだね」
ミーシャはちらりとニノンの手元を見やると、わずかに微笑んだ。カゴからは民家の軒先で振る舞われたキャンディーやクッキー、チョコレートが溢れそうになっている。お菓子でパンパンのカゴを自慢げに提げている自分があまりにも子どもじみていることに気付いて、ニノンは顔を赤くさせた。
「そういえば、スープが配られてるよ」
あそこ、とルカの指が特設テントの方を差す。先ほどよりも縮んではいるが、テントの前には相変わらず列が出来ている。
ルカより少しだけ背の高いミーシャの目線が、寄り添うように指の先を辿る。そうして彼女は振り返り、またわずかに微笑んだ。
「あとで貰ってくる」
二人のやり取りを耳だけで受けながら、ニノンは所在なさげに空のカップを手の内で転がした。紙でできたそれはもう随分柔らかい。
「今日はあのオレンジ色の髪のお兄さんはいないんだ」
「ああ、アダムはさっき連れ去られた」
「連れ……?」
「ダンスのお誘いを! 受けてるの、たぶん」
あまりに事件性をにおわせる言い回しに、ニノンは慌てて言葉を付け足した。
一瞬小首を傾げかけたミーシャだったが、すぐに納得したように頷くと、今度はまっすぐこちらを見て問いかけてきた。
「二人は? もう決まってるの、踊る相手」
「それは――」
「まだ決まってないよ!」
ニノンが押し通すように大きな声で答えると、隣でルカの肩がわずかに揺らいだ。
「というか私、もう帰ろうかなって思ってたところだから。踊りには参加しないの」
「え、そうなのか?」
今度こそルカは驚いたように声をあげた。ニノンは迷わず頷いてみせる。
「仮装もできたし、お菓子もこんなにもらっちゃったし」
「でもこのあとまだ……」
「ほんとはね、歩きすぎてちょっと疲れちゃった」
声を潜めてそう伝えると、ルカは訝しげな顔をした。ニノンは残念とばかりにわざとらしく肩をすくめ、ルカの手元から空のカップを掠め取る。
「あ」
「ついでにカップ、まとめて捨ててくるよ。ミーシャちゃん、また学校でね」
ニノンはなるべく早口にならないように言いきると、ミーシャに向けて軽く手を振った。そして、逃げるようにその場から立ち去った。
何か言いたげに挙げられた、ルカの片手に気付かぬふりをして。
――逃げてきちゃった。
ニノンは潰れた二つのカップをゴミ箱に放り投げると、とぼとぼと広場の端まで歩いていった。
大木ほどの炎の光も、隅の方にわだかまる闇まではさすがに追い払えない。薄暗闇の中、ニノンは側にあった菩提樹にもたれかかり、ぼんやりと祭りの賑わいを眺めた。
焚火の周りでは、それまで大勢で火を囲んでいた人々が徐々に二人組を作り始めている。
それとなく視線を先ほどまでいた場所に移すと、丁度ミーシャが何か話しかけているところだった。ルカはそれを相変わらずの無表情で受けている。
ダンスの誘いだろう、とニノンは直感的に思った。
――二人は一緒に踊るのかな。
彼女からの誘いならさすがのルカでもその手を取るのではないだろうか。普通の男ならばそうする。第一固着している相手がいないのだから、拒む理由もない。
なによりミーシャは、とびきり美人だ。
「……帰ろ」
なんだか虚しくなり、ニノンは考えるのをやめた。小さく溜め息をつき、何気なく顔を上げると――。
「あれ」
視線の先に、見慣れない色の小さな明かり灯っていることに気がついた。焚火を挟んだ反対側、広場の出口の傍だ。それは赤やオレンジではなく、涼しげな青色の光だった。
「…………ウィル?」
小さな青いともし火は、誰かを待っているようにぽつんと暗闇に浮かんでいた。
* Luca
「そういうの、興味なくて」
パチパチと薪の爆ぜる音と、周囲のざわめきがあたりに満ちている。ルカは目の前に佇む黒づくめの少女をじっと見つめた。
『踊る相手は決まってるの?』
ニノンがこの場を立ち去ってから、ミーシャは再度そんなことを尋ねてきた。もちろん相手など決まっていない。むしろニノンが帰るなら自分も連れ立って家に戻ろうかと、ルカは考えていたところだった。
つかの間の沈黙を破って、俯き加減だった大きな三角帽子のつばがパッと上を向く。
「そう言うと思った」
帽子の下で、赤毛の少女は薄く微笑んでいた。
「実はあたしもそう。別に踊りに興味なんかない。引っ越してきたばかりだし、ここの風習に馴染みがあるわけでもないし。このあとどうしようって思ってたところ」
ミーシャは冷めた声でそう言うと、くるりと焚火の方を向いた。それからその場にしゃがみ込み、側に落ちていた小枝を拾って地面の砂を弄りはじめた。
「それで、ルカ君たちを見かけて……邪魔するつもりじゃなかったんだけど」
「邪魔?」
「ニノンちゃん」
と、ミーシャは手に持っていた細い枝をこちらに向けた。
「今さっき興味ないって言ってたけど、踊りに誘おうとしてたでしょ」
図星だった。
素直に頷けばいいものを、ルカは何故か言い訳をしなければという気持ちになる。
「ニノンは祭りとか踊りとか、そういうのが好きなんだ」
「へえ」
砂のついた枝先がゆらゆらと揺れる。わずかに湾曲した彼女の瞳には、悪戯めいた色が浮かんでいる。
「目の前のこと、いつも全力で楽しむ子だから」
相手の気持ちに疎いルカでさえ、ニノンが喜んでいる時はすぐに分かる。ヴェネチアに立ち寄った時もそうだったが、彼女は賑やかな催しに遭遇すると面白いほど目の色が変わる。
そして、こちらを振り返って、本当に嬉しそうに笑うのだ。
「でも今日はあんまり乗り気じゃないみたいだ」
「参加しないって言ってたもんね。そう――だったらあたしと踊らない?」
唐突な誘いだった。ミーシャは再び視線を足元に落としていて、枝で砂をいじっている。
先程は踊りに興味などないときっぱり言いきっていたのに、一体どういう風の吹き回しだろう。
何も答えず固まっていると、ミーシャは俯いたままくすくす笑った。
「冗談だよ。そんなに真剣に迷わなくてもいいじゃない。ねえ、ニノンちゃんが戻ってくるまでここにいてもいい?」
「え、ああ。うん」
ルカは何故か内心ホッとしながら頷いた。
「踊りのことは冗談だけど、ルカ君に興味があるのは本当。……そんなこと、人に思ったのはじめてなの。あたし、友だちだって一人もいないし」
炎の明かりが枝先の軌跡に明暗を落とす。地面の上に浮かび上がった落書きは、女の子のようにも人形のようにも見える。
「別に友だちが欲しいわけじゃない。誰かと一緒にいるよりも有意義なことは山ほどあるし、一人でいる方が好きだし自分にあってる。やりたいこと、邪魔されないし」
淡々と語られる彼女の言葉に、ルカは静かに耳を傾けていた。思い出すのは故郷レヴィで過ごした日々だった。あの頃の自分の姿が、瞳に焚火を映す彼女の横顔にそっくり重なる。
「でも今は、ルカ君のこと色々知りたいって思う自分がいる。ルカ君とだから仲良くなりたいの」
ミーシャは一息に言いきると、持っていた枝を焚火へ放り投げた。パチンとひ弱な音が鳴って、枝の投げ込まれたところが一瞬だけ強いオレンジ色に変わる。
ミーシャはさっと立ち上がり、逃げるようにこちらに背を向けた。ルカはとっさにそのか細い手を掴んだ。彼女は驚いたように目を見開いて振り返る。
「まだしばらくあの教室にいる予定だから。ほかにも修復しなきゃいけない絵画があるんだ。だからまた、いろいろ話せたらって思う」
そもそも画材屋で偶然ミーシャと遭遇した際、修復作業の見学を取り交わしていたのだ。同志として語らうことをずっと楽しみにしていたのは、ルカだって変わらない。
「あたしも。聞きたいことたくさんあるの。どんな思いで修復してるのかとか、なぜ修復家を志したのかとか――教えてね。ルカ君と話せるの、楽しみにしてるから」
最後の言葉には並々ならぬ力がこもっていた。
ルカは一瞬どきりとする。その時の彼女の瞳が、まるで獲物を狩る鷹のようにギラリと光ったように見えたからだった。
だが、やんわりと手を振りほどいたミーシャの表情は、いつも通りの淡白なものに変わっていた。
「ねえ、今さっきニノンちゃんが広場を出て行ったのが見えたんだけど」
「え」
ミーシャに言われて、ルカはやっと広場の隅へ目をやった。薄暗い視界の中ではどの人影も同じに見える。けれどパッと見たところ、その中に特徴的な桃色の髪色は見当たらなかった。
『皆さま、たいへん長らくお待たせいたしました――』
時を同じくして、会場にひび割れたアナウンスが響き渡った。ようやく準備が整ったらしい。次いでハロウィンらしいヒョロヒョロといった不気味な音が流れ出し、やがてオーケストラの奏でるワルツへと繋がっていく。
「あっち。南の出口」
ルカはミーシャの指差す先に素早く視線を走らせる。二人一組の影が長く伸びたり縮んだり、広場では音楽に合わせていくつもの影が地面をうごめき出していた。
「下り坂方面だけど。家に帰ったのかな」
「下り坂……」
ボルゲーゼ邸は坂道を登りきった平地に建っている。
道を間違えたのか?
それとも――。
ハッとして、ルカはもう一度出口の向こうの闇を見つめた。
もしかしたら、ニノンは昨日の不審な男とばったり出くわしたのではないだろうか。本人が誘いには乗らないと言っていたので安心していたが、面と向かって誘われたらどうだろうか。アダムが言うように、ニノンには少し無防備なところがあると、ルカも思うことがある。
それにしてもどうして家と反対方向になんか……。
ワアン、とオーケストラが一層盛り上がる。焚火を中心にして放射線状に伸びる様々な形の影が、怪しげなワルツに合わせて伸び縮みする。
「ありがとう、ミーシャ」
「うん。またね」
少し困ったように笑うミーシャに別れを告げて、ルカはニノンの後を追って駆け出した。




