第118話 不思議のハロウィンナイト(2)
坂道の上から順に家々を回っていた三人は、日もとっぷり暮れた頃にようやくフェルメールの家まで辿り着いた。
「ごめんくださーい」
先ほどから湿った木製扉を何度もノックしているのだが、いずれも反応はない。
「留守なのかな?」
ニノンは不思議に思って首をかしげた。まさか仮装をして街を練り歩いているわけでもないだろう。
「聞こえてねェのかもな」
アダムが二階の窓を見上げながら呟く。つられてルカも同じ方向に顔を向けた。二階の窓を覆うカーテンの隙間からわずかに光が漏れている。町の最下層、しかもこんなに深い森の中にある家だ。誰も尋ねて来ないだろうと、この家の主人は思っているのかもしれない。
ニノンは最後にもう一度だけ扉をノックした。
やはり反応はない。
三人が諦めて踵を返した時――今まで静かだった家の中から、突如階段を下りてくる音が聞こえてきた。おおよそ老齢のものとは思えないその足音は、慌ただしいまま玄関までやってくる。続けざまに、バンッと勢いよく扉が開かれた。
「やっぱり君たちか。訪ねて来るだろうと思ってたんだよ。ハッピーハロウィーン!」
「父さん、まだいたの?」
両手を広げて飛び出してきたのはルカの父親、光太郎だった。
「トリックオアトリート!」
呆れる息子を尻目に、ニノンとアダムは楽しげに宣言してカゴを差し出す。「はい、お疲れさま」と、光太郎は事前に用意していたらしい特大のカボチャクッキーをそれぞれに手渡した。
「あれからしばらくここに居させてもらってるんだけど。あれ、言ってなかったかな?」
「聞いてない」
答えるルカの声は上の空だった。巨大すぎるクッキーを仕舞うのにかなり苦戦しているのだ。しばらく奮闘していたルカだったが、不意に溜息をひとつ。
「よし――割るか」
「待って、私が入れる!」
淀みなく呟かれた言葉にぎょっとしたニノンは、慌ててその手からクッキーを奪い取った。口に入れれば味は同じなのだろうが、そういう問題ではない。あくせくしながらクッキーをカゴに詰め込んでいると、光太郎が「仲いいねえ」と他人事のように笑った。
「まあ、そういうことだから。父さんはまだしばらくここに滞在する予定だし、寂しくなったらいつでも会いにおいで。寂しくなくても会いに来てほしいけど――それよりみんな、なかなか手の込んだ衣装だね」
並び立つ一行を眺めていた光太郎の視線が、息子の前でぴたりと止まる。
「それ、自分で?」
「まさか」
ルカは即座に否定する。首元を覆うように立てた襟には、素人が作ったとは思えない細やかな黄金の刺繍が施されている。それにワックスで固められた髪型もパリッときまっている。本人からすれば気合いの入った仮装は若干気恥ずかしいのかもしれない。
普段の洗いざらしの髪型や質素な服装も彼らしいけれど、これはこれで格好良いのに――余所行きに仕上がった少年の横顔をぼーっと眺めるニノンの頭の中は、決して口に出せないような恥ずかしい感想がたくさん浮かんでいる。
「ニコラスが……」
着せ替え人形になっていた時のことを思い出したのか、ルカがげんなりした調子で呟いた。ニノンは見惚れかけていた自分にハッとなり、慌てて目を逸らす。
「ああ、ニコラスさんが作ったんだね。さすが、よく似合ってるわけだ! この刺繍なんかすごく細かくて……あれ、そういえばご本人は? 今日は一緒じゃないのかい?」
仮装集団に混じっても目立つであろう派手な服装の男を探して、光太郎は不思議そうにあたりを見渡した。
「ニコラスはお家でお留守番なの。ニキ先生のお手伝いで、無理やり」
ニノンが言うと、光太郎は思い当たったように頷いた。
「ニキの家は生徒さんたちがわんさか訪ねてきそうだもんね」
「去年もお家をめちゃくちゃにされたりして大変だったみたい。――ところでフェルメールさんは? もう寝ちゃった?」
ニノンは玄関先に立つ光太郎の背後にそっと目をやった。廊下は薄暗く、人の気配はない。消灯にはまだ早い時間だが、歳を重ねるほどに眠りにつく時間が早くなるとも聞く。きっと今夜の祭りにも然程興味はないのだろうし、早々にベッドに入っているのも頷ける。
「フェルメールさんなら墓参りに行ってるよ」
「墓参り? こんな時間から?」
思わず訊き返したのはアダムだった。途端に、ザアッと強い風が吹いて辺りの木々を不気味に揺らす。薄着なのも相まって、アダムはぶるっと体を震わせた。
「朝出て行ったっきりね。帰ってくるまで、中で待っているかい?」
ただしいつ戻るかは分からないと、光太郎は肩をすくめる。三人はちらりと顔を見合わせたあと、そのお誘いを遠慮することにした。
ハロウィンは仮装してお菓子をもらうだけの祭りではない。本来は死者を偲ぶ日なのである。
――フェルメールさん、誰のお墓参りしてるんだろう。
何気なく浮かんだ疑問が、ニノンの脳裏にそっと昔の記憶を引き連れてくる。
幼い頃に死んだ母の墓は、岬のそばにある広大な墓地の、一際小高い場所に建っていた。コバルトブルーの海を後ろに構えてそびえ立つ、御影石でできた十字の墓石。中央には大きなラピスラズリが埋め込まれている。
その頃のニノンといえば、あくる日もあくる日も母の墓地に赴いて、その青い石を悲しい気持ちで見上げていたものだ。
大好きな人がいなくなるのは悲しい。
フェルメールにも、そのような人がいたのだろう。日が暮れてもなお墓のそばに居続けるほどの、愛しい人が。
「そろそろ広場に行こうぜ。大焚火が始まる時間だ」
「あ、うん」
アダムに促され、ニノンは足早に二人の背中を追いかけた。
枝葉の隙間から覗く三日月は今にも擦り切れそうなほど細く、月明かりは頼りない。森のほとんどは底なしの闇に呑まれている。何処とも知れぬ奥深いところで、名前も分からない鳥だけが不気味にボゥボゥと鳴いていた。
*
森を出てコルテ駅へ向かう坂道を登っていくと、目的の広場からは既に賑やかな声が聞こえてきていた。中では、思い思いの仮装をした人々がいくつもの小さなグループに分かれて立ち話をしたり、お菓子を食べたりして大焚火のイベントが始まるのを待っている。
ニノンは、彼らの多くが似たようなカップを持っていることに気がついた。何だろうと思っているうちに、広場の隅の大きなテントを張ったスペースに行き当たる。どうやらここで、町の大人たちが大釜で炊いたカボチャのポタージュを振舞っているらしい。
三人はカップに注がれた温かいポタージュを受け取って、焚火を囲む人だかりの中に潜り込んだ。
「それにしてもでけェ焚き火だよな」
「ニキ先生の庭にある道具小屋が燃えてるみたいだ」
「その喩えは不謹慎だろ」
温かいスープを飲みながら、二人は分別のない話題で盛り上がっている。パチパチと音を立てて燃える焚火は確かに大きくて、その頂は頭上に広がる星空を焦がしそうなほど天に近い。
ニノンは炎の輝く芯を見つめながら、胸の内側がざわざわするのを感じていた。自分はこの眩く燃え盛る赤とオレンジがあまり好きではない、と思う。頬や手の皮膚をじっくりと炙られるような熱さも、どこか不快感を掻き立てられる。
ぶしゅん、とアダムが隣で大きなくしゃみをした。
「やっぱ夜は冷えるな」
盛大に鼻水を啜りながら手のひらを片方ずつ焚火にかざす。そんなアダムの様子を横目に、ルカは怪訝な表情を浮かべる。
「アダムはそれ、ちょっと薄着なんじゃないか」
「デザイン重視って言ってくれ。あったかさは犠牲になったんだよ」
「風邪引くぞ」
そう言うと、ルカはひとり長いマントを体に巻き付けて暖を取り始めた。
「まてまて、それは卑怯だろ!」
「なんだよ、暖かさは犠牲になったんだろ――うわっ」
このまま冬眠でも決め込まんとしていたルカのマントを盛大に引っぺがし、薄着のフランケンシュタインはそのままスルリと中に滑り込んだ。
「あーあったけ〜」
「……せまい」
他人の布の端を手繰り寄せながらホッと一息つくアダム。文句を言いつつも、動くのが面倒なルカは潜られるがままだ。細長かったドラキュラ伯爵のシルエットは、いまやフタコブラクダの背中のようにいびつに盛り上がっている。
「二人とも、なんだかヘンな置物みたい」
ニノンはふふっと笑みを漏らし、両手で大事に包んでいたカップに口をつけた。カボチャのポタージュを一口飲めば、こっくりとした温かさが胃に染み込んでいく。十月も終わりとなれば、夜はやはり冷え込むものだ。
『夜もいよいよ更けてまいりましたね。皆さま、楽しんでおられるでしょうか――』
配給テントの側では、指令台に登った市長による挨拶が始まっていた。ざわめく人だかりの中から「学長〜!」と野太い声が飛ぶ。
『ふむ。楽しんでおられるようですね』
落ち着いた声が応えると、観衆からドッと笑い声が湧いた。
『改めまして、コルテの市長兼パオリ学園の学長を務めております、ヨハネス・ゴドフリーです。長年のしきたりで挨拶をせねばなりません。……が、なるべく手短にいきましょう』
目の前では相変わらず炎がパチパチと音を立てて燃えていた。時折薪が爆ぜて、暗闇に火の粉を吹き散らす。
ニノンはゆっくりとポタージュを飲みながら、さり気なく広場のあちこちに視線を移してみた。目に映るのは暖色の光ばかりだ。ウィルがランタンに灯すと言っていた青い炎など、どこにも紛れてやしない。
『そんなわけで、長年続いてきたハロウィーンの行事も今年で最後を迎えます。政府の方針ですから仕方がないとはいえ、少し残念ではありますね』
もう一度ウィルに会えたら、その時はきちんと誘いを断ろう。
ニノンは街を練り歩いている間中も、頭の片隅でずっとそのことを考えていた。待ちぼうけを喰らわせるのは申し訳なかったからだ。
だが結局、彼は待ち合わせの場所に姿を現すことすらしなかった。
あんなにも熱っぽい声で、いつまでも待っていると宣言したにもかかわらずである。
分かってはいたが、ニノンは少しだけ落胆した。あの真剣な眼差しは本物なのだと、なぜか信じて疑っていなかった。腕を掴む手の必死さだって。
だから、軽々しく嘘をつかれた事実が思った以上に寂しかったのだ。
『さて、つまらない話はこのへんでおしまいにしましょう。準備が整い次第、今一度アナウンスが入りますからね。今後も皆様方が健やかに過ごされますよう。全ての島民に英雄ディアーヌの加護がありますよう――』
沸き起こる拍手のなか、銀髪を撫で付けた立派な顎髭の男は指令台を静かに降りていった。
雑多なざわめきが再び広場を充満しはじめる。隣ではルカとアダムが、相変わらずマントに包まりながら楽しげに喋っている。ニノンも話を聞きながら笑ったり、時々相槌を打ったりして時間を潰していた。
このまま焚火の前で暖をとって、他愛もない話をし終えたら、家に帰ろう――頬を炙る熱を感じながら、ニノンはぼんやりとこの後のことを考える。寝ずに待ってくれているであろうニコラスの元へさっさと帰って、家々の軒先で頂いた菓子類を披露して。そうしてシャワーを浴びたら、なんでもない日のようにベッドに潜り込もう。夜が明ければまたいつも通りの朝が来るだろう。
「あ、いたいた。こんなところで何してるの」
すぐ後ろから高い声が聞こえてきて、三人はバラバラに顔を上げた。そこには血濡れの死の妖精に扮した、パオリ学園の女生徒たちが数人立っていた。
「それ、何ごっこ?」
バンシーの一人がフタコブラクダを指差してぷっと吹き出す。
「もー探したんだからね、アダムくん」
「っていうか三人とも仮装バッチリじゃない」
「ニノンちゃんのリボン、かーわいいっ」
バンシーたちは口々に喋り、きらきら笑っては場を賑やかした。裾をわざとボロボロに切り裂いた黒いスカートは際どい丈で、そこから伸びる脚は寒さをものともしないといわんばかりに生肌を剥き出しにしている。
「んな格好で寒くねェの?」
「焚き火の前にいて寒いわけないでしょー」
血色に塗られた爪先が催促するように二人を包むマントを持ち上げる。案の定、彼女たちの目当てはアダムだった。渋々といった様子で這い出てきたアダムに群がる女生徒たちは、バンシーというよりもむしろゾンビのようだ。
「ねぇねぇ。アダムくんはもう誰と踊るか決めてるの?」
「あー。んや、まだ?」
すんなりと会話を進めるアダムにニノンは驚いた。
「アダム、踊りのこと知ってたの?」
「あ? 知ってるって、相手を一人決めて焚き火の前でダンスするってやつのこと?」
「う……うん」
既に学園内で顔を広めているアダムは、ダンスの話題も生徒からしっかり仕入れているようだった。もしかしたら事前に誘いをいくつも受けていたのかもしれない。
一方で、催し事に無頓着なルカはやはり何も知らないらしかった。眉をひそめ、飛び交う会話を不思議そうに聞いている。
「なんだよニノン、もしかして誰かに誘われたのか? なんつって。んなわけねェか」
軽快に笑うその様に、ニノンは少しだけカチンときた。
「そうだよ」
気がつけば気安く肩に触れてくる手を冷たく払いのけ、ムキになってそう言い返していた。
「誘われたの、ダンス」
「あはは…………え、マジ? 誰?」
アダムは数秒遅れでぐるりと首を回すと、間の抜けた声を出した。
「いつの間に――あ! もしかして昨日のアイツ?」
「そうだよ。ウィルが誘ってくれたの。明日大焚火の前で一緒に踊ろうって」
「はあ? ニノンお前まさか、そんな誘い受ける気じゃねェよな?」
力強く肩を掴まれて、ニノンは顔をしかめる。
「受けないよ! 受けないけど……わかんないっ」
「あのなあ」
何が分からないのか、自分でもよく分からない。ただ無意識の抵抗心がニノンの唇をどうしようもなく尖らせるのだった。
だんまりとしたまま俯いていると、呆れたと言わんばかりにアダムが盛大な溜息を吐き出した。
「いいか。そんな素性もよくわかんねー男のこと、すぐに信用すんなって言ってんの。まだ懲りてねェのかよ」
「違うよ、ウィルはそんなんじゃ――」
ぱっと顔を上げた時、詰問してくるアダムの隣で、ルカが珍しく驚いた顔をしているのが見えた。途端に、ニノンの心の中で感じる必要のない罪悪感がむくむくと沸き起こる。
――別に、本気になっているわけじゃない。
そんな、必要とされてもいない弁明が口の中いっぱいに広がって、外へ飛び出しそうになる。
だがすぐにニノンは思い至った。ルカはただ目の前のやりとりについて行けていないだけなのだ。決してニノンに特定の相手がいたことに対するショックなんかではない。そんなことで心を動かされる人ではないことは充分理解している……。
己に言い聞かせているうちに、ニノンはだんだん虚しくなってきた。
「……素性はわかってるもん」
「あ?」
「パオリ学園に通ってるって言ってたもん」
「バカ、んなのは素性って言わね――」
「えっ、誰、誰?」
アダムの反論を押し退けて、バンシーの内の一人が身を乗り出す。
「ニノンちゃん、誰に誘われたって?」
「あたしたちが知ってるヤツかな!?」
キラキラと輝く無数の目に気圧されながら、ニノンはおずおずと口を開く。
「あの、ウィル……ウィリアム・クレーっていう人……」
「ウィリアム?」
「クレー?」
黒い長髪のバンシーが首をかしげた。その隣にいた派手な茶髪のバンシーが、もう一歩身を乗り出して問い掛ける。
「どんな見た目?」
「学年は? 学科は?」
「えっと、お姉さんみたいな亜麻色の髪で、短い猫っ毛で。背はアダムより高くて、それから優しそうな顔してて……年は、わかんない……」
答えながらニノンは、自分が相手のことを何も知らないということに気がついた。随分と長い時間二人で話をしたはずなのに。まるで記憶の一部が抜け落ちてしまったかのように、一体何を喋っていたのかはっきりと思い出せない。




