第117話 不思議のハロウィンナイト(1)
「ごめんなさい」
うすら笑いのカボチャランタンに埋め尽くされたダイニングルーム、その真ん中で、ニノンはかつてないほど肩を落として立ちすくんでいた。しな垂れた桃色の髪の向こうでニコラスが腕を組み、深刻な顔で仁王立ちしている。
「そのウィルってのが親切な男だったからまだいいものの、変な奴だったら今頃タダでは済んでないんだからね」
「はい……もう今後いっさい、知らない人にはついていきません」
「とにかく無事でよかったよ」
ニコラスは深く息を吐いて、組んでいた腕をほどいた。事の経緯を話し終えてからもう何度目になるか分からないそれが、呆れではなく心配の証であることをニノンはちゃんと知っている。だからこそ、募る罪悪感に余計に頭が上がらなくなるのだ。
「――で」
短く一言発した後、ニコラスの視線はニノンの反対側に飛んだ。
「あんたらは頼んだ買い出し放っぽりだして、遊び呆けてたってことかい」
鋭い視線に問責され、二つの背筋がピンと伸びる。
「それは、うん、悪かったって」
「ごめん」
「謝るのは私にじゃないでしょうが」
ニコラスはまごつく二人の言葉をぴしゃりと跳ね除けた。途端に彼らは頬をぶたれたような顔になり、互いに目配せしあうと、やがておずおずと正面を向いた。とっさにニノンも姿勢を正していた。
半分開いた窓から冷えた夜風が吹き込んでくる。重たい沈黙のなかで、小さな鈴が揺れるような虫の鳴き声だけが響いている。
「あ、私……あの」
「――ごめんな」
早く何か言わなければ、と焦燥感にかられていたニノンは、潔く発された謝罪の言葉に目を見開いた。
「遅いって言っておいて、俺らも同じことしてたよな」
アダムはバツが悪そうにぽりぽりと首筋を掻いた。続けて、ルカも申し訳なさそうに視線を落とす。
「ニノンは最初から食材のこと気にしてくれてたのに。俺、何も考えずに話し込んでて――ごめん」
「そんなこと……」
窓の向こうでは空が左上から徐々に濃い紫色に染まり始めていた。二人とも、一体どれほどの間町中を駆け回ってくれたことだろう。きっと途方もない時間だったに違いない。
彼らは何も悪くない。だからそんな顔をしないでほしいと、ニノンは思う。
「私の方こそ、勝手にいなくなってごめんね。一言、声掛ければよかった……ううん、もう絶対についてったりしない。いなくなったりしない――」
約束を口にしながら、ニノンの脳裏には一人の青年の姿が思い起こされていた。
力任せに腕を掴み、切迫した表情でこちらを見つめてくるウィリアム・クレー。その瞳の中で静かに燃える、地獄の業火に似た青い色。
――明日の夜、大焚火の前で待ってる。
彼は随分と余裕のない声で、明日の再会を希った。ニノンの身体の中であの激しい熱がぶり返しそうになる。
ハロウィンの夜に大焚火を囲んで行われるダンスでは、たった一人の手を取ることしかできない。そして、その夜共に踊った二人はずっと一緒にいられるという。
ニノンにはまだやるべきことがある。行くべき場所もある。だから、彼とずっと一緒にはいられない。本当はあの時、すぐにでも本人にそう伝えるべきだったのだ。
――オレにはニノンしかいないんだ。
そんな言葉、きっと誰にでも言っているのだろう。彼が一瞬だけ見せた寂しげな表情も、ただの演技に違いないのだ。青年の残像を掻き消そうとニノンが小さく頭を振った時、ルカが鞄からおもむろに何かを取り出した。手のひらに収まるほどのそれは、オレンジ色のリボンで縛られたラッピング袋で――。
「アダムと二人で選んだんだ。少ないけど、これ」
「ハロウィンの、お菓子?」
中にはドクロ型のチョコレートや可愛らしいゴーストをかたどったマシュマロなど、たくさんのお菓子が詰め込まれていた。
驚いた目を二人に向けると、ルカもアダムもパッと視線をどこかに逸らしてしまった。いつの間に購入したのだろう。可愛いラッピング袋の山の前で男が二人、肩を並べて真剣に悩む姿を想像したら、おかしくてつい笑いそうになった。そして同時に目元が緩んで熱くなった。
「ありがとう」
波打つ声でそれだけ言うと、ニノンは目のふちに溜まった涙を隠すように手でごしごし擦った。
どこかないがしろにされているという思いが、アーケード街を歩いている間じゅう、ニノンの胸の中でわだかまっていた。ひどく理不尽な被害妄想だ。安心したのと同時に、申し訳ない思いが涙となってじわじわと湧き上がってくる。
「なんだよもー、泣くなって」
呆れたように、アダムの大きな手が乱暴にニノンの頭をかき回す。
「だってえ、お菓子、好きなんだもん」
「なんだそりゃ」
ニノンは泣き笑いの顔でポロポロと涙をこぼした。彼らの与えてくれる暖炉の火種のような明かりは小さくて刺激もない。でもそれは、胸の内で爆ぜていた業火をどこかへ押しやってくれた。ニノンは心のどこかでホッとしていた。
「だーから、泣くなってば。可愛い顔が台無しだぞ」
言葉とは裏腹にアダムは破顔し、ルカもつられて笑顔になった。様子を見守っていたニコラスも、安堵したように微笑んだ。
と、見計らったようなタイミングで、キッチンから間延びしたニキの声が聞こえてくる。
「おーい、君たちそろそろ仲直りしたー? 手が空いたらさー、パンプキンアップルパイ作るの手伝ってよー」
部屋中の雰囲気が一気に今朝の何でもない空気に巻き戻った。だがすぐに、ゆったりしている場合ではないと銘々は気持ちを入れ替える。ハロウィンは明日に迫っているのに、準備はまだ半分も終わっていないのだ。
「おーい、聞こえてるー?」
「はいはい、今いくぜー」
アダムの姿が扉の奥に消えると、ニコラスも息を一吐き、一歩前に進み出た。
「さ、私たちも行きましょうか。ニキ先生の手伝いが終わったら衣装作りに取り掛からなきゃいけないからね」
え、とニノンは驚きと喜びの入り混じった目でニコラスを見返した。
「手伝ってくれるの?」
「え? もちろん」
「やったーっ、ありがとう!」
実は裁縫に不安のあったニノンである。サーカスで培ったであろう彼の腕があれば百人力だ。念のためもう一度確認すると、ニコラスはウィンクを飛ばして快諾してくれた。
「アダムちゃんはあれで意外と細かいことが得意だからいいとして。――問題はあんただね、ルカ」
こっそりとキッチンへ向かおうとしていたルカは、機械のようにぴたりと動きを止めた。
「あんた、白い布に穴二つ開けて被って終わり、とか考えてるでしょう」
ルカは沈黙したまま微動だにしない。おそらく、図星だったのだろう。ニコラスは遠くを見据えたまま続ける。
「やるわよ。採寸から全部」
「さっ……」
ぎょっとして振り返るルカに、ニコラスは待ってましたとばかりに満面の笑みを向けた。
「なに、あんたはちょっとばかり体を提供するだけさ。こんな簡単な話はないだろ?」
「いや、いい」
「遠慮しないでいいんだよ」
「え、遠慮じゃない」
何かのスイッチが入ったらしいニコラスは、逃げ遅れた獲物の首根っこを掴み目を輝かせた。こうなるともうダメだ。誰も彼を止められやしない。
ルカが珍しく縋るような目をこちらに向けてきたので、ニノンはトドメとばかりに最高の笑顔を返してやったのだった。
*
衣装は翌日の昼過ぎになってようやく完成した。仮装や諸々の準備を終えた頃にはすっかり日も傾き、コルテの町はいよいよハロウィンの空気に包まれ始めていた。
「上出来だね」
玄関先でそれぞれの衣装に身を包んだ子どもたちを順に眺めながら、ニコラスは満足げに腕を組んだ。
「ニコラスのおかげでなんとか完成したけど……難しいんだね、お洋服って」
「そう? なかなか筋があったよ、ニノン」
「ええ、そうかな」
ニノンは照れ隠しに、マントの留め具になっている大きなオレンジ色のリボンを弄った。今夜のために選んだ仮装は定番モノの魔女で、黒いミニワンピースと、その上から長いマントを羽織り、頭にはつばの広いとんがり帽子を被っている。帽子のサイドには、マントの留め具とお揃いの大きなオレンジ色のリボンが一つ乗っかっている。
本当はそれだけだったのだが、夜は冷えるからとニコラスに膝上まである縞柄のソックスを穿かされた。ふとスカートの裾が目に入り、ニノンはわずかに眉をひそめる。
「思ったよりも短かったかなあ」
これ以上丈が伸びるわけはないのだが、それでもニノンは両手でスカートの裾を懸命に引っ張った。型紙の状態で合わせるのと、実際に穿くのとではやはり長さが若干異なってくる。
ニノンが無意味な奮闘を続けていると、後ろにいたアダムが、いきなりステッキの柄でスカートの裾をぺろんとめくった。
「わっ……!?」
「たしかに短ェな」
「ちょっと!」
ニノンはお尻を抑えて一気に後ずさる。
「こんなん、簡単にめくられちゃうぞ。しかもカボチャパンツ」
うえ、とアダムは舌を出してつまらなさそうな顔をする。
「見えてもいいように穿いてるのっ」
顔を真っ赤にしながら抗議すると、アダムのしらけ顔は一転、今度は少年のようにケタケタと笑い始めた。勝手にスカートをめくっておいて失礼な男だ。
ニノンが何か言い返す前に、幼稚な男はすぐさまニコラスから拳で制裁を受け、ステッキをあらぬ用途に使われたルカからも罰則の一撃をくらった。
その時の衝撃で、アダムの頭から銀色の飾りがぽろりと転がり落ちる。
「あーっ、おい! 頭のネジが取れちゃっただろ!」
「あんたの頭のネジは最初っから取れてるよ」
「ひでェことしやがる」
あーあ俺の傑作が、などとブツブツ呟きながら、アダムは拾ったネジを再びヘアピンで頭に縫い留めた。
手先が器用だという話の通り、彼は包帯男とフランケンシュタインを混ぜたようなオリジナルデザインの仮装に身を包んでいた。もともとが細身なので、シンプルな衣装でもお洒落に着こなしてしまう。
一方のルカは、当初想定していたらしい〝一枚布のオバケ〟とは程遠い、精巧な衣装を身に纏っていた。襟を立てた黒のタキシード、身を包むように羽織った長いマント。髪の毛は整髪剤で綺麗に後ろへ撫でつけてある。
ニコラス曰く、〝ドラキュラ伯爵〟なのだそうだ。居心地悪そうにそわそわと肩を揺らすルカに対して、彼のコーディネーターは非常にご満悦の様子だった。
「ニコラスも一緒に回ればよかったのに」
大きな蔓籠とカボチャランタンを受け取りながら、ニノンは不満げに唇を尖らせた。当のニコラスは、ニコニコしながら前屈みになって魔女帽子の角度を調整している。
ニノンは帽子のつばの下からそっと目の前の様子を窺い見た。ショッキングピンクの七分丈シャツに鮮やかなグリーンのスキニーパンツ、それからウェーブがかった黄緑色の特徴的な髪型。目立ちはするが仮装ではない。普段通りだ。
「ねえニコラス。私のリボン、貸してあげる。頭につければそれだけで仮装になるよ? 髪の毛黄緑だし」
「いい、いい。こんなのが戸口叩きに来たら怖いでしょうが――よし、オーケー」
怖いだろうか。たしかに上背はあるが、そんな人間はきっとたくさんいる。ニコラスは帽子の微調整を終えると、軽くあしらうように微笑んだ。
「大人はお菓子を配る係なの」
「えー、でも」
「そうそう」
同意するように頷きながら、この家の主が玄関にひょこりと顔を出す。
「ニッキーには手伝いをしてもらわないと、ぼくが大変だろ」
ニキ・ボルゲーゼの頭は、起き抜けでもないのにひどい寝癖だった。顎髭もチクチクと伸び始めており、服装もよれた部屋着のままでなんだかだらしない。この姿で学生たちを歓迎するのかと思うと、確かにニコラスがいた方がいい気もする。もちろんニコラスなら、彼にちゃんと身支度をさせるだろうが。
「ニッキー?」
耳慣れない単語に、ニノンは首を傾げる。
「ニコラスだからニッキー。ニッキーとニキってなんか似てて、面白いでしょ?」
「いや、ややこしいだろそれは」
アダムの率直な突っ込みを気にもせず、ね、とニキは親しげにニコラスの肩を叩いた。対するニコラスはげんなりした顔で、「お好きにどうぞ」とだけ答えた。
「さて君たち」
ニキは軽く咳払いすると、
「イタズラされる前に渡しておこう」
そう前置いて、ラッピング袋に詰められた骨型のクッキーをそれぞれに手渡した。通称『死者の骨』と呼ばれるそれは粉砂糖をまぶした細長い焼き菓子で、この季節になるとパティスリーでよく見かけるものだ。
「じゃ、いってらっしゃい。なるべく日付けが変わる前に帰ってきてよね。戸締りが面倒だからさ」
扉にもたれかかりながら、ニキは手をヒラヒラさせる。
「なるべくというか、必ずね。あんたたち、ちゃんと集団で行動しなさいよ」
「大丈夫大丈夫。ガキじゃあるめーし」
「十分ガキでしょうが」
過保護な大人たちの言葉を振り切って、三人は夕暮れに染まる町へと繰り出した。
坂道を下っていると、あちこちでオレンジ色の粒が連なっているのがよく見えた。弱々しい蛍のようなその灯りはゆらゆらと進みながら、時折どこかの家の前で立ち止まったりしている。
死者の国との境目が曖昧になるこの日、町は普段とは違った奇妙なざわめきに満ち溢れる。そこここの角から姿を現わす魔女やヴェネチアンマスクを被った死神、頭に斧の刺さったカボチャ男。路地の闇に消えていく白い布の端。
陽の落ちかけたこんな薄暗さの中では、誰が人間で、誰がそうでないのか分からない。ただみんな、揃って薄ぼんやりとした灯りのカボチャランタンを提げては、戸口を叩き菓子を貰って回る。この日ばかりは生者も死者も関係なく、同じように祭りを楽しむのだ。
「あれ……おばあちゃん?」
アーケード街を通り抜ける時、ニノンは手芸屋の前で古びた丸椅子に腰掛ける老婆の姿を見かけた。呼び掛けた声は彼女の耳に届かなかったらしい。メガネの奥の白く濁った両目はこちらの姿を捉えるでもなく、時折ゆっくりと通りを眺めたかと思うと、何処でもない場所をぼんやりと見つめたりしている。
「寝てんだよ」
行こうぜ、とアダムはランタンを揺らす。
「寝てる、のかなあ……」
なんとなく老婆の様子が気掛かりで、ニノンは去り際に店の方を振り返った。老婆は相変わらず椅子の上で背中を丸め、置物のように通りを見守っている。
見守っているのか――あるいは、いつか帰ってくるかもしれない誰かを、じっと待ち続けているようにも見えた。




