第114話 ハロウィン前夜
昔々あるところに、嘘つきで性悪なウィリアムという男がいました。
その日、酒場で酒を飲んでいるウィルの元に、一匹の悪魔が訪ねてきました。
悪魔はウィルの魂を奪いにきたのだと言います。
『魂はくれてやる。そのかわり、銀貨を貸してくれないか。最後に酒が飲みたいんだ』
口達者なウィルはうまく悪魔を銀貨の姿に化けさせると、上から十字架で押さえつけ、悪魔を動けないようにしてしまいました。
『助けて!』
と、悪魔は懇願します。ウィルは彼を解放する代わりに、〝二度とウィルの魂は取らない〟と約束させたのでした。
それから長い時が過ぎ、ウィルの元にもとうとう死が訪れました。
生前やりたい放題を繰り返していたウィルは、門番である聖ペトロに「地獄行き」を言い渡されます。
仕方なく向かった地獄の門の前で、ウィルはあの時の悪魔と出会うのです。
悪魔は言いました。
『お前の魂を二度と奪わないと約束した。だからお前はこっち側にはこれないよ』
こうして天国にも地獄にも行けなくなったウィルの魂は、永遠にこの世をさまよい続けることになりました。
そのことをほんの少し哀れに思った悪魔は、ウィルに地獄の業火を分けてやりました。
ウィルはその青い炎をランタンの中に灯し、今でもこの世をさまよい続けているのです。
森の入り口や沼地のそばで、ぼうっと光る青い灯りを見かけたら、絶対に後をつけてはいけません。
もしもついて行ってしまったら、その時は――
「Boooーー!」
「あーっ!」
アダムとニノンの叫び声が重なり、広々としたダイニングルームに響き渡った。
「な、なんだよ。そんなに怖かったか?」
おどけるアダムこそ驚いた顔で身を引いている。机の向かいで俯いていたルカが、作業の手を止めて顔を上げた。
「ちがーう! アダムが急に大声出したからびっくりしたの」
ニノンはむっとしながら、カボチャに突き刺さったフルーツナイフを引き抜いた。二つのつり目になるはずだった穴は見事一つに繋がり、いまや手の内に抱かれるジャック・オ・ランタンはサングラスを掛けてニヤリとしている。
「おうおう、悪かったって。でもなかなか興味深い話だったろ? 〝ジャック・オ・ランタンにまつわる伝説〟だよ。青い火の玉は一緒にさまよう仲間を探してんだぜ〜。気をつけろよな、ニーノン」
「わっ」
アダムはランタンの成れの果てを奪い取り、仮面のように自分の顔にあてがった。
「『そこのお嬢様ちゃん、あの世へ案内してやるからこっちへおいで』なんつって――おいこらナイフを向けるな、危ねェだろ!」
「カボチャ返してっ」
二人でもつれ合っていると、頭上から伸びてきた腕がカボチャをひょいっと持ち上げた。双方の頭がカボチャを追ってぐるりと上を向く。
「あんたらね、喧嘩はいいから買い出し行ってきてくれない?」
白いエプロンを身につけたニコラスが、呆れ顔でこちらを見下ろしていた。
四人がしばらく身を置いているこの家の主は、とにかく人使いに遠慮がない。一番骨が折れたのは初日の大掃除だった。それ以外にも日々の料理や掃除など、けっこうな数の雑用をさせられている。それでも宿の無償提供してくれるニキ・ボルゲーゼの存在は、常時金欠気味な四人にとってはこの上なくありがたいものだった。
今日の手伝いは、皆でハロウィン用のカボチャランタンを彫るというもの。長らくボルゲーゼ邸に滞在していたお礼も兼ねており、四人は手伝いの集大成ということでカボチャのランタン作りに精を出していた。
くりぬいた中身は蒸してお菓子に使う。両手に乗るほどの小ぶりのカボチャばかりだが、なにしろ数が多いので、なかなか大変な作業である。
「残りのカボチャは私とニキ先生で処理しておくから」
「えー、ぼくそろそろ腕が疲れてきたんだーけーど……」
んっん、とニコラスがわざとらしく咳払いをする。
「いや――元気になったかも?」
くるりとこちらに向きなおり、ニコラスはにこりと笑った。彼の背後で、ニキが子どものおもちゃみたいなくりくりとした笑顔を作っている。
「ついでに仮装の材料も見てくればいいよ。参加するんだろ? ハロウィンナイト」
ハロウィンナイトという単語を耳にした途端、ニノンの瞳はぱっと輝いた。
今日は十月三十日――ハロウィンナイトの前日だ。
*
ニノンとアダム、ルカの三人は、メモを片手にアーケード街へとやって来ていた。街じゅうすっかりハロウィンムードで、ウィンドウから柱から天井から、とにかくあらゆる箇所に黒とオレンジの装飾が施されている。
この街一番の商店街は、大学やニキの家がある坂の上流地区と、フェルメールの家がある下流地区の二つを分断するように平行に伸びている。
アーケードの終わりはそのままコルテ駅に繋がっている。その駅からカナコを送り出したのが、つい昨日の出来事だ。
「りんご一〇個、栗粉二kg、バター、レーズン、ニワトコの実……うーん。重たくなりそう」
まだまだ材料の羅列は続いていたが、ニノンは途中で読み上げるのを諦めた。
「そんなに必要なのかな、お菓子」
商売をするわけでもないのに、とルカが訝しげに呟く。顔にはお菓子作りよりもさっさと部屋に篭って修復作業の続きをしたい、と書いてある。
「それね、なんでも生徒さんたちがたくさん訪ねてくるかららしいよ。去年お菓子の用意が全然足らなくて、イタズラいっぱいされたんだって」
「愛されてんなー、ニキ先生」
アダムの手が、柱に括りつけられたポケットから一枚のチラシを掠め取る。おどろおどろしい文字で『ハロウィンナイト』と書かれたその下に、赤々と燃える焚火と、仮装した人々がその火を取り囲む様子が描かれている。
「『死者の大焚火のご案内、十月三十一日、午後八時、パオリ広場にて』……ふーん」
「死者の大焚火?」
ニノンはチラシを覗き込んだ。
「この祭りの目玉なんじゃねェの。つかニノン、そもそもハロウィンも知らねーだろ?」
「し、知ってるよ。ハロウィンくらい」
ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべながらも、アダムは簡単に祭りの説明をしてくれた。
「ハロウィンナイトってのは、一年に一度、死者がこの世に舞い戻ってくる夜に催されるカーニバルのことだよ」
子どもたちはそれぞれ仮装衣装に身を包み、手作りのお面を被って夜の街を練り歩く。そうして手作りのカボチャランタンを手に携え、家々の扉をノックしてはお菓子をもらって回るのだという。
「ハロウィンってでも祭りだけじゃないんだぜ」
「どういうこと?」
「十一月二日までの三日間はみんな墓参りにいったりしてさ、先祖や死者のためにまぁ色々するわけ。つっても俺たちには関係ないけど――あ、そうだ。なぁルカ、ついでだから画材屋も覗きに行かねえ?」
「画材屋?」
ルカはショーウィンドウに並んだ仮装用のマスクから視線を戻す。アダムはすかさず彼の首に腕を回し、悪巧みをする時の顔でニヤリと笑った。
「俺さあ、この前マニアックな品揃えの店見つけちゃったんだよね」
「マニアック」
「気になるだろ? フェルメールじいさんからの修復代も入ったことだしさ。ちょっとだけ、な!」
おおよそ、旅費はルカの修復代とニコラスの稼ぎでまかなっている。修復はアダムとニノンも手伝うので、結局は四人で稼いだ金ということになる。
だから、道中必要なものはその都度共通の財布から支払うことになっている。
「気には……なる」
「よっしゃ、行こう!」
「まってまって、買い出しは? 衣装の材料もまだ見てないんだよ?」
ニノンは今すぐ走り出しそうな二人を慌てて引き止めた。正論のごとく問いただしているが、なにより楽しみにしていた手芸屋を後回しにされるのがただ嫌なだけである。
「お菓子の材料は重たいから最後にした方がいいと思わねェ? バターなんて冷蔵品だし、卵は割れやすいし」
一歩距離を詰めるごとに理由を述べられる。素直に従うのは癪だと思いつつも、ニノンは渋々頷いた。
「まぁ、たしかに」
「だろ? ――お」
ニノンの手にあるメモをつっついていたアダムの指が、今度は右手に連なる店々の一つを指す。指の先を目で追った先に深緑色の屋根看板があり、そこには『メルチェリア』と書かれていた。
結局、手芸店を見つけた三人は最初に衣装の材料を調達することにした。
店内は床から天井まで、あらゆる類の商品が所狭しと並べられている。ロール状の布地、カラフルなボタンが詰まった大きな瓶、虹の滝のように吊るされた糸の束。手芸屋のはずが、なぜか靴下やハンドメイドのアクセサリーなんかも壁の至るところに掛かっている。
瞳を輝かせながら商品を一通り見てまわった後、ニノンはようやくめぼしい布地と糸、ボタン、ソーイングセットと、ハロウィンの時期にだけ出回る型紙を購入することにした。
アダムとルカは既に会計を済ませたようで、汚れたショーウィンドウの向こうに二つの影がぼんやりと並んでいる。
レジカウンターには、大量の布切れに埋もれるようにして小さな老婆が座っていた。
どうやら商品にタグを括り付けていたようだ。ニノンがやって来たことに気付くと、老婆はその手をぱっと止めた。それから両脇に積み上がった布切れを押し退かし、赤ぶちの分厚いメガネを前後にずらしながら電卓を叩きはじめた。
老婆は時折眉を鋭くひそめたり、何度も目を細めたりした。本当にちゃんと見えているのだろうか――ニノンが若干の不安を抱き始めた頃、しわくちゃの指はタンッと音を立ててようやく金額をはじき出した。
「五〇ユーロと二セントだよ」
事前に頭で計算した金額とぴったりだった。
「五〇と……二、セント……」
小銭を数えていると、いきなり老婆に手首を掴まれた。
「ひえっ」と、ニノンの口から思わず変な声が漏れる。赤ぶちのメガネの奥から見つめてくる不気味な視線に耐えきれず、ニノンはそっと目を逸らした。すると、老婆はさらに力を込めてニノンの手を引っ張った。すぐそばに老婆の鷲鼻が迫る。
「アンタ」
「えっ――」
反動で被っていたフードがずれて、桃色の髪の毛が露わになる。
「キレイな目ぇ、しとるねえ」
「……え?」
老婆はにっこりと笑って、近すぎる距離からニノンの瞳を覗き込んだ。
「水晶みたいに透き通った紫色だなァ。髪も、まるで一級品の布だいねぇ」
「あ……ありがとう、おばあちゃん。あの、これはね」
「色ナシだいねぇ」
続く単語を先に答えられ、ニノンは少し身構えた。色ナシは差別用語だ。その言葉を使う裏には大抵悪意や軽蔑が入り混じっていることを、ニノンは知っている。
しかし、老婆はそれだけ言うとカウンターを離れ、どこかに行ってしまった。
しばらくして戻ってきた老婆の手には、小さな何かが握られていた。
「おばあちゃん、急にいなくなるからどうしたのかと思った」
「ごめんねぇ。アンタにこれをあげたくって」
そう言うと、老婆はしわくちゃの指でニノンの垂れた髪をかき上げ、耳たぶに持ってきたものをパチンと挟んだ。左耳と、右耳と。渡された丸い手鏡を覗き込むと――
「わあ、かわいい!」
それは紫色の天然石でできたイヤリングだった。小さな天然石のかけらが寄せ集まり、花の形になっている。
「アンタの目ぇに色がそっくりでしょう。ばぁの手作りだよ」
「え、これおばあちゃんが作ったの?」
「そうさ。キレイなものが好きでねえ」
ニノンはもう一度鏡を覗き込んだ。小さくて可愛らしい花が一輪ずつ、耳元でキラキラ輝いている。そのひとかけらの輝きを目にしただけで、心がじわじわと明るい色に染まっていくのがわかる。
「おばあちゃん、これ、いくら?」
「いいんだよお、値段なんて」
そう言われても、すんなりとは引き下がれない。財布の口を開けたままのニノンに、老婆は手鏡をカウンターの下に仕舞いながら「いい、いい」と何度も首を振った。
「私はねぇ、キレイなもんが大好きでねえ。いっぺんでいいから、この目でホンモノの色ナシさん見てみたかったんだ。だから耳飾りはそのお礼だよォ」
しわがれた手が財布に伸びて、開けっ放しだった口をぱちんと閉める。その手は次にニノンの髪に伸びて、透き通る桃色の毛先を優しく梳いた。
「ああ、キレイだいねぇ。この色はねえ、神様からの贈り物だよ。耳飾り、似合ってるねぇ」
「ありがとう……おばあちゃん」
色ナシという言葉の裏には悪意なんて潜んでなくて、ただそこにはこの耳飾りのようにキラキラと輝く感情が詰まっているだけだった。
綺麗と言われたことが嬉しかった。
店を出たら二人も見せよう。耳元に忍ばせた小さな花を、似合っていると言ってくれるだろうか。
ニノンはうきうきとした気持ちで店を出ると、外で待つ二人の元に向かった。
「おまたせ――」
「ほんと、おまたせだよ。一体店ン中何周したんだよ?」
だが、ニノンを出迎えたのは歓迎のムードではなかった。呆れたように吐かれた溜息に、ニノンはついムッとする。
「そんなに長く買い物してない」
「三〇分は短いうちに入るってか?」
俺たちが買い物終わってから三〇分だぞ、とアダムは畳み掛ける。え、とニノンは驚いて、ショーウィンドウ越しに店内の時計を探した。
そんなに経っていたなんて気がつかなかった。言い返せないまま立ち尽くしていると、「次行こうぜ」と言ってアダムはさっさと歩き出してしまった。
三〇分は確かに長かったかもしれない。だけど、そんなに責めなくてもいいじゃない――と、ニノンは心の中で言い返した。先ほどまであんなに嬉しくて楽しい気持ちだったのに、浮き足立つような気持ちは今やすっかりと消えてしまっていた。
「ニノン、行こう」
ルカに促され、ニノンは仕方なく足を動かした。
その声はどちらの味方でもないというような平坦さを保っていて、それがニノンの胸には寂しく響く。
耳元に忍ばせた小さな花も、風に吹かれた桃色の髪の毛が覆い隠してしまい、とうとう誰もその存在に気付くことはなかった。




