露呈されざる思案(後)
コルシカ島北西部、カルヴィの町には今日も湿気た潮風が吹いていた。
一隻の船の上をカモメの群れが旋回している。フェリー乗り場に降り立ったダニエラは、右肩の大きな鞄を背負い直し、休む間もなく市街地の中心へと向かって歩き出した。
競うようにせり立つ背の高い建物。港町らしい白塗りの壁に、不均一に並んだコバルトブルーの窓枠。入り組んだ路地はまるで立体迷路のようだ。
頭上に張られた洗濯紐と、風にはためく衣類の下を通り過ぎ、ダニエラはY字の分岐を右に折れた。先には日が陰って薄暗い路地が続いている。
しばらく歩いていると、前方から野良猫がしなやかな足どりで近付いてきた。上品な白毛にブルーの瞳。毛並みがつやつやとしているから、野良猫ではないのかもしれない。
このような路地裏には物乞いの一人でも寝そべっていそうなものだが、いつ訪れてもダニエラはそのような人間に遭遇したことがない。
「なぁー」
足元から聞こえる甘えた鳴き声を無視して、ダニエラは荷物を担ぎ直した。
猫を見ればその土地の裕福度が分かるという。
もしかしたらこの町の住人は皆、生活にゆとりのある者ばかりなのかもしれない。
壁よりも白い毛並みの猫が、背後でつまらなさそうに「にァ」と鳴いた。
路地を抜ければコーラルピンクの建物はすぐ目の前に現れた。
入り口付近には立派なリンデンの木が植わっている。朱や黄に染まった豊かな枝葉が、秋の日差しを受けて地面に柔らかな木漏れ日を落としている。
アールヌーヴォー調のこの建物は、ひどく独創的ではあるが一応教会ということになっている。孤児院付きの教会である。
ダニエラがドアノブを引くより先に、扉は待ち構えていたように内から開かれた。中から黒い祭服を身に纏ったスキンヘッドの男が顔を出す。
「やあや、遠路はるばる、どうもどうも」
「エドガー・オーズ牧師」
「お待ちしておりましたよ」
脂光りする額を二、三度撫でつけた男は、急かすようにダニエラを教会内へと招き入れた。
先を行く大きな男の背の後について身廊を進み、祭壇の右隣にある小部屋へ入る。そこにもまた扉があり、さらにその奥には孤児院へと繋がる通路が続いている。決して広くはない連絡通路を抜け、ダニエラは敷地内にあるいつもの応接間へと通された。
応接間は中庭に面した廊下の途中にあった。殺風景な室内には窓ひとつなく、壁際に大きなキャビネットが一つと、向かい合わせに並べられたソファ、その間にコーヒーテーブルが置かれているだけである。
ダニエラはようやく肩から荷を下ろし、テーブルの上にドサリと置いた。
その途端、飛びつくようにオーズの手が鞄に伸びた。
「前回の回収分に対する報酬だ」
「ああ、アルザスのババアが仕舞い込んでた受胎告知の絵の? うむ、これだけあるとやはり重たいですな。いやはや毎度ご足労をお掛けします」
黒革の鞄のジッパーが口を開けるにつれて、オーズの瞳はギラギラとした欲深い色に染まっていく。ソーセージによく似た太い指が、鞄から溢れそうになっている札束をむんずと掴み取る。
「そのことはいい。むしろ足がつく方がいけない」
「ええ、ええ。そうでしょうとも」
オーズは札束の数を数えるのに必死で、ろくに話も聞いていないようだった。ダニエラは彼が鞄の中身を数え終わるのを待たずに話を進めることにした。
「今まで頼んでいた件――我々が手に入れづらい絵画を入手する依頼について、少し報告がある」
「報告ですか、はい、はい」
「現在頼んでいる『例の絵画』をもって、この依頼は最後になると考えてもらいたい」
「ええ、はい、は――はい?」
ようやくオーズは顔を上げた。
「あの……なにか、問題が? うちの孤児たちが失礼でも?」
先程までの嬉々とした雰囲気から一転、小さな黒目が情けなくも焦燥に揺れている。
「わざわざ裏ルートで絵画を回収する必要がなくなったというだけだ。法の改定に伴って、我々でも正攻法で絵画を回収できるようになったことはニュース等で見聞きしていると思うが」
「あ……ああ、なるほど。そうでしたな」
オーズの取り繕った笑顔は、片側から縫い糸を引っ張ったみたいに歪だった。
「むしろあなたの子どもたち、と呼ぶべきだろうか、彼らはよくやってくれた。あの白髪の――脱色症の少年は特に。今までの大役を労ってあげるといい。他人の家に入り込んで絵画を盗むなど、何度も成し遂げられる人間はそう多くはない。それから、彼をサポートしていた他の二人にも」
ダニエラは懐からもう一つ札束を取り出して、机の上に置いた。こちらは報酬額には含まれていない。
「ええ、そうしますとも」
オーズは札束をふんだくると、「ですが納得できませんな」と矢継ぎ早に畳み掛けた。
膨らんだ彼の胸元を見ながら、おそらくその金が子どもたちに振舞われることはないだろうなと、ダニエラは思う。
「こっちもあんた方からの報酬をアテにしてるんだ。それがパタっと途絶えるんじゃあ孤児たちを養う余裕もなくなるってもんだ。あんた、子どもたちが飢えちまってもいいってのか?」
その趣味の悪い金の指輪を売り払えば、数ヶ月分の食費ぐらいはゆうに手に入れることができるだろうに――鼻の穴を膨らませる男から目を逸らし、ダニエラは彼の野太い指をちらりと見やった。
ゴテゴテとした金の装飾具の中にひとつだけ、違う色のものが混じっている。
右手の薬指に光る、鈍色の指輪。
それは我らが主に己の心臓を捧げると誓った、証であるはずだった。
「もちろん、ここで縁を切ろうという話ではない。腐ってもベルナール家に誓いを立てあった者同士、悪いようにするつもりはないから安心してほしい」
なぜ彼のような一族にこの指輪が託されているのか、ダニエラは託した男の考えに疑問を抱かずにはいられない。
主であった男の、延いてはカノンの――ベルナールの庇護がなければ繋がりを持つ気など毛頭ない。こうしてわざわざ仕事を回してやる義理もないのだ。ダニエラにとっては目の前の男もまた、取るに足らない存在の一人だった。
「フン、そうしてくれ。こちとらあんたの要求する無理難題を何度もこなしてきたんだぞ。盗みだけじゃあねェ――お前らがやらねェ汚れ仕事をぜんぶだよ!」
「声が大きいんじゃないか、オーズ」
おとなしく引き下がったスキンヘッドの男は、念のため扉付近を気にして首を捻った。
応接間が孤児院の端に位置しているからか、おとなしい子どもが大半を占めているからなのか、扉の向こうからは騒ぎ声ひとつ聞こえてこない。
オーズが難しい顔のまま鼻で息を吐く。
「それに貴方が直接手を下したわけじゃない。やらせているんだろう、子どもたちに。だったらいいのでは?」
オーズはむすりとしたまま黙りこくっている。
なぜこの男が牧師として街の者に慕われているのか、この点でもまたダニエラはしばしば疑問に思うことがある。
「……まぁいい。そちらのやり方に文句を言うつもりはない。それよりも、もう一つ頼んでいた案件についてだが」
じろり、と人を殺せそうなほどの鋭さでオーズが睨めつけてくる。
「手始めにそちらへの支払額を増やそうと思うが、どうだろうか?」
「ああ? どうって――そりゃあ、もちろん……え、いいんですかい?」
思わぬ提案だったのか、オーズは面白いほど掌を返した。まるで小屋の中の糞尿にまみれた豚のように鼻息を荒くし、とたんに手をこまねいてみせる。
「では報酬額を修正しよう。受け渡し日時は追って連絡する。こちらの指定した日程で対応できるだろうか」
「ええ、そりゃもちろん!」
身支度を整え、ダニエラは席を立つ。ちらと腕時計に目を落とす。この後すぐにフェリーに乗って帰れば、夕方にはカノンの待つルーヴルに戻ることができそうだ。
「なんなら日程を早めてもいいですぞ」
「余計なことはしなくていい。指示さえ守ってくれるなら」
「守りますよ、守りますとも。これからもよろしくお願いしますよ――オォッ」
極上の笑顔を浮かべたオーズは、扉を押し開くと同時にけったいな声をあげた。
彼のすぐ足元で、癖毛の少女がうずくまっていた。オーズはぎょっとして後ずさる。
「マグノリア、こんなところで何をしている。歌の練習は? おい、ミモザ! ミモザはどこだ?」
「ごめんなさい、牧師様――お歌の練習はさっき終わったの。ミモザお姉ちゃんはお部屋の後片づけをしてる。それでね、わたしたち、少し遊んでもいいって言われたから、あの……かくれんぼを」
「かくれんぼだと?」
マグノリアは癖毛の茶髪を揺らして「そう」と嬉しそうに顔を上げた。
「あとサンダーソニアだけ見つからないの。牧師様、あの子を見なかった?」
「見とらん」
オーズは怒ったように言うと、しゃがみ込んで少女の肩にそっと両手を乗せた。
「マグノリア。今後一切、かくれんぼもかけっこも禁止だ」
「え、でも」
「室内でミモザに裁縫でも教わるといい」
「あの、わたし」
少女が口にしかけた言い訳を、オーズの大きな溜め息が一掃する。マグノリアはすんっと鼻から息を吸い込んで、肩を縮こめた。
「頼むから怪我だけはしないでおくれ。もしも愛するお前たちに何かあったらと思うと――」
言いながら、オーズは乾いた瞳を指の腹でこする。
「今にも胸が張り裂けそうだ」
「わたし……はい、牧師様。ごめんなさい」
「わかってくれたならいい」
オーズは下品な装飾にまみれた指で柔らかな頬を撫でると、「行っておいで」と小さな背中を優しく押し出した。
少女は再び中庭に面した通路をパタパタと駆けていく。
「マグノリア!」
少女は雷に打たれたように立ち止まり、それからはゆっくりとした歩調に変えて、通路を歩き去っていった。
オーズがくるりと振り返り、気味の悪い笑顔を浮かべながら揉み手をする。
「お待たせしてしまいましたな。さ、行きましょうか」
ひとつ頷いて、ダニエラはオーズの後について孤児院をあとにした。
*
緑あふれる中庭のそこここで、小鳥がさえずっている。寄せ植えされた花々が風に揺れる。それ以外に、生き物の動く気配はない。
ないはずだったが、奇妙なことに、もう誰もいないはずの応接間で小さな物音がした。
しんと静まり返った薄暗いその部屋に、キィィと遠慮がちな音が響いた。
それは、部屋の隅に置かれたキャビネットの扉が内側から開かれる音だった。中からゆっくりと少女が一人這い出てくる。その顔は蒼白で、ひどい緊張に包まれている。
孤児院のどこかでは、他の少女たちがまだ見つかっていないたった一人を探すのに躍起になっていることだろう。
少女は耳をそばだて、大きく見開いた瞳であたりを注意深く見渡した。そうして誰もいないことを確認すると、脱兎のごとくその部屋から逃げ出した。
長い髪が走るたび顔にかかる。
それでも少女は――サンダーソニアは、煩わしさを感じている暇などなかった。
「ぬすみ……汚れしごと……」
ハァ、ハァ、と荒い息の合間に、青紫色の唇から忌々しい単語が漏れ出てくる。先ほどキャビネット越しに聞こえてきた会話が、サンダーソニアの頭の中でもうずっと繰り返されている。
ひとつは年若い男の声。そしてもうひとつの声は、確かにエドガー・オーズ牧師のものであった。
オーズ牧師は、汚い仕事を子どもにやらせている。
年若い男は、確かにそう言った。
オーズはそれに反論しなかった。
悪い冗談だとサンダーソニアは信じたかった。だって、子どもが――孤児院にいる誰かが、そんなことをやらされているだなんて。
一体誰が?
――白髪の少年って、言ってた。
この聖フローラ孤児院に暮らしている白髪の少年なんて、たった一人しかいない。
真冬の朝に降り積もった雪のような白い髪。教会のステンドグラスにも負けないほど美しい、薄水色の瞳。それが何かの病気のせいであることを、サンダーソニアはぼんやりと誰かから聞いた記憶がある。
「アシンドラ、お兄ちゃんが……」
いつもむすっとしていて、目つきが怖くて。だけど悲しい時や落ち込んでいる時にはいつも、仏頂面のまま頭を撫でてくれた。
アシンドラはアダムとともに、多くの少女たちにとって兄と呼べる存在だった。
彼のひんやりとした手のひらが、とても優しく子どもたちをあやしてくれることを、孤児院に住む子どもはみな知っている。
「ミモザお姉ちゃん……!」
サンダーソニアは酷い吐き気とショックを抱えながら廊下を駆ける。この受け入れ難い事実を、信用する誰かに一刻も早く否定してもらいたかった。
オルガンの鍵盤に布を被せ、修道服姿の少女はふと上を見上げる。
祭壇の上部に広がる壁画は色褪せ、線も薄れてしまっている。もうずっと昔、この島にいた画家が手掛けた壁画だそうで、コルシカ島の南にせり出た岬の上で祈りを捧げる主と信者を描いたものだという。
それが自然な流れであるように、ミモザは壁画の下で信者と同じように両手を組んだ。そっと目を閉じ、子どもたちの平穏な未来を願って。
天に祈りを捧げ続けるミモザは、まだ何も知らない。
次回からは11章〈世迷いウィルと不思議のハロウィンナイト〉です。




