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コルシカの修復家  作者: さかな
side:Louvre Ⅴ

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130/206

不本意な躍進(後)

バーカウンターで一人飲みながら思い出す、クロード・ゴーギャンの半生のお話。

 時は十数年前――〝エデン〟がまだルーヴルに吸収されておらず、絵画修復家協会として活動していた時代にまで遡る。


 珍しいことに、その時期協会には結構な数の修復依頼が舞い込んでいた。なんでもどこかの富豪が遺物整理をしたとかで、溜め込まれていた絵画が一挙に放出されたらしい。

 依頼のあった家には複数人の修復家がまとめて派遣されることになった。ほとんどが十代から二十代前半までの青年たちである。

 その中に一人、三十代半ばの男として混じっていたのがクロードだった。


「オレ、独立したらパリに事務所持ちたいな」


 派遣されてから数日経った夜のことだった。

 しょぼくれたバーのカウンターでクロードがちびちびやっていると、背後から威勢のいい声が聞こえてきた。同じタイミングで派遣された青年たちだ。

 コルシカ島の片田舎ではバーの数も限られる。だから、一つの店に協会員がこうしてより集まるのも仕方がないといえる。


「独立って、なかなか難しいぞ?」

「まぁそれは冗談として、いくつか事務所の試験は受けようかなって思ってる」

「いいよな、パリ。ルーヴルのお膝元だし」

「ルーヴルか……あそこに入れたらなぁ」


 悩ましげな溜息がバックミュージックに紛れて消えていく。

 ルーヴルは倍率も試験の難易度も非常に高いことで有名なのだ。秘密裏に敷かれたコネクションが存在するという噂もあるにはあるが、気まぐれに受験したところですんなり入れる場所ではない。それは誰もが知っている事実である。


「でもま、あと五、六年は協会に世話になってさ。そっからだな、うん」

「四捨五入したら三十路か」

「なんでそこ繰り上げるんだよ。二十代半ばでいいだろ」


 背後でどっと笑いが起こった。クロードは真顔で煙草をふかす。グラスの中で氷がカランと音を立てた。


 協会に所属する者は、年を重ねればたいていがそこから離脱していく。生活水準をもう少し上げたいと強く思うほどの安月給だから、というのが大半の理由だろう。

 そうして離れていく者のほとんどは、修復家を抱え込んでいる企業か、あるいは安定した事務所に転職する。腕と金があれば独立する者もいる。

 それでもクロードが組織を抜けないのは、そういった諸々の活動が面倒だったからだ。そこまでの野心がなかったと言ってもいい。贅沢をしなければ食っていけるという現状もあっただろう。


 代わり映えのない日常。さして希望もない将来。未来に横たわっているのは、そんな味気ない現実ばかりだ。


「一度でいいからすっごいエネルギーに換わる絵画を修復してみたいって思わないか? それ一枚で一生食っていけるようなやつ。〝カナンの絵画〟みたいなさ」


 将来の希望に満ちた語り合いを聞くともなしに聞いていたクロードの耳に、突如その単語は飛び込んできた。


 一番初めにAEPを生み出したとされる幻の絵画。

 それを描いた画家――カナン。

 彼、あるいは彼女の絵画が生み出したエネルギーは膨大で、世界中を照らし続けた期間は数ヶ月にも及ぶとさえ言われている。


「ばっかだなー、そんなの都市伝説に決まってるだろ」

「お前そんな、まさか本気で信じてんの?」

「え? いやいや、冗談だってば」


 はじまりの絵画。

 その一枚以外、かの画家が制作した絵画は見つかっていない。

 それどころか、それがどんな絵だったのかすら有力な情報はない。


 現在であれば画家、修復家、画影などの詳細なデータは当たり前のようにすべて保管されるのだが、当時はそのような余裕など残ってはいなかった。なにしろ、世界はエネルギーショックの最中にあったのだから。


 つまり、とクロードは煙を吐き出しながら思う。

 かの画家も、かの画家の絵も、実在したという確たる証拠は存在しないのである。

 (ゆえ)に、巷ではカナンに関する都市伝説がいやというほど溢れかえっている。


 くゆる煙が安っぽく黄ばんだ照明の光を曇らせる。

 実態があるのかないのか分からないカナンの存在は、ちょうどこの煙によく似ている。考えても追いかけても、その存在を手に掴むことができた人間はいない。

 ただひとつ確かなのは、サンジェルマン伯爵の他にもう一人、()()()()()()が存在した――ということだけである。


「結局は堅実が一番でしょ」

「まあ、確かにそうなんだけどさ。なんかじじくさいよなー俺たち」

「そうやって夢見るようになったのが、オレたちよりもう少し上の世代なんだって。ほら、一時期ブームになったらしいぜ。有り金つぎ込んで無名の画家の絵画を買い漁ったり、描かせたりするの」

「ああそれ、聞いたことある。博打打ちのおっさんたちが借金抱えてのめり込んだってやつだ」

「欲張りなんだよなぁ。ちょっと贅沢できればそれでいいのに」

「夢みてバカを見るなんて奴にはなりたくないよな」


 下品に笑う若者たちの一声一声が、クロードの心臓をちくちくと突き刺してくる。

 バカを見たくないから、これまでずっと味気ない人生を送ってきたのだ。哀れな末路を辿った父親(おとこ)の姿をいやというほど間近に見てきたから。それなのに――


「悪かったな、バカみたいなおっさんで」


 体を流れる抗いようのない血が、クロードにそう呟かせる。

 俺ならもっと上手くやれるはずだ――欲望を滾らせた男の声が心の何処かでそう囁く。いつかその声と、身体中を巡る血潮に騒ぎ立てられ、濁流に飲み込まれそうな気がしている。


 その時、隣でフッと笑う気配があった。


「おい――」


 独り言にケチをつけられたのだとクロードは思った。不機嫌さを眉間に刻みつけながら、遠慮せずに隣を睨みつける。

 が、クロードはそこで思わず言葉を飲み込んだ。


 二つ席を空けた先に座っていたのは、落ち着き払った雰囲気の壮年の男性だった。年の頃は六十くらいだろうか。ほとんど白くなった髪に時折黒いものが混じっている。

 こちらの視線に気付いたのか、男はわずかに首を傾ける。


「すまない。気分を害したか」

「……フン、下からも上からも馬鹿にされたのかと思ってな」


 クロードは苛立ち紛れに短くなった煙草を灰皿に押しつける。居心地の悪い雰囲気に、酔いもすっかり醒めてしまっていた。飲み直す気にもなれず、そろそろ安宿にでも戻ろうかとポケットから財布を取り出したところで、男がわずかに身じろぎをした。


「懐かしい名前を聞いたなと思っただけだ。別に笑ったわけじゃない」

「『懐かしい』……?」


 カナンのことだろうか。

 クロードは財布を再びポケットにねじ込み、席を男の隣に移した。煙たいニコチンの間を割って、油のにおいが鼻をつく。体臭とは違う。これは油絵のにおいだ。それも十分な時間を絵画と過ごした者にしか染みつかない類の。


「あんたは馬鹿にしないのか?」

「しない」


 男は向けられた疑いの目を見もせずにハッキリと答えた。


「随分はっきりと言うじゃねえか」

「迷う理由がない」


 クロードはなんだか面白くなかった。自分でもよく分からない苛立ちをどこかにぶつけたくて、意地悪く質問を投げ掛ける。


「じゃ、あんたは伝説の画家の存在を信じるのか?」

()()の、か。……いいや」

「なんだよ、やっぱ馬鹿にしてんじゃねえか」


 ふん、と鼻を鳴らしてクロードはケースから煙草を取り出す。それが最後の一本だった。箱をぐしゃりと握り潰し、口に咥えた煙草の先に乱暴に火をつける。


「――だが、会ったことはある」


 唐突な言葉に、クロードは激しく咽せ込んだ。


「なんだ、信じたのか?」

 涙目で見上げた先には薄っすらと笑う男の顔があった。

「ふざけんなよ、じいさん」


 カッとなったのも束の間、クロードの頭からはすぐに熱が引いていった。黄ばんだ灯りに染まらない、オニキスのような真っ黒な瞳が、真剣そのものといった様子でじっとこちらを見つめていることに気付いたからだった。


「信じるさ」


 顔を背け、クロードはぶっきらぼうに言い放った。応えるように男の片眉が動く。


「カナンの存在を信じてないやつは『会ったことがある』なんて嘘は吐かない」

「ほう、随分とロマンチストだな」

「なんとでも言え。おい、じいさん。その話くわしく聞かせろよ」


 クロードが囲うように身を寄せると、男は反して距離を取ろうとした。すまないな、と言って片手を挙げて壁を作る。


「今の話は忘れてくれ。ほんの冗談だ」

「ハ、なんだよ。ツレねぇな」


 少々酒を飲みすぎたのだと男は言う。クロードはマスターに薄めの酒を見繕ってもらい、それを男に差し出した。


「じゃああんたの話を聞かせてくれ。あんたに興味が湧いた」

「老ぼれに湧く興味などあるものか」


 ぴしゃりと跳ね除けておきながら、興味を宿した目だけはちらりとこちらに向ける。この男、口数は少ないが会話を続ける気はあるらしい。


「なぜカナン(そんなもの)に興味がある」


 ほとんど水に近い酒に口をつけながら、男は問う。


「ロマンに理由が必要か?」

「いや……充分だ」


 クロードはへっと鼻で笑った。


「男は隠された秘宝に弱いんだよ」


 酒の勢いに任せて、クロードは胸の奥にしまい込んでいた少年の顔を覗かせた。どうせ一夜限りの相席だ。名前も知らない老人にぶちまけたところでこれからの人生が変わるわけでもない。――その時のクロードは、そんな風に軽々しく考えていた。


「もしもカナンの絵画を探し当てることができたら、あっという間に億万長者だ。夢のある話じゃねえか」

「博打を打つより細々と仕事をこなす方が確実に稼げるぞ」


 男の諭した言葉は真理である。

 夢の続きは所詮夢。現実と地続きの夢なんて、ほとんど存在しない。


「そんなの、俺の方が痛いほど知ってる」

「前科が?」

「俺じゃない。親父だ」


 苦々しくつぶやいて、クロードは肺の中の煙を頭上に吐き出した。


 世の中には、所持する絵画をルーヴル発電所に送らずに直接他者に売却する人間がいる。

 そういった売り手の約半数は「即金目当て」だったりする。

 ルーヴル発電所に絵画を送り、それらが修復を経てエネルギーに換わるまで、最低でも半年以上のタイムラグがある。絵画を直接売却する者たちが後を絶たないのは、わけあって即金が必要な人間がいつの世にも一定数存在するからだ。


 では残りの半数はどうか?

 それは、詐欺師や、或いはそういう商売で儲けようと画策している悪知恵のはたらく者たちである。


「俺がまだ小さかった頃、親父が試しに買い上げた絵画が当たったんだ。あんまり詳しく覚えてねえが、たしか蔵に仕舞われていた、大昔に名を馳せた画家の絵だったそうだ」


 その一枚のおかげで一家には大金が転がり込んできた。それはもう、パリの一等地に家をいくつも建てられるほどの額だった。

 ほどなくして父親は仕事を辞め、本格的に絵画買収の道にのめり込んでいく。


「所詮ビギナーズラックだったんだよ。なのにあの男は一攫千金を夢見てのめり込みやがった。今思えば詐欺グループに目をつけられてたんだろう。いいカモだっただろうな。気がつきゃ俺の家は借金だらけだ。あの時はなぁ、そりゃひどい生活だった」


 一歩間違えれば床を踏み抜きそうになるような、ボロボロのアパートに何年も住んだ。野良犬のようにゴミを漁り、使えそうなものをこそこそ持ち帰った夜もあった。夏場は家族揃って近所の家に頭を下げて回り、なんとかシャワーを貸してもらったりもした。

 すべて胸くそ悪い記憶だ。クロードはグラスの中身を一気に煽り、空になったグラスをたんっ、と置いた。


 どの世も結局は弱肉強食に帰結する。利口じゃない人間はたいてい知恵のある悪魔に食われて終わりなのだ。


「あんな大人になってたまるかってずっと思ってた。俺は酒とタバコが買えるくらいの生活が送れりゃそれでいいんだってな。…………でも」


 クロードは言い淀む。

 その先を認めたら終わりだと分かっている。

 だがそれ以上に、今日の酒はひどく強烈だ。


「時々思い出すんだ、一番はじめに買い上げた絵画が当たった時のあの興奮を。幼いなりにわかっちまったんだよ、血が沸き立つ感覚ってのを。目に見えないだけで、ミラクルは常に誰のそばにも潜んでるんだ。それを、俺ならもっとうまくやれるなんて……そんな傲慢なことを無意識のうちに考えちまう」


 三十歳を過ぎてからその思いは顕著になった。


――このまま同じような日常を、死に向かって消費し続ける人生でいいのか?


 無意識に繰り返される自問自答。体が「YES」の行動を取る度に、心には「NO」の思いが積もっていく。漠然とした不安や焦りが体と心の乖離からくるものだということを、クロードはもう随分前から自覚しはじめている。


「ハイリスクを伴わずに一攫千金を得ようと? だから修復家をしてるのか?」


 はん、とクロードは鼻で笑った。


「一攫千金狙うなら協会になんか残ってねえよ。そりゃはじめはあわよくば、なんて思ってたかもしれないけど。修復家やってるのは単純に面白いからだよ」

「面白い」


 男は懐疑的な声で繰り返した。どういう意味で、と視線で問われる。


「うーん。修復っつか、AEP産業って言うのか」

 クロードはぽりぽりと顎を掻く。

「授業じゃ習わない、AEP発明以前の絵画の歴史を古びた本の中で読んだことがある。――その昔、絵画の価値ってのはそれはもうひどく汚れていたんだとさ」

「汚れていた、とは」


 それまで淡々としていた男の声に、突如勢いが増した。クロードは低く唸って天井を見上げる。


「昔の絵画には〝来歴〟ってのが付随してたそうだ。その絵がどんな人々の手に渡ってきたかを記録したものなんだが、それで絵画の価値が決まったりするんだと。コネみたいなもんだよな。まぁ、その時代を生きてないからよくわからねえが」


 たとえば著名な人物が所有していたという事実。それから画家自身のネームバリュー。そういった、絵画の持つ本来の価値以外の――いわば付加価値とも呼べるものが高ければ、たとえ手癖で描いた落書きであろうと高額で落札された。


「それからナントカ会っていう派閥がたくさんあって、そこでうまく人脈を広げていって絵画の価値を高めるなんて方法もあったらしい。あとは画商の手腕、それからオークション会場での緻密な作戦なんかも、絵画の価値を吊り上げる重要なファクターだったんだ」


 つまりだ、とクロードは言葉を区切る。


「エネルギーショック以前の絵画ってのは、おそらくそれ自体に価値があるものはほとんどなかった。あってもだいたいが埋もれるか、顔を出すのは画家が死んでからってのがほとんどだった。結局は世渡りの上手い人間が得をする。絵画界は常にコネと金に汚れた、不公平の塊だったんだよ」

「AEPが発明されて、それらの汚れが払拭されたと?」

「そうだ。コネクションも経済力も人間性も関係ない――ただ純粋に絵画の持つエネルギーが評価される。しかもその価値は数値化される。完璧なる公平性を手に入れたんだろうよ」

「公平性か……」

「この歴史を知った時、俺ははっきり言ってちょっと感激したんだ。こんなにも合理的な価値観に変換できる例があるのか、ってな」


 次の酒を頼むのも忘れてクロードは語った。久しぶりに心が若さに潤っていた。


「お前は、画家がそれで幸せだと思うか?」

「は? 幸せだと?」


 男の問い掛けは唐突で、突拍子もない内容だった。

 なんだそりゃ、と言いかけたが、クロードは思い直して真面目に考えることにした。画家の幸せとは――そもそも、絵画がエネルギーに還元できるようになる以前の画家にとって、なにが幸福で、なにを拠り所に筆を取っていたのか――ぼんやりと想像することはできても、どうだと問われると答えられない。


「まぁ、幸せかどうかっつうより……そういう風に考えられる奴が画家として残っていくんだろ」


 生き物は結局、肉体にしろ思想にしろ、環境に適応したものが生き残る。


「適者生存ってことだよ。生物が生き残るために進化を遂げるのと同じだ。十年後、二十年後も今と同じ世の中が続いてるなんて、誰も断定できやしねぇんだ。俺たちはただ、より良いモノに乗り換えるだけさ」


 男はだんまりとして、何事かを考え込んでいるようだった。やがて、すっかりぬるくなった酒を一気に流し込むと、至極真面目な顔つきでこう言った。


「お前、うちで働くか」

「あン?」


 またしても脈絡のない会話に思わず変な声が出てしまう。

 その男が修復家で、工房を持っていると聞かされるまで、クロードはまさか自分がヘッドハンティングされているなんて露ほども気がつかなかった。そうして理解した頃には、気持ちは既に固まっていた。


「ひとつ言い忘れていた。うちは安月給だ」

「今さらだそんなもん。今でも十分安月給だよ。その代わり、いつかカナンの話を聞かせてもらうからな」


 今まで頑なに動くことを拒んでいた(とき)が、ここにきて急速に動き出すのをクロードは感じていた。

 水でさえ、(かめ)に溜めたままだと腐ってしまう。だが水の腐敗はかき混ぜて流れを作ることで防ぐことができる。

 心だって同じだ。動かさなければ死んでしまう。腐りかけていたクロードの心は今、ゆっくりと息を吹き返したのだ。

 まだ腐っていない。まだ生きている。そう思えることが、柄にもなく嬉しかった。


「遠いぞ」

「どこまで?」

「〝レヴィ〟だ」

「れ……どこだ?」

「アルタロッカ地方。南の方だ」

「はあ? 山ん中じゃねぇか」

「嫌ならこの話は無しだ」

「待ってくれ。わかった。今の仕事が片付いたらついていく。おい、その前に名前を教えてくれ。これから世話になるんだ、さすがに『じいさん』は失礼だろ」


 男はゆっくりと席を立ち、ポケットにねじ込んでいたニットキャップを被り直した。


道野(みちの)光助(こうすけ)だ」


 *


 かくしてクロードは光助に師事することになった。


 いくつもの季節をレヴィで過ごしたクロードは、その間、光助と光太郎、それからルカと共に様々な絵画の修復に携わった。

 残念ながら、カナンの話を聞きだす前に光助は行方をくらましてしまったけれど、レヴィで過ごした数年間がクロードの中の何かを変えたことは確実であった。

 もはや先に横たわるのはつまらない日常や分かりきった未来などではない。


――いつかカナンの絵画を見つけ出す。

――そのために光助の消息を追う。


 彼の残した足跡はきっと、どこかに眠る幻の絵画に繋がっている。そんな気がしてならなかった。


 やがて五度目の春を迎えたクロードは、その年レヴィの修復工房を出ていった。確かに光太郎との衝突も理由のひとつではあった。

 しかし、それがきっかけで出て行ったわけではない。絵画修復家協会・エデンがルーヴル発電所に吸収されるという情報を掴んだから、そのような行動に踏み切ったのだ。


 ほどなくしてクロードはルーヴル発電所への入職を果たす。

 そして、このオンファロスの恩恵を受ける聖なる地で、これから多くの時を共にする少女と出会うのである。


『貴方がクロード・ゴーギャン?』


 おかっぱ頭に袴姿。日本人らしい出で立ちの少女は、気の強そうな瞳の上でぴんと片眉を跳ね上げた。


『わたくし、やるからには全力を尽くしたいの。よろしくお願いしますわね?』

『ゼンザイ、カナコ……カナちゃんか』

『ちょっと! その安っぽいあだ名、やめてくださる?』

『わかったわかった。よろしくな、カナちゃん』

『全然わかってませんわ!』


 むすりとしたまま、カナコは差し出した手を握り返した。


 それから約三年間、あんなにも苦楽を共にすることになるなんて、この時の二人は思ってもみなかっただろう。

 カナコの腕のなさに苛立つこともあった。逆に、だらしないクロードの性格にカナコが腹を立てることもあっただろう。

 けれどそれ以上に毎日が新鮮で楽しかった。カナコの捻くれていない勢いに、不器用なくらい真っ直ぐな姿勢に、クロードは何度も救われた。

 本当に様々なことを乗り越えてきたのだ。自分たちなりに、手探りで。


 クロードは懐かしい思い出に浸りながら、一人グラスを傾けた。


 すべてはあの瞬間から始まったのだ。

 世界を統べるルーヴルの中枢――ドゥノン翼塔の一角、壮大な天井画の広がるその下で。

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