不本意な躍進(前)
クロード・ゴーギャンが本部の臨時会議に呼ばれたのは、旧帝都・コルテへと赴く直前のことだった。
本来ならば、翌日からカナコと連れ立ってアンリ・フェルメールの元を訪れる予定だったのだ。絵画の回収を相方にすべて任せなければならなくなったのは、そのようなままならない理由があったからだった。
当初カナコからは、一体何をやらかしたのかと鼻をつまんで批難されたものだ。
もちろんクロードに心当たりなどない。
あるとすればそれは、ネズミのようにこそこそと発電所に侵入したルカたちを捕まえ損ねた事くらいだろう――などと、クロードは半分冗談のつもりで考えていた。彼らの待つ会議室に足を踏み入れるまでは。
扉を開けた瞬間、向こう側にいる人間の顔が一斉にこちらを向いた。
部屋の中央には巨大な円卓があり、その円卓をそうそうたる顔ぶれがぐるりと取り囲んでいる。
なんとも異様な空気感で息が詰まりそうだ。クロードは無言で用意された椅子に腰掛けると、彼らの首からぶら下がるIDカードをちらりと盗み見した。
盛大にあくびを噛み殺す白衣の男、〝リシュリュー翼長〟シモン・レンブラント。その隣で豊満な胸を机に押し付けるようにして微笑んでいるのは〝リシュリュー翼長補佐〟ダーナ・ヴァルマ。
さらにその隣には、粛々と目を閉じているターバン頭の女性――薄っすらとではあるが、彼女とは面識がある。〝ドゥノン翼長〟ジェルメーヌ・ドラクロワだ。
彼女の斜向かいには、先ほどから神経質そうに指先を動かしている〝シュリー翼長補佐〟セルゲイ・アンドレエヴィチ・ヴルーベリの姿がある。事あるごとに嫌みたらしく纏わりついてくる、クロードにとって非常に厄介な男だ。
そして真正面に座る男――〝シュリー翼長〟ダニエラ・ダリ。
ルーヴル発電所の頂点に君臨するサンジェルマン伯爵に代わり、実質組織を統括しているナンバーツー。その素性は、誰の前にも姿を現さない発電所長と同じくらい霧に包まれている。
――死刑宣告ってか。ガキ共を逃しちまったから?
クロードが視線をぐるりと巡らしていると、置物のようだったダニエラ・ダリの唇が薄く開いた。
「今回君をこの場に呼んだのは、臨時異動の内示を伝えるためだ」
「異動」
すぐさま左遷という二文字がクロードの脳裏を過る。
「知っている者もいるとは思うが、ドゥノン翼長補佐であるクラナッハの無断欠勤が続いている。規定により、我々は同ポストの候補を新たに選出しなければならなくなった」
「え、ちょっと待ってくださいよ。話がよく、わからないんですが」
くるくると円を描いていたヴルーベリの指先が動きを速める。
「…………俺がそのポストに?」
「当人からの異論がなければ、本件は現時点をもって速やかに採決される」
ダニエラがにべもなく言い放つ。
重役の一人が蒸発したらしいと、風の噂で耳にはしていた。まさかその影響がこちらにまで回ってくるなんて。クロードは頭を抱えたくなった。
左遷どころの話ではない。
昇進――だが望まぬ昇進だ。
玉突きかよ、と、クロードは心の中で舌打ちする。
沈黙を肯定と捉えたのか、ダニエラは「異論はないようだな」と話を先に進めた。
「三週間後までに後任に引き継ぎを終えておくように。ヴルーベリ、明日通達を発信するよう伝えておいてくれ」
「え、ちょっ……」
「かしこまりました」
狼狽えるクロードを捨て置いて、シモン・レンブラントが呑気に「うーん」と伸びをした。
「会議はこれで終わりっしょ? 俺、予定詰まってるからもう行くわ」
よっこいしょ、と腰を上げるレンブラントに、補佐の女が猫撫で声を出して纏わりつく。
「研究室に引きこもる前に、この資料に目を通してくださいな」
「あー……オッケ。あとでやるわ」
明らかに面倒臭そうな顔をする男の目元には、かなりひどい隈が浮き出ている。
「ああん。リシュリュー翼長様ったら、いつもそうやってはぐらかすんですから」
逃げるように席を立った金髪白衣の男を、腰をくねらせながら補佐の女が追いかけていく。
「自由だな……」
クロードが驚いている間に、ダニエラ・ダリもさっと会議室を出ていってしまった。彼の後を追おうとしていたヴルーベリは、急ぎ足のままクロードの前までやってきて、ぴたりと立ち止まる。
「大躍進じゃないか、ゴーギャン君!」
骨ばった白い右手をこれみよがしに差し出され、クロードは一瞬眉をひそめそうになった。
躊躇している間にぐいっと手を引かれ、強引に握手を交わされる。
「これからは補佐同士、よろしく頼むよ」
首にまわされた手が、結構な力でクロードの肩口をバシバシやってくる。「よろしく」なんて言っている割に、不自然に釣り上がった口角からは友好的な気配なんてこれっぽっちも感じられない。
駒として使おうと思っていた人間が隣に並ぶことになり、内心腹立たしく思っているのだろう。
「はは……お手やわらかに」
クロードは苦笑交じりにそう返したが、慌てて立ち去る痩せぎすの男にはもう聞こえていないようだった。
「災難だったわね」
立ちかわるように背後から声を掛けられる。聞き覚えのある、艶っぽい女性の声だ。
クロードはパッと後ろを振り返った。瞬間、ふわりとイランイランの香りが鼻腔を掠める。すぐそばでエキゾチックな顔立ちの女性が微笑んでいた。
「改めまして、ジェルメーヌ・ドラクロワよ。あなたの直属の上司になるかしら。まぁ、そう気負わずにね」
有翼のニケ像の前で、あるいはルカを取り逃がした時に、クロードはドラクロワと幾度か言葉を交わしている。覚えているのは彼女も同じだったらしい。
うふ、と上品な微笑みを浮かべると、彼女はそのまま会議室を出ていった。結局、クロードはだだっ広い会議室に一人取り残されるハメになった。
「ハ、災難も災難だ。人生うまくいかねえな」
ぼそっと呟いた言葉は静まり返った会議室の中でやけに響き渡り、やがてすぐに消えていった。
世界中を飛び回り、まだ世に露見していない絵画を掘り出してやろう――そう意気込んだ矢先の異動だった。
目的地は確かにそこに見えているのに、歩けども歩けどもなかなか辿り着かないというのはよくある話だ。
頭では解っている。
人生がうまくいっていないのではなく、ただ現実に夢を見過ぎているだけなのだと。
ふいに甘く濃厚な残り香を鼻先に感じて、クロードは所在なさげに頬を掻いた。
*
落ち着いたジャズミュージックの流れるバーカウンターで、クロードは煙草片手にスコッチを呷っていた。
会議室を出るとすぐに、クロードはカナコに一報を入れた。今まで組んでやってきた相手だ。まず一連の出来事を報告すべきだろうと思ったのだが――。
『信じられない! じゃあわたくしは? わたくしはどうなりますの!?』
彼女から電話越しに浴びせられたのは理不尽な痛罵だった。挙げ句の果てにはこっちには来なくていい、一人でやる、と吐き捨てられ、一方的に通話を切られる始末。
「喚きたいのはこっちだぞ……っと」
クロードはやるせない気持ちと共に、煙草の火を靴裏でなじって消した。
会議が終わり次第すぐにコルテに向かおうと思っていたが、やめた。
代わりに足が向いたのは馴染みあるバーだった。
賑やかな表通りから離れ裏路地に入り、さらに古びたコインランドリーの裏手をいくと、陰に隠れるようにひっそりと佇む店に辿り着く。一人で飲むにはうってつけの、隠れ家のような場所である。
クロードは流し込むように酒を飲み、たん、とグラスを置いた。肺からふうーと吐き出した白い煙が、くゆんで空気に溶けていく。
路地裏と言えどパリの一等地に構える店だけあって、内装はどことなく洗練された雰囲気がある。棚に並んだボトルのひとつひとつまでもがインテリアのようだ。
空になったグラスが下げられると、頼んでもないのに新たなグラスが差し出された。クロードは訝しげにマスターを見上げる。
「頼んでないぞ」
「サービスです」
洒落た口髭の下で、唇がゆるく曲線を描く。
「なにやら気落ちしておられるようなので」
「……口に出てたか?」
「いえ、顔に」
マスターはそれきり口を噤み、グラスを磨き始めた。顔馴染みともなると粋なことをしてくる。こういうところが、クロードは嫌いではなかった。
いつの時代でも酒と煙草は男の特効薬だ。そこに女が加わればもっといい。代わり映えのないつまらない日常でも、だらだらと食いつないでいけるくらいには退屈しない。
いくらか気分のよくなったクロードは、自らカウンターの向こう側に話しかけた。
「あんた、この店大きくするつもりはないのか?」
マスターはグラスを拭く手をとめて、くいと首を傾げた。
「そういうことは特には。ひっそりとやる性分ですので」
「そうか。俺もそういうトコロが気に入ってるんだ。隠れ家みたいな、秘密の場所みたいな雰囲気がいい」
ありがとうございます、とマスターは控えめに顎を引いた。
「狭いところが好きなの?」
背後から突如発せられた声に驚いて、クロードは煙草を取り落とす。
「ド……ドゥノン翼長、どうしてここに」
振り返ると、そこには象牙色のタートルネックに着替えたドラクロワが立っていた。高いところで結わえてあった髪もいまはおろしているので、昼間会った時とは随分印象が異なる。
「ずっといたわ。ほら、あの奥の机に。マスター、なにか作ってもらえる? オススメを、甘いので」
注文しながら、ドラクロワは空のグラスをマスターに手渡す。唖然としていたクロードはとりあえず隣の椅子を引いた。
「隣、いいの?」
「誘わない理由もないでしょうよ」
「ありがとう。いきなり上司とサシでなんていやよね。ふふ、でもどうせだから一杯だけ奢らせて。ささやかな歓迎会ってことで」
マスターが赤色のカクテルをカウンターに置く。グラスの底に軸付きのさくらんぼが沈んでいる。ドラクロワはそれを受け取って、遠慮がちに隣に座った。
「ごめんなさいね。ここの常連なの、私」
「俺も常連で。つってもここ半年くらいですけど」
ドラクロワは既に酔っていた。とろんとした目は三重にも四重にもなっていて、そこにゴールドのラメがキラキラと輝いている。
見たところの年齢はクロードより十は下ではないだろうか。美人の年下上司。ニコチンとアルコールのにおいに混ざる異国の花のような香りは、どうしようもなく心地よい。
「通ってもう何年になるかしら。居心地のいい雰囲気が好きなの。あなたは……狭いところが好きなのよね」
ドラクロワはうふふ、と笑いをもらす。
「狭いところっつか、秘密基地? みたいな感じが――って、これじゃ余計にガキっぽいな」
「いいじゃない、秘密基地。少年みたい」
「昔っからそういうのに弱いんだ。中身がガキのまんまなもんで」
と、クロードは唇を尖らせた。
「みんな同じよ。心の中に子どもを飼っている」
「みんなねぇ……」
細長い指が、グラスからさくらんぼを摘み上げる。真っ赤な果実は鮮やかすぎて、なんだか偽物みたいだ。
「ドゥノン翼長もその中に入ってるって言うんですか?」
「そうよ。大人になっても彼らは消えない。仕舞い込んでいるか、忘れているだけ」
ドラクロワは本当に一杯だけ付き合って席を立った。
「以前、カナコと話している時にあなたのことを聞いたわ。絵画の収集をやりたいんですってね。今回の異動については残念だったけど……でも修復もなかなか面白いわよ」
「いや、もちろん。修復にずっと携わってきたんで、わかってます。ドゥノンに来たのがいやってわけじゃなくて、あいつが言ってたのは俺の本心一〇〇%ってわけでもなくて……ンー……」
「ええ、わかってるわ、ゴーギャン」
カナコの口の緩さも考えものだとクロードは目頭を揉んだ。
「私が言いたかったのは、ドゥノン翼はあなたを歓迎するってこと。また改めて飲みましょうね」
カウンターに数枚の札と小銭を置いて、ドラクロワは店を出ていった。
彼女の残り香はやはり上品で、これならどれだけ漂ってもらっても構わないなとクロードは思う。それからまたこの店で偶然会ったなら、その時はいろいろ話してみようか、なんてことも。
彼女なら滑稽な話でもなんでも、聞いてくれそうな気がした。
落ち着いた色の照明のもとで、クロードはグラスを傾けながらなんとなく昔の記憶に思いを馳せていた。
以前もこうして、心の中に仕舞い込んでいたものを取り出して、他人に見せたことがあった。
ここみたいに洒落たバーではない。もっと片田舎の、内装も客層もしみったれたバーだったけれど。
そこでクロードはとある男に出会ったのだ。
後に彼が師事することになる人物――日本とコルシカの血を半分ずつ引く、あの男に。




