第113話 善哉カナコの決別
現時刻、十七時三十五分。
夕暮れ色に染まる空の下、ルカたちはコルテ駅のホームで列車の到着を待っていた。
カナコが乗車する予定の列車はバスティア行き急行。到着するまでまだ半刻ほど余裕がある。ルカは目の前の会話に入るでもなく、ぼんやりと駅の風景を眺めていた。
まばらだが、向かいのホームにはそれなりに人影がある。おそらくほとんどが乗り換え待ちの人々だろう。この駅を起点に、線路はカルヴィ行きとバスティア行きの二股に分岐している。
「皆様方、この度は本当にお世話になりました」
カナコは一同の前に歩み出て、深々と頭を下げた。
ルカを挟んでアダムとニノンが気まずげに目配せする。高飛車で鉄砲みたいだった彼女がこんなにもしおらしくなってしまって、なんだか逆に居心地が悪かった。
「善哉さん。とりあえず、その絵画をよろしく」
そう声をかけた途端、いきなりぎゅっと手を掴まれた。驚いて身を引こうとするも手を引く力は強く、ルカはかえって前のめりになった。
「わたくし、ルカさんから授かった技術をきっとモノにしてみせますわ」
「はぁ」
前傾姿勢のまま視線を上にやる。カナコの目の奥にメラメラと燃えあがる炎が見えた。
「そしていつの日か、貴方と肩を並べられるくらいに成長してみせますわ!」
「それは……楽しみです」
「いいねいいね、その意気だよカナコちゃん」
横から光太郎が無責任な激励を飛ばしている。
「指導した子の成長が楽しみだね」なんてのたまう父親の、浮かれた視線を適当にあしらって、ルカはカナコに向き直った。
「まぁ、がんばって。いろいろと」
「ええ。ありがとうございます」
闘志を燃やす彼女の背を押すように、向かいの一番ホームで発車ベルが鳴り響いた。
「ルカさんのおかげでわたくし、大事なことに気付けた気がしますの」
「大事なこと」
「ええ」
やる気に満ち溢れた両眼があまりにもこちらを真っ直ぐに見つめてくるので、ルカは堪らず目を逸らした。
「だからわたくし、決心しましたのよ――」
視線の先ではちょうど、向かいのホームに停車していた列車がゆっくり動き出すところだった。やがて車両がいなくなり――そこでルカはホームを二度見した。
「……クロードおじさん!?」
ルカの声に一同はどよめき、視線が一斉に男に向いた。
上下共に真っ黒な服で身を包んだ男には確かに見覚えがある。遠目から見てもクロード・ゴーギャンで間違いない。どこまでも神出鬼没な男である。
クロードは急ぎ足で改札口に向かっていた。
「おいおい、なんであのおっさんがここにいるんだよ。もしかして俺たちを捕まえにきたんじゃねェだろーな」
さっとルカの背後に身を隠し、アダムが怯えたように言う。情けない友人を引き剥がそうとして、ルカの目はふとカナコの横顔を捉えた。彼女の表情は岩のようにひどく強張っている。
――緊張? なんで……。
「大丈夫だよ。おじさんに限ってそんなことないってば」
「バカやろー、引っ張るなニノン!」
「一人だけ隠れても意味ないでしょ!」
二人がごちゃごちゃとやっている間に、クロードは改札口へと消えていった。
「あ、行っちゃった」
「なんで残念そうなんだよ」
「なんとなく……」
が、しばらくすると彼はすぐに引き返してきた。
「あ、おじさん。おーい」
ニノンが元気よく手を振る。
「おーい、じゃねんだよ。げえ、こっちに向かって来たじゃねーか!」
しかも後ろに見知った緑髪の男を引き連れている。
「ニコラスー! お前ェなに連れてきてんだよ!」
アダムの叫びにニコラスは「は?」という顔をしている。フェルメールの家に忘れ物をしたというので、彼は追ってコルテ駅に向かうことになっていた。きっと先ほど改札口でクロードに偶然出くわしたのだろう。
クロードが彼らしからぬ焦った様子で二番ホームに駆け込んでくると、突如、カナコが踵を返して走り出した。
「えっ、カナコちゃん? そっちは行き止まりだよ!」
ニノンの忠告も聞かず、カナコは逃げるようにホームの奥へと走っていく。
「待てって、カナちゃん!」
必死に叫びながらクロードが彼女の背中を追う。通り過ぎ様、こちらに気付いたクロードがちらりと視線をくれてきた。それはふとルカの背後に流れ――。
一瞬、クロードが驚いたように目を見開いたのをルカは見逃さなかった。
「なんだ……? あの二人、なんかあったのか?」
安堵のため息をつきつつも、アダムは不思議そうに首を傾げた。
何かあったのはその二人だけではない。
先ほどクロードの視線の先にいたのが誰なのか、見ずともルカは分かっていた。
ルカの父親、光太郎。
二人は共に修復工房を営んでいた。光太郎とクロードと、祖父の光助。ルカの師匠は実質彼らだった。しがない工房での日々、だけど充実した日々だったと、今でもルカは時々過去を振り返ることがある。
七年前、とある喧嘩をきっかけにクロードは工房を出ていってしまった。その瞬間を当時八歳だったルカは偶然耳にしていた。扉越しに聞こえた二人の言い争う声は未だにルカの耳にこびりついて離れない。
初めてだったのだ、二人の荒げる声を聞いたのは。
彼らが言い争っている間、ルカは耳と脳が分離したような心地でその場に立ち尽くしていた。だから、何故二人が言い合っているのか、その時は理解できなかった。
だけど今なら分かる。
光太郎はクロードがルーヴルで働くことに反対していたのだ。
おそらく、詳しい理由までは告げなかったのだろう。彼らに妻を奪われたなんて、光太郎には口にできなかったはずだ。証拠がなければ真実は事実たり得ないのだから。
理由も分からず否定されたクロードは、呆れてそのままレヴィを出ていってしまった――おそらく、そういうことなのだろう。
「ハァ……ハァ、相変わらず、すばしっこいな」
「なんの用ですの?」
「ツレねぇな、相棒にむかって」
「元でしょう。今はもう違いますわ」
慌てて一同が追いついた頃には、二人は刺々しい空気を隔てて対峙していた。行き止まりのコンクリート塀を背に、カナコは睨むようにしてクロードを見据えている。
「元って……? あの、なにかあったの?」
おそるおそるニノンが訊ねると、カナコは「もうパートナーじゃないってことよ」と吐き捨てるように言った。
「違うだろ、カナちゃん。実質まだ二週間はパートナーだ」
「どのみち同じことですわ。あと二週間したら貴方はドゥノン翼長補佐に就任する。修復に携われてさぞお喜びでしょうね?」
「おいおい、ちょっと待てよカナちゃん。それは俺が決めたことじゃない。上が勝手に異動にしたんだよ」
「でも修復部門に移ることには変わりありませんでしょう。わたくしは〝シュリー翼〟に残り、これからもずっと絵画を収集し続けるのよ。絵画保持者に疎まれながらね!」
「カナちゃん、ちょっと落ち着こう。な?」
クロードは降参のポーズをとりながらゆっくりと歩み寄った。しかしすげなく「来ないで」と拒絶され、仕方なく立ち止まる。
「俺だって本当はあっちに移りたくない。カナちゃんだって知ってるだろ? 俺がやりたいのは収集の方だって」
「〝ドゥノン翼〟に移る方にそんなこと言われたくありませんわ」
「んなこと言われてもな……」
二人の言い合いを眺めているうちに、段々と事情が呑み込めてきた。
元々修復家協会・エデンに籍を置いていた二人は、協会がルーヴルに吸収されてからずっとペアを組んで修復作業にあたっていた。やがて元エデンの会員たちは〝シュリー翼〟という部門に移され、世界中に散らばる絵画を収集する役目を担うことになったようだ。
それが今回、どういう流れかは知らないが、〝ドゥノン翼〟と呼ばれる修復部門の補佐役にクロードが大抜擢されたということらしい。
相方だけが修復部門に移ることに、カナコは相当なショック――もしくは嫉妬――を感じているようだった。
「あのな、だったら俺だって言わせてもらうぞ。今回アンリ・フェルメールの家に保管されていた絵画、なんで勝手に修復した?」
「うっ……」
「俺たちが関与するのは回収までだ。身勝手な行動は許されない。処罰対象だぞ」
クロードは人差し指を突きつけて、珍しく捲し立てた。厳しい言葉を浴びせられる度に、カナコの頭は萎れたひまわりのように垂れ下がっていく。
「カナちゃんが上司に連絡入れた時、俺も会議でちょうど本部にいたからな、先にこっぴどく怒られたんだぞ。連帯責任だってな。なんなんだよ一体……俺への当てつけか? そんなに気にくわないか?」
仕方ないだろ、上の決定なんだから――クロードは自分に言い聞かせるように呟いた。
俯いたまま一向に反論しないカナコの足元にぽたぽたと何かが落ちた。コンクリートにできた幾つもの黒いシミを見てクロードはぎょっとする。
「な……カナちゃん、泣くことないだろ」
「だって、ここでなにか行動しないとわたくし、もう一生修復に携われないと思って……っ!」
ぼろぼろと涙を零しながら、カナコは必死に言葉を絞り出す。
「ごめんなさい、クロード……わたくし、一人でもなんとかなるんじゃないかって……、ここで修復の腕を見せつければ、もしかしたらわたくしも〝ドゥノン翼〟に行けるんじゃないかって思っ……グスッ」
決まり悪そうに頬を掻き、クロードは「あー」と唸った。
「ま、急な発表だったからな。焦るよな、そりゃ。でもやっていいことと悪いことがあるだろ?」
カナコはこくんこくんと何度も頷いた。
「じゃ、俺と一緒に謝りにいこう。な。もう二度とやりませんって頭下げりゃこの話はおしまいだ。次に引きずるこたあない」
優しく諭すクロードの言葉に、しかしカナコは頷かなかった。代わりに目のふちに溜まった涙を指で拭い、すっかり落ち着いた声でこう言った。
「ずっと一緒にやってきたのに、どうしてわたくしだけって……置いていかれるのが悔しかったのですわ」
「カナちゃん……」
「だけど離れてみて思い知りましたわ。今までクロードは、ずっとわたくしのフォローをしてくださっていたのよね。二人で一緒に作業するのに慣れすぎて、その有り難さに全然気付いていなかった」
「そりゃ違う」
クロードはきっぱり否定した。
「助けられてたのは俺も同じだ。カナちゃんはほら、移動スケジュール調べてくれたりホテルとったり、タバコ買ってきてくれたり、あと俺がダラけないように尻叩いてくれたり――他にもいろいろ助けてくれてたよ」
「そんなこと、誰にでもできますわ」
「でも俺はできない」
屁理屈まがいの返しにカナコはムッとする。
「ま、それは冗談だが」
クロードは茶化した雰囲気を引っ込めた。
「いつだって人の何倍もやる気に満ち溢れてる、それがカナちゃんの良いところだよ。俺はその意味不明なバイタリティ、嫌いじゃない。失くすのはあまりにもったいないからよ。だから、今回のことは必要以上に気にすんな」
言いながら、クロードはカナコの頭をぶっきらぼうにポンポンと撫でた。
「技術は努力次第でどうとでもなる。でもその勢いは持って生まれたもんだ。努力じゃ身につかない。一回の失敗でしおらしくなるなよ」
「……言われなくても。わたくしがおとなしくしていると思って?」
「いいや、全然?」
クロードはニヤリとする。
カナコもふっと笑った。
「わたくし一人じゃ何もできないって、ようやく自分で認めることができましたの。……長い間、ご面倒をたくさんお掛けしましたわね」
「おいおい、永遠の別れでもないのにそんなにしんみりするなよ。ただ部門が別になったってだけだろうが」
だからそんなに重々しい空気になることじゃないと、クロードは明るく言った。
「いいえ、クロード。お別れですわ」
「……え?」
カナコはいつもと違う大人びた笑みを浮かべている。
そうして静かに告げた。
「わたくし、ルーヴルを辞職することに決めましたの」
――二番線、列車が到着します。
傍に控えていた面々からも様々にどよめきが沸き起こったが、すべてホームのアナウンスに掻き消された。
「どういうことだよ?」
厳しい顔でクロードがカナコに詰め寄る。
「辞めるほどのことじゃない」
「いいえ、違うの。責任問題ではなくてよ」
「だったらなんなんだ」
「己の未熟さと向き合わなくてはならない時が来ましたのよ。ルカさんの元で技術を学んで、そう強く思いましたの」
くるりとクロードの顔がこちらを向き、「なにがあった?」と彼の視線が訴えてくる。ルカはとっさに「さぁ」という顔をした。
「こんなにも真摯に修復に取り組んでいる人がいるのに、わたくしは今まで一体何をしていたのかしらって、恥ずかしくなったのよ。だからわたくし、イチから修行し直すことにしましたの。日本に帰りますわ――帰って、おばあさまの元で鍛練しますの。この腕と心に、修復技術を叩き込んでまいりますわ」
カナコは右手を差し出した。黒目を覆う涙の名残りが、夕日を受けてキラキラと輝いている。
キィキィと大げさな摩擦音を響かせてホームに列車が到着した。プシュウ、とドアが開き、乗客が順にぞろぞろと降りてくる。
「……本気なのか?」
「わたくしはいつだって本気ですわ」
クロードは決別の握手を求める手のひらをじっと見つめていたが、しばらくして何かを悟ったのか、ふっと笑んだ。
諦念ではない。容認したのだと、ルカは感じた。
やがて、何を思ったかクロードはいきなり鞄をゴソゴソと漁りだした。途端にカナコが鼻にしわを寄せる。
「ちょっと。最後の最後にタバコなんてやめてくださる?」
「相変わらず厳しいねぇ、カナちゃんは」
クロードは握手の代わりに、その手に何か細長いものを握らせた。
「これ……」
それは使い古された絵筆だった。
「細かい作業になりゃ抜群の使い勝手だ。ちょっとは高度な修復ができる。安もんじゃないからな、大切に扱えよ」
「でもこれ、クロードの愛用している物でしょう? 貴方の方がこれからきっとたくさんお使いになりますわ」
だから受け取れないと、絵筆を返そうとしたカナコの手をクロードはぐいっと押し戻す。
「そうだよ。だから早く修行を終えて、使える女になって戻ってこい。絵筆はその時にしっかり返してもらう、いいな?」
「クロード…………わた、わたくし……」
再び目のふちにこんもりと湧き上がってきたものを見て、クロードはまたしてもぎょっとする羽目になった。
「あーもう、泣くな。ほら、いいから行け。ドア閉まっちまうぞ」
車掌にベルを鳴らされ急かされる。カナコはクロードに押し込まれる形で列車に乗り込んだ。慌ただしいままに扉が閉まり、小さなおかっぱの姿も見えなくなる。
と、すぐに近くの窓が開き、ものすごい勢いで涙を垂れ流すカナコの顔が飛び出てきた。
「わたくし……っ……立派な修復家に、な、なって、帰ってきますわ……ズビッ……!」
「涙を拭け、あと鼻水も」
「クロード、わたくしがいなくても移動に使ったレシートはきちんと取っておきますのよ。ジャンクフードばかり食べていてはいけませんわよ。あとタバコ、いい加減数を減らしなさいな。それから……」
「わかったって。お前は俺の母ちゃんか」
カナコは満足そうに笑って鼻をかんだ。
「カナちゃん、頑張れよー」
「いつかパリのサンドウィッチやさん、一緒に行こうね」
「栄さんによろしく伝えてちょうだいね」
「ありがとうございます、皆様ー! いつの日か――……」
列車はあっという間に遠ざかり、最後までなにか叫んでいたカナコの声もすぐに聞こえなくなった。
*
「なんか、最後まで騒がしかったな、カナちゃん」
ぽつりとアダムが呟く横で、そうだねとニノンが苦笑する。
「というかゴーギャンさん、あんた一緒に列車乗らなくてよかったのかい?」
線路の先を親指で指しながらニコラスが問う。言われてみれば確かに、彼はカナコと合流する為にこの街にやって来たはずだった。
「ああ。一応俺からも絵の提供者に頭下げとかないとな。連帯責任なもんで」
クロードは菓子折りの入った紙袋を掲げてみせた。
「意外と……律儀なんだね」
「仕事ですから」
ふぅん、とニコラスは感心したように唸った。
「カナコちゃん、立派な修復家になれるといいね」
ニノンはもう列車の影も見えなくなった線路の先を見つめていた。
「なるよきっと。善哉さん、しぶといから」
「うん。打たれ強いもんね」
既にカナコの騒がしさを各々が懐かしみはじめた頃。
人知れず遠慮がちに交わる二つの視線があった。
暮れの空をカラスが数羽、飛び交っている。
「久しぶりだね、クロード」
ぎこちなくそう切り出したのは光太郎の方だった。
クロードは僅かに身を引いて、わざとらしく目を丸くする。
「おう。こんなところで会うなんてな。びっくりだ」
「元気そうだね」
「まぁな。やっと、やりたいことが出来るようになったからな」
「やりたいこと?」
「絵画の収集。宝探しみたいでかっこいいだろ」
「そういえば昔言ってたね。幻の画家の――カナンの描いた絵を見てみたいって」
「ま、それも出来なくなったんだけどな。異動になっちまったから」
ルカは前を向いたまま、二人の会話にそっと耳を傾けた。
ルーヴルに愛する者を奪われた男。
ルーヴルに入り夢を追いかける足を手に入れた男。
すれ違いの始まりはいつだって言葉の不足だと誰かが言っていた。
しこりを残して別離した二人の間に、不器用にも歩み寄ろうとする空気を感じ取ったのは、ルカのただの願望なのかもしれない。それでもルカは、たった二人の大切な師の綻びが修復されるのを、願わずにはいられなかった。
不意に、線路沿いの道の方から子どもたちの歌声が聞こえてきた。
――Should auld acquaintance be forgot, and never brought to mind ?
「オールドラングサインか」
ぽつりとクロードが呟いた。柵越しに、寄り集まって歩いていく子どもたちの背中が見える。
「懐かしいよね。子どもの頃は僕もよく歌っていたけど、大人になってからはさっぱりだなぁ」
「呑み明かそう友よ、ってか。よく考えりゃ子どもが歌うにはちょっとばかしよろしくねえな」
「あはは。確かにそうだね」
古き昔よりふたりを隔てた荒海は広く……。
しかし今ここに、わが友の手があり杯はある……。
飲み干そう、良き友情の杯を。
古き良き時代を思い出しながら…………。
たどたどしく紡がれるその歌が、複雑に絡まった二本の糸をやさしく解いてゆく。
「久々に、飲むか。光太郎」
「僕も今そう言おうと思ってたところだよ」
「珍しく気があうじゃねえか」
二人は互いににやりとした。
「ちょ、ちょ、なんの話っスか。俺も混ぜてくださいよ」
陽気な声でアダムがどかどかと割り込み、あとからニノンとニコラスも首を伸ばしてやって来る。
「クロードさんの奢りってことでいいんすよね」
「ヤだよ。きっちり割るのが俺のポリシーだ」
「それポリシーじゃなくてただのケチ!」
「たかる奴に言われたくねえよ」
「あ、だったらあのお店に行こうよ」
「ニノンちゃんのおすすめ?」
「うん。そう。えっとね……」
暮れの空高く、カラスがカァカァと鳴いている。ルカは何気なく空を仰ぎ見た。その先には、赤や紫やオレンジや、何十色もの色を複雑に重ねたような美しい夕暮れが広がっていた。
オールドラングサインが聞こえる。
永遠はいつでもここにある。
己が信じさえすれば。
フェルメールの呟いたその言葉は彼の願いであり、祈りでもあるのだとルカは思っていた。
けれど違ったのだ。
消えていった絵画は誰かの心に仕舞い込まれることもある。それはふとした瞬間、開かれた扉の奥から顔を出す。
たとえばそれは今日のように、美しい夕暮れを目にした時だったりするのだろう。
〈第10章 夕暮れ時のオールドラングサイン・完〉




