第110話 リリー・Oと蘇る夕暮れ
結果的に疑いはすぐに晴れた(誤解なのだから当然だ)。一方的に難癖をつけられただけだ、ルカはむしろ被害者である。
それでもニノンはしばらくの間目を合わせようとはしなかった。怒っているというよりも、どちらかというと申し訳なさから気まずい思いをしているようだった。
「久々のお天気ですわ」
「風が気持ちいいね」
彼女の調子が戻ったのは、昼食をとるために三人揃って敷地内の中庭へとやって来た頃だった。
中庭はコの字型の校舎に挟まれるようにして造られている。全面が青々とした芝生に覆われており、中央に立派なプラタナスの木が生わっていた。黄葉したグローブのような葉が、風にそよそよと揺れている。
昼食時だからだろう。既に幾人もの学生たちが思い思いの場所に腰を下ろしてくつろいでいた。
良さそうなスペースを探していると、木陰になっているところに座っていた学生たちがちょうど腰を上げたのが見えた。三人は入れ替わるようにそこを陣取って、ようやく一息ついた。
「アダムはね、今日はパオリ広場で絵を描くって。一緒に夕ご飯作る約束だから、それまでにはニキさんの家に戻ってくるんじゃないかな。で、ニコラスは今日もお仕事だって――はい、これお昼ご飯」
ルカはニノンからランチボックスを手渡された。箱の天面に、店の名前とスライスした食パンのスタンプが押されている。
「彼のお仕事って確か、路上でパフォーマンス……でしたかしら?」
同じ箱を受け取りながらカナコが小首を傾げる。
「あ、ううん。えっとね、キャンディ作る日雇いのお仕事だって言ってたかな。もうすぐハロウィンでしょ? それ用のお菓子なんだって」
「まあ、パティシエですわね」
ルカはちらりとニノンの横顔を窺った。普段となんら変わらない笑顔を見せている。昨晩の出来事なんてまるでなかったかのように。それとも扉越しに聞いたあの会話自体、ただの聞き違いだったのだろうか、云々。修復作業をしていないと頭に隙間が生まれて、余計なことを考えてしまう。よくないな、とルカは小さく首を振った。
気分を入れ替えようとランチボックスの蓋を開け――かえってげんなりする羽目になった。
箱の中身はサンドウィッチだった。揃って彩り豊かな断面をこちらに向けている。オーソドックスな具材だけではない。イチゴやキウイや、なんだかよくわからないフルーツが挟まっているものが半分を占めている。
ただの食わず嫌いだが、ルカはフルーツサンドがあまり好きではない。どうせ挟むなら塩っぽいものだけでいいのに、なんて贅沢なことを考えていると。
「なんて可愛らしいのかしら!」
「パオリ広場の近くにあるお店で買ったんだよ。このミックスサンドが一番人気なんだって」
「パリでお店を出したらきっと長蛇の列ですわよ」
「でしょ、でしょ」
ルカは明るい声のする方へ、死んだ魚のような目を向けた。
先程の殺伐とした空気はどこへやら、すっかり意気投合した二人は、木陰の一部と化したルカを置き去りにして大いに盛り上がったのだった。
「そういえばカナコちゃん、クロードおじさんは? 確か組んでお仕事してたよね」
二人がたっぷりはしゃぎ終えた頃、ニノンは最後のサンドイッチを頬張りながら何気なくそんなことを尋ねた。
その時一瞬、カナコの笑顔がふっと消えたような気がした。不自然な空気を嗅ぎ取ってルカは内心眉をひそめる。消えたというより、目から光が抜けたような感じだった。
「……さぁ?」
たっぷり間を置いてカナコが吐いたのは、素っ気ない一言だけだった。
「え」
「何かの会議に呼ばれたとかで、ここにはわたくし一人で赴いてますの。あの人もなんだかんだで忙しいのではなくて?」
随分投げやりな言い方だな、とルカは思った。仕事の相棒をあの人呼ばわりしているのもどこか余所余所しい。そもそもヴェネチアで会った時、彼女は相方を「クロード」と呼び捨てにしていたのではなかったか。
「カナコちゃん、クロードおじさんと喧嘩でもした?」
「まあ、わたくしそんな低俗なことしませんわ」
おずおずと尋ねるニノンの言葉をカナコはぴしゃりとはね退けた。挙げ句、あれほど可愛いと連呼していたフルーツサンドを一口で頬張り、乱暴に咀嚼すると、ペットボトルに入ったミネラルウォーターを一気に飲み干した。
ルカとニノンは目をまるくして互いの顔を見やる。これでは何かあったと暴露しているようなものだ。
「あ、そ、そうだ。ルカ、修復ってもうすぐ終わるんでしょ?」
ニノンは両手をあべこべに動かしながら、ぎこちない笑顔で取り繕う。
「ああ、うん」
「私、そろそろおじいちゃんに伝えてこよっか?」
ルカはしばらく頭の中で工程を数えてから、やがて顎を引き下げた。
「明後日かな。明後日、搬入できると思う」
「じゃあその日は家にいてねって伝えてくる」
「うん。よろしく」
ニノンはゆっくりする間もなく中庭を出て行ってしまった。ぼんやりと出入り口を見つめていると、背後で何かボソッと呟く声が聞こえた。
「え?」
振り向いた先で、カナコは三角座りをして自身の膝をじっと見つめていた。が、思いつめたような顔をふとあげて、こちらに力強い眼差しを向けてきた。
「わたくし、この修復、絶対に成功させたいの」
ルカは息をのんだ。力強い言葉とは裏腹に、彼女を追い立てる焦燥の影のようなものがその背後に見えた気がしたからだ。奴らは周囲をコソコソと嗅ぎ回り、不安を煽るような言葉を囁く悪魔だ。決して良い影響を与えるものではない。
「善哉さん、焦っちゃだめだよ。今は修復することだけに集中しなきゃ」
「……ええ、そうね……そう努めますわ」
声は沈んだままだった。
そういえばこの人、様々な影響を受けやすいんだった、とルカは心の中で額に手をあてる。何が彼女の裾を暗い方へと引っ張っているのか定かではないが、このまま落ち込まれては面倒だ。
自ら再修復を請け負った手前、失敗は許されない。何か、彼女を強気にさせる文言はないか――頭の中を探り、ルカは慎重に言葉を選ぶ。
「今、善哉さんは一人で修復してるわけじゃないだろ」
怪訝そうに眉を潜めていたカナコの表情がふっとゆるむ。
まるで草むらに隠した罠の中へと、小動物をおびき寄せているような気分だ。
「絶対に成功させたいのは俺も同じだから」
「……ルカさん」
「それに善哉さん、最初の頃に比べたら随分丁寧に修復できるようになってるよ」
「そ――そうかしら」
嘘は言っていない。百段ある階段のうち、二段ほど上がったのは本当だ。
彼女の瞳から焦りと不安の影が消えていくのを確認して、ルカはさっと立ち上がった。これでしばらくは、彼女の中の不安も頭をもたげたりはしないだろう。
「仕上げにかかろう」
「ええ……わたくし、やってやりますわ!」
「あ、えっと、通常通りな感じで」
「お安い御用ですわ!」
返す言葉に迷って、ルカはそのまま口を噤んだ。背中を押す力加減を間違えたかもしれない、と少しだけ後悔したが後の祭りである。
やる気に燃える彼女を讃えるように、午後の始まりを告げる鐘が鳴る。驚いた小鳥たちが数羽、枝葉の隙間からバサバサと青空に飛び立っていった。
*
翌日、フェルメール邸の応接間には大層な人数が集まった。いつもの四人と、カナコ、光太郎の六名。家主を加えれば七名だ。
フェルメールは今一度ぐるりと一同を見渡して、最後に白髪眉の下からそっとルカの姿を捉えた。
「どれ、見せてもらおうか」
だが、その声に反応したのはカナコだった。ひどく緊張した面持ちで、彼女は携えた布ぐるみの絵画をテーブルの上に横たえる。
フェルメールはふんっと小さく鼻を鳴らすと、ぞんざいな手つきで布を剥ぎ取りにかかった。
「もとより期待はしておらんがの――」
と、言葉の途中で、節くれだった皺だらけの指が不意に動きを止めた。
現れたのは細かい装飾の施された金の額縁。
老人の灰褐色の目が、中に納められた絵画に吸い込まれていく。
立ち並ぶ太い幹、間から覗くオレンジ色。
輪になって踊る人影をふちどる金色の光。
絵画全体を包みこむ飴色の空気。新品の透明なワニスでは表せない、それは六〇年という歳月を溶かした色である。
まさしく夕暮れと呼ぶに相応しい景色が、そこには蘇っていた。
「……どうやって元に戻した?」
尋ねる声が震えていた。
雲間から太陽が顔をのぞかせたのか、窓辺から淡く陽が差し込んだ。老人の手元で金色の額縁が輝く。
「最初に善哉さんが修復した時に出たゴミが、あそこに置いてありましたよね」
ルカは廊下へと続く扉の横を指差した。二度目の訪問時、フェルメールに追い出される間際に、放置されていたゴミ袋を見つけた場所だ。
綿棒やティッシュくずの詰め込まれたゴミ袋。もしあの時それを見つけていなければ、再修復への道は閉ざされたままだったかもしれない。
「そこから、拭い去られてしまったワニスをできるだけ回収したんです」
「ゴミから……まさか……?」
フェルメールの目が何かに気付いたように険しくなった。ルカは鞄からガラス瓶をひとつ取り出して、机の上にことりと置いた。
「綿棒の先端から綿部分を剥いで、それらを圧搾機にかけると不純物の混じった液体が得られます。それらを遠心分離機にかけて、不純物を取り除いたワニスがこれです」
「綿棒を、ひとつひとつ……そんな気の遠くなるような作業を行ったというのか?」
「一〇〇%の回収は無理でしたけど、それでもなんとか半分以上は。違和感のあった補彩箇所はすべて除去して、一からやり直してあります。その上に回収したワニスを塗布しました」
フェルメールはそっとガラス瓶を手に取って、信じられないとでも言いたげに目を細めた。光に透かすように持ち上げた瓶の中で、夕焼け色をしたハチミツのような液体がとろとろと揺れている。
「……お前さんのような腕があれば、時を巻き戻すこともできるのか」
彼は夕焼け色の液体を通して、いつかの日の景色を見つめているのだろうか。だが、それを取り戻したのは――
「違います」
与えられた称賛を、ルカはしたたかに否定した。
「この再修復、主となって進めたのは善哉さんです」
「え!?」と思わず驚いたカナコの口を、アダムが慌てて手で塞ぐ。フェルメールは背後の騒がしさなどまるで気にしていないという風に、一歩ルカに詰め寄った。それから険しさを宿した目でサッとカナコを見やり、次いで非難するようにルカを射抜いた。
「わしはお前さんに依頼したはずじゃが」
「もちろんです。今回の再修復に関して俺もちゃんと携わってます。でも一人で修復したわけじゃない。彼女がこの再修復に大いに貢献したということを、きちんと知ってほしいんです」
何か言いたそうなカナコをあえて無視し、ルカは続ける。
「俺たちは、持ちうるすべての力を使って再修復にあたったつもりです。その絵は本来の姿を取り戻していませんか?」
フェルメールは無言を貫いた。
けれど、腕に抱く絵画に向けられる眼差しだけはどうあっても嘘をつけない。そこからは、確かな懐かしさと愛おしさが溢れている。
そしてそれは、ルカの問いかけにきちんと肯定を示してくれている。
「あれだけ酷い修復をされたあとで、すぐに同じ相手を信用しろとは言いませんけど」
視界の隅で、カナコが一層体を縮こめた。
技術不足なのは彼女自身の問題だし、そこは努力でカバーするしかない。本人は痛いほど理解していることだろう。
理解してからが本番ではないのか?
失敗の先に繋がる道はきっと、丈夫で太い。新しい花が咲くかもしれないその道を、一度の失敗ですべてなかったことにするのはあまりにもったいないと、ルカは思う。
「でも、今回の再修復で少しでも信頼を取り戻せたらと思ったんです。そしてもしそうであれば、どうかすべての修復家を否定しないでください。意地になって修復できる術から背を向けて、絵画本来の輝きを失わせないでください」
一瞬、フェルメールの瞳が何かを思い出したかのように見開かれた。口元がわずかに動く。何かを呟いたようだったが、聞き取れなかった。
そうしているうちに、フェルメールの目はまた陰ってしまった。
「足掻いたとてどうなる。死に装束に変わりはない」
フェルメールはまた屁理屈を捏ねはじめた。まるで分厚い外殻を纏って柔らかい実を守る植物のように、彼の口は同じ言葉を繰り返す。
「いつも堂々巡りじゃ。そのことを考える時、わしはいつも肩透かしをくらったような、虚しい気分になる。どれだけ美しかろうが、どれだけ手をかけようが、己の手元に残ることは決してない……そんな存在に、わしはなぜこのような想いを抱かなければならん? 結局、絵画は修復を終えれば消えてしまう。そんな、無意味な存在に……」
「おいおい、それは違うんじゃねェの?」
カナコの体をぐいっとニコラスに押しつけて、アダムは勢いのままフェルメールに迫った。
「じーさんはいつか死ぬからって今死ぬのかよ? 俺はやだぜ。たとえ死ぬってわかってても、旨いモンがありゃ食いてェし、お洒落もしてェよ。馬鹿みたいにでっかい夢だって叶えたいし、好きな子を幸せにもしてェ。その為に必要なことはなんだってする。俺たちは死ぬ為に生きてるワケじゃねんだよ」
アダムは一気にまくし立て、めちゃくちゃな理論で相手をねじ伏せた。勢いに気圧されたフェルメールは言葉をなくして立ち尽くしている。
「こんなことして意味あんのかって、何やってんだろって。そう思いそうになるのを騙し騙しやり過ごしてくんだよ。誰だってそうじゃねーか」
沸騰した湯に水を注いだみたいに、アダムの声はしゅんしゅんと大人しくなっていった。突きつけていた人差し指も力なく下ろされていく。
「この世には不確かなモンしかねェよ。それでも信じるしかねーじゃん。自分で認めちまったら本当におしまいだよ。どうせ消えるなんて、言葉でまとめられてたまるかよ」
ニコラスがアダムの背後から近付いて、彼の頭を盛大にはたいた。
「いってーな!」
「口が悪いんだよ、アダムちゃんは」
「オメーは手が早ェけどな?」
押し問答を繰り返しながら、アダムはずるずると引きずられていった。言いきった、と謎の満足感に浸っているアダムの隣で、ニノンはやれやれといった顔をしている。
「……そういうことです」
再びフェルメールに向き直りつつ、ルカは横着な返しをした。
フェルメールの痛切な思いに賛同する気持ちは大いにある。いつか絵画がその姿を世に留め続けることのできる未来がくればいいのに、そんな思いが日に日に増してきていることも自覚している。
だからといって、現状ではどうしようもできないことに憤り、傷付いた絵画を無下に扱うのは違うはずだ。
光太郎は微笑ましそうにアダムたちの方を見つめている。その隣でフェルメールが呆れたようにため息をついた。
「血気盛んな男じゃな」
「残りもだいたい似たようなものです」
「そうか? なんじゃ、気が抜けてしもうたわい。ほっほ……懐かしいの」
「懐かしい?」
問いには答えず、フェルメールはしばらく目を眇めて窓の外を見つめていた。やがて視線を絵画に落とすと、彼はひとり言のようにぽつんと呟いた。
「この絵の作者がここにいたら、おそらくお前さんらと似たようなことを言うておったやもしれんな」
この絵の作者。ルカは修復する時に見たはずの、画家のサインを頭の中に思い浮かべてみた。キャンバスの右下、茂みの中に太陽の光の色で綴られた筆記体。
「『リリー・O』さん、ですか」
「そうじゃ」
絵画の右下に描き込まれた「リリー・O」のサインを、フェルメールの節くれだった指がそっとなぞる。
「彼女はとても生真面目な女流画家じゃった。理知的なものの見方のできる人で、感情のままに筆をとることをせなんだ。この絵を見てもわかる通りじゃ。重ねる色の組み合わせから、絵の具の成分から、それらが劣化によっていかなる変化を遂げるのかをきちんと念頭において、その知識を最大限に生かすような絵を描いておった」
「この絵の画家と知り合いだったんですか?」
フェルメールは控えめな笑みをこぼすと、手慰みに白い顎髭をしごいた。
「彼女は西洋の絵画を学ぶためにこちらに留学しに来ておったのじゃ。もともと『日本画』を専門にしていたようでの。あらゆる絵画に興味を持っていたわしはすぐに彼女に取り付いた。向こうも海外に来て間もなくだったということもあって、得体の知れぬ島人をたやすく受け入れてくれたというわけじゃ。まだわしが学生だった頃の、昔々の話じゃよ」
語るうちに思い出の蓋が開いたのか、フェルメールは生い茂る髭の奥で口元を綻ばせた。
「それから二年、三年経ったころじゃったかな。彼女が他所の家へ嫁ぐことになっての。国に帰って以来、連絡はとっておらん。この絵はそんな彼女が最後にプレゼントしてくれた、いわば置き土産なのじゃ」
誰もが黙って彼の思い出話に耳をかたむけている。そんななか、一人だけ訝しむように眉をひそめる者がいた。カナコだった。
「カナコちゃん?」
不思議に思ったニノンが声を掛けるも、カナコの耳には届いていないようだった。
彼女は疑り深い声色で、不思議なことを訊ねた。
「そのお方、もしや日本人ではなくて?」




