第109話 拓く者、受ける者
教室の窓は大きくて、まるで壁に沿ってずらりと並べられたキャンバスのようだ。そのどれもに透き通る青空が描かれていて、上の方には形のいい細切れの雲がいくつも浮かんでいる。
今日の空は一段と高い。室内から見ていても分かるほどだ。ガラスに付着した雨の名残が、太陽の光を反射してキラキラと輝いている。
「――ルカさん?」
すぐ側で声がしてルカはハッと我に返る。視線を横に向ければ、訝しげな顔のカナコと目があった。
「ああ、ごめん。なんの話だっけ」
「画面洗浄のコツについて教えてくださるというお話ですわ。わたくしのやり方は少々強引だからって」
現在二人はパオリ学園の教室の一端を間借りして、協力しながら再修復作業を進めている。「二人は」というよりも、主に作業を進めているのはカナコの方で、ルカはその都度アドバイスや指示を飛ばす役目を担っていた。
「連日の修復でお疲れですの? それとも、わたくしとの共同作業がご負担で……!」
「いや、疲れてない」
言ってから、すぐに付け加える。
「昨日ちょっと」
「昨日?」
カナコが不思議そうに首をかしげる。 ルカは僅かに目を泳がせて、逃げるように視線を逸らした。
――言えない。昨日の夜、少しお酒を飲んだからだなんて。
というのが表向きの理由だった。真にルカの頭の中を支配しているのは、もっと別の問題である。
ルカは伏せたまぶたの裏で昨晩の出来事を思い出す。
偶然だったのだ。すべて。
一階で酒盛りに参加したのはただの気まぐれだった。やがて風呂上がりのニキも輪に加わり、そこでたまたま集めている絵画の話が持ち上がったのだ。ルカは現物を取りに二階へと向かった。酔っ払いは上がってくるなとニノンに念を押されていたことなど、その時は頭からすっかり抜け落ちていた。
禁制の文言を思い出したのは扉を開けようとした時だった。ノックしようかしばらく迷って、まぁいいかとドアノブに手を掛けたところで、中からなにやら深刻そうなニコラスの声が聞こえてきたのだ。
『思い出したんじゃない。最初から覚えてたんだ』
『記憶を失くしてるフリをしてたんだよ』
はじめ、ルカは二人が何の話をしているのかすぐには分からなかった。しばらく扉に耳をあてて会話を盗み聞きしている間に、ようやくとんでもない事を聞いてしまったのだと気がついた。
『約束したのさ。あんたのお父上と』
息を潜めながら、暗闇の中でルカの心臓は激しく脈打っていた。
ニコラスは全てを知っている。
知っているうえで彼は嘘をつき、記憶喪失のフリを今なお続けているという。
隠すにはそれなりの理由があるはずなのだ。ままならない理由が――。
事情も何も知らないのに、ルカには薄っすらと彼の意向が分かるような気がした。逆にそのことが恐ろしくもあった。
ニコラスの言う『全て』とはどこまでを指しているのだろうか。
彼はルーヴルの心臓部に――オンファロスの内部に、ニノンの姉がいることを知っているのか?
熟考するには時間も余裕もまるで足りなかった。けれど片手間で考えられるほど小さな問題でもない。
だからルカは、知ってしまった事実に対して、とりあえず蓋をすることにした。それよりも先にやるべきことがある。考えるのは、目の前の問題を片付けた後でも遅くはないだろう。
「やっぱり、わたくしの腕がなかなか上達しないから……!」
考えに耽っていたルカの思考は、カナコの悲壮な声に引っ張り戻された。
「いや、それはどうでもいいというか。個人的に頑張ってくれたらいいというか」
「ううっ」
カナコの頬が何かを堪えるようにみるみる上気する。ぎょっとしてルカは周囲に目配せした。やんちゃそうな髪型の男子学生が三人、寄り集まってにやにやとこちらを見ている。
「教室で痴話喧嘩するなよー」
「ちがいます」
「いいよなあ。オレも女の子と共同作業したいなあ」
「したいしたい」
ここ数日間、作業空間を共にしていることで他の学生に声を掛けられることが多くなった。絵画に向き合い黙々と作業に打ち込む学生もいれば、こうしておちゃらけている学生もいる。教室内の雰囲気はなかなか雑然としていた。
うんざりとした表情を隠しもせずにルカが三人組を見やっていると、視界の隅で不意に誰かが立ち上がった。彼らの隣で作業をしていた、赤い髪の女学生だった。
彼女は相変わらずしゃべり続けている男たちの元へつかつかと歩み寄り、すらりと細い腕を組んで仁王立ちになった。
「雑談なら外でしてくれる?」
「あ、す……みません」
鋭い声に、彼らはびくっと肩を震わせ、揃って上を向いた。ナイフの刃先のように鋭い眼差しを向けられているのに、三人はどこか惚けたような顔をしている。
「わかってくれてありがと」
そこでようやく彼女の声は和らぐ。男子学生たちは薄ら笑いを浮かべ、荷物をまとめるとそそくさと教室を出ていった。唖然とする他の学生たちの視線をスルーして、女学生は何事もなかったかのようにイーゼルの前に戻っていく。
ルカも大勢の学生たちと同じように呆然とその様子を眺めていたのだが――やにわに彼女がこちらを振り返り、瞬間、ばちっと目があった。
え、と思う間になぜかにこりと微笑まれる。
鮮やかな赤い髪に、印象的な翡翠色の瞳。惹き込まれそうな美しい微笑み。
驚くほど整った容姿だな、と柄にもないことを考えながらルカは小さく会釈を返した。
「彼女と知り合いですの?」
「違う……と思うけど」
女学生から視線を外さずに、カナコはふぅんと相槌をうった。
「随分とハッキリした方ですわね」
それを他人に言うのか? と、ルカがカナコに驚いた顔を向けると、なぜか「え?」と逆にびっくりされた。彼女の中では一体どんな自己分析が成されているのか。
「それより、洗浄のコツだけど」
ともあれ、面倒な空気になる前にルカは雑に話題を切り上げた。
「え? ええ。是非ご教授願いたいですわ」
身を乗り出してくるカナコからわずかに距離をとって、ルカは一から説明をはじめた。
ルカがまだ半人前だった頃、丸太小屋の中で祖父が、そして父がルカに全ての技術を注いでくれたように。
今度はルカが誰かに技術を伝承する番だった。
*
「――だから善哉さんは、まだ自信がないうちはこういう『特殊溶剤』を使った方がいいよ。毎回その絵画に合わせて調合しなきゃいけないけど、今みたいにハイリスクな洗浄法よりはよっぽど失敗が減るから」
溶剤の入った小瓶に注がれていた、カナコの興味津々な眼差しがパッとこちらを向く。
「洗浄剤と中和剤を染み込ませた綿棒を交互に使っていく従来の洗浄方法って、わたくし本当はとっても苦手でしたの。だってそんな勘に頼るようなやり方じゃ、どこまで拭ったらいいのかわからないんだもの。でもこれはいいですわね。ワニスだけが溶ける溶剤なんて、魔法みたいですわ」
カナコは小瓶を持ち上げてうっとりする。中にはとろりとした透明な液体が入っている。
「ねえ、このレシピって教えていただけるのかしら」
「あとで基本の調合を教えるよ」
「ほんとう?」
またしてもぱっとカナコの顔に笑顔が咲いた。だがすぐに真顔になって、今度はじろじろとルカの顔を見つめてくる。
徐々に距離を詰められてどうにも居心地が悪くなり、ルカは思わず上半身を反らした。
「あの…………なに?」
「ルカさんはどうしてこんなにもあけっぴろげに色々なことを教えてくださるの?」
「あけっぴろげ?」
「そうですわ。それってあなたたちの家に脈々と受け継がれてきた技でしょう? 秘技と言っても過言ではないですわ。なのに同業者であるわたくしに教えてくださるなんて、メリットがありませんもの。なぜですの?」
「なんでって言われても……。別に惜しむようなものじゃないし」
「まあ!」と、カナコは目を見開いた。
「技術の開示は惜しむものですわ。指導を乞う身でなんですけれど、今一度確認させていただいてよろしいかしら。商売敵に手の内を明かしてしまって、あなたたちの家は本当にそれでよろしいの?」
「? ……良いんじゃないか?」
あんぐりと口を開けて、カナコは信じられないとでも言いたげな目を向けてくる。その姿勢こそを理解できないと、ルカはまっすぐな目で見つめ返す。
「技術を開示することによって修復家全体の能力が上がるなら、いいんじゃないか。それで救われる絵画があるのなら、俺はむしろ嬉しいけど」
「でも、だって! その技術が流出してしまえば誰でも同じように修復できてしまいますのよ? あなたたちの家の威厳がなくなってしまうかもしれませんのよ?」
「なくならないよ」
「なぜそう言いきれますの?」
「それでも先端を進むために、努力を続けるからだよ」
カナコは言葉につまり、両目を見開いた。その後ろの方で、赤髪の女学生がキャンバスと向き合ったままこっそりと耳をそば立てている。
「修復技術はまだまだ発展途上だ。今が最高の水準なわけじゃない。そう考えれば、既存の技術を懐にしまい込もうなんて思わないよ」
「それは、そうですけれど」
「誰でも同じように修復できるようになったなら、さらにその上に新たな技術を積み重ねていけばいいんだ」
「う……その自信は、一体どこから――!」
と、ルカはおもむろに唇の前で人差し指を立てた。
声を荒げていたことに気付いたのか、カナコはハッと口を噤んだ。先ほどから背後で女学生が目を光らせている気配がする。静かにしていないと、あの三人組のようにいつ教室から放り出されるか分かったものではない。
「修復を続けられるなら、威厳とか俺はどうでもいいんだ」
「なんて無欲なの」
カナコは唇を噛んだ。
「あなた、枯れてますわ。わたくしそんな風に思えませんもの」
「欲ぐらいあるよ。より良い修復技術がどんどん見出されていってほしいし、絵画にとっての最善の技術にもっと近付きたい。それってでもうちだけじゃない」
言いながら、ルカはポケットからメモの切れ端を取り出して、そこに特殊溶液の基本レシピを書き付けていった。
「善哉さんの家だって、きっとそうだと思う。技術の発展を促すには、人や教えは流動的である必要があるって、きっとわかってるはずだよ――はい、これ」
顎先でボールペンをノックしながら、ルカはカナコにメモと小瓶を押しつけた。
難しい顔のまま手の上の小瓶を見つめていたカナコだったが、やがて何かを認めたようにそっと顎を引き、それらを鞄の中に大事にしまい込んだ。俯き加減の彼女の口から、小さく「ありがとうございます」と呟かれたのが聞こえた。
先ほどの言葉が彼女にどう届いたのかは分からない。けれど、改めてこちらに向けられた両眼には、なぜか熱いものが宿っていた。
熱い――?
その正体に思い至る前に、ルカはがっしりと両手を握られていた。
「え」
「わたくし、ずっとあなたのことを勘違いしていたようですわ」
「はぁ」
「いつもぼーっとしていて眠そうで、何考えてるのかわからなくて」
そんなことを考えていたのか。
「でも、確固たる自信と情熱がその胸には宿っていますのね。まるで氷の中にマグマを抱いているみたいに」
「はぁ、どうも」
目が合えばすぐさま突っかかってきた頃の印象が、まだ薄っすらと残っている。だからルカは、彼女の態度がオセロの駒のようにすぐにひっくり返るのではないかとヒヤヒヤしていた。
「なんだか、あなたからはわたくしの尊敬する方々と同じにおいを感じますの」
「尊敬する人いたんだ」
意外だった。思わず訊くと、カナコはムッと頬を膨らませて「いますわよ、失礼ね」と憤慨した。
「わたくしの尊敬する御方はね、ドラクロワ様とわたくしのおばあさまですの」
「ドラクロワ?」
すぐさま頭の中に、ターバンを巻いたエキゾチックな顔立ちの女性が思い浮かんだ。ルーヴルで出会った修復部門の長も、確か同じ名前だったはずだ。
「ええ。ドラクロワ様はわたくしの憧れのお人なの。修復家なのですけれど、お美しくて技術も素晴らしいものをお持ちで、それに、わたくしにでさえとっても優しく接してくださる女神のような御方ですのよ。そういえばドラクロワ様も、わたくしの質問にはすべて答えてくださったわ。アドバイスだってたくさん与えてくださったし」
カナコは顔の前で祈るように両手を組み、恍惚とした眼差しを斜め上の空へと向けている。ルカは彼女からほとばしる熱量を、無理せず左耳だけで受けることにした。
「それからわたくしのおばあさま。若い頃はずっと画家をやってらしたのよ。修復家としての勉強をはじめたのは善哉家に嫁ぐことが決まってからだったのだけれど、その腕はおじいさまに勝るとも劣らないと言われていますの。幼い頃から修復技術を叩き込まれてきた人と肩を並べるほどですのよ? 一体どれほどの努力を積み重ねてきたことか……」
「ドラクロワさんって、もしかしてドゥノン翼の偉い人?」
「わたくしもいつか、そんな風に強くなりたいと――あら、ドラクロワ様をご存知なの?」
空想にふけっていたカナコの思考が急にこちらに戻ってきた。
「この前会った」
「え!? お話なさったの?」
カナコは素っ頓狂な声をあげた。が、すぐに納得したような顔をして、しきりに頷きはじめる。
「ああ、そういうことね。だからあの時、ドラクロワ様にあなたの事をいろいろ訊かれたのだわ」
彼女がぶつぶつと呟く中に、聞き捨てならない言葉が混じっていた。
ルカがドラクロワと接触した時、彼女はルカのあらゆる身辺情報を把握していた。出身地や家族歴、挙げ句の果てには曽祖父の時代にコルシカ島に移り住んできたことまで。
そのあたりを全て彼女が喋っていたのだとしたら、納得がいく。
「いったいどんなお話をなさったの?」
カナコは一変して瞳を輝かせ、またしても勢いよく顔を近付けてきた。
「え……修復してみろって、絵を渡された」
ルカは露骨に眉間にしわを寄せ、上体をわずかに反らした。先ほどからパーソナルスペースへの侵入が激しすぎる。
「修復なさったの、あの方の前で!?」
「してないけど」
「どっちなの!? あ……あぁ、あなたも尻込みすることがありますのね。意外だわ。まぁ、ドラクロワ様の前じゃねえ、わかりますわよ」
カナコはひとり納得するように何度も頷いた。
「じゃなくて、まだ確証がない段階で修復を無理に進めるのはよくないって思ったから、そう伝えたんだ」
「は――」
カナコは口をパクパクさせた。
「ドラクロワ様に、い、意見を?」
「うん」
「な……な…………う、羨ましい……っ」
ついには唇をわななかせ、カナコは恨みがましい目でルカをじとっと睨みつけてきた。
「前言撤回、尊敬を通り越してなんだかムカついてきましたわ。ルカさん、あなた人間じゃないわ、宇宙人よ!」
「は? え、ちょ」
カナコが訳のわからない八つ当たりを始めた時、遠くでドサッという物音がした。
ルカは首だけを捻って音のした方へ目をやった。丁度買い出しから戻ってきたらしいニノンが、教室の入り口で立ち尽くしているのが見えた。足元にはお昼ご飯と思しきビニール袋が二つ、落ちている。
「な、なにやってるの」
「やられたからやり返してるのですわっ」
――虚偽だ!
ルカは内心で大きく突っ込みを入れながら、青い顔をしたニノンに向かって首を振り「ちがう」とジェスチャーした。カナコに覆い被さられた状態で、挙げ句両頬まで摘まれているのでうまく喋ることができないのだ。
「ちゃんと、修復してると思ったのに……!」
ニノンの肩がわなわなと打ち震えた。
「え、いや」
ジェスチャーが全く伝わっていない。
誤解を解こうとしたところでバランスを崩し、ルカとカナコは丸椅子ごと床に崩れ落ちた。




