第108話 ニコラスの告白
「…………え?」
ニコラスは今度こそ、最上級に間の抜けた声を出した。
「きっとなにかの間違いだよね。ニコラスがルーヴルにいたなんて、そんなことないよね。ずっとサーカス団にいたんだもんね」
「あ、当たり前じゃないか!」
飛びつく勢いでニコラスはニノンの肩を掴んだ。ぎしっとベッドが大袈裟な音を立てる。
「誰が言ってたんだい、そんなこと? ダニエラがあの組織にいるのもこの間ようやく知ったばかりだよ。目が覚めてから私はずっとゾラさんのサーカス団にいた。それだけは事実さ。ルーヴルに居たなんて絶対にありえない」
「本当に?」
「ああ。神に誓って」
あまりにも真剣な声で訴えてくるものだから、ニノンはついつい頷いた。
彼が嘘をついているとはどうしても思えなかったし、そんな風に思いたくもなかった。けれど「ありえない」だなんて、どうして断言できるのか。
「じゃあ、サーカス団にいた前は?」
だからニノンは出来るだけ不安の可能性を潰したくて、仮説を一つ提唱した。
「ルーヴルにいた頃の記憶も忘れてるとか」
かつてのエリオがそうであったように、ニコラスも件の組織から何かしら被害を被っていたのではないか。彼もニノンと同様に、記憶の欠如が甚だしいのだ。だから、覚えていない空白の時間に何かが起こっていてもおかしくはない。
「それはないよ」
しかし、当の本人は意外なほどに強くそれを否定した。
「どうして言いきれるの?」
「だって私は――」
口籠ったまま、ニコラスはしばし思案する。
「私は?」
「……いや」
結局、何も言わずに口を閉ざしてしまった。
部屋にひとつだけある小窓の枠がカタカタと音を立てる。夜更けと共に雨風が激しくなってきていた。
「でも、じゃあどうしてニコラス・ダリなんて……。同姓同名だよ、偶然なんてありえないでしょ?」
「ああ。気味が悪いよ、自分の与り知らないところで己の名前が一人歩きしてるってのは」
ニコラスは本気で顔を青くしながら、自身の腕をさすっている。
頼りない光源では表情を鮮明には捉えきれない。けれどその所作を観察してみても、やはり彼が嘘をついているようには見えなかった。
だとすれば、グァナファトの情報こそが誤りで、嘘の情報に翻弄されていただけなのだろうか?
考えれば考えるほど頭の中がぐちゃぐちゃになるようで、ニノンはいっそ全てを放り出したくなった。
「いつかダニエラに尋ねてみよう。何かわかるかもしれない。……また会えたらの話だけど」
ニノンが頭を抱えていると、ニコラスはそう独りごちた。そうして彼はすぐに体ごとこちらに向き直った。
「こんなこと言ったところで、信じてもらえないかもしれないけど。ニノン、私は間違ってもあんたらを裏切ったりはしてない。絶対にだ。証拠もないし、説得力もないけど……でもそれだけは本当なんだ」
「そんなの当たり前だよ!」
予期せぬ糾弾だったのか、ニコラスは僅かにたじろいだ。ニノンはかまわずぐっと顔を近付ける。
「裏切ってるなんて、そんなこと疑うはずない! だってニコラス、ずっと私の味方でいてくれたじゃない。今も昔も全然変わらないんだから。世話焼きで、怒ると怖くて、でも落ち込んでたら慰めてくれて……それで……」
昔のことを口にする度、ニノンの中には寂しさが降り積もっていく。
昔――それはニノンが記憶を失くす前の、幻のような日々の記憶。
思い出の中にはいつも大切な人たちが笑顔で暮らしている。目を閉じればいつでも彼らに会いに行けるけれど、その思い出を共有できる誰かはいない。
だから、本当に思い出の中の日々が現実のものだったのか、分からなくなる時がある。
分からなくなって、その後はいつも圧倒的な孤独へと突き落とされるのだ。
「昔の私を知る人は誰もいないんだって、そう考えるだけで、本当は自分だけ違う世界に生きてるんじゃないかって思えてくることがあるの」
「ニノン……」
お前はひとりぼっちなのだと、奈落に渦巻く闇が四方から囁いてくる。
「あの時は懐かしかったねって笑いたい。でもひとりじゃ笑えないんだよ。だから……ニコラス、ねえ、思い出したんだよね。昔のこと、覚えてるんでしょ。お願い。覚えてるって言ってよ」
切願を避けるようにしばらく視線をさまよわせていたニコラスだったが、やがて観念したように溜息を吐いた。
「覚えてるよ」
「……本当に?」
勢いよくニノンは顔を上げる。
そこでニコラスはやっと、懐かしむように目を眇めた。
「ああ、覚えてる。あんたってほんと、昔っからお転婆でさ。ちょっと目を離した隙にすぐどこかに行っちゃうもんだから、それはもうみんな手を焼いたもんだ。ほんとに、どれだけ叱ったことか」
目から熱いものが込み上がりそうになって、ニノンは思わず手で口を覆った。
覚えている人がいる。
思い出の中にしかなかった日々は、ちゃんと現実と繋がっていた。
その熱はすぐに興奮へと変わり、ニノンの全身を駆け巡っていく。
「私、私聞きたいことがたくさんあるんだよ、この夜だけじゃ足りないくらい! どこから話したらいいんだろう、どれから聞けば……」
「悪いけど」
両手を広げて熱っぽく喋るニノンの言葉を、しかしニコラスは冷たく遮った。
「あんたの期待には答えられない」
「……どういうこと?」
閉口したままニコラスは俯いた。しな垂れる髪と影が、顔の右半分に掛かって表情を隠してしまっている。
「もしかして怒ってる? 私がずっと忘れてたこと」
「まさか!」
「……口にしたくないほど、嫌な思い出だった?」
「違う、そんなわけ――」
「じゃあどうして教えてくれないの?」
怨みのこもった目で睨みつければ、ニコラスは難しい顔をして押し黙った。やがて這い寄ってきた不安に呑まれ、ニノンは顔をくしゃっと歪めた。
「忘れたいなんて思ったことないよ。一度だって、そんなこと……。みんながいたから、私お屋敷の中で暮らしてても寂しくなかったんだもん」
ぽつぽつと、言葉が脳を介さずに口から吐き出されていく。
「楽しかった思い出ばっかりなのに、どうして忘れてたんだろう。ニコラスのこともダニエラさんのことも、お姉ちゃんのことも、それから……それから……」
思い出されるのは大好きだった少年の後ろ姿。
瞼の裏に蘇る思い出をすくい取って見てみれば、いつもどこかに彼の姿が潜んでいた。
名を呼べば振り返り、遠慮がちに微笑むその顔も。
屋敷を抜け出した時には真っ先に駆けつけてくれる、その乱れた黒髪も。
すべてニノンの心を捉えて離さない。
彼のことを思うたび、胸はじんわりと痺れ、鼓動はいやでも高鳴った。
それを幸せと呼ぶのなら、思い出を忘れる必要なんかないはずなのに。
「向こうもそうだったらいいのに。忘れたいほど悲しい思い出だなんて、そんなの違うって言ってほしい」
「向こう……? あんた一体、誰の話を」
「――ルカと」
ニノンは半ば縋りつくようにしてニコラスの腕を掴んでいた。
「ルカと私がはじめて出会ったのは、森の中だと思ってた。でもそうじゃないんでしょ? もっとずっと昔から、私たちは一緒だったんでしょ。ルカはいつも私のそばにいてくれたのに、私ずっと、そのこと忘れてた」
――私たち、どこかで会ったことがある?
森の中で偶然出会った男の子。あの瞬間、確かに感じた懐かしさを、ニノンはその時勘違いだと受け流したけれど。
勘違いなどではなかったのだ。
その昔、ニノンはルカとずっと一緒だった。
脳は記憶を忘れても、心までは忘れていなかったのに。
「あんた……それ……」
「ルカのこと、自分の力だけじゃ思い出せなかった。ジャックの協力がなかったら、今だってたぶん思い出してない。だから――だからルカが私のこと忘れたままなのは、その罰なんじゃないかって。だから思い出してもらえないのも仕方ないんだって」
「ニノン!」
現実に引き戻すように力強く肩を掴まれ、ニノンはハッと息を吸った。ぼんやりと灯りに照らされて、ニコラスの顔に帯びた緊張の影が浮き彫りになっている。
「それ、あの子には打ち明けてないね?」
「言えるわけないよ、そんなの……っ」
両肩を掴んでいる手を、ニノンは咄嗟に振り払った。
「あの写真の撮影者は誰か覚えてるのかって、聞かれたの。会って話を聞いてみたらどうだって。そんな風に言われたら……」
名案だとばかりに提案してきた少年の目は純粋なままで、どこか己の知らない土地にこの写真の撮影者が存在していると本気で思っているようだった。
だからその時、ニノンは思わず棘のある声で彼を突き放してしまった。
そんなことは無意味なのだ。だって、探し人は目の前にいるのだから。
「ルカのパパだって私のことなんにも覚えてない。ルカだってそう。誰も覚えてない。そんな状態で本当のことを言って、もし思い出さなかったら? これからもずっと忘れたままだったら? ――言えないよ。そんな、催促するようなこと」
本当はニノンだって分かっている。言い出せずにいるのは、ただ自分が臆病なだけなのだと。彼の記憶が呼び戻されるかもしれないという、可能性の鍵を失くすことを恐れているだけなのだ。
「……そう。あの子を混乱させたくないなら、この事は黙っておくべきだ」
ニコラスは優しい口調で、厳しい言葉を突きつける。
「然るべき時ってのがあるんだ、何にでも。今は伏せておいた方がいい。あの子のことを思うなら……わかったね」
ニノンはぐっと歯を食いしばりながら、睨むようにしてニコラスを見つめ、そして頷いた。
「いい子だ」
宥める声がどこか遠くの方から聞こえてくるようだった。視線はニコラスを通り過ぎ、随分低い位置にまで下がってしまった炎を睨みつける。そうしないと泣いてしまいそうだった。
「ニコラス、私ね、過去にどんな悲しい出来事があったとしても……それでもぜんぶ思い出したいの。それで、ぜんぶちゃんと思い出して、自信もって自分から伝えたい。ずっと一緒にいたこと」
たとえ今の自分が、過去の自分によってもたらされた平穏な未来を有しているとしても。忘れられる悲しみを知ってしまった今、ニノンは過去を何もなかったことになんて出来そうもなかった。
おもむろに、視線を炎からニコラスに移す。
「お願い。ニコラスの知ってることぜんぶ、私に教えてよ。混乱しないし、覚悟もできてる。ねえお願い。こんなことニコラスにしか頼めないの、だから」
引きつる咽頭を上下させて、なんとか笑顔を作ろうとしたが、うまくいかなかった。
「………………」
炎に照らされたニコラスの顔は所々に影を落とし、その全てが惨劇を目の当たりにしたように酷く歪んでいる。なぜ彼の方が泣きそうな顔をしているのか、ニノンには確かめようがなかった。
確かめる前に、ぐいっと力強く身体を引かれたからだ。
気がつけばニノンは、その大きな腕に抱きしめられていた。
「……ニコラス?」
サボンとホワイトムスクの混ざったような、大人の匂いが顔じゅうを包む。頭を抱え込む大きな手のひらも厚い胸板も、驚くほどに温かい。
「ごめんね、ニノン」
耳元で湿っぽい声がした。
左頬のすぐ側で、生命の音が聞こえる。体の大きさの割に生き急いでいるような、そんな早さでトクトクいっている。
「昔のことだけじゃない。あんたの知りたいこと全部、私は知ってる。覚えてる」
驚いてニノンは顔を上げようとする。けれど大きな掌がそれを制する。
「……いつ、思い出したの?」
ようやくニノンはそれだけを絞り出した。
視界の端にちらりとオレンジ色が映る。相変わらず細長い小さな炎は、不安定なまま空中に浮かんでいる。
彼はしばらく躊躇した後、観念したように告げた。
「思い出したんじゃない。最初からずっと覚えてたんだ」
「え、でも……ニコラス、記憶を失くしてるって」
「失くしてるフリをしてたんだよ」
フリ。
その言葉が、頭の中で瞬時に違う言葉に置き換わる。心臓がどくどくと大きな音を立てて揺れている。
つまり、彼は。
「嘘、ついてたの?」
ニコラスは聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で「ごめん」と呟いた。
裏切られたような気持ちと、何か理由があったのだろうという彼に対する信頼の気持ちと。相反する思いがニノンの中で激しくぶつかり合う。
「ぜんぶ、知ってるんだよね」
「ああ」
「だったら」
「――でも、教えてあげられないんだ」
意味もなく目を凝らして暗闇の中を探る。奥行きが見つからない。見つからない。
「……どうして?」
「約束したからだよ」
「…………誰と?」
数秒、考える間があった。
その間に、ニコラスの心臓は二回収縮を繰り返した。
「あんたのお父上とさ」
パパが、とニノンは声にならない声で呟いた。
「私はあの方に仕えていた。それで、娘が平和な人生を歩めるように見守ってほしいと頼まれたのさ。ニノンには昔のことに固着せず今を生きてほしいって、あの方はそう願われているから」
心の中で積み上がっていた何かが、がらがらと音を立てて崩れ落ちていく。代わりに昏い気持ちが何処からともなくこんこんと湧き出てきて、ニノンの胸を静かに満たしていった。
「また、パパなんだ」
「ニノン」
「また私を閉じ込めるんだ」
「違うんだよ、ニノン」
「違わないよ!」
咎める声なんて聞きたくなかった。大きく発した声に驚くニコラスから、ニノンは自らの身体を引き剥がした。
「今も昔も変わらないよ。理由をつけて、いつも私を閉じ込めるじゃない。どうして? どうしてパパは、いつも――」
いつも。
悔しくて、最後は言葉にならなかった。
脱色症を理由に娘を屋敷に閉じ込めた男は、今度は何を理由に記憶の中の娘を閉じ込めるつもりなのだろう。
荒い息と共に上下する肩を、大きな手がそっと包んだ。ニコラスは背中を丸め、覗き込むように目線を合わせてくる。嗜めるような視線は、彼が完全なる味方ではないということをいやでも示していた。
「いい、ニノン。あんたのお父上は聡明な人だ。今は解らなくても、いつかきっと理解できる。あの方はいつでもあんたの幸せを願ってるって」
「嘘だ。いつかなんていらない。今がパパのくれた幸せで、それで一生自由になれないなら、私は幸せを捨てたっていい」
「ニノン!」
う、とニノンの口から呻き声が漏れた。
目の端から思わず涙が零れたのは、叱責されたからではない。
「ごめんなさい、そういうことが言いたかったんじゃなくて……違うの、でもなんて言ったらいいか、わからない…………ごめんなさい……」
父親が自分のことを考えてくれていることは十分わかっている。分かっている上で卑屈になってしまう自分が、反抗心を抑えきれない自分が、ニノンはたまらなく嫌だった。
「パパはどこにいるの……お姉ちゃんはどこ?」
「ごめん……ニノン」
「……会いたい、お姉ちゃんに会いたいよ…………」
ニコラスが何か言おうとしたのか、毛布の擦れる音がした。しかしそれだけだった。ただ申し訳なさそうな雰囲気を醸し出すだけで、一切のことを教えてはくれない。
「ニノン。私はあんたに、昔のことを思い出してほしくないんだ」
やっと口を開いたかと思うと、まるで噛み合わない言葉が返ってくる。ニノンはそっと眉をひそめた。
「今のあんたが幸せそうだから、このまま幸せに暮らしてほしいんだよ。それがあんたのお父上の願いだし、私の願いでもあるから」
「じゃあどうして覚えてるなんて言ったの……どうして打ち明けてくれたの」
どうせ教えてくれないのなら、無理にでも嘘を突き通してくれればよかったのに。
知らぬ間に恨み節になっていることに気がついて、ニノンは慌てて「ごめんなさい」と謝った。
これではただの八つ当たりだ。
ニコラスは静かにかぶりを振る。
「こんなの間違ってるって、本当はわかってるんだ。このままずっと隠し通すなんてできないことも。あんたとずっと一緒に過ごしてきて、私も少し考え方が変わったのかもしれない……。あんたはもう、あの人が思うほど子どもなんかじゃないのかもね」
「子どもじゃないよ!」
躍起になって叫んだ口に、ニコラスの人差し指が押し当てられる。
「だからあんたに打ち明けたのは、自分が感じる正しい選択から逃げないようにするための、宣誓みたいなもんだ」
語尾に力強さが宿っていた。
一呼吸置いて、ニコラスは吐き出すように告げる。
「時間がほしい」
「時間……」
「あの方との約束を破るための、時間がほしい。いつか必ず、ちゃんと全部教えるから。だから私の決心がつくまで待っていてくれるかい?」
暗闇の中で、アンバーの瞳にか細い炎が揺らいでいる。
ニノンは己の稚拙さを悟って、急に恥ずかしくなった。
完全なる味方じゃないなどと、どの立場で言えただろう。事情は分からずとも、ニコラスもまた悩み苦しんでいたという事実に考えが及ばなかった。軽い理由で意地悪をするような人間ではないと、もう充分理解していたはずなのに。
だが同時に嬉しくもあった。ニコラスがこうして心を削り、正面から向き合ってくれたから。
「うん。ずっと待ってる」
だからもう少しだけ甘えることを許してほしい。
ニノンは精一杯はにかんでみせた。
暗がりを手探りで歩くなら、一人よりも二人の方が心強いと信じたかった。たとえそれが、都合の良い解釈だとしても。
暗がりの中で、ニコラスは安心したようにふっと頬を緩めた。かと思えば、いきなり恭しく頭を下げはじめる。
「お許しありがとうございます、お嬢様」
「え、やだ、今さら敬語なんて使わないでよ」
ぎょっとするニノンの声を聞いて、ニコラスはそっと顔を上げた。彼はくすくす笑いを噛み殺しながら、いたずらが成功した子どものような顔をしている。
「もう、敬語禁止だからね、禁止」
「わかった、わかった」
「次からかったら全部喋ってもらうから」
「待ってくれるって言ったじゃないか!」
「それはそれ、これはこれ!」
賑わう声と張り合うように、強まる雨風がひっきりなしに窓ガラスを叩いていた。月明かりのない夜は更に暗さと冷たさを増してゆく。
下階からも相変わらず騒がしい声が聞こえてきていた。
だから二人とも気がつかなかったのだ。
扉の向こうで、息を潜めて階段を引き返す者がいたことに。




