第107話 夜長の密談
「あーあ。せっかくの月見酒が」
窓の外を見上げてアダムが残念そうに呟いた。手には栓をしたままのマロンビールが二本。
ここのところぐずついた天候が続いている。
窓ガラスを打つ雨粒は先ほどよりも強さを増しているようだ。ニノンもつられて窓の外に目をやったが、せっかくの満月も今は分厚い雲に覆われていて、どこに浮かんでいるのかさえ分からなかった。
「まいいや。ほらよ、ルカ。作業しっぱなしで疲れたろ? ちょっとは息抜きしようぜ」
「いや、別に疲れてはないけど」
否定しつつも、息抜きはするつもりらしい。
ルカは差し出された瓶を受け取ると、露骨に顔をしかめた。
「ぬるい」
「冷蔵庫入れたの、ついさっきだったんだよ」
悪びれもせずアダムは笑う。そのままルカの手から瓶を奪い取り、栓抜きで手際よく二本分の蓋をあけた。
「もう、ほどほどにしなよね。修復はまだ終わってないんだから」
ニノンは頬を膨らまして二人を睨みつける。
「わぁかってるよ」
はい乾杯〜、などと陽気に音頭をとって、アダムは瓶と瓶をカチンと合わせた。
絶対に分かってない。ニコラスも同じ見解のようで、半ば諦めたように肩を竦めている。
再修復を開始してはや五日。ルカはパオリ大学の一角、修復工房として使われている教室のひとつに場所を移し、カナコとタッグを組んで作業を進めていた。教室が自由に使えるのはニキのおかげだった。光太郎から事情を聞いた彼は、二つ返事で学校側に掛け合ってくれたのだ。
一度手を施した絵画を相手にしているというのに、再修復には普段よりも多くの時間を要した。作業が難航しているというわけではなく、ままならぬ理由があっての遅延だった。ルカが時間よりもそちらを優先したのだから、これはもう仕方がない。
「停電中は夜更かしするなよー。はいこれ、蝋燭セット。ぼくはこのあと風呂に入って寝るからね」
君たちもさっさと寝るんだぞ、と念押ししてニキはバスルームに消えていった。すっかり見えなくなった背中に、ニノンは小声で「はーい」と返す。
今夜から五日間、午後八時を境に電気の供給が一斉にストップする手筈になっている。
ニノンはニキから受け取った燭台と蝋燭、マッチ箱を物珍しげに眺めた。小さな長方形の箱を振ると中でかしゃかしゃと乾いた音がする。蝋燭もマッチも、電気を要しない光源の中でも最もポピュラーな代物だ。昔から利用されてきた道具だが、実物を目にするのは初めてだった。
「ニノンもいるか?」
ニキの忠告などまるでなかったかのように、アダムはビニール袋からマロンビールを一本取り出した。袋は依然として膨れあがったままだ。
「いらない。私今からニコラスとお喋りするの」
丁重に断りを入れ、ニノンは蝋燭と一緒くたにニコラスの腕をぐいっと掴んだ。ぎょっとしたニコラスが、一瞬身を引くのが分かった。
「え? 私はもう寝ようかと思ってたんだけど」
「停電の夜だよ、ちょっとわくわくしない? なんだかいつもと違うんだもん。すぐに寝ちゃうなんてもったいないよ。布団かぶって、ね、ちょっとだけ」
「ああ、まぁいいけど……?」
「んなことしなくてもさあ、ここで喋ればいいじゃん、ここで」
バンバンと隣の椅子を叩くアダムの顔は既にほんのりと色づいている。その向かいで、珍しくルカがニコニコしている。普段乾杯の席でさえジンジャーエールばかり飲んでいるので忘れていたが、ルカは飲むと微笑み上戸になるのだった。
「女子会なの。お酒くさい人は入ってこないでよね」
いっと歯を見せれば、アダムはきょとんとした顔で「水くせえの」とぼやいた。が、すぐにルカの方に向き直り、早々に月見ぬ酒を再開する。疑問符を頭に浮かべたままのニコラスを引っ張って、ニノンはさっさと二階にあがった。
*
パタンと後ろ手にドアを閉めたニコラスは「で?」と首を傾けた。
「あるんだろ、話したいことが」
「別に、そんなんじゃなくて。ただお喋りしたかっただけ」
「ふぅん?」
ニコラスは片眉を顰めたまま腕を組む。「ほんとだよ」と、ニノンは誤魔化すように燭台に蝋燭を刺した。
布団の中に潜り込み、顔を出すと、ニコラスがマッチを擦っているところだった。カシュ、カシュ、と何度か摩擦音が続いた後、シュボッと音を立ててマッチの先端に赤い炎が灯った。
二本分の蝋燭に火が移ったところで、フ、とタイミングよく部屋の電気が消える。
いきなりの暗転に目が驚いて、ニノンはあわてて灯りを探す。すぐにぼんやりと揺らめくオレンジ色の炎をふたつ捉えた。
「電気って、ほんとに消えるんだ。スイッチ押してもつかない?」
「送電ラインが遮断されてるからね。そういやニノンは計画停電って初めてだっけ」
暗闇の中でベッドがたわむ。隣にニコラスが腰掛けたのだろう。
「この間、丘の上から街半分の電気が消えるところは見たよ。ハサミで光を切り取ったみたいに、スパッ! って消えたの。ルカと一緒にゴミ出しした時にたまたま」
ふと、隣を見上げる。しな垂れる前髪が顔の半分に影を落としていた。
「――布団の中、入らないの? 寒いよ」
「いいよ、ここで。毛布があるからね」
ニコラスは肩から掛けた大判の毛布を摘まんでみせる。ニノンは少し残念なような気持ちでその手を見つめていたが、やがて諦めて、しぶしぶ布団を被り直した。
「そういや修復の方はどうなってる? もうそろそろ終わりそうかい?」
「あ、うん。あともうちょっと、かな」
日中、ニコラスは小銭を稼ぐために広場へと降りている。だから詳しい進捗状況を把握していないのだ。
「ルカとカナコちゃん、最初はちぐはぐだったんだけど、今はなかなかいいコンビだよ」
「いいコンビねえ」
意味ありげに語尾を伸ばすと、ニコラスはふっと笑みを零した。
「な……なに?」
「相変わらず可愛いね、って思っただけさ」
そう言ってニヤニヤとした視線を寄越してくる。
「う、そんなんじゃないもん」
「わかった、わかった」
「ほんとだってば」
布団の中からニコラスの体めがけて拳をぶつけてみるが、ぼすっと空気を叩く音がするばかり。ニノンは恥ずかしいやら悔しいやらで、口をつんと尖らせた。
「もっと役に立てるようになりたいって、思ってるだけ」
ここ数日、ニノンは側でずっとルカとカナコの様子を見てきた。専門知識を持たないニノンが手伝えるのはせいぜい道具の準備や簡単な作業、あとは片付けくらいのものだ。
けれどカナコは違う。もっと踏み込んだ位置で、ルカと真正面から話ができる。
ニノンは二人との間に見えない壁を感じていた。嫉妬かと問われれば少し違う気もする。胸に渦巻く気持ちは、外よりも内に向いている。たとえばそれは歯痒さだとか、焦りという言葉が当てはまるのだろうと思う。
「杞憂だね。同じ直線上に並べば援護の形が目に見えやすいってだけさ。世の中目に見えるものばかりじゃない。あの子はあんたに随分助けられてると思うけどね」
「そ……そうかな。そうだったら嬉しいけど。じゃなくて、違うの、そうじゃないの!」
顔のあらゆる皮膚がピリピリと熱くなってきて、ニノンはたまらず布団の中に身体を引っ込めた。暗闇の外からくぐもった笑い声がする。
「そういうニコラスはどうなの?」
反撃してやろうと、ニノンはヤドカリのように布団から首だけを突き出した。
「私?」
「そ!」
ニノンは両目を輝かせながら、ずいっと顔を近づけた。
思い返せば、彼の過去に関して今まで詳しい話を聞いたことなど一度もなかった。ここ最近の話だけではない。思い出した過去の中にも、それらしい記憶がまるでない。共に暮らしていた頃からニコラスにはどこか秘密主義的な部分があって、尋ねても笑顔でごまかしてばかりなのだ。
「私の話なんか聞いたってつまらないよ」
ニコラスは鼻から細く溜息をついた。返ってくる視線も口調もひどく冷めている。
「そんなことないよ」
「あるよ。思うに、あんたは恋に夢を抱きすぎだね」
む、と唇を尖らせて、ニノンは布団ごとニコラスの方に身を寄せた。
「じゃあひとつだけ聞きたい。ニコラスの思う、一番の恋の話」
「……あんたってやっぱり、女の子だね」
呆れたような物言いにも臆さず、ニノンは瞳を輝かせたまま犬のように忠実に待ち続けた。こうやって懇願すれば、いつも根負けするのはニコラスの方だとニノンは知っている。
「昔――」
だから今回も折れたのは当然ニコラスの方だった。昔からそうなのだ。彼は結局、最後にはニノンの無理強いを聞いてくれる。
「人間としてあらゆる面で尊敬できる人がいたんだ。たとえ誰であっても、助けが必要な人には手を差し伸べる。そこに躊躇なんてなくて、だけど優しさをひけらかしたいってわけでもなくて。心根から善の塊って感じの、駄目な部分なんててんで見つからない、完璧な人だった」
「その人のこと、好きだったの?」
「ああ……そうだね」
ニコラスが素直に肯定したので、ニノンは思わず顔を赤くした。
「その人とは……?」
「なにも」
短く答えて、ニコラスは組んだ足に手を添えた。
なにも。その先に続く想いを勝手に想像して、ニノンは眉尻を下げた。
と、下の階が急に騒がしくなった。おそらく風呂から上がったニキがダイニングで酔っ払い共を発見したのだろう。聞こえやしないのに、ニノンは暗闇の中に紛れるドアに向かって「しーっ」と人差し指を立てた。
「ただの憧れだったんだよ。その人には家族もいたしね」
「えっ」
「立場的にも、社会的にも、まぁ色々と無理のある恋だった。なにより、相手は私のことをそんな風には思ってなかったからね」
「片思い、だったんだ」
ニコラスの瞳は炎に照らされて夕暮れ時のように赤く染まっていた。暮れの空がどうしようもなくノスタルジックな気分を引き連れてくるように、彼の瞳の中にもそこはかとなく郷愁の色が漂っているように感じられてならなかった。
こういうのを、大人の恋と言うんだろうか――ひとりでに湿っぽい感情に包まれていたニノンの頭を、ニコラスはくしゃくしゃっと大袈裟に撫でた。
「なんであんたが落ち込んでの。ただの昔話さ。ほら、つまんなかったろ? この話はもうしまいだよ」
「つまんなくない。つまんなくないよ。壁があっても好きになっちゃうくらい、素敵な人だったんだね。私、そんなすごい恋したことないよ」
「何言ってんの。あんたは現在進行形じゃないか」
「やめて、聞こえちゃう!」
あははとニコラスが笑う。
「聞こえないよ」
ニヤついた声を掻き消すように、下階でどっと笑いが起こる。酒盛りは人数を一人増やして大幅に盛り上がっていた。中でも一番うるさいのは後から加わった男の声だ。しかも彼の声はよく通る。普段教鞭を執っているからだろうか。
ほらね、とニコラスがにやりと口角を上げる。ニノンはそっと肩を竦めた。
「結局みんな夜更かししてるよ」
「秋の夜は長いからね」
それからも布団の上での談笑は続いた。
ジャックとウィンが怪しいという話をして何故か憐れまれたり、アダムが店の女の子を口説いて昼食代をまけさせた話で盛り上がったり(もちろん二人は女の子の肩を持った)、その他にも他愛のない話をたくさんした。
その間じゅう、ニノンの頭の片隅ではとある話題が引っ掛かったまま、表に出る時を待っていた。
ずっと尋ねなければならないと思っていたことがある。
本当は、その為に今夜ニコラスを誘ったのだ。
ルーヴルでグァナファトが言っていたことの真偽を、確かめねばならない。
彼が集めてきたという、情報がびっしり書き込まれたノート。その一端に刻み込まれた名前の意味を。
――シュリー翼長の前任がニコラスだなんて、なにかの間違いに決まってる。
だけど、いざ踏み込もうとすると尻込みしてしまって駄目だった。口から出てくるのは関係のない話題ばかりだ。
「こうやって布団にくるまって、よくお姉ちゃんとお喋りしたの。なんだか思い出しちゃった」
布団の祠は暗くて温かくて、作ったこともないけれど秘密基地のようだと思ったのを覚えている。もしくは雪国で作られるというカマクラだろうか。
そうやってひそひそお喋りする時はいつも、ドアの隙間から廊下に光が漏れないように、必ず部屋の電気をすべて消した。
「夜はすぐに寝なさいって言われてたけど、こっそりね。ちょうど今みたいに」
「悪ガキじゃないか」
ニコラスが茶化すように言う。
ニノンはいたずらっぽく笑った。
「なかなかうまくやってたと思う。だってニコラスも全然気付かなかったでしょ? 私とお姉ちゃんが、夜更かししてたこと」
「もう、あんたら本当に――」
そこでニコラスはハッと息を呑んだ。
直立不動の小さな炎を見つめたままニノンは訊ねる。
「ね、ニコラスって、一体どこまで覚えてるの?」
熱で溶けた蝋が、炎のふちから音もなくぽたりと垂れ落ちた。
無音の闇が充満している。
返答はない。
明らかな秘密の存在を示す、沈黙。
「……この間、写真見たでしょ。ルカが渡してくれた崖の写真。その時にニコラス、懐かしいって言ってたよね。それって、その頃のこと覚えてるってことだよね」
わずかにベッドのスプリングが軋む音がした。相手の動揺を悟ったニノンは、勢いよく身を起こし、ぐっとニコラスに詰め寄った。
「あのね、私思い出したの。ニコラスとダニエラさんは私の住んでたお屋敷に仕えてた執事さんなんでしょ。私たちはボニファシオで暮らしてたんでしょ?」
「ああ……いや」
薄暗がりの中でもはっきりと見える。見開かれた瞳の中で、オレンジ色の炎が風もなく揺れている。
「そのあと、ニコラスはゾラさんに拾われたんだよね。それからは本当に、ずっとサーカス団にいたんだよね?」
「あ……え?」
その物言いに不自然さを感じ取ったからだろうか。ぴく、とニコラスの片眉が持ち上がった。
「それは、どういう意味だい?」
「わたし――」
訊かなければ。
震えそうになる声を無理やり律して、ニノンは己を鼓舞した。握り込んだ拳を開いて、視線を上げて、相手の目を見て。
「私、ルーヴルに忍び込んだ時に偶然聞いちゃった。ダニエラさんが務めてるシュリー翼長、前任はニコラス・ダリって人だったって」




