第106話 フェルメールと失われた絵画
「え、ちょっと待ってくれよ。そんな画法ってあるかよ?」
慌てて口を挟んだのはアダムだった。
「だって経年劣化はエネルギーの還元率を大幅に下げるんだぜ。わざわざそんな方法取り入れる奴がいるかよ?」
「それがいたんじゃよ」
鋭い目に見つめられ、アダムはびくっと肩を揺らした。
「この絵が描かれたのは六〇年ほど前――つまり、まだAEPがこの世に生まれていなかった時代のシロモノじゃからの」
フェルメールはゆっくりと視線をテーブルの上に移すと、節くれだった指で絵画を包んでいた布を解きにかかった。
「フェルメールさんの言った通り、これはAEP産業の影響を受ける前の絵だ」
今まで黙って話を聞いていた光太郎が、突として口を開いた。
「自己の中の表現したいものを、どうやったら最も適した形で観る人に伝えられるか。誰も見たことのない表現方法を編み出すにはどうしたらいいか。かつての画家は今とは異なる価値観の目を持っていた。その証拠が、こうして今もこの世には残されてるってわけだよ」
まるでフェルメールの閉ざされた口から続きの言葉を引き出して、代弁でもしているかのような話しぶりだった。
光太郎が視線を机の上に向ける。
促された先を目で追って、ルカは静かに息を呑んだ。
剥き出しになったキャンバスの上に描かれていたのは――。
「これが……」
それはなんとも幻想的な森の絵だった。
鉄格子のように並び立つ立派な幹。
それらの間から、白い光が柔らかく射し込んでいる。爽やかな朝の光はこぼれ落ちた先で水溜りのような模様を描き、その光のただ中で、幾人かの人間が手を取り合い輪を作っている。
まるで不思議な儀式のようだが、島民ならば一目見ただけでそれが何を表しているのか分かる。
彼らは多声合唱を歌っているのだ。
ポリフォニーはコルシカ島の民族音楽だ。
全体を眺め、細部を見つめる。
生い茂る葉の緑のなんと美しいことか。
コバルト・グリーン、ベールコンポーゼ。薄く溶いたそれらの色の下に隠れているのは、クロムイエローだろうか?
言葉を忘れて、ルカの目は貪欲にキャンバスの表面に噛りついた。
「緑がメインの『グラッシ』で、こんなにも綺麗な絵が描けるもんなのか」
すぐ側で感心したような声が聞こえた。
ルカが隣に顔を向けるよりも早く、右肩に半身をぶつけるようにしてアダムが身を寄せてくる。噛りついていたのはルカだけではなかったようだ。
「すげーなァ」
まじまじと絵画を見つめながら呟くアダムに、ルカも同意する。
「きっとすごく器用な人だったんだ」
「ああ。じゃなきゃ描けねェよ、こんな細けーもん」
他の色を食らうと言われるほど、緑色はその扱いが難しい。
羽衣のように幾重にも絵の具を織り重ねようと思えばなおさらである。配合を間違えれば最後、重ねてきた微妙な色合いは呆気なく呑み込まれてしまう。
「ねえねぇ、それなんの話?」
話の途切れるタイミングを窺っていたのか、ニノンが勢いよく顔を傾けてこちら側を覗き込んできた。
「グラッシって、知ってる。ドーナツの上にかかってる甘くて白いアレでしょ」
「誰が今ドーナツの話をすんだよ!」
「だってわかんないんだもん」
ニノンが拗ねたように唇を尖らせる。
「いや、ドーナツのやつもグラッシであってるよ、あってるけどさ。ちがうちがう。グラッシって、技法のひとつだよ」
腹減ってんなら紅茶を飲めよとアダムに勧められ、ニノンは素直にカップに手を伸ばした。
「絵の具を油でうすーく溶いてさ、それを何回も塗り重ねてくんだよ。そうすると下の色が透けるだろ。パレットで混ぜる色とはまた違った感じの雰囲気を作り出せるってわけだ」
それからアダムは、薄く色のついたラップを何枚も重ねるようなものだと付け加えた。学校を出ていない彼は、絵画の知識をもっぱらエリオたちに詰め込んでもらったらしい。そういえばエリオもカヴィロもシャルルも、ここコルテの大学出身だと言っていた。
「なんだろうな、この技法を使えばさ、繊細で透明感あって、こう……幻想的な感じに仕上がる。……だよな、ルカ?」
ちろりとアダムの窺うような視線がルカに飛んでくる。ルカは小さく頷いた。
「ひとつ付け加えるなら、表面が陶器みたいにツルツルしてるって特徴がある、んだけど……」
その先を続けるべきか迷って、ルカはちらりとカナコを見やった。彼女は曇天よりも重たい顔をして、ひたすら首を落としている。修復失敗した絵を他人にまじまじと見られるなんて、顔から火が出そうなほど恥ずかしいのだろう。
「ふぅん。そもそもこの絵、そんなにヒドイ状態なのかい? 私にはよくわからないんだけどねぇ」
頭上から絵画を覗き込んでいたニコラスが、不思議そうに首を捻る。
「ヒドイっつーか」
アダムはキャンバスを持ち上げると、少しだけ斜めに傾けた。
「絵具の盛り上がりがある。本当は全部ツルッとしてるはずなのに、不自然だろ。あ、そこにも」
あそこにも、とアダムの指先が次から次へと問題箇所を指摘していく。所々に出来た絵の具の盛り上がりはもはや、ピカピカに磨かれたガラス面に付着した泥汚れのように見える。
「ま、じいさんがそこまで怒るってことはよっぽどひでェ修復だったんだな」
言ってしまってから、アダムはあっと口を塞いだ。
「あっ、いやカナちゃん、違うって! そういう意味じゃ、いやそういう意味なんだけど」
「いいえ、アダムさんの仰る通りですわ。わたくし、その酷い修復をした自覚は、思い返せば、ううっ……ありますもの……」
軽率な発言のせいで更に自尊心を傷つけられたカナコは、再びさめざめと顔を手で覆い隠した。
必死に弁明を続けるアダムを残念そうに眺めていると、ルカの視界をふっとニノンの手が過ぎった。その指先はキャンバスに伸びて、そっと縁に触れたが、しかし数秒もしないうちに離れていく。
絵画から何かを感じとったのだろうか。ルカが目をやると、ニノンはこちらを向いて残念そうに首を横に振った。
「ダメ。元からかけ離れ過ぎてるせいか、絵画の声、全然聞こえないや。この朝の森の絵に込められた想いを少しでも汲み取れたら、って思ったんだけど」
ニノンの能力は、絵画が画家の思い描く完成の形に近くなければうまく発揮しないようだ。思い返せば、今まで出会ってきた絵画も例に漏れずそうだった。
「なんとかして元に戻す方法はないのかな」
「元に戻す、か……」
ルカは眉尻を下げるニノンから手元の絵画へと視線を移した。
可能性はなくはないのだ。その方法には心当たりがある。再修復だ。再修復を行えば、たとえ完璧には戻らなくても今よりはマシになるかもしれない。
ただ、ルカ自身まだはっきりと再修復の道筋を見出せていないこともあって、提案に踏み切れずにいるのである。
なによりも傷心のフェルメールが首を縦に振るかどうか――。
「『夕暮れ時』」
ぼそっとフェルメールが呟いた。
ルカは顔を上げる。
「……え?」
「それがその絵画のタイトルじゃ」
一瞬、部屋がしんと静まり返る。
だがすぐに、え、とニノンが冗談交じりの笑顔を浮かべて絵画を指差した。
「夕暮れって、だってこれ、どう見ても――」
言葉の続きを制するように、フェルメールがやんわりとかぶりを振る。
「言ったであろう、この絵は経年劣化を見越して描かれたものだと。ワニスの黄変、絵の具の褪色。六〇年経ち、それらがうまく作用した時、この絵はタイトル通り『夕暮れ』を迎えるはずだったのじゃ」
射し込む光の帯が朝日に見えるのも、朝の空気をたっぷり吸い込んだ緑の葉もけぶる朝靄も、すべては未完成たるが故の情景に過ぎない。
幹の間からわすかに顔を覗かせていた太陽は、昇っていたのではない。沈みゆこうとしていたのだ。
「ゼンザイさん、と言ったかな」
夕暮れを失ってなお老人の声は穏やかだった。
だからカナコは分かりやすく安堵の表情を覗かせた。謝罪を受け入れてもらえると思ったのだろう。
「お前さんの手酷い洗浄技術には目を瞑るとして、古くなったワニスを新しいものに替えることは、ルーヴル的にはおそらくなんら問題ない。そうじゃな」
「ええ、それは、そうですわ。表面をコーティングしている保護用ワニスの劣化は、エネルギー還元率を下げるポイントですもの。修復家なら誰でもみんな、古くなったワニスは綺麗に取り除いて、代わりに新しいワニス掛けを施しますわ」
この期に及んでカナコは言い訳めいた物言いをした。ガラスの破片ほどになってしまったプライドを、彼女の心は無意識に守ろうとしたのかもしれない。
「そう、だからお前さんは、己が技術の未熟さによって本来得られるエネルギー還元量をほとんど失くしてしまった――そのことについて謝罪をしたのじゃろう」
「……仰る通りですわ」
「わしはその謝罪をしかと受け取らねばならん」
「あ――ありがとうございます!」
カナコが笑顔を見せたのも束の間のこと、その表情はすぐに曇ってしまった。何か苦いものを喉に詰まらせたようなフェルメールの顔を、目の当たりにしてしまったせいだ。それはまるで、吐露できずにいる本心が、腹の中で暴れまわるのをぐっと我慢しているような表情だった。
内なる化け物を嗜めるように、フェルメールはすっかり冷めてしまった紅茶をごくりと飲み干した。
ひと息つき、ふた息置き。やがて遠いところを見つめたまま、彼はぽつりと呟いた。
「修復の失敗で絵画を失うのと、エネルギーを得るために絵画を失うこと。わしにとってはどちらも同義なのじゃ」
「それは……いいえ。それは、同義、ではありませんわ」
「左様。お前さんらにとっては違うのであろう」
フェルメールは白髪眉の下から鋭い眼差しを覗かせた。
反射的にカナコの頬がくっと強張る。
「だったらきちんと、責任をもって奪ってゆけ。お前さんらがこれからもわしや、或いはわしのような人間から絵画を奪ってゆくのならばなおさらのこと」
フェルメールの言葉はカナコへの怒りなどとうに跳躍していた。
それはもっと遠く、海を越えた先にある、世界の中心に向けられた――或いは世界全体に向けられた嘆きであった。
「どうせ失うのならば価値ある喪失にしておくれ。無駄な殺生はしてくれるな。でないと」
今まで淡々と言葉を口にしていた声が、ふいに淀む。
「……でないと、諦めがつかんじゃろう」
白髪眉毛の奥深く、化石のようだった青黒い瞳が、吐き出された言葉と共に微かな湿り気を帯びた。
ルカはその時、彼の心を激しく揺さぶる悔しさの一端に、確かに触れたような気がしたのだ。
画家が魂を削って編み出した四次元の層。
それがごっそりとなくなってしまったキャンバスは、なんだかとても薄っぺらいものに見えたから。
実質、カナコが溶かして消してしまったのは絵の具の層だけではなかった。本当に消えてしまったのは、六〇年という歳月そのものだったのだ。
フェルメールにはもう、同じだけの歳月を待つ時間は残されていない。
「あの……わたくし…………」
カナコの言葉はだんだんと尻すぼみになり、最後の方は霞んで聞こえなかった。辛辣な言葉をまるまる呑み込んだからなのか、最後の一言に胸を打たれたからなのか、彼女は口を半開きにしたまま呆然としている。
その片目から不意の涙が溢れ、つぅと頬を伝い落ちた。
「な、なぁじいさん。この子、昨日からずっと反省してたんだぜ。ここに来るまでもずっとさ。今もすんげェ反省してるし。だからさ、その」
「わしからはもうなにも言うことはない」
必死で弁護するアダムに目もくれず、フェルメールは強引に会話を断ち切って席を立った。
「さっさとこの絵画を持って本土に帰ってくれ」
「あ、フェルメールさん」
腰を上げかけた光太郎を、フェルメールの片手がしっしっと追い払う。構わないでくれと背中で訴えられては、光太郎も中途半端に伸ばした手を引っ込めるしかなかった。
意地や自棄や、悲しみ、諦め。
色んなものを背負った老人の背中を、居合わせたもの全員が複雑な思いで見つめていた。
このままでいいのだろうか。
このままで――
「おじいちゃん!」
「じいさん!」
「フェルメールさん」
複数の声が同時に老人の背中を引き留めた。
彼は煩わしげに首をひねって振り返る。
「あ? なんだよニノン、先に言えよ」
「え? い、いいよ、アダムが先にどうぞ」
「いやいや俺は……あじゃあニコラスに譲るわ」
「いやそんな、遠慮しなくていいよアダムちゃん」
咄嗟に声が出てしまったのだろう。途端にまごつきはじめた三人に、フェルメールは眉を顰める。
仕方ないな、という風にルカは小さく溜息をついた。
考えるよりも先に体が動いてしまう人たちなのだ。余計な問題に引っ張り込まれるのは厄介だが、お節介な彼らのことを自分はきっと嫌いではないと、ルカは思う。
「フェルメールさん」
訝しげな表情のまま、フェルメールは目だけを動かしてこちらを見た。
「その絵画の『再修復』を任せてもらえませんか」
「再修復じゃと?」
片眉をぐっと持ち上げた後、フェルメールはすぐさま「いい、いい」と片手を大きく振って断った。
「どうせ同じことじゃ。これ以上手を加えたところで失われた絵が蘇るわけでもない。もとより消え去る定、これもまたあの絵画の運命だったのじゃろう」
「そんな――待ってよ、そんなのおかしいよ!」
ニノンは行く手を阻むようにフェルメールの前へと回り込んだ。ぴたりと足を止めたフェルメールの目が、目の前の少女をじろりと見下ろす。
「だって数十年後じゃなきゃこの絵は完成しないものだったんでしょ? 今はまだ未完成品なんでしょ?」
「左様。しかしエネルギーには換えられる」
「そうだけど……! 画家の願いは完成した絵を見てもらうことだったんじゃないの?」
「昔はそれも許されたであろう。だが時代は変わる。一個人がその手に絵画を抱くことさえ叶わん世の中になってしもうたからの」
「でも!」
「もうよい。手遅れなのじゃ」
フェルメールは諦めたように溜息をついた。
「時間を巻き戻しでもせん限り、あの絵を取り戻すことはできんよ」
老人の瞳の中を寂しげな光が一筋流れて消えた。向けられた背は遠く、彼はもう誰の声も届かない場所へと歩き去ろうとしているようだった。
何かないだろうか。彼を引き留めるための方法が、なにか――その時、ルカの目が部屋の一角を捉えた。口を縛られた透明なビニール袋。その中に大量の紙ゴミが詰め込まれている。丸められたティッシュ、使い終わった綿棒。
おそらくあれは、カナコが修復作業を行った時に出たゴミだろう。修復作業で出たゴミ。拭い取られた絵の具、劣化したワニス……。
その時、暗闇を走る一筋の稲妻の如く、ルカの頭の中に一本の道筋が浮かび上がった。
不可能を可能にするための、修復の工程が。
「巻き戻すことができるかもしれない」
「……なんじゃと?」
仰々しく振り返るフェルメールに向けて、ルカははっきりと繰り返した。
「その絵に積み重ねられた六〇年の歳月を、取り戻せるかもしれません」
「バカな。そんなことできるわけがなかろう」
「ルカ……なにか、秘策が?」
唇をわななかせる老齢の男を、それから驚いた表情を覗かせる父親の顔を順に見やってから、ルカはしかと頷いた。
「やってみせます。俺は修復家ですから」
――世界を動かす大きな時計のネジを、左に回せたらいいのに。
なぜか急に、ルカは幼い頃自分が口にした言葉を思い出した。そうすれば、画家の描きたかったものがそのままの姿形で拝めるのに、と。あの頃は随分とメルヘンチックなことを言っていたものだ。
あの時の父親の反応はどんなだったろうか。
祖父はなんと言っていたか。
「お願いします、フェルメールさん。俺に、再修復の許可をください」
そうだ、あの時彼らは微笑みながらこう答えたのだ。
時間は巻き戻せない。
だから絵画修復家が存在するのだと。




