第105話 善哉カナコの詫言
前日から予報されていた通り、その日は朝から雨が降ったり止んだりと中途半端な天候だった。
「今朝の授業さあ、ニキ先生、絶対遅刻してるよな」
「朝ごはんも食べずに出てっちゃったけど大丈夫かしらね」
前を行く傘の下からぽつぽつとニキに対する心配ごとが聞こえてくる。午前の早いうちから授業があるとかで、確かに彼は朝からずいぶんと騒々しかった。
「授業に使う資料、持ってくの忘れてたりしてな。あの命懸けで鉄橋に登って作ったやつ」
「そうだよ、忘れてたんだよ」
「ああ?」
アダムの芋虫みたいな模様の傘が目の前でぐらっと揺れて、水滴がぱたぱた落ちる。四人が差している傘はすべてニキから拝借したものだ。信じられないような奇抜なデザインばかりで、ずっと見ていると目がチカチカしてくる。
「机に置きっぱなしになってたから私、慌てて渡したもん」
ニノンが拗ねたように言う。
「あの人、何しに学校行ってんだ……?」
濡れそぼる坂道をくだりながら、ルカは遠くの景色に目をやった。霧のように降る雨のせいで連なる山々も霞んで見える。
前方で続いている会話も、ぼんやりとしている内にルカの耳には届かなくなった。ふっと気を抜くと、無意識に心が内側を向いてしまう。
昨晩の出来事を思い返す度、ルカの頭の中には曇天と同じ重たい灰色の靄が立ち込めるのだった。
垣間見た記憶の最後、ニノンは確かに『ルカ』と口走った。
あの時ははっきりとそう感じたのだが、よく考えてみればそれが勘違いであるということは明白だった。何故なら、ルカがニノンと初めて出会ったのは彼女がすっかり記憶を失くしてしまった後の事だったからだ。
それに直接声を聞いたわけでもない。ただ口の動きがウ行とア行の形に動いたのを見ただけだ。
そもそもルカはボニファシオの地を訪れたことなどない。ないはずだ。
だからきっと、あのひどくリアルで奇妙な光景は、彼女の能力がなんらかの形でルカに見せつけた、誰かの思い出なのだろう。
そう思わなければ気味が悪かった。
まるで知らないうちに頭の中から記憶が抜け落ちているようで。それにしては今まで生きてきた人生の中で、記憶の欠落など一片たりとも見つけられないのだから。
「ニノン」
「ん?」
隣を歩いていた毒々しい花のような模様の傘が、わずかに斜めに傾く。
「昨日の写真のことなんだけど」
「うん?」
「あれ、撮影したのが誰かってニノンは憶えてるのか?」
返答はすぐには返ってこなかった。
傘を打つ雨音がふっと静かになる。市街地が終わり、あたりは黒々とした木の生い茂る景観に変わった。
聞こえなかったのだろうか、とルカが再び口を開きかけた時。
「どうしてそれが気になったの?」
思わぬ質問返しにあい、ルカは「え」と中途半端に口を開けた。
「ルカ、なにか思い当たることでもあるの……?」
傘の下から覗く紫色の瞳に揺らぐのは……期待?
一体なんの?
「いや、その人に会えたら何か話が聞けるんじゃないかって思ったんだけど」
もちろんそれもあるのだが、本音を言えば頭の中で渦巻く霧を晴らしてしまいたいという気持ちが強い。ルカはちらりと隣に視線を送ってみたが、ニノンの顔はすっかり傘に隠されてしまっている。
「どうかな」
「え?」
返ってきたのがトーンの低い声だったから、ルカは少しだけ驚いた。どうかな、と言ったように聞こえたが、雨の音が混じってはっきりとしない。
ルカが戸惑っていると、諦めたような声でニノンは答えた。
「お屋敷でいつも一緒に遊んでた男の子。その子が撮ってくれたの。でも話聞いても、なにもわかんないと思う」
「そ……うなのか?」
「そうだよ」
なぜか最後だけはっきりと言い切られる。
ルカはそれ以上追求することもできず、そっと首をすくめるに留めた。
パッとしない返答だったが、あの時あの場所にルカがいなかったことだけははっきりしたような気がする。そうでなければニノンが何かしら言ってくるはずなのだ。
「わっ」
頭がすっきりした途端、今度はニノンが小さな悲鳴をあげた。
「大丈夫?」
そっと傘を持ち上げて様子をうかがう。へっぴり腰の状態で、ニノンは「大丈夫」とぎこちなく笑った。
「なんか、すべって歩きにくくて」
歩きづらいのは地面を覆う落ち葉が泥にまみれているからだろう。
ニノンはおぼつかない足取りで一歩踏み出し、ついでに傘の柄を握り直した。
「カナコちゃん、それ見て納得してくれたらいいね」
ニノンの目がリュックの口から突き出た二本の筒に向く。中にはそれぞれ丸めた状態の絵画の片割れが収まっている。一つは現サーカス団・団長のウィグルから譲り受けたもの。もう一つは昨夜ニキから受け取ったばかりのものだ。
二枚を合わせても本来の絵画の半分しか揃わない。欠損絵画であることは一目瞭然だ。
「そのために持ってきたんだ。納得してもらわないと困る」
本当はニキの家の保管庫に置いておきたいところだが、現物を見せなければカナコも納得しないだろう。絵画の大敵である湿気から絵を守るように、ルカは今一度その筒をしっかりと懐に抱き寄せた。
数分も歩けば、やがて傘に阻まれた細い視界の先に目当ての建物が見えてきた。
苔むした屋根に蔦の生い茂った壁。同じく緑に覆われた玄関の軒下で、袴姿の女の子が一人俯いている。
「善哉さん」
呼び掛けると、カナコの肩はこちらが驚くくらいびくっと飛び跳ねた。次いで油を差し忘れたロボットのようにギギギ……と首を回して顔をこちらに向けた。
「げえ。カナちゃん、めちゃくちゃ緊張してんじゃん」
アダムが傘を畳みながら軒下に割り込む。ルカたちも体を押し込めるようにして後に続いた。五人も集まれば雨をしのぐのもギリギリのスペースだ。
「はあ、緊張? わたくしが? ナゼ?」
カナコは目をかっぴらき、凄みを利かせた声で唸った。
「大丈夫大丈夫。俺たちがついてんだからさ」
特に根拠のない励ましを吐いて、アダムは気安くカナコの肩に手を回す。
「素直に頭下げて、ついでに涙の一粒でも落としときゃすぐに許してくれるって。相手はじーさんだろ?」
「う、簡単に仰いますわね」
さほど広くもない軒下でどうでもいい井戸端会議が開かれはじめる。ルカはリュックサックを庇うように体を縮こめ、一歩内に詰めた。できればはやく家の中に入ってしまいたい。
「善哉さん、呼び鈴鳴らしていいかな」
「あなたは自分に関係のないことだからそんな楽天的なのですわ」
カナコは肩に乗せられた手を払い落とし、恨めしそうにアダムを睨みつける。
「だってやらかしたのはカナちゃんだし。なぁ?」
「うっ」
「自業自得だね」
「うぐぐ」
アダムとニコラスが至極真面目な顔で頷きあう。
「そ、そんなことあなた方に言われなくてもわかってますわ!」
「呼び鈴……」
彼女を憐れに思ったのだろう、ニノンが遠慮がちに「あの、カナコちゃん」と声を掛ける。
「今のままじゃ、反省もなにもしてないって、おじいさんに勘違いされっぱなしになっちゃうよ?」
「そ、それは嫌ですわ」
「やっちゃったことは消せないけど、申し訳ないって気持ちは今からでも相手に伝えられるじゃない。勇気さえあれば」
「そう……ええ、そうね」
「押すよ」
「そうよね。わたくしっ、わたくし誠意を込めて謝りますわ! たとえ許していただけなくても――あっまだ押さないでくださいまし!」
え、とルカは思ったが、人差し指は既にしっかりと呼び鈴のボタンを押していた。カナコの叫びも虚しく、分厚い扉の奥から『ジリリリリン』とベルの音が響く。
「ああっ、まだ心の準備が……!」
「んな大げさな」
カナコは大々的に自身の左胸を押さえる仕草をする。本人的には目の前で地獄の門が開くのを待っている気分なのだろうが、端から見れば随分オーバーリアクションなので少しだけ可笑しい。
実際、彼女から見えないところでアダムは笑っていたし、ニコラスは呆れたように肩をすくめていた。
かくして地獄の門は開かれた。出迎えたのは憤怒に身を焦がす妖精――ではなく。
「……なにしてるの? 父さん」
「おはようルカ、皆も。さ、入って入って。フェルメールさんは今奥でお茶の準備をしているよ」
朗らかな笑みを湛えたルカの父親だった。
*
応接間に通された五人は、革張りのソファに腰掛け、息を詰めてじっとしていた。真ん中に座らされたカナコだけは首が落ちそうなくらい俯いている。息をしているのか心配になるくらい、ぴくりとも動かない。
その向かいで、フェルメールが静かに紅茶を注いでいた。
カチコチと壁掛け時計の振り子の音がやけに響く。
全員分のカップに色の濃い紅茶が注がれたところで、光太郎がそれぞれにカップを配膳した。
「あの、これ」
向かいに座るフェルメールに向けて、ルカはおずおずと赤い三角帽子を差し出した。
「おお、どこへやったかと思うておったんじゃ。この帽子を被らんと夜寒くての。どうもありがとう」
どこへやったも何も、初対面早々にこの帽子を投げつけてきたのは礼を述べた本人である。
もっさりとした白髪眉毛を持ち上げて、フェルメールはありがたそうに帽子を受け取った。
「それから……昨日はすまなんだ」
フェルメールは薄くなった頭を深々と下げた。思ってもみなかった反応に一同はぎょっとする。
「いや、謝るほどでは」
「ろくに話も聞かずに締め出して、あげく手をあげた。十分な醜態じゃろ」
フェルメールにかぶりを振られては、ルカも押し黙るしかない。
「あの時はどうにも怒りでトチ狂っておったようでの。修復という言葉を耳にするのも辛抱ならんかった。いや、これもすべては言い訳に過ぎんか。すまんかったの、みなさん」
「それは……あの、だいたいの事情は知ってますから」
だから謝るのはよしてくれと、ルカは懇願する。
まるで別人だ。憑き物でも落ちたみたいに今や老人の表情は穏やかで、声も凪いでいる。
どうやら一行が到着する直前、光太郎が一応の事情を改めて説明してくれたらしいのだ。
それにしてもあまりの変貌ぶりだ。ルカたちは昨日相対した男と今目の前にいる人がはたして本当に同一人物なのか、未だに半信半疑だった。
その時、隣で俯いていたカナコが突然音を立てて立ち上がった。その場のすべての視線が一斉に彼女へと集まる。
精一杯の勇気を振りしぼったからか、カナコの頬は薄っすらと上気している。
「謝罪すべきは、わたくしの方でございますわ」
机についた両手が微かに震えている。
「事情も聞かず、身勝手に修復を進めてしまった……己の立場を過信して驕り高ぶって、挙句、本来あってはならない失敗を繰り返したわたくしが、すべて、悪いのですわ」
時折声が震えそうになる度、カナコはごくりと咽頭を上下させてそれを堪えた。
フェルメールの瞳は洞穴のように昏いままで、その両目をじっと手元のカップに落とし続けている。
「どうしても直接謝罪がしたくて参りましたの。今回の件については本部にきっちりご報告させていただいて、然るべき処罰を受ける心積もりでおりますわ。フェルメール様、この度は誠に、誠に、申し訳ございませんでした」
ひと思いに言いきって、カナコは腰を九十度に折り曲げた。
長い沈黙が訪れる。
重く張りつめた空気の中で、フェルメールはカップに手を伸ばし、紅茶で唇を湿らせた。下ろしたカップがソーサーに当たり、カチャリと音を立てる。
一節置いて、フェルメールはその閉じられた唇を重々しく開いた。
「修復で消えてしまった絵画の層は、二度と元には戻らん」
それは哀しみとも諦めともつかない声色だった。
腰を折り曲げたままカナコは静かにその声を聞いている。フェルメールは隣の椅子に立て掛けてあった布ぐるみの絵画を抱え上げ、机の上に恭しく横たえた。
「この絵はの、数十年という歳月を経てようやっと完成するように描かれたものだったのじゃ。絵の具、その上に塗られたワニス――経年劣化によってそれらに起こる褪色を予め予測してな」




