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コルシカの修復家  作者: さかな
10章 夕暮れ時のオールドラングサイン

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第104話 奇妙な記憶

 網膜の内側から射されたような強烈な光は、しかし次の瞬間にはすっかり消え失せていた。

 代わりにルカの視界に飛び込んできたのは一本の水平線、それとインクを水に溶かしたような透明な青色だった。

 ゆらゆらと視界が上下に揺れている。


――海?


 気がつけばルカは小さな舟の上に立っていた。見渡す限り広がるインディゴブルーの海。晴れやかな空にはカモメだかウミネコだかが群れるように舞っている。

 ルカはあたりを見渡しながら内心首を傾げた。正体の分からない違和感が頭全体を覆っている。その原因を探ろうとして、ふとあることに気がついた。

 波の音が聞こえてこない。

 それに風のうねりや、鳥の鳴き声も。

 まるで消音スイッチを押したテレビのように、何も聞こえないのだ。


 ふいに、ルカの体が意思とは無関係に背後を振り返った。

 海を突き抜けそびえ立つ白亜の断崖。その根元を波は音もなく打ちつけて、しきりに水飛沫を飛ばしている。

 と、ルカの目が何かを探すように上方を仰ぎ見た。侵食されてギザギザに荒れた岩肌のずっと上の方で、見知った少女がこちらに向かって手を振っている。人懐っこい笑顔、桃色の長い髪……。


 さっとルカの手が動き、首にぶら下がっていた高そうなカメラを顔の前で構えた。目がごく自然な流れでファインダーを覗く。


――写真を撮った時の記憶? 誰の……。


 なんとか小さなフレームに少女と青空を収める。待ち構えていたように、指先が何度もシャッターをきった。

 写真を撮り終えるとルカはすぐに小舟を崖下に寄せ、岩のでっぱりにロープを括りつけて、海苔のはびこる石階段を駆け上った。


――これは、写真の中でニノンが立っていた石階段だ。


 地上に出た途端、今度は一面黄色の花畑が目に飛び込んできた。

 瞬間、風の塊が顔にぶつかり、ルカは咄嗟に目を瞑った。すぐさま瞼をこじ開けると、眩しい日差しの中、一面の黄色の中にぽつんと桃色が見えた。


『――――!』


 少女が大きく手を振りながら何か言っている。

 こっちだよ、と呼んでいるのかもしれない。


『ニノン』


 聞こえない呼び声にルカは言葉を返す。

 彼女の元に駆け寄ろうとした時、背後からびょおっと潮風が吹いた。空に舞い上がった黄色い花弁が、風にのってニノンの背後にそびえ立つ洋館の向こうに消えていく。

 それはとても立派な豪邸だった。どこまでも続いていそうな外壁に、窓がいくつも並んだお城のような建物。向こうの方には円柱状の不思議な形の建物も見える。そのどれもが太陽の光を照り返し、どんな白よりも白く輝いている。


 ここはあの写真に眠っていた記憶、もしくは撮影者の思い出の中なのだろうか。

 ルカがなんとなくそう思ったのは、ニノンの力を使ってエリオの絵と共鳴した時のような――透明なフィルターを隔てて世界を眺めているような、奇妙な感覚がずっと身体中を支配していることに気づいたからだった。


 ただあの時のような夢心地さはなく、もっとクリアで写実的な世界が目の前には広がっている。

 言うなれば、写真の撮影者の体の中に己の魂だけが入り込み、過去のワンシーンを疑似体験しているかのような。もしくは実際に体験したことを、記憶を失った状態で追体験しているような。そんな感覚なのだ。


 その時、豪邸の大きな扉が内から勢いよく開かれた。中から飛び出してきた人影がそのままニノンの手前に回り込む。行く手を阻まれたニノンは「しまった」という顔をして、素直にその場でこうべを垂れた。

 現れた男の姿を見てルカはぎょっとする。


――ニコラス?


 シャツに黒ベストというかっちりした服装は派手な印象からはかけ離れている。髪型も茶色の短髪と無難な形だが、その顔や表情、しぐさはニコラスそのものだ。おとなしめな出で立ちも相まって、むしろ表情の豊かなダニエラに見える。


 彼の向かいでニノンは体を小さくし、説教の嵐にひたすら耐えている。

 開かれた扉の奥に人影が二つ見えた。人影はお転婆な少女と怒り心頭の男を見守るように佇んでいる。

 一人はニコラスとよく似た風貌の男。もう一人はプラチナブロンドの長い髪の女性で、男の傍らに身を寄せている。二人は穏やかな笑みを浮かべ、時折視線を交わしては困ったように肩を竦めた。


 彼らが誰なのかルカは知っている。


――ダニエラさん、カノンさん……。


 ベルナール家のもう一人の末裔、カノン・ベルナール・ド・ボニファシオ。

 そして彼女の従者、ダニエラ・ダリ。


 太陽の光溢れるこことは真反対の、閉ざされた地下の花畑。その中で車椅子を押していたダニエラの、氷のような眼差しを思い出す。

 今目の前にいる二人を取り囲む空気はあの時とは似ても似つかない。それは春うららかな午後の日差しのような、なんともあたたかい雰囲気なのだ。


 複雑な思いで屋敷の入り口を眺めていると、二人のそばを誰かが通り過ぎた。

 ダニエラは振り返り、屋敷の奥に向かって軽く会釈する。ややあって白衣を羽織った白髪の男が引き返してきた。男はそのまま二人に混じって少しばかり立ち話をはじめたようだった。

 どことなく見たことのある横顔だとルカは思った。どこで見たのか――思案する間もなく、その顔がふっとこちらを向いた。


 あっと心が驚きの声を上げた。

 心臓を鷲掴みにされたような衝撃がはしって、ルカの目が釘付けになる。


 そこにいたのはサンジェルマン伯爵だった。


 半分閉じた瞼に血の気のない青白い頬。だが不思議と年齢を感じさせないその顔。忘れるはずがない。ルーヴルの奥深くにひっそりと存在する玉座の間で、亡霊のように姿を現したあの瞬間のこと。ルカを一目見るなり「懐かしい」と言い放ったその声も、耳元で囁かれたようにありありと思い出せる。


――どうして伯爵がここに?


 男はこちらの存在に気がつくなりそっと片手を上げた。

 それは未だに説教の続くニコラスとニノンを飛び越えて、確実にルカに向けられたものだった。


 早鐘のように脈打つルカの心臓を置き去りにして、自身の右手が相手と同じように持ち上がる。それが会釈よりも親しげな挨拶のサインだということは疑いようもない。

 サンジェルマンはルカの反応を確認するや否や、満足そうにその場から立ち去っていった。まるで人ごみの中で親しい友人を見つけたような、そんな表情を浮かべながら。


 呆然と立ち尽くすルカの視界に、今度は目を吊り上げた男の顔が飛び込んできた。ニノンへの説教を終えて標的を切り替えたのだろう、ニコラスは肩を怒らせながらぐんぐんとこちらに迫ってくる。

 そんな彼を風のように追い抜いて、ニノンは颯爽とルカの元に飛び込んだ。彼女の口元がまた何かを発するようにぱくぱくと動いている。


『――――!』


 え、と驚く間もなく、ルカはニノンに手を引っ掴まれた。二人はその場から逃げるようにして走り出す。


――ニノン、今、なんて?


 ルカの目は手を引く彼女の背中を見つめ続けている。桃色の長い髪が走る度に揺れる。太陽の光が当たって、一本一本が金糸のように輝いている。

 朝焼け色の美しさと先ほどの疑問が頭の中でぐちゃぐちゃに絡まりあう。

 逃げる間際にニノンが発した一言。間近で目にした彼女の口元は、そんなはずはないのに、確かにそう言ったように見えたのだ。


『逃げよう、"ルカ"』と。



 *



「…………俺……?」


 ドスドスと床を踏み抜きそうなほど激しい足音がして、ルカはハッと意識を引き戻した。


「思ったんだけどさあ、一階で雑魚寝にすれば二階はべつに掃除しなくてよかったんじゃねーの?」

「いいじゃん、二階の方がゆったり眠れるよ。何よりスッキリしたでしょ」

「お前ェがな」


  ようやく二階の掃除が終わったらしい。ごちゃごちゃ言い合いながら、アダムとニキ、ニコラスが順に階段から降りてくる。


「ひっどいなーアダム君」

 ニキは不満げに唇を尖らせる。

「アダムちゃんの口が悪いのは顔が良い代償みたいなもんだから。許してあげてちょうだい、ニキ先生」

「ニコラス、てめえはどっちの味方だよ」

「ぼくだよね」

「いやいやなんでだよ、俺だろ」

「どっちでもいいわよ」


――たった今頭の中に広がった光景はなんだったのだろう。ルカは手元の写真に目をやり、次いで確かめるようにニノンを見た。


「ニノン、今のって……」


 が、その視線を遮るようにニコラスの腕がぬっと突き出てきて、「あら」と写真を手に取った。


「懐かしいものがあるじゃないか。どうしたんだいコレ」

 さっとニノンの視線がニコラスに移る。

「ルカのお家で見つかったんだって。ルカのパパがわざわざ持ってきてくれたんだよ。懐かしいよね。この時も私、ニコラスにすっごく怒られてさ」

「さぁ、そうだったかな」


 はぐらかすように微笑むニコラス。そうだよ、と笑い返すニノン。間違いなく同じ思い出を共有している者同士のやりとりだと分かる。今二人の頭の中には同じ景色が浮かんでいるのだろう。

 そこまで考えて、ルカは違和感を覚えた。


 以前、ニコラスに彼自身の記憶について尋ねたことがあった。あれは確かヴィヴァリオに至る道中、エネルギーステーションに立ち寄った時のことだ。アダムは給電の為に外に出ており、ニノンは後部座席で眠っていた。その時に何気なく選んだ話題だった。

 あの時ニコラスは、『自分の記憶は虫食いの葉っぱだ』と比喩した。幼い頃の記憶は鮮明に思い出せるのに、大人になってからの記憶はぼんやりとしたままなのだと。

 ボニファシオで過ごしたという記憶も、その時の彼は覚えていなかった。ニノンのことも、以前会ったことがあるかもしれないとしか言っていなかったのだ。


――いつ思い出したんだろう。


 なぜ思い出したことを言わないのだろう。言いだすタイミングがなかったのだろうか。単に言い忘れていただけだろうか。

 そんな疑問が顔に表れていたのかもしれない。頭の中で渦巻く疑問に向き合っていると、ちらりとこちらを窺ったニコラスと目があった。


 その瞬間、彼の表情がふっと真顔になった。


 どきりとして、ルカは思わず瞬きをした。

 だが次に目を開いた時にはもう、ニコラスはニノンの方に向き直っていた。見間違いだったのだろうか? 写真は裏返しの状態で机に戻され、二人は他愛もない会話に花を咲かせている。


「そういえばニコラス、さっきニキ()()って言ってたよね」


 ニノンが首を傾げながら訊ねる。

 ああ、とニコラスは思い出したように頷いた。


「さっき上で話してたんだよ。私たちが所持してる絵画を、どうやったらカナコちゃんに渡さなくて済むかってね」

「ニコラスたちも? こっちでもちょうど同じ話をしてたところなんだ。私たちが所持してるのは『欠損絵画』だって説明すればいいんじゃないかって。ね、ルカ」


 ニノンに会話を振られ、ルカは頭の中の疑問を振り払うようにして頷いた。


「ん、でもそれとニキさんのニックネームになんの関係が……?」


 ニノンが再び首を傾げていると、ニコラスとアダムの間をかき分けるようにして、ニキがぬっと首を突き出した。


「ぼくもその案に賛成だな。施行された法の中にもちゃんと明記されてるし」


 その顔のあまりの近さにルカとニノンは思わず体を仰け反らせる。何が楽しいのか、ニキは「あっはっは」と無駄に爽やかな笑い声をあげた。


「大丈夫だよ、絵は奪われない。っていうかニキ先生ってニックネームじゃないんだけど」

「え?」

「ぼく、先生だから。パオリ大学の建築科の」

「せん――え?」


 ルカとニノンは目をまるくして互いを見やると、確かめるような眼差しを再び男に向けた。


「誰が?」

「だから、ぼくが」


 ニキは人差し指で自分を差しながらにっこりと笑う。その左右で、ニコラスとアダムが微妙な笑みを浮かべていた。

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