第103話 十三夜(2)
家の中から見つかった写真をニノンに手渡したルカ。ニノンはその写真のことを覚えているという。
「覚えてたのか」
「うん、思えばそんなこともあったなって。これ撮ってくれた子が、誰かからすごく高いカメラを借りたって言ってて……それで、試しに使ってみようってことになったんだ」
まるでひとつひとつの言葉を手にとって確かめるような、ゆっくりとした話し方だった。ここで撮ろうと誘ったのはニノンの方で、それは住んでいた屋敷のすぐ裏手の岬なのだという。
「この崖に掘られた階段なんだけど」
ニノンの指先が写真の中の一部分を指す。
「これ、お屋敷の地下と地上に繋がってて、こっそり抜け出す時によく使ってたんだよね」
「抜け出すって、夜に?」
「日中だよ」
当たり前のようにそんな答えが返ってきたので、ルカは逆に首を捻ることになった。夜ならまだしも日中に外へ出ることを「抜け出す」だなんて、ちょっとおかしい。
「だって、お屋敷の外に出ちゃいけないって言われてたんだもん」
え、とルカは短く発し、目を見開いた。
「出ちゃいけないって、どうして」
「パパが脱色症の迷信を信じてたから」
脱色症の迷信。太陽の光を浴びるたび、脱色症患者は身体中の色素を失っていく。そうして最後には命をも落とすという――。
「まさか」
数秒遅れて、ルカはたまらず訊き返した。
ニノンは静かに首を振るばかりだった。
医学的検証を以ってそれがなんの根拠もない噂だということは既に立証されている。それでもなお古い土地には未だそのような迷信が根付いていることも少なくないし、いわれのない迫害を受ける者がいるのも事実。
だが、教育の行き届いた場所で、ましてや広大な土地を束ねる智者がそのような話を真に受けるなんて。
「昔はそうじゃなかった。私が十歳くらいの時だったかな? ママが病気で死んじゃって。それからなの、パパが厳しくなったのは」
「病気……」
ルカの目はほとんど無意識にその物珍しい桃色の髪を見つめていた。コルシカ島の朝焼けを思い起こさせる、病の象徴たる美しい色だ。ニノンは一瞬だけこちらに目をくれたが、その視線はすぐに手元に散らばる写真に落とされた。
「私のママも脱色症だったんだ。だからママは死んじゃったんだって、パパは思ってる。それが子どもにも遺伝してるんだから、厳しくなるのも仕方ないっていうか……。パパはただ心配してくれてるだけなんだよね」
ルカは何も言えなかった。我が子への想いは時に親の視野を狭くしてしまう代物らしい。
愛とは、水蒸気のように目に見えなかったり、かと思えば氷になり姿を現わすが、掴めばたちまちのうちに溶けてしまい、水のように指の間をすり抜けていってしまう。愛にも様々な形がある。ルカが最近になって身をもって知ったことの一つだった。
それでも、ニノンに向けられた父親のそれがはたして愛と呼べるのか――はっきりと肯定することはできなかった。
手持ち無沙汰になり、ルカはなんとなく写真を一枚手にとって軽く持ち上げるようにして眺めてみた。ニノンも少しだけ首を伸ばして、同じようにその写真を覗いてきた。
「私、晴れた日の空の色って好き。明るくて、綺麗で。見てると心が綺麗になる感じがする」
上方に写る青空はくっきりとした水色で、それが模造だと微塵も思い出させないほどに綺麗な色をしている。
「ああ、だからこの写真は崖のずっと下の方から撮影されてるのか。青空が写るようにって」
「本当は崖の上で撮った方がもっと綺麗なんだけど」
あんまり騒いでたら見つかっちゃうし。そう言ってニノンはいたずらっぽく笑った。
下に目をずらせば、崖の根元の方で僅かに水飛沫が飛んでいる。フレームの外、手前に広がっているのはおそらく海だろう。ボートか何かを使って撮影したのだろうか。だとすれば結構な手間である。
複雑な事情を抱えていた少女からのお願いとあらば、多少の無理でも聞いてあげたかったのかもしれない。
ルカにはこの撮影者の気持ちがなんとなく理解できた。ルカだって同じだったからだ。彼女が本当にすべてを思い出したいと願っているならば、どこまでも付き合うと決めている。
「ニノン」
机の上に広げたクッキーの中から目当ての味を選り抜いて、ニノンはまさに今その封を開けたところだった。呼びかけた声に、ん、と顔をあげてこちらを見る。
「ずっと言おうと思ってたことがあるんだ」
「え?」
クッキーを摘まんだ手が途中でぴたりと止まる。
「率直に聞くけど」
「えっ」
「正直に答えてほしい」
「え!?」
何故かニノンはその場で身構えた。
「え、な、なに? ちょっと、ちょっと待って」
ルカは開きかけていた口を閉じる。
「うそ、待たなくていい! あの、大事な話、だよね」
「そう」
「は……うん、わかった。えー…………はい、どうぞ」
慌ただしく動いていた両手がクッキーを袋に戻し終え、心を決めたようにずいっと差し出される。ルカは頷き、再び口を開いた。
「ニノンは今でも昔の記憶を取り戻したいと思ってる?」
「うん――うん?」
質問が唐突すぎたかもしれない。両目をぎゅっと瞑っていたニノンは、ちらりと片目だけを開けてこちらを窺った。やがてその表情は少しがっかりしたものに変わり、最後に脱力してへなへなと机に突っ伏した。
「ニノン?」
「大丈夫、なんでもない……」
ゆっくりと首をもたげながら、ニノンは全然大丈夫じゃなさそうに呟いた。
「でもなんでまた急にそんなこと」
ルカはほんの少しだけ押し黙った後、ルーヴルを訪れて以来ずっと胸に抱いていた思いを打ち明けた。
「出会って間もない頃、記憶を探す手伝いをするって約束しただろ」
「うん」
「あの時のニノンは本当になにも覚えてなくて、だから過去のことを思い出そうとするしかなかったんだろうと思って。今はどう? いろいろ思い出してるみたいだし」
まっさらだったあの頃とは違う。目の前に伸びているのは、全ての記憶を追い求める道だけじゃない。これ以上思い出さないという選択だってあるのだ。
すると、ニノンの眉が少しだけ怪訝そうに寄った。
「それってつまり、全部は思い出さないほうがいいってこと?」
「いや、そういうわけじゃなくて」
咄嗟に弁明したが遅かった。ニノンの瞳がみるみる濃い不安の色で満たされていくのが分かる。
「知ってる。記憶を失う原因はだいたい二つあるんだよね。身体に怪我を負うか、もしくは心にダメージを負うか。そのどっちかが多いって、ジャックが言ってた。もし心が原因なら、ジャックの発明品で記憶が戻るかもしれないって。それで、試してみたら――」
最後まで言い切ることなく、ニノンは顔を伏せた。
ジャックの持ち出した装置によって彼女の記憶は一部蘇っている。つまり、記憶を失う原因が心因性によるものだと証明されたも同然だった。
「最近、よく考えるんだ。過去に何かつらい出来事があったんじゃないかなって。そのショックから心を守るために、私の脳は全てを忘れるって手段を取ったのかもって」
「それは……」
一瞬言い淀み、それでもルカはなんともない風を装って続けた。
「それは、思い出してみないとわからない」
ニノンはというとほとんど上の空で、自身の組んだ手の爪先を睨むように見つめたまま、「そうだよね」と呟いた。
「わかってるんだけど、やっぱり怖くて。過去になにがあったか確かめちゃったら、もう何も知らなかった今には戻れないから」
俯いているニノンがどんな顔をしているのか、ルカからは見えない。だけど声がか細く震えてるから、その内側が不安や恐れで埋め尽くされていることが分かる。
当然だ。過去に横たわる記憶が悲しみや辛さにまみれていたら、誰だって嫌な気分になるに決まっている。
「もしそれが事実なら、ニノンは過去を追うのをやめるのか?」
追うのをやめる、とニノンは口の中で反芻した。
「だとしたら俺は手伝うのをやめるし、それでも探したいなら俺はやっぱりニノンの手助けをするよ」
淡々とした口調とは裏腹に、ルカは机の下で静かに拳に力を込めた。
嘘をついた。
思い出してみないと分からないなんて嘘だ。ルカはとっくのとうに気付いている。過去に何か辛い出来事があったからニノンの記憶は失われたのだ。求める過去は決して幸福に満ち溢れた思い出などではない。そのように仄めかしたのは、オンファロスの地下で立ち阻んだダニエラだった。
その言葉が本当だという証拠はない。でたらめだという確証もない。正解のある選択じゃないのだ。
だからルカは彼女の返答を待つことにした。画家の心を守りながら修復を施すのと同じで、ルカは彼女の心の奥底に潜む意志を尊重したいと思ったのだった。
「確かに怖いけど」
俯いたままだったニノンがぼそぼそと呟いた。
「今が幸せだから、もう過去のことは無理して思い出すことないのかもって、少し前までは思ったりもしたけど。だけど私、今はもう迷ってないの」
語尾に力が篭っていた。ニノンは顔を上げて、まっすぐにルカを見る。
「全部思い出すって決めてるの。もし私が誰かに忘れられたままだったら、すごく寂しいなって思ったから。だから全部思い出すの」
悲観的な色はとうに消え失せて、今やニノンの瞳は力強い輝きを放っていた。ルカはしっかりと頷いて、彼女の意志に同調した。
「協力するよ」
「ありがと。……ルカがいてくれて、よかったな」
そう言ったニノンの顔がまるで何かを隠すような不自然な笑みだったので、ルカはドキッとした。
次の瞬間にはもういつもの笑顔に戻っていたので、見間違いだったのかもしれない。ルカはホッとする。
――また泣くかと思った。
小雨の降りしきる青いヒマワリ畑の真ん前でニノンが泣いているのを見つけた時、はっきり言ってルカは困惑した。あの時はとりあえず肩を優しくさすることしかできなかったけれど、それで良かったのか今でも分からない。そもそも、そんな立場が回ってくることなんてほとんどない人生だったから、ルカは誰かを慰めるのがめっぽう苦手なのだ。
「ルカも食べよ」
クッキーを齧るニノンをぼんやり眺めていると、ルカの前に小袋が一つ差し出された。〈マロングラッセ味と書かれた封を破れば、ラム酒の香りがぷんと鼻をついた。
「盗まれた絵画以外の三枚はもうすぐ揃うから、そうしたらニノンの記憶を取り戻す手掛かりになりそうな場所に行こう」
ルカはクッキーを咀嚼しながら提案する。
「盗まれた絵はどうしよう? 放っておいたら発電所に送られちゃうかもしれないよ」
「それは大丈夫だと思う」
「どうして?」
「破損は修復でなんとかなるから問題ないけど、欠損がある場合は受け入れ自体してもらえないんだ」
「なんで……欠けたままじゃ絵画としては認められないってこと?」
認められない、という言い方が正しいのかどうか。ルカは首を捻って分かりやすい言葉を探った。
「欠損絵画はそもそもエネルギー還元できないのか、できたとしても使い物にならないくらい微量なのか、おおかたそんな理由だと思う。とにかく資源として認められてない。そういう規定なんだ」
「ふうん……あれ、じゃあカナコちゃんにそう言えばいいんじゃない?」
法改正により、不法所持された絵画は発見次第ルーヴルに回収される。だが、もし所持しているものが絵画の規定に満たなかったとしたら?
うまく説明すれば回収案件には該当しないかもしれない。
「それ、いいな」
この案については、後で二人が戻ってきたら相談してみようということになった。
「とにかく、絵画が無事回収できたらその後はニノンの記憶に関係ありそうな場所に向かおう」
「あは、なんだか心当たりがあるみたいな言い方」
「まぁ」
「え、ほんとに?」
クッキーの空袋をポケットにねじ込みながら、ルカはおもむろに席を立った。
「さっき掃除してる時に気になる雑誌を見つけたんだ」
「全部捨てたんじゃなかったの?」
「あとでそれも捨てるよ」
ルカは隣の部屋の隅に残しておいた一冊の雑誌を取り上げると、リビングに戻って机の上にバサッと置いた。
「『月刊・建築』――」
タイトルを読み上げたところで、ニノンはいやな予感が脳裏を過ぎったというように顔をしかめた。
「まさかルカ、建築にまで興味がわいたとか言うんじゃないよね?」
「違う。表紙だよ」
言われるがままに視線を落とすニノンに、ルカは構わず続けた。
「この雑誌の表紙になってる場所と写真に写ってる場所、同じじゃないか?」
でかでかと掲げられた黄色い雑誌のタイトル文字。その背後には、青空のもと、白亜の海食崖が水平に続く風景が映っている。よくよく見れば、その断面には斜めに線が走っていた。それが岩を削り出して掘られた階段だと気付いたのだろう、ニノンは「あっ」と小さく声をあげた。
おそるおそる向けられた目と視線がぶつかった時、ルカは静かに、確信を持ってその名を口にした。
「ボニファシオだよ」
それはコルシカ島最南端の海辺の街。いつ崩れるとも分からない侵食された崖の上に築かれた街。かつてラピスラズリの採掘により財を成したベルナール家が統治したコミューン。或いは、道野家が流された末に辿り着いた救済の地でもある。
「記憶を失くす前、ニノンはボニファシオにいたんだ」
ルカはこの雑誌を目にした時、何か点と点が繋がるような感覚を覚えた。勝手にニノンの記憶に一歩近づいたような気にもなっていたのだ。
ところが、意外にもニノンは動じていなかった。それどころか落ち着き払った様子さえある。なにかまずいことでも口にしただろうかと、ルカがそこはかとない不安を感じ始めた頃。
「ヴェネチアの図書館で読んだ本に、ベルナール家のことが載ってたじゃない?」
長い沈黙の後、ニノンは唐突にそんなことを問うた。
「コルシカ島の歴史や著名人について書かれてた、あの地方史?」
「うん。私のおじいちゃんかひいおじいちゃんの代で大きな火事があったって」
「ああ……」
荘厳な造りの図書館の奥で埃をかぶっていた分厚い一冊には、確かにかの家について書かれたページがあった。そのほとんどを埋めていたのは採掘事業に関する歴史の変遷だったのだが……
「屋敷が全焼した時期を境に街も一気に廃れていった、ってやつか」
街の衰退と共に謎多き最期を遂げた家系である――ページの最後はそのように締めくくられていたはずだ。
それがどうかしたのかと、ルカは目線で訊ねる。
「そんな事件があったから、私の一家はもうボニファシオからは離れたんだと思ってた。どこか違う所でひっそり隠れるようにして暮らしてたんだろうなって」
言われてみればその通りだと、ルカは思い直した。五十年前に姿を消した一族が、同じ土地にひっそり住み続けるなんて難しいのではないか。
「気がついた時には森の中にいたし……ルカの村とボニファシオってそんなに近くないんでしょ?」
「歩いて行き来するのは無理だ。間に山脈が走ってる。バスが出てるはずだよ。南に――たしか、二時間くらい」
大体の距離を指折り数えながら、ルカは想像してみる。南コルシカの山脈はそのほとんどが岩山で、勾配も激しい。乗り心地の悪いバスを使ったとしても、この二つの町を箱入りの女の子が一人で移動したとは考えにくい。
「そうか。この写真が撮られたのがたまたまボニファシオだったってだけで、ニノンが暮らしていたのは別の場所なんだ。多分、それはレヴィ近郊で……」
「ううん、違うの」
だがニノンは首を振って否定した。
「どうして私がルカの村の近くにいたのかわからないけど、でもこの写真を見てはっきりしたの。私の故郷はボニファシオなんだって」
遠い日を懐かしむように、ニノンは目をすがめた。
「だって私、ここで暮らしてたこと、ちゃんと思い出せる」
その瞬間――カッと稲妻のような閃光が走って、視界がすべて真っ白になった。
やがてその光は不思議なもの懐かしさを纏って、ルカをとある記憶のもとへと導いた。




