第102話 十三夜(1)
「おいおいおい、マジかよほんとに汚ねェな」
開口一番、アダムは潔く言い放った。
脱ぎっぱなしの靴。空き缶の入ったゴミ袋。床に散乱する新聞や雑誌類。眼前に広がる光景を前にすれば誰だって叫びたくもなる。幸いにも臭いはしないが、あちこちで様々なものが山を作っていて、廊下は足の踏み場もない。
「汚いって言わない約束だろー」
廊下の奥からこの家の主の間延びした声が返ってくる。
「言いたくもなるっての!」
声が聞こえてきた部屋の奥に向かって、アダムはいっと歯を剥いた。
「アダムちゃんに同意だわ」
隣でニコラスがさり気なく口元を手で押さえると、ニノンも真似するように口を閉じた。
案の定、ニキ・ボルゲーゼの家は散らかっていた。どうにか宿泊許可を得るところまではこぎつけたものの、ニキは家に帰り着くなり客人を置いてさっさと一人奥に消えてしまった。何をしているのか分からないが、時折戸棚を開けるような物音が廊下の奥から聞こえてくる。
ふと足元の新聞紙に目をやって、ルカはぎょっとした。発行日が二年前の日付けだ。
「あらら、上がっててよかったのに」
やがてニキは、平然とした顔でのそのそと戻ってきた。両手に大判のゴミ袋を何十枚も携えている。まさか今から掃除でもするのだろうかと、ルカは内心首を傾げた。
「ま、ちょっと散らかってるけど。ささ、どうぞどうぞ」
「はあ? ちょっとだぁ?」
正気か? と言わんばかりのアダムの視線を無視して、ニキはあろうことかゴミ袋をそれぞれにしっかり十枚手渡してきた。
――手渡して?
全員の脳裏に一抹の不安が過る。
「ニキさん、一応聞くけど、このゴミ袋は……」
ニノンがおそるおそるといった感じで手渡されたゴミ袋をペラペラやった。
「ああ、これ。皆でおそうじしようと思って」
「ん、んん?」
アダムは眉をひそめ、思わず耳に手をやった。
「えー……なんだって?」
「み、ん、な、で、お、そ、う、じ」
ニキは丁寧に言葉を区切って繰り返した。『お掃除』なのか『大掃除』なのか、口頭で判断できないのが恐ろしい。
げぇ、と隣でアダムが露骨に嫌そうな顔をした。
「だってほら、寝るスペースがないのは嫌だろ?」
「スペース以前の問題だ!」
「野宿よりはマシだろー」
家の主を蔑視する一同を無視して、ニキは「いやぁ人手が多くて助かる助かる」などと他人事のように笑いながら再び部屋の奥へと引っ込んでいった。
*
それから一時間。はじめは整理整頓されたこの家の未来が想像できず、四人は鬱蒼とした気分で掃除に取り組んでいた。
しかし部屋は案外早くに本来の姿を取り戻した。散らかっていた要因のほとんどが、まとめて縛ってしまえば簡単に片付く木材や紙類だったからだろう。
ようやく剥き出しになった床に腰をおろし、ルカが雑誌の束を紐で縛っていると、
「今ごろはゆっくりくつろいでる予定だったのによ」
文句と共に背後から腕が伸びてきて、縛った束を持ち上げていった。ルカは束の軌道を追うように首を後ろに捻る。随分とゴミを運び出したと思っていたが、アダムの両手には未だにいくつものゴミ袋がぶら下がっている。
「タダより怖いものはないな」
「ほんとだよ。ったく、とんでもねえ家だな」
ぶつくさ文句を言いながらもアダムがてきぱきゴミを運び出していると、突如、二階からひどい悲鳴が聞こえてきた。短く野太い悲鳴だ。ぎょっとして二人で階段の方を見やると、ニコラスが大慌てで階段を駆け下りてくるところだった。
「なにやってんだ、アイツ?」
「さぁ」
ニコラスはそのままニキの胸倉を引っ掴み、必死の形相で何かを言い募っている。そんな彼の訴えを、ニキはお馴染みのヘラヘラした顔でかわしている。
「あんな物騒なもの、窓際に吊るさないでちょうだい!」
「ただの仮装衣装だよ、ハロウィンの」
二階に何か物騒なものが飾られていたらしい。ああ見えてニコラスは怖いものが苦手なのだ。旧街道沿いの幽霊ホテルでも、腰を抜かしていたのはニコラスとアダムだった気がする。
その後もごちゃごちゃと言い合っていたが、とうとうニキは胸倉を掴まれたまま二階に引きずられていった。それからすぐにアダムにもヘルプの声がかかる。彼は舌を思いきりべっと出して「嫌だ」という顔をしてから、もそもそと階段を上がっていった。
騒がしさが去ったところで、ルカは最後の一束を縛り終えた。これで掃除はおしまいだ。
「ルカ、それで最後?」
「うん」
「私もこれで終わり」
門先でちょうどゴミ袋を提げたニノンと鉢合わせた。連れ立ってそばの集積場まで歩いていき、両手に提げたゴミを空いていたスペースに放り込む。
ようやく片付けの目処がついたところで、二人揃ってうんと伸びをした。
「疲れたし、部屋も綺麗になったし、今日はぐっすり眠れそうだね」
「案外早く終わってよかった」
「一回も休憩しなかったもんね。おかげでヘトヘトだけど……あ、あそこから夜景が見える」
前方を指差して、ニノンは足取り軽く駆けていく。ルカはその背中をゆったりと追う。
ニキが自分たちで建設したという家は三階建ての一軒家で、コルテの中でも見晴らしの良い高台に建っていた。門の正面を横切る片側一車線の道路を越えれば、すぐそこは切り立った崖になっている。転落防止にしては随分と間隔をあけて植えられているマキの低木の間から、二人はコルテの街並みを見下ろした。
真っ暗な山間に、控えめな光の粒がぽつぽつと寄り集まっている。まるで水辺に漂う蛍の群れのようだ。
「もうすっかり夜になっちゃったね」
すぐそばの草むらでマツムシが鳴いている。遠く夜空で星が瞬くようなその音は、澄んでいて綺麗で、少しだけ寂しい。
「秋の夜は」
「うん?」
「好きなんだ」
「す――あは、どうしたのイキナリ」
ニノンは言葉の途中でむせ込んだ。それから早口で言い切ったあとは、まるでそうしなきゃいけないみたいに近くの枝葉をぐりぐりと弄りまわしている。
「『武蔵野』とか『秋月』って言って、秋の夜は浮世絵でよく取り上げられた題材のひとつなんだ。浮世絵って、昔日本で主流だった絵画様式のひとつだけど」
「絵の話ね……」
「日本では秋は特別な夜だったのかな」
なんとなく、分かる気もする。
ルカは頬に心地よい風を感じながら、東の果ての国で生まれた絵画について思いを馳せた。
ススキ野原に落ちていく満月。背後にそびえる富士の山。同色の濃淡、大胆な余白。
ルカは過去に一度だけ、祖父が日本画の修復を行うところを見たことがあった。日本画を修復できるのは祖父までで、残念ながら光太郎やルカはその技を習得していない。
だからだろうか、詳しい作業内容ももう覚えてはいないが、修復を終えた絵を一目見た瞬間の時のことだけは、今でもはっきりと思い出せる。そこはかとなく漂う郷愁が心にじんわりと沁み入ってくる。そんな感覚を確かに感じたことだけは。
隣で葉っぱを弄っていたニノンが、何かに気付いてぱっと夜空を指差した。
「見て、月がすごく綺麗」
見上げれば、空のずっと高いところでレモン色の小さな月が輝いていた。一瞬満月かと思ったが、よく見れば右上が少し欠けている。あと二、三日もすれば満ちて満月が訪れるだろう。
「揚げたてのピッツァフリッタみたい」
ルカは見上げていた視線をすばやく隣の少女に移す。
「ニノン……ひょっとしてお腹減ったんじゃ」
その途端、ニノンは「しまった」というような顔をしたが、「そうだ!」と無理やり両手を叩いて誤魔化した。
「片付けはこれでおしまいだよね?」
「え、ああ、うん。あとはニコラスたちのベッドメイキングが終われば」
「じゃあ先に休憩しちゃおうよ」
月明かりがぼんやりといたずらっぽい笑みを照らし出している。
「ほら、お昼に買ったチャンククッキー、たくさんあるから。皆が戻ってきたら紅茶も淹れて――あ」
その時、街の向こう半分の明かりが一斉に消灯した。まるで真っ黒なテーブルクロスを街半分に被せたかのような、潔い消え方だった。
「計画停電だ」
無意識にそう呟いて、改めてルカは思い出した。しばらく前になるが、計画停電についてテレビで連日のように報道されていた時期があった。エネルギー価格高騰を抑えるための対応策で、開始時期はちょうど今頃だったはずだ。
「あれ、今日からだっけ」
「たぶん」
停電は夜間のみで、各エリア五日間ずつリレー式に行われる。
報道は専ら冷蔵庫やデジタル機器の管理について、また戸締りをきちんとするようにとか外出を控えるよう注意喚起を呼び掛けるといった内容だった。非日常な状況に乗じて、一部では犯罪件数が増幅する兆候もあるらしい。
「でもなんで半分だけ?」
ニノンは崖下を見下ろしながら不思議そうに首をかしげた。街の手前半分は、未だ煌々と灯りを宿したままだ。
「コルテがコルシカ島のちょうど真ん中に位置する街だからだよ」
「そんな、わざわざ街の真ん中で区切らなくてもいいのに」
「エネルギー使用量のトータルを均等にしようとすると、どうしてもエリア分けの線が街を二分しちゃうらしい。昔そう聞いた覚えがある」
「ふぅん」
南北に伸びるコルシカ島はよく北と南の二つのエリアに区分されることが多い。その基準となるのが決まってここ、コルテなのだ。今まで立ち寄ってきた村や町は今頃一斉に送電をストップされているはずだと、ルカは説明を続けた。
「じゃあここもあと少ししたら停電するんだね。ニキさん、ちゃんと把握してるのかな」
まだ出会って間もない男だが、二人の頭の中で共通のイメージが瞬時に組み上がった。
適当でずぼら、どこか抜けている。おまけに部屋が汚ない。
「怪しいな」
「だよね」
良くない方向で意見が一致し、二人揃って顔をしかめる。
「あとで教えてあげよう」
ニノンは小さくため息をつき、下半分の光を失った街に背を向けた。ルカも踵を返そうとしてふと足を止め、最後にもう一度だけコルテの夜景を一瞥した。
光が消えただけなのに、まるで街自体が半分に縮んでしまったようだった。闇に紛れているだけで、街も、街を取り巻く人々の生活も本当はずっとそこにあるのに。人間の目はこうして時折、脳に単純な回路を敷いたりする。
「あ」
その時ふいに、ルカはポケットに入れたままだった写真の存在を思い出した。
「なにか言ったー?」
家の門をくぐりかけていたニノンが不思議そうに振り返る。
「言った」
ルカは一応左右を確認してから道路を跨ぐ。先ほどから車が一度も通らないのは、計画停電が実施されていることもきっと関係している。電気の供給がやんだ夜、人々はたいてい静粛な時を過ごす。まるで、いつか羽ばたく日を夢見て眠る、土の中の幼虫のようにひっそりと。
「とりあえず家に入ろう。渡したいものがあるんだ」
ニノンはもっと不思議そうな顔をした。
*
家に戻ると、リビングは静まり返っていた。代わりに、二階から微かに騒がしい気配がする。ベッドメイキングの前にもうひと掃除必要だったのかもしれない。ニコラスもアダムも、じきに作業を終えて下りてくるだろうと勝手に判断し、二人は早々に腰を下ろすことにした。
ダイニングテーブルを挟んで向かい側に座ったニノンは、鞄からクッキーやら紅茶を次々と取り出している。
「それで、渡したいものって?」
素っ気ない声の割に、ニノンの態度はどこかそわそわとしていて落ち着かない。味の違うクッキーを机の上に綺麗に並べては、何度も順番を入れ替えている。何かの儀式ではと不安になる。
「これ」
ルカはポケットから数枚の写真を取り出して、ニノンに手渡した。
「父さんが、家を掃除してたら本棚に挟まってるのを見つけたって」
「写真? なんの――」
言いかけてニノンは息をのんだ。驚いたように見開かれた目が、たちまち手元に吸い込まれてゆく。驚くのも無理はない。写真には失くした記憶の中の自分が写っているのだから。ニノンは無言のまま、一枚一枚丁寧に写真をめくった。
「……どう?」
全てに目を通し終えるのを待って、ルカは控えめに彼女の様子を覗き込んだ。ニノンはちらりとこちらに視線を寄越すと、もう一度だけ笑顔の自分が写っている写真を見つめてから、浮いた声でこう言った。
「私、覚えてる。この写真を撮った時のこと、覚えてる」




