第100話 迷子のニノン
二人の若い修復家が、和解の握手を交わしていた頃――。
ニノンはとある帽子屋の前で立ち止まっていた。ドアの上に大きな看板が掲げられている。白と水色の縞模様が目をひく木製の看板だ。
「最初に見たお店で間違いない」
独りごちたのはわざとであり、不安の裏返しでもある。ニノンは己を鼓舞するように大きく二回頷いたあと、大通りから右手に伸びる小路地へと飛び込んだ。
その先に、集合場所である大きな広場が見えるはずだった。先ほど見つけた派手な看板の帽子屋。あれは広場に向かう際、道に迷わないようにとあらかじめ覚えておいた目印なのだ。
右足を一歩前に踏み出した状態のまま、ニノンはゆっくりと視線をさまよわせた。左に右に、もう一度左に。道の両側は建物でびっしりと詰まっている。ちょっとしたブティックや雑貨店が軒を連ねる通りのようだ。そびえる両壁を携えたまま、石畳はずっと先まで続いている。
ニノンの瞳からみるみる輝きが褪せていった。
拓けた土地などさっぱり見当たらない。
「あでも、さっきのお姉さんは三つ目の通りを右って言ってたもんね。だからこのまま……ここっていくつ目の通りだっけ――あ、すみません。すみませーん」
傍を通り過ぎていった男の背中を、ニノンは慌てて追いかける。
道に迷っていると気付いてから、ニノンはかれこれ四度ほど道行く人に声を掛けた。ここに行きたいのだと地図を指し示し、その都度教えられた道に向かって正しく歩いてきた。歩いてきたはずだが、一向に目的地に辿り着かないのである。
「真逆だよ」
男性はくたびれ顔で、改めて今来た道を顎でしゃくった。無限の彼方にまで続いているのではないかと思うほど、登り坂は遠く上まで伸びている。
「簡単なことさ。上の広場に行きたいなら坂をずっと登っていけばいい」
がっくりと項垂れるニノンに、男は至極当然のことを言った。
「ああ、そっか。上を目指せばいいんだ。そりゃそうだよね。ありがとうおじさん」
元気よく礼を述べて、ニノンは踵を返す。
当たり前のアドバイスだったが、男の助言には足も心も軽くなった。とにかく登ればいいのだ。
建物の隙間から差す斜陽が、街のところどころをオレンジ色に染め始めている。ぐんぐん後ろに流れていく景色と共に、ニノンの思考も流れていく。集合時刻を過ぎてどれくらいになるだろう。カナコは見つかったのだろうか。坂道を登る。三人は心配しているだろうか。坂道を登る。坂道を、
「あ、帽子屋さん」
一度通り過ぎた店の前まで、ニノンは体を前に向けたまま一歩、二歩と後退した。
白と水色のストライプ模様。大きなハリボテ帽子のツバが「こっちだぜ」と言わんばかりに右手の道を指し示している。
意を決して、ニノンはえいやっと道を曲がった。
その選択が間違いであることにはすぐに気がついた。うっそりと暗い路地。漂ってくる夕支度のにおい。道は奥まるにつれて細く、狭くなっている。もちろん広場がありそうな雰囲気でもない。
ニノンがため息を吐いた時、どこからか「なぁん」と鳴き声がした。道の傍らに据え置かれたゴミ箱の影から、一匹の黒猫がひょこりと顔を覗かせる。黒猫はのっそりと体を揺らして歩き、時折立ち止まってはくんくんと空中のにおいを嗅いでいる。
ニノンはそっと肩をすくめた。
「……だよね。もう信じないから大丈夫」
「なぁん」
黒猫はひと鳴きしたあと、煮えたスープの匂いを辿るようにして路地の奥へと歩いていった。
ぽってりした後ろ姿に力なく手を振ってから、ニノンも通りに背を向けた。今度あの看板を見かけても無視しよう。そう心の中で誓いながら、とぼとぼと坂道を下る。足元から長く伸びる影を踏みしめる。坂道を下る。坂道を、
「……下ってる!」
キーッと歯を食いしばり、ニノンはフードの紐を両手で引っ張った。
視界が窮屈になると、じりじりと胸を焦がしていた焦燥感が一気に噴出する。そして、もう一生広場には辿り着けないのだという恐ろしい予感がニノンの脳裏をよぎった。このまま三人に会えず、一人で坂道をいったりきたり、夜が更けてもずるずる徘徊するのだ。
ゆっくりと胸の内に諦念が広がってゆく。
その時、前方からバタバタと地面を駆けてくる足音が聞こえてきた。
「ちょっと、ちょっとちょっと」
何本もの指が小さな穴にぐいぐい入り込んできて、窄まるフードの穴をこじ開ける。拡がった視界に射し込むオレンジ色の光が眩しくて、ニノンは思わず目を瞑った。
「なにやってるの。大丈夫?」
肩を揺さぶられ、再び目を開ける。
俯いた先に見えた男のズボンはひどく汚れていた。膝には穴まで開いている。視線を上にずらすと、眉尻を下げる男の心配そうな瞳とぶつかった。
無造作に伸ばした黒髪がボサボサに乱れている。急いでここまで走ってきてくれたからだろうか。
「私、あの……道に」
迷ってしまって。そう続けようとしたが言葉がうまく出てこなかった。ニノンは咄嗟に顔を伏せる。込み上げてきた不安が、目から滲み出てしまいそうだった。
「道? 道に迷ったの?」
ニノンは俯いたまま、無言で何度も頷いた。
たかだか道に迷っただけで大袈裟だと、ニノンは自分でも思う。だけど一旦考え出すと止まらなかった。漠然とした不安や無意味な焦燥感は、余計なものまで思い出させる。
眼裏に広がる暗闇。
その向こうに、小さな灯りがみえる。
それがランプの明かりでないことをニノンは知っている。崖の上の屋敷が燃えているのだ。遠く離れた場所から眺めているから、マッチの先ほどの小さな火に見えるだけだ。
すべて、ジャックが用意した機械によって掘り起こされた大切な記憶の断片だった。
その情景を度々夢に見ては、うなされ何度も目が覚めた。燃え盛る炎の塊から逃げる為に、暗い森の中をただひたすらルカに手を引かれて走っている。走りながら、繋いだ手がいつか離れていってしまうことを怖れている。
どこで何をしていても、得体の知れない不安感は常に体の奥底で息を潜めている。そうしていつも頭をもたげる機会をうかがっている。
「そっかそっか」
頭上で男の頷く気配がする。
ふっと暗い思想が搔き消えた。気弱になっているのは、隣に誰かがいることに慣れすぎただけなのかもしれない。思い返せばここ最近、一人きりになる機会などほとんどなかった。
「案内してあげてもいいんだけどなぁ」
続けて聞こえてきたのは、困ったような声だった。途端に湧き出てきた申し訳なさが、ニノンを思考の海から引っ張り上げる。
「あの、大丈夫です」
慌てて両目を擦り、ぐっと面を上に向けた。
「地図は持ってるの。迷ったけどでも、あともうちょっとで着くはずだから。だから」
一人で行けます。そう言いかけて――ニノンの目が点になる。
水色ともグレーともつかない薄汚れたつなぎ。無造作に伸びた黒髪。ひょろっとしたシルエット。
「実はぼくも方向音痴でさ。わかる場所なら連れてってあげるんだけどな」
気が動転していて先ほどは気付かなかったのだ。彼から放たれる確かな既視感に。
「ちなみにどこまで?」
快活に笑う男の顔めがけて、ニノンは豪快に人差し指を突きつけた。
「鉄橋の、自殺未遂おじさん!」
「おッ」
男は胸に不意打ちの攻撃をくらったような顔をして、ずるりと一歩後ずさった。が、すぐに体勢を立て直す。
「ちょっと待ってよ。ぼくはおじさんじゃない。まだ二十九歳だぞ? よく見てよ、ほらほら。二、十、九、歳」
ゴールキーパーばりに両手を広げてにじり寄ってくる男の顔を、ニノンは目を細めて値踏みした。言われてみれば確かに、服装や髪型が乱れているだけで老けているわけではない。むしろ人懐っこそうな表情は幼ささえ漂わせている。
男は「ね?」と念押しするように白い歯を見せた。
「え、でも二十九歳って」
「おじさんじゃないよ」
速攻で訂正が飛んでくる。「よ」のイントネーションが異様に高い。にこやかな笑顔に気圧されて、ニノンはこわごわ頷いた。
「それよりさ、どうして鉄橋のことを?」
年齢の話題をなかったことにして、男は無理やり話を切り替えた。訊ねてくる様子からしてすっとぼけている感じでもない。本気で気付いていないのだろうか。
ニノンは訝しみながらも、あの時偶然橋の下を車で走行していたのだと話した。
「ああ。あの、赤い車の!」
「ああ、じゃないよもう」
「ごめんごめん。てっきり観光客に挨拶でもされたんだとばっかり」
「なわけないでしょ。すっごくハラハラしたんだから。おじ――お兄さん、あんなところで一体なにしてたの?」
「鉄橋の観察だよ」
そういうことを言っているのではない。
あっけらかんと答える男に、ニノンは思わず目を回した。しきりに線路にしゃがみこむ姿は、車内からでもはっきりと見えていた。
「列車が通る時間を調べなかったの?」
「調べたさ。調べた上で登ったんだ」
「ふぅん」と頷きかけて、ニノンはすぐに視線を戻した。「調べた上で?」
男はなぜか誇らしげに頷く。
「列車が通る時、その振動によってあそこの枕木は波打つんだ。まさにこう、海の上をすべる白波のように」
男は手首から手の平の先までを滑らかにくねらせた。波の動きを真似ているらしい。男はぱっと顔をこちらに向けて、無邪気な笑顔を見せた。
「どうしてだと思う?」
「え、わかりません」
質問をちゃんと聞いていなかった。
まず枕木からして分からない。
「枕木が、完璧には固定されてないからさ」
男はまたしても満面の笑みを浮かべた。
「そこには相当緻密に計算された自由度がある。あの橋はトラス構造だからもともと頑丈な方ではあるけど、その自由度がうまく振動エネルギーの拡散を助長させているんだよね。それに枕木の裏には防振合金が貼り付けられている。ゴムじゃないところがまたイイ。あれは劣化が早い。他にも支承には高減衰能の――」
ニノンはものの数秒で小難しい話に耳を傾けるのをやめた。代わりに、水を得た魚のごとく語り始めた男の顔をぼんやりと眺めることにした。
線でも引いたようなくっきりした二重瞼。すっきりした顎のライン。筋の通った鼻。見れば見るほど彫刻のように整った顔立ちをしている。彼はきっと世間一般に言われる「男前」の部類に入るに違いない。だからこそ余計に、興奮にぴくぴくと膨らむ二つの鼻腔を認めるたび、もったいないという気持ちを抱くのだった。
「技術的な話はまぁこの辺にしておいて。それよりぼくが興味を持ったのは、そんな技法を取り入れた一番の目的が実は建築家の忍ばせたただの遊び心だってところで……」
遠くの方から微かに足音が聞こえる。ニノンはふと熱弁を振るう男の向こうに目をやった。今やすっかりオレンジ色に染まった街の坂道を、いくつかの人影がくだってくるのが見える。
「振動に身をまかせ、波のように震える。誰に見つかることもなくただそっと打ち寄せる、孤島に辿り着いた白波のごとく。ああ美しき大自然、いや宇宙の法則! 結局合理化を図ろうとすれば全ては自然に帰結するという……あれー?」
両手を広げて天を仰ぐ男を放置して、ニノンは見知った人影の元へと走り寄った。
アダムとニコラスと、カナコと。その隣を歩く男の顔は、信じがたいことにルカの父親にひどく似ている。だが頭数が増えていることに驚く余裕もないほど、心は安堵で溢れかえっていた。
左端を歩いてくる少年の青い瞳を見つけた瞬間、ニノンの目はじわりと涙の膜に覆われた。
「ナンパでもされてたのかよ。隅に置けねェなあニノンも……って」
ニヤニヤしながら歩いてきたアダムは、近づいてくるなりぎょっとした声をあげた。
「おいおい、泣くなよ! 一体どうした?」
涙腺に力を込めてみたが、涙はどんどん溢れだした。三人の顔を見た途端、ニノンの涙を抑えていた不安の栓はいとも容易く溶けて無くなってしまったのだ。
無理やり我慢しようとして、かえって咽頭が引きつり、ニノンの口から「うー」と情けない声が漏れる。
「あれか、あいつか。あのおっさんになんかされたのか」
「なんだって?」
アダムが適当な憶測でものを言う。それを真に受けたニコラスが、小さく悲鳴をあげた。
「何をされたって、ニノン」
「あ、違う。違うよ」
今にも飛び出していきそうなニコラスを、ニノンは必死に引き留めた。
「私、道に迷って」
「迷ったァ? こんな街で? ――いってえ!」
アダムの足を踏みつけながら、ニコラスは「それで」と続きを促す。
「それで、あの人に道を尋ねてたんたよ。だから別に変な人とかじゃないの。っていうか親切な人」
言ってから、十分変な人だったかもしれないとニノンは思う。
「そうかい。とにかく合流できてよかったよ」
ぽんと頭に乗せられたニコラスの大きな手と、隣で小さく頷くルカの視線が温かい。なんだかむず痒くて、ニノンはそっと顔を逸らした。視線が流れて、坂下に立っている男の姿が目に入る。
「そうだ。あの人、鉄橋の上にいたおじ……お兄さんだったんだよ。びっくりしちゃった」
「鉄橋の?」
一同の視線が一斉に男へと向けられる。男はびくっと肩を震わせて、なんとなく両手を挙げると降参のポーズをとった。ニノン以外の三人の頭の中でも、男のシルエットと橋の上の人物がぴたりと合わさったようだ。
あ、と最初に叫んだのはアダムだった。
「橋の上のおっさん!」
「お、兄、さ、ん!」
男は半ば脊椎反射で言い返す。
「どっちでもいいだろ!」
「いや全然よくないでしょ」
ぶすっとした表情のまま、男は坂道を上ってきた。何か不満でも呟こうとしたのか、口を小さく開いた時、男の動きがぴたりと止まった。
「え、コータロー?」
驚きに目を丸くする男の視線の先には、同じく目を丸くするルカの父親の姿があった。
「……ニキ?」




