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コルシカの修復家  作者: さかな
10章 夕暮れ時のオールドラングサイン

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第99話 形のない遺産

 きっかけは事故だったんだと、光太郎は話のはじめにそう言った。


「事故?」

「うん。エネルギーショックが起こる以前だから、もう五十年以上昔の話かな。当時の修復家は今ほど知名度の高い職業でもなかったんだけど、それでも日本では道野家っていうと善哉家と並んでそれなりに有名だったみたいだね。あ、このあたりの話は知ってたんだっけ?」

「私が以前お話ししてさしあげましたわ」

 ルカへの問いかけを奪い取り、カナコが誇らしげに胸を叩く。

「あそうなんだ?」

 光太郎の興味津々な目がちらちらとこちらを窺ってくる。

「まぁ、ざっくりと」


 ルカは頷きながら、ヴェネチアでカナコと初対面を果たした時のことを思い出す。親の仇と言わんばかりの剣幕で一方的に責められた、苦い記憶だ。「お話ししてさしあげる」なんて呼べるほど友好的な態度でもなかったのだが、そこはあえて閉口することにした。

 ふむふむと大げさに首を揺らしたあと、光太郎は「それで」と話を進める。


「人づてに噂がいったのか、僕のひいおじいさん――ルカのひいひいおじいさんだけど、当時活動が盛んだった海外の修復家協会から、その協会が主催する会合に招かれたんだそうだ。彼は家族を連れてフランスへと渡ることにした。船に乗ってインド洋を横断して、いろんな国に立ち寄ったりしながらね。おそらく家族旅行も兼ねていたんだろう」


 高祖父らの辿ったであろう渡航ルートをなぞるように、光太郎の人差し指がくるりと空中で円を描く。数週間で行って帰ってこれる距離ではない。仕事のスケジュール調整も大変だったことだろう。


「だけどね」

 その一言と共に、ゆっくりと航海していた指がある地点でぴたりと動きを止める。

「地中海を渡航中に、その船は海難事故に遭ったんだ」


 え、と誰からともなく驚きの声が漏れる。光太郎は各々の顔をぐるりと見渡した。


「悪天候による座礁で船は転覆、乗客五六名が死亡する大きな事故だった。当時の新聞に詳しい状況が載ってるよ。もうずっと昔の事故だから、僕も父親に聞かなきゃ知ることのなかった事故なんだけど」


 ルカは動揺に揺れる目を父親に向けたまま、ごくりと咽頭を上下させた。うまく言葉が出てこない。頭を強く殴られたような気分だった。

 ルカの傍に構える面々も、どんな反応をすればよいのか分からず複雑な顔をしている。カナコでさえ、困惑気味に眉尻を下げて話を聞いていた。


「死亡者リストに道野の姓も何名か並んでいたらしいから、善哉さん、君の高祖父あたりは知ってるはずだと思うけど……」


 あっと思った時には既に、カナコの顔は険しさを増していた。光太郎は純粋な気持ちで口にしたのだろう。まだ喋り続けようとするので、ルカは慌てて二人の間に割って入った。


「あの、父さん。でも結局、その事故でひいひいおじいちゃんは救助されたんだよね」


 道野家がこうして存続しているのは、つまりそういうことだ。

 ちらっとカナコを見やれば、先ほどの険しい表情は少しだけ和らいでいた。彼女の関心をうまく事故のその後に向けられたらしい。ほっと一息ついていると、隣で光太郎が「結果的にはね」と顎をさすった。


「悪天候が長引いたせいで、遭難者の捜索はずいぶん難航していた。被害者の大半はすぐに見つかったんだけど、二名だけなかなか見つからなくてね」

「それがひいひいおじいちゃん?」

「と、その孫だ」

「俺のおじいちゃん」

 光太郎が頷く。

「世間からはとっくに手遅れだと思われていたんだ。ところがだよ、二人は海難事故に遭いながらも、奇跡的にとある海岸に流れ着いていたんだ。その場所っていうのは、コルシカ島の南の海岸だ。街の名前は」

「ボニファシオ……」


 ルカはハッとして顔をあげる。

 光太郎が神妙な面持ちで頷いた。


「二人はベルナール家が統治していた街の海岸に流れ着いた。そこで救護を受け、一命を取り留めたんだよ」


――命に代えてもベルナール家を護る。

 いつか父親から託された言葉が、頭の中で再び姿を現した。その言葉の持つ意味が、パチパチッと音を立てて組み立てられていく。


「そう、だったんだ」


 心なく呟いたきり、ルカは口を噤んで俯いた。

 頭の中で荒れ狂う黒い海。未来を飲み込む絶望の嵐。打ち上げられた二つの塊。行き倒れる二人を見つけたのはベルナール家の者だったのだろうか。広い屋敷のベッドから眺める窓の向こうには、穏やかな海が見えている。清潔な包帯で腕や足を巻かれ、温かいスープを啜り……。ルカは手厚く介抱する人物に、少しだけニノンの面影をのせて想像した。


 命の恩人だ。

 彼らに出会っていなければ、今の道野家は存在しえない。ルカは右手の薬指にはまる指輪をそっと撫でた。


「お待ちになって!」


 下を向いていた耳に、カナコの慌てた声が飛び込んでくる。


「その後日本に戻らなかったのはなぜなの?」

「それは――」

 言葉に詰まる。その一瞬を見逃さず、カナコは一気にまくしたてる。

「私のお父様やおじい様はしきりに言っていましたわ。道野家は従来の顧客や馴染みのある土地を投げ捨てて、待遇のよい向こうの土地に寝返ったんだって。目先の欲に囚われたんだって」


 寝返った?

 目先の欲に囚われて?


「結局あなたたちの家がしたことは、日本を捨てたも同然じゃない」


 日本を捨てたも同然。

 本当にそうなのか?


「ちがう……」


 とっさに口から漏れた声に、ルカは自分で驚いた。腹の底から沸き上がるような低い声だった。


「なにが違うというの」

「同じじゃないよ」


 視線の先でカナコがわずかに身じろぐ。先ほどよりもはっきりとした、刻み付けるような言い方になってしまったからだ。


「欲に目が眩んだわけじゃない。父さんもおじいちゃんもそんな人じゃない。それは俺が一番よく知ってる。だから、ひいひいおじいちゃんだってきっとそんな人じゃない」

「そんなの、わからないじゃない。あなたの言葉は想像の産物でしかないわ。私はちゃんと伝え聞きましたもの。そう、この耳で」


「恩を返すためだよ」

 カナコが眉をひそめる。

「おん?」

「道野家がこの島に残ったのは、恩を返すためだ」

「そんなもの……」


 言いかけて、カナコはハッと息を呑んだ。

 ルカが静かにかぶりを振ったからだった。


 他人に誤解されてもかまわない。それが誤解だと己が知っているのであれば。

 今までずっと、ルカはそう思って生きてきた。

 だけど今、ルカは確かに頭の芯が熱を持つ感覚を味わっている。自身の中枢を形成する部分を――代々受け継がれてきたこの家の誇りのようなものを侮辱されたと認識した時、腹の中でぐうっと熱が頭をもたげたのだ。


「俺たちが今ここにいるのは日本を捨てたからじゃない。日本に戻るよりも、コルシカ島に残ることを選んだからだ」


 頭で考えるよりも早く、次々と口から言葉が溢れ出た。それは耳を伝い、ルカの中に確信を募らせていく。

 たぶんなんて、使わなくていいくらいに。


「そういうこと」


 頭上から父親の声が聞こえ、同時にがっしりと両肩を掴まれる。振り返ればすぐそこに、身を屈めた光太郎の顔があった。目尻に数本の笑い皺が刻まれている。


「僕が父から直接聞いたところによると、助けてくれた家の人から『うちの修復家として働かないか』って誘われたんだって」

「そうなの?」

「うん。だから道野家は今もこの島で修復家業をやっているんだよ。って、僕が言う前に二人で話を進めちゃうんだもん」


 光太郎は肩を竦めておどけてみせる。しかしすぐに顔をあげると、気難しい顔のまま立ち尽くす少女に向かって、にこりと笑いかけた。


「僕らは意外と義理堅いよ。それこそ欲で動かないくらいにはね」

「でも、でも私のお父様やお爺様は……! 私に嘘など吐くはずありませんわ。ええ、そんなこと絶対にありえない!」

「じゃあ嘘じゃなかったんだよ」

「はあ?」


 素っ頓狂な声に押し出されて、彼女の丸い目が飛び出そうになる。光太郎はルカの肩を押しこむように二、三度叩いてから、カナコの前まで歩み出た。


「真実の反対は必ずしも嘘じゃない」

「あなた、言ってることがあべこべですわ」


 カナコは憤慨するのをやめ、今度は呆れたように腕を組んだ。そんな彼女に光太郎は怒るでもなく、目線を合わせようと腰を屈めて膝に手をついた。


「君のお父さんたちには、僕らのことがそう見えてたんじゃないかな。たとえばほら、一枚の紙があったとしてさ」


 光太郎はポケットからぐしゃぐしゃに丸まった紙の端切れを引っ張り出した。手で綺麗に伸ばしたその紙を指でつまみ、顔の前でプラプラとさせる。


「正面から見ればこれは長方形に見えるだろう? でも横から見たら――ほら」今度は摘まんだ紙を四十五度回転させる。「細い直線に見える」


 カナコが反応を見せないので、その後ろでアダムとニコラスが代わりに何度も頷いた。光太郎は二人に礼を言って、再びポケットに紙をねじ込む。


「同じ紙を見ているつもりでも、見え方は同じとは限らない。事実はひとつでも、見る角度が違えば解釈は無限に広がるものだと、僕は思うよ」


 ぐっとカナコが言葉を呑み込んだのが分かった。

 こういう時、父親はひたすらに優しい人間なのだとルカは痛感する。

 彼女の父や祖父や曽祖父からは、本当にそう見えていたのかもしれない。だが一方で、こうも邪推してしまう。

 敵対する同業者を陥れようとしてわざと吹聴したかもしれないのに、と。

 なのに光太郎はすべてを口には出さない。

 相手が誰であっても対等に気遣おうとするのだろう。

 父の懐はきっと世界一深いのだと、ルカは思う。


「ただ君に、この経緯について少し誤解があることだけを知っておいてほしかった。僕も、ルカも。同じ思いで今君に接しているよ」

「そんな、そんなこと急に言われたって、私……私は……じゃあ悪いのは一体誰なのよ……」


 先ほどの勢いはどこへやら、今のカナコは空気が抜けてしおしおになってしまった風船のように覇気がない。

 心配そうに彼女の背中を見守っているアダムとニコラスをちらっと見やってから、ルカはおもむろにカナコの前に立った。


「善哉さん」


 今や怯えを宿したカナコの真っ黒い瞳が、びくっと震えてこちらを向く。

 ルカはきまりが悪く頬を掻いた。そんな風に怯えてほしいわけじゃない。言い負かしたいわけでもない。どう言えば伝わるのか、頭の中で思案しながらゆっくりと言葉を選ぶ。


「こんな生産性のない関係よりも、もっと違う関わり方ができたらいいって、俺は思ってる」

「そんなの今さらよ。無理ですわ」

「どうして」

「だってあなたたちは、私たちの敵ですもの!」

「じゃあ、敵じゃなければいいの」


 は? という形に口を開けているカナコに、ルカは先ほど拾い上げた赤いリボンの髪留めを差し出した。


「提案なんだけど。過去がどうとか、そういうのはもうやめる。ここからは俺と善哉さんの問題」

「私と、あなたの?」

「うん」


 カナコは食べ物に毒が仕込まれていないか観察するかのように、リボンとルカを交互に見やった。

 たっぷりと時間をかけて思案した後、彼女の指先が少しだけ持ち上がった。だがそれきりで、髪留めは一向に受け取られない。

 黒い瞳が葛藤に揺れている。オニキスを砕いて溶いた、真っ黒い絵の具のように。白い波あとを時折残しながら揺れている。

 もう一度、ルカはリボンを持った手を前に突き出した。


「怒ったり憎んだりし続けるのは疲れるよ。修復家なら、その力は全部絵画のために使ってほしい」

「絵画の、ために」


 カナコはなにか大事な落し物でも見つけたような顔をした。ルカは静かに頷く。


「だって善哉さんは修復家でしょ」


 カナコは口の中でちいさく「修復家」と繰り返した。堪えきれなかった衝動が、彼女の目元をひくりと痙攣させる。


「ええ……そうですわ。私は善哉家の跡取り娘。日本の誇る、由緒正しき、絵画修復家…………」


「う」と、カナコの口から小さなうめき声が漏れた。

 彼女の赤く腫れた涙袋がじわじわと緩み、みるみるうちに目のふちに透明な涙が盛り上がっていく。


「えっ」


 ルカはぎょっとした。なぜ泣くのだ。唖然としている間にも、カナコの瞳からはぼたぼたと大粒の涙が零れ落ちる。


「えっと……」


 助けを求めてあたりを見渡したが、三人は微笑むだけで何も言ってくれない。

 慰めるのがうまい人は、こういう時、相手の涙腺を簡単に締めてしまえるのだろう。気の利いた言葉を探してみるが、うまく見つけられない。

 一番手慣れてそうなアダムにもう一度視線で助けを催促してみるが、わざとらしく顔を背けられた。


 ルカは困り果てて、中途半端に突き出た彼女の手にリボンの髪留めと共にハンカチを握らせてやった。変な言葉よりも使い道のある物資の方がいいだろうと思ってのことだった。

 俯いた彼女の顔の真下にたくさんの染みができている。そこにまた、ぱたぱたっと雫が落ちる。


 ぐっと、相手が手を握り返してくる感触があった。もしかして握手のつもりなのかもしれない。だからルカも、握手のつもりでぐっとその手を握りしめた。


「うあ、あああん」


 カナコはルカの手を強く握ったまま、声をあげて泣いた。小さな子どもが心の中身をすべて出し切ろうとしているみたいに。

 涙とともに、彼女は謝罪の言葉を何度も吐き出した。嗚咽混じりで途切れ途切れのそれは、様々なものに対しての言葉のように感じられた。想像するよりもずっと、いろいろなことがあったのかもしれない。

 だがそれは、ルカのあずかり知るところではない。

 ひとつだけ確かなのは、今こうして二人が握手を交わしているということだ。それは海を越え、時代を超えてようやく訪れた、両家の関係を修復するための一歩に違いなかった。

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