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コルシカの修復家  作者: さかな
10章 夕暮れ時のオールドラングサイン

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第97話 思わぬ再会

「あの子? さぁねえ。ひとしきり泣いたあと、釣り銭も受け取らずに店を出てっちゃったよ。どっちへ行ったのかは、ちょっと分かんないなぁ」

「そうですか」


 店のウェイトレスに礼を述べて、ルカたちは昼食をとったレストランを再び後にした。


「やっぱもういないよな、そりゃ」

 後ろ手にパタンとドアを閉め、アダムはひとり納得したように頷いた。隣でニノンが顎に手をかけ唸っている。

「でもほら、なんだっけ。カナコちゃんの服、和装の……」

「袴」

「そう、ハカマ」

 ルカの助け舟を借りて、ニノンはぽんっと手を合わせる。

「珍しい服装だから、通りの人たちに尋ねていけば案外すぐに見つかるかもしれないよね」


 そうだといいなと思いつつ、ルカは緩やかにくだる坂道を見渡した。依然として通りは賑わいをみせている。行き交う人々の肌は総じて、去る夏の太陽によってこむぎ色に焼けていた。これならカナコの肌の白さも探す時の特徴に加えられるかもしれない。


「その帽子かぶって探してみるってのは?」


 アダムに言われ、ルカは人混みから視線を下ろす。自身の右手にしっかりと握られている、真っ赤な布地の帽子が目についた。


「見覚えあるなぁって、向こうから近づいてくるぜ。もしくは逃げるか」

「いやだよ」


 ルカは先ほどの衝撃的な出会いを思い出し、そっとため息をついた。



 あれから何度か扉を叩いたものの、フェルメールは家に引っ込んだまま一向に姿を現わさなかった。ルカには怒鳴られるいわれも恨まれる覚えも一切なかったのだが、本人から話が聞けないのではどうしようもない。


『カナコちゃんに話を聞きにいこう』


 完全なる門前払いを食らい、途方に暮れていたところで、ニコラスが思いついたようにそう提案した。


 善哉(ぜんざい)佳那子(かなこ)

 彼女もルーヴルのいち修復家である。もし何らかの事情で先に彼女が深い森の中、老人の家を訪れていたとすれば。あの涙にはフェルメールが関係している可能性があるかもしれない。


「あの子がなにか事情を知っていれば、対策も練れるんだけどね」


 ニコラスはウェイトレスに書いてもらった町の簡素な地図を人数分メモ帳に書き写し、ちぎったメモを一人一人に手渡した。

 地図を受け取りながら、アダムはううんと唸る。


「俺は、カナちゃんもあのじいさんに門前払いくらっただけだと思うんだよな。ワケもわからず怒鳴られたら、そりゃ怖くて泣いちゃうんじゃねえの」


 ルカは手渡されたメモにさっと目を通した。現在地を示す●の上下に、大きな楕円が二つ描かれている。どちらも町の広場らしく、楕円の中には小さく広場の名前が書き込まれている。


「案外、クロードおじさんとはぐれて迷子になったから泣いてただけだったりして」

 メモを上下左右にひっくり返しながらニノンは言う。

「迷子になって泣くのはニノンだろ」

「ええー、泣かないよ」


 上流広場の前にはパオリ大学やそれに関連する研究施設が連なっており、他に目印となる建物は特になさそうだ。


「つーか、ほんとに会いに行って大丈夫なのかよ。俺たちのことを探してる可能性もあるだろ。やっぱカナちゃんには会わないほうがいいんじゃねえ?」

「意気地がないねぇアダムちゃん。その時はその時。ダメなら逃げればいいのさ」

 ニコラスに尻をばしんとやられながら、アダムは「追いかけられるのはもうコリゴリなの!」と不服そうに唇を尖らせた。


「じゃあここから坂の下に向かって左と右を私とアダムちゃん、坂の上に向かって左と右をニノンとルカで、それぞれ手分けして探しましょう」

「見つかっても見つからなくても、探し終わったらそれぞれの広場に集合でいいよね。それで、そのあと合流すれば」

「時間は……一時間もあれば余裕だよな」


 テキパキと指示が出され、あっという間に作戦が決まる。ルカは目に感心の色を浮かべた。こういう時にさっと動けるのが彼らの凄いところだ。

 散り散りに去っていくそれぞれの背中に頼もしさを感じつつ、ルカも通りすがる人の影を追って路地へと足を踏み入れた。



 *



「ああ、あのわんわん泣いてた子だろ」


 オレもあの時あそこで飯食ってたんだよ、と体格の良い男は白い歯を覗かせた。


「事情があって探してるんですけど、その後どこに行ったか知りませんか?」

「店を出てきたのはオレの方が早かったからなあ。そのまま町の配達をしてたんだけどさ、そういえば、旧市街地ではその子のことは見かけてないな」


 こちらが不思議そうな顔をしていたからか、男は「上の広場を中心として広がってるのが旧市街地、下の広場を中心としてるのが新市街地。君、観光客だろ」と親切に教えてくれた。


 それからしばらく坂道を上り下りしてみたものの、結果的に得られた目撃証言はゼロだった。

 先ほどの配達員の話から推測するに、彼女は店を飛び出したあと新市街地の方に向かったのだろう。或いは、休息がてら立ち寄ったというだけで、もうこの町にはいないのかもしれない。


 とぼとぼと歩いていると、前方に開けた土地が見えてきた。上流の広場だ。中央にどっしりと構えるブロンズ像は右手を頭上に高く掲げ、その手にしっかりと島旗を携えている。

 コルシカ島の英雄、革命の女神ディアーヌである。衣服も長い髪も、それから翻る大きな旗も、強風に煽られたようなひどい乱れようだ。だが、意志の強そうな瞳はしっかりと前を見据えている。

 ルカは空いているベンチに腰掛けながら、広場の時計に目をやった。長針は集合時刻よりも十五分ほど早い時を告げている。若干の余裕はあるが、入れ違いになっても困るので、ルカは大人しくニノンの帰りを待つことにした。


 座った場所からはちょうど真正面に横を向くブロンズ像を望むことができる。長い間雨風にさらされている為か、頬から首筋にかけて不透明な緑青(ろくしょう)がへばりついている。なんとなく、泣いているようにも見える。

 つるりとした首元から後ろに視線をずらすと、崩れかけた煉瓦壁の建物が見えた。壁には無数の弾痕が広範囲にわたって残っている。もう何百年も昔、この地で起きたこと――旧首都コルテは、ディアーヌ率いる島民が起こした独立運動の拠点だった――を証明するように、はっきりと。

 この町にはこうした古い傷跡が、まるで歴史の落し物みたいな顔をしてあちこちに残されているのだ。そうレストランで何気なくニコラスがこぼした言葉を、ルカは今頃になって実感する。


 ディアーヌの髪のなびく後ろにはきっと、意志を燃やして立ちあがった何万という島民がいたのだろう。

 多くの人間の心を惹きつける力は彼女の武器だったはずだ。


「ニノンの不思議な力も、人を惹きつける……」


 ニノンの血筋をたどっていけば、いずれは英雄ディアーヌに辿り着くらしい。自信たっぷりにそう言ってのけたのは、ベッキー・サンダースと名乗った自称ジャーナリストの女だっただろうか。

 ニノンが不思議な力を使う時、何かを訴える時、誰もが彼女に惹きつけられてやまないのは、その力のせいなのか。それとも英雄ディアーヌの血を受け継いでいるからなのか。

 ルカは答えを求めるようにブロンズ像の横顔をじっと見つめる。頭の中で疑問が分裂し、加速する。


 ベルナール家の末裔を護らなければならないのはその力のせいなのか。そもそも末裔はニノンだけじゃない。オンファロスの最深部で見かけた彼女もまた、ベルナール家の末裔なのだ。

 彼女の側にいたダニエラ。ルカの母親の死の真相を知っていた男。「ニノンを護れ」と言ったダニエラの真意は一体……。


「怖い顔して、考えごと?」


 いきなり肩を叩かれて、ルカは身体をびくりと跳ねさせた。驚いたのは不意打ちだったからというだけではない。声を掛けてきた人物が、ここにはいるはずのない男だったからだ。


「父さん!?」

「や。元気にしてたかい、息子よ」


 敬礼の代わりに、光太郎はびしっと目元でピースサインを構えた。ルカは疑問よりも先に眩暈をおぼえ、静かにこめかみを押さえる。


「…………父さん、怪我は」

「電話でも言ったけど、ほらこの通り」


 光太郎はぺろんとシャツを捲り、薄ピンクのミミズのような跡を手のひらでパンパンと叩いてみせた。


「もう何ヶ月も前の傷だしね」

「それは良かった。じゃなくて、どうしてここに?」

「ルカに会いに来たんだよ」

「ああそう。で、本当は何しに来たの?」

「あはは、冷たいなぁ」

 本当のことなのに、と光太郎は朗らかに笑った。


「コルテにちょっと野暮用があったんだよ。ついでってわけじゃないけど、ルカ、次はコルテに行くって言ってただろう。探せば会えるかなと思ったんだけど。いざ見つけてみたらなんだかベンチに座って深刻な顔してるから、父さんびっくりしたよ。ルカもあんな顔するんだねえ」


 光太郎は眉間に必要以上のしわを寄せて、下唇をずいっと突き出した。悪意はないのだろうが、物真似をしているのだとしたら雑すぎる。


「……そんなにひどい顔してた?」

「いや? 見間違いだったかもしれないな」


 誤魔化すように笑って、光太郎はルカの隣にどかっと腰を下ろした。意図せず父親の右手の薬指が目に入る。長年指輪がはまっていた箇所の皮膚はまだうっすらと白くて、日に焼けきれていない。

 光太郎は咳払いをひとつすると、ひどく改まった顔をしてこう言った。


「大事な話をしようと思ってね」


 大事な話、というのは光太郎の昔からの口癖だ。こうして前置いて本当に大事な話だったことは、今まででたった一度しかない。レヴィの村を旅立つと決めた日の、親子の約束を交わしたあの時だけだ。


「実はまだ、ルカに話していないことがあるんだよ」


 今回は二度目の()()になるのだろう。

 光太郎が打ち明けようとしている話の内容がどんなものであるのか、ルカにはうっすらと推測できる。

 だから、聞く前にこちらから言ってやろうなんて、心のどこかで生意気なことを思ったのかもしれない。


「俺も言ってないことがある。父さんに」


 同じように切り返せば、光太郎は珍しそうに眉をひそめた。


「母さんのことだよね。父さんが話してないことって」

「……え?」

 光太郎の眉がますますおかしな方向に反り返る。だけど構ってなんかいられない。

「母さんは俺を産んだ時に死んだって言ってたけど、そうじゃない。もっと後だ。パリで交通事故に遭ったことになってるけど、犯人は捕まってないし証拠もない。あるわけない。だってそれは嘘だから。でっちあげたのは――」

「ちょ、ちょっと待ってくれ、ルカ」


 言葉を遮るように両肩を掴まれ、そのまま体を光太郎の方に向けさせられる。父親の顔は焦りで四角く強張っている。


「その話、どこで聞いた?」


 光太郎は否定しなかった。その話が事実だから。

 途端に、ルカは抗いがたい熱の塊が喉元までせり上がってくるのを感じた。


「クラナッハさんだよ」

 すんでのところでどうにかその熱をぐっと飲み込んだ。

「母さんの友だちの、エリーゼ・フォン・クラナッハさん」

「なんだって?」

 声が震えないように言葉を吐き出すのは案外難しい。慎重になった分だけ鼻から吐き出す息も熱くなった。だけど、光太郎はそんなもの気にも留まらないくらい驚いたようだった。

「彼女が、まさか!」

 と、ひどく狼狽えて額を手で覆い、天を仰いだ。


「母さんがルーヴルで働いてたなんて知らなかった。修復業のちょっとした手伝いと(ムヴラ)の世話が仕事だって父さんは言ってた。それをずっと信じてたんだ」

「いや待てよ。そもそもなぜ彼女に会いに行ったんだ? どうして彼女の存在を知ってる?」

「隠さなきゃいけなかったってことも理解してる。全部知ってる。分かってるよ。だって、だからこそ母さんは、あいつらに」

「もしかして薄々感づいてたのか。いつからだ? ルカ……もしかしてずっと疑っていたのか?」


「――疑ってなんかないよ!」


 気がつけばルカは、肩を掴む大きな手を振り払っていた。ハッとして手を引っ込めてももう遅い。光太郎は不意打ちをくらったような顔でこちらを見つめたまま動かない。

 ルカは心臓に針を突き刺されたような痛みを感じ、ゆるゆると顔を伏せた。


「疑ってなんかない……逆だ。言われるまでなにも知らなかった……なにも……!」


 光太郎の手が、またしてもルカの両肩を掴んだ。今度は労わるように優しい力加減で。そこに含まれるのが「謝罪」なのか「憐れみ」なのかは分からないが、なんとなく後者のように感じられて、ルカは悔しくて顔を上げることができなかった。


「クラナッハさんに出会ったのは偶然だよ。ルーヴルの中で、彼女が俺を見つけてくれた」

「ルーヴルに行ったのか?」

 光太郎の声が途端に厳しいものに変わる。

「サンジェルマン伯爵に……()()()()んだ。話がしたいって」

「話? 話ってなんだ? 何を言われた?」

「ルーヴルに入らないかって」

「なに、ルーヴルにだって? 嘘だろう?」

「その話は断った」


 肩を掴む力がいっとう強くなったので、ルカは身をよじって光太郎の手を振りほどいた。


「その後クラナッハさんに会ったんだ。一目で俺のこと母さんの息子だって分かったって。それで、いろいろ教えてくれて」


 ルカは彼女から聞いた話のすべてを光太郎に打ち明けた。母の死の真相。母の最期が今まで隠されていた経緯。それが母の願いであったこと。

 クラナッハから話を聞いた時のことを思い出しながら、ルカは彼女の心中にぼんやりと思いを馳せた。

 彼女は母との約束を守り抜き、秘密を墓場まで持って行くつもりだったに違いない。あの時ルーヴルでルカを見かけていなければ、秘密は今も秘密のままだったのかもしれない。

 偶然が、彼女の塞ぎかかっていた口を無理やりこじ開けて、秘密を吐露させた。

 その根底には親友の死に納得していないという彼女の気持ちがあったのかもしれない。


「ふぅむ」


 すべて聞き終わってからも、光太郎の顔は険しさを帯びたままだった。何かを思案するように、口は真一文字に結ばれている。まだ何か隠し事をしているのではないかと、疑っているのかもしれない。実際、ルカは光太郎に対してオンファロスの最深部で見聞きした事実は伏せたままだった。

 拳に汗を滲ませるルカをよそに、光太郎はやがて意を決したように固く結んだ口をそっと解いた。


「本当はね、指輪を渡す時に全部話そうと思っていたんだ」

「でも、父さんは言わなかった」

「怒ってるかい?」

 しばらく間を置いてから、

「少し」

 と、ルカは素っ気なく答えた。

 ところが光太郎はなぜか笑い声をあげた。


「マイペースで几帳面、少し意地っ張り。だけど素直で、頑張り屋で、自分の信じた道をゆくのに努力を惜しまない」

「なに、いきなり」


 指折り数える光太郎に、ルカは遠慮なく怪訝な表情を向ける。光太郎は「それから」と言葉を区切り、人差し指を顔の前にそっと立てた。


「気になったものはとことん追求する――ルカと母さんはよく似てるよ」


 最後のひとつを挙げた時、風が吹いて、二人の黒い髪を揺らした。光太郎はもう笑っていなかった。


「だから秘密のままにしておこうと思った。いつかルカが、ルーヴルの隠している秘密に興味を持ってしまうことが怖かったから」


 ルカは何も言い返せなかった。胃の中で罪悪感めいた気持ちが石のようにゴロゴロと音を立てている。

 残念なことに、彼の危惧した通りに事は動いてしまっている。

 結局自分も父と母と同じことをしているじゃないかとルカは思った。挙句、言えない秘密を爆弾みたいに抱えている。父親に嘘をつかれたと意固地になって、結局二人の願いをないがしろにした。


「父さん……あの、俺……」


 どう言葉にすればいいのか分からなくて、ルカは言い淀んだ。ぐちゃぐちゃに混ざった感情が、咽喉元に引っかかったままぐんぐん熱を孕んで膨らんでいく。熱は首筋をたどり、頬まで伝わって、やがて目の奥をぐらぐらと揺らした。

 いよいよ堪えきれなくなった時、ぽんと頭の上に何かが乗っかった。それが父親の大きな手のひらだと気付いたのは少し経ってからだった。


「理由があったにせよ、僕らはずっとルカを騙していたんだ。だから謝らせてほしい。今まで嘘ついてて、本当にごめん」


 頭の上で手のひらがぽんぽんっと二、三度跳ねた。

 ずるい、と思う。ルカは行き場のなくなった熱を膝の上に置いた握り拳の中に封じこめた。許す資格もないのに謝られたら、なんて返せばいいのか分からない。頭の上の手のひらを振り払うこともできない。

 だったらせめて、我儘を言うぐらいは許してほしい。


「ゆるさない」

「許してもらえるように頑張るよ」

「しばらく許さない」

「僕の息子は厳しいなあ」


 ルカは口をあけて笑う父親の、嬉しそうな声を聞きながら、握りしめていた手をそっと開いた。中に閉じ込めていた熱は、はじめからそこになかったみたいにすっかり姿を消していた。

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