第96話 修復家お断り(2)
「列車って……」
言い淀んだのち、ニノンはごくりと生唾を飲み込んだ。
「そりゃあ、真面目にヤバイね」
運転席でニコラスが苦笑いを浮かべる。
次の瞬間、弾かれるようにして二つの頭が窓から顔を突き出した。
「列車が来てるんだよー、危ないよー!」
「はやく避難しろー!」
叫び声に負けないほどの強い風が、ボウボウと頬をたたいてくる。道端の小石を跳ね飛ばしながら、車は道の端ギリギリを攻める。ほんの少しでも距離を縮めようというはからいだった。といっても僅かな差では気休め程度にしかならない。ニノンとアダムの呼びかけも虚しく、橋の上の人間はのんびりと立ったりしゃがんだりを繰り返している。
距離が縮まるにつれ、先ほどよりも背格好がくっきりと見えるようになった。橋の上にいるのは男性だ。ボサボサに伸びきった黒っぽい髪に、服装は曇天色のツナギで、全体的に薄汚れている。
アダムは舌打ちと共にいったん身体を引っ込めて、足元に投げ捨ててあった鞄に手を突っ込んだ。取り出した手には小ぶりのりんご――おそらくベルの台所からくすねてきたもの――がひとつ。再び窓から上半身を突き出すと、ぐんっと大きく振りかぶり、
「死にてェのか、よ!」
男めがけてりんごをぶん投げた。
勢いよく飛んでいったりんごは、しかし鉄橋の下段にさえかすらない低い位置で放物線を描いた。
「あ、ああー、ああ……」
ニノンの声の抑揚がりんごと同じ放物線を描き、最後には落胆のため息に変わった。
と、その時、一羽の大きな鳥がスイッと空を横切った。あっと声をあげる間もなく、視線の先でおおきなくちばしがぱくりとりんごをキャッチする。
「おい!」
アダムの突っ込みがまぬけなエコーを伴って山に響く。大きな鳥はくるりと空を旋回し、そのまま渓流の方へ飛び去っていった。
だが今回は、りんごの時と違って男に反応があった。男も白く輝く両翼を目で追っていたのだ。やがてその顔がふっとこちらを向いた。
「あ、こっちに気づいた」
「遅ェよ、おっさん!」
アダムとニノンは叫びながら、男に向かって自由な方の手でめちゃくちゃなハンドサインを送った。
――線路の、向こうから、列車がきて、木っ端微塵。
――とにかく、はやく、下に、降りろ。
男は、んん、と首を捻ったのち、何か閃いたようにポンッと手を叩いた。
「よかった、伝わ……」
と、男は叩いたその手でバンザイを作り、なぜかぶんぶんとこちらに手を振ってきた。
「全然伝わってない!」
ファン、とタイムリミットを知らせるように警笛が鳴り響く。山陰からものすごいスピードで列車の頭が飛び出した。
「もうダメだ――!」
全員の頭に『万事休す』という言葉がくっきり浮かぶ。あんな逃げ場もない空の上では、どう足掻いても助かるはずはない。鉄橋はぐんぐんとこちらに近づいて、ついには橋のてっぺんが車のフレーム外に消えて見えなくなる。
――ピイイ!
再度警笛が轟く。三人は思わず目と耳を塞いだ。風や音や、周りの空気がすべてスローモーションになる。ドク、ドク、と心臓の音が耳の内側をたたく。
車は柱と柱の間をすべり抜け――ふっと道路が陰った。
その瞬間、ガタガタガタッ、と頭上から激しい振動音が降ってきた。
音はあっという間に後ろに遠ざかり、振動の余韻もすぐに小さくなって、やがて聞こえなくなった。
誰もなにも言えず、車内に重たい沈黙が充満する。
隣でルカがすばやく半身を捻った。ニノンもあとを追って後ろを振り返る。リアガラスの向こう、見えるのは太い柱に支えられた真っ平らな鉄橋だけ。列車も人の影もない。
罪悪感に胃がじわじわと侵蝕され始めたその時、突然、平べったい鉄橋の縁からひょこっと顔が覗いた。
「いっ」
ニノンの喉から思わず変な声が飛び出る。
頑なに前を向いていたアダムが、声につられて後ろを振り向く。そうして同じように「いっ」と引き攣れたような叫び声をあげた。
「お――おっさん!」
複数の視線が集中する先で、男は這いつくばるようにして再び鉄橋によじ登った。
ボサボサの黒髪に、ヨレヨレのツナギ。間違いなく先ほどの命知らず男だ。列車が通る前と変わらぬ笑顔でこちらに両手を振っている。
「生きてた……」
安堵よりも驚きの方が大きいというような顔をして、ニノンは息を吐くように呟いた。列車があの上を通る直前に、鉄橋の下段にでも逃げ込んだのだろうか。なよっとしているように見えて、なかなかアクロバティックだ。
「なんだよ。びっくりさせんなよな」
全身の気が抜けたのか、アダムはずるずると背もたれに寄りかかった。
「ほんと、後味悪くなくてよかったよ」
後味とか言うな、と投げやりに呟いて、アダムはニコラスの肩をばしんとやった。
*
険しい山道を越えて、一行はようやく旧首都・コルテに辿り着いた。隆起した岩山の中腹、斜面にへばりつくようにして赤い屋根屋根が密集している。ちょうどお昼時だからか、ところどころ煙突からひげ根のような白い煙が立ちのぼっている。
長時間車に詰め込まれ、身体はすっかり疲弊していた。四人は思い思いに四肢を伸ばしながらうんと深呼吸する。
「あの変なおっさんのせいでどっとつかれたぜ」
「どこか見つけてはやいとこお昼にしましょう」
先陣をきったアダムの背から「ラ・ラ・ラ・ザニャ」と変てこなメロディが聞こえてきた。「新曲だ」とルカが呟く。その横顔があまりにも真剣だったので、ニノンは思わず吹き出した。
「あ、すみません」
反動ですれ違う人とぶつかったので、軽く頭をさげた。だが次に顔を上げた時にはもう、相手の姿はどこにも見当たらなかった。
この町は思った以上に人で溢れている。行き交う人々に若者が多いのは、きっとここが大学の町だからなのだろう。ニノンはぐっと背を反らし、縦に横にと広がる町並みを見上げた。坂道に沿って作られた町の頂上に、古い城塞がそびえているのが見える。
「おおきな町。ちょっとだけルカの村に似てるよね」
アルタロッカ地方のレヴィ村と旧都市コルテ。規模の差こそあれど、どちらも山間にある集落で、斜面に沿って建物が並んでいる景色には既視感を覚える。
「コルテの方が断然人口が多いよ。レヴィは、隣の村の住人の顔と名前まで覚えられるほど小さい村だから。店だって全然ないし」
隣を歩くルカはそう言いながらも、町を見上げて懐かしそうに目を細めた。
「私は、そっちのほうが好き」
「店が全然ないのが?」
怪訝そうな顔をするルカに、ニノンは冗談っぽく首を振る。
「周りの人たちの名前を皆が知ってるところ。相手も、私のことを知ってくれてるってことでしょ。知らない人間がたくさんいるところに一人でぽつんといるのって、なんだか不安。自分が何者なのかわからなくなってくるの」
そこまで言って急にむず痒くなり、ニノンは大きく一歩踏み出して先を歩いた。雑踏の中でただ一人、じっと耳を傾けてくれていたルカの存在が嬉しかった。
「私、目が醒めてはじめて立ち寄ったのがルカの村だったから、なんだか懐かしくなっちゃった。何日かお世話になったしね。……元気かな、ルカのパパ」
思い出したのは二度目にレヴィへと立ち寄った日のことだった。あの嵐の夜、ルカの父親はベニスの仮面に遭遇し、脇腹を刺され負傷した。幸いにして大事には至らなかったけれど、その後の経過が心配ではある。
「怪我はもう大丈夫だって言ってた。傷跡が少し残ったぐらいで、今はピンピンしてるよ」
困り眉のまま俯いていると、ルカにすげなく返された。ニノンはぱっと顔を上げる。
「連絡、取りあってるの?」
「少し前に容態を聞いただけだよ」
ルカは店の前でこちらに向かって手招きしているアダムに軽く手を振り返した。
「パパが安心できるように、残りの絵画もはやく見つけなきゃね。そもそもその絵にどんな秘密が隠されてるのかも気になるし」
「秘密、か……うん」
思い返せば未だに分からないことだらけだ。なぜ絵画がバラバラになっているのか。それを家族ぐるみで隠す理由も。その依頼をしたのがベルナール家だということも。
似たような服を着た人の群れをよけながら、なんとか目当てのレストランまで辿り着く。
「やっぱり一度、父さんに会わなきゃな」
昼食時で賑わう店内に踏み入る最中、後ろでルカがぼそっとそんなことを呟いた。
*
「だからさ、さっきすれ違った男どもが噂してたんだって。この町の学校にすげェ美人がいるらしい」
「アダムちゃんの耳は都合がいい時に大きくなるね」
「性能がいいと言ってくれ」
宣言通り焼きたてのラザーニャを平らげた四人は、デザートにピスタチオジェラートまで注文した。懐に随分と余裕があるのは、カヴィロとエリオから想定以上の修復報酬を得たからだった。
「ま、んなことはどうでもいいとして――」
昼時の喧騒に背を向け、アダムは三人の肩をぐっと引き寄せた。
「なんであの子がここにいんだよ」
ニノンはちらりと肩越しに後ろを見やる。ふたつテーブルを挟んだ向こう、小さな円卓に肘をつき、黒髪のおかっぱ少女はもう何度目になるか分からないため息を吐きだした。その顔は周りの不幸をまるごと吸収したんじゃないかというほど暗く、精気がない。目の前の食事にもほとんど手をつけていないようだ。
「カナコちゃん、だっけ」
ニコラスが曖昧そうに首をかしげる。隣でルカが小さく頷いた。
「善哉カナコ」
矢絣柄の着物に茄子紺の袴。いわゆる日本の伝統的な衣装を身に纏った小柄な少女は、以前ヴェネチアで出会ったルーヴル発電所所属の修復家である『善哉カナコ』でまず間違いなかった。
まてまて、とアダムが一層力を込めて三人の身を引き寄せる。
「ってことはルーヴルの差し金か? まさか俺たちを捜しにきたんじゃねェだろうな。そりゃ勝手に侵入したのは悪かったけどよ。でもそれを言うならあいつらの方が!」
「それにしちゃあ、相方の男が見当たらないけどね」
視線だけを右から左に素早く移し、ニコラスは店内を偵察する。
「それって、クロードおじさんのこと?」
ルーヴルで追いかけられたことを思い出して、ニノンはそっと肩を縮こめた。
「そうそう。直接あんたらを追いかけてきたのはむしろその人だろ?」
「そこまで熱心に追いかけてくるような人には見えなかったんだけどなァ」
面倒ごとはごめんだとはっきり言っていたし、ともすれば不法侵入を見て見ぬ振りしようとしていた男だ。
「うん。おじさんはそんなに熱血漢じゃない」
ルカが至極真面目な顔で同意する。
「じゃ、ただの偶然か?」
「さぁ……」
寄り集まってコソコソしていると、突如背後でどよめきが起こった。四人は思わず振り返り、ぎょっとする。騒ぎの中心でカナコがぼろぼろと大粒の涙を零していたのだ。
ついに不幸を堪えきれなくなったという風に、彼女の顔は悲しみでぐしゃぐしゃに歪んでしまっている。
訳が分からず、ニノンは眉をひそめた。こっそり左右を確認すれば、他の面々も一様に同じ顔をして首を傾げていた。視線に気付いたらしいアダムが、こちらに向かってそっと肩をすくめてみせる。
「お嬢ちゃん、大丈夫かい?」と誰かが声を掛けたところで、ついにカナコは机に突っ伏して泣き始めた。
その後、一行は二度目のどよめきに乗じてそそくさと店を出た。
彼女がどんな理由でこの町にいるのかも、どうして泣いていたのかも分からないが、四人の中で、わざわざ飛んで火に入らなくてもいいだろうという暗黙の了解が成されたのだった。
「で、ほんとにここがその〈フェルメールさん〉の家なのか?」
「手紙の情報では、ここのはず。なんだけど。たぶん」
手元の手紙から視線を上げるにつれて、ルカの声は段々と頼りないものになった。というのも、目の前に佇む建物の醸し出す雰囲気があまりにも陰鬱としていたからだった。
街の下方、西の裾野に広がるうっそうとした森の中に、隠れるようにしてその家は収まっていた。廃村して数十年経った後の家屋のように、壁は一面蔦だらけ、屋根はびっしりと苔むしている。
「妖精でも住んでそうな家だねえ」
「それってトムテのことでしょ」
「トムテ?」
ニコラスが訊ねると、ニノンは自信たっぷりな顔でふふんと笑ってみせた。
「アダムにこの前教わったんだよ」
生い茂る木々の枝葉が揺れて、数羽の鳥が飛び立った。足元にちらちらと揺れる木漏れ日までが鮮やかな黄緑色をしている。いかにも不思議な生き物が好みそうな、緑の濃い森だ。
「赤いとんがり帽子に長いあごひげ。小人の長老みたいな姿で、人間が寝てる間に家畜の世話をしてくれるイイ妖精の話な」
アダムは表札にはびこる蔦を手でぶちぶちとちぎった。
「あれには続きがあってさ」
蔦の切れ目から錆びた金属の文字が覗く。確かに〈フェルメール〉とあるようだった。
「ごめんください」
ルカは古い扉を二度ノックした。
返事はない。
しばらくして、中から微かに誰かが階段を降りてくる音がした。
「厄介なことに、その妖精はちょっとばかし繊細な性格なんだ。もしもトムテを怒らせちまったら、そん時は――」
ルカはもう一度、強めに扉をノックした。
「ごめんください。アルタロッカのレヴィ村から来ました、修復家の……」
バン、と言葉の途中で勢いよく扉が開いた。
ぎょっとして固まる一同。視線の先では、赤いとんがり帽子をかぶった顎髭の老人が、今にも蒸気を発しそうなほど顔を真っ赤にして突っ立っている。
「えっと、お伺いしたいことがあって、来たんですが――うわっ」
こわごわ口にするルカに、老人はむんずと掴んだ赤い帽子を思いきり投げつけてきた。
「まーたやって来たんか。いいか、わしはもう、金輪際、修復家の顔なんぞ見とうないんじゃッ。ここから立ち去れッ!」
「え? ちょっと待ってください。フェルメールさん、あなたに聞きたいことが」
「去ね、去ねッ!」
散々喚き散らした後、老人はルカの右耳をばちんと平打ちした。突然のことに唖然とする四人をよそに、老人はそのまま勢いよく扉を閉めて家の中にすっこんでしまった。
どこか遠くで、ピチピチと小鳥が鳴いている。
「……そん時はあいつら、人間の耳を殴るぜ」
呆然と扉を見つめたまま、アダムは唇を引き攣らせながら呟いた。




