第95話 修復家お断り(1)
肌が夏の暑さを忘れはじめた頃――コルテの街では、隆々とそびえる山塊から降りてくる涼しい風が、さらさらと木々を揺らしていた。
街路樹はすっかり秋の色に染まっている。扇型の黄色い葉がチラチラ舞うなか、数人の青年たちがもたもたと歩道を歩いていた。口を大きくあけて笑い、道端の銀杏を踏んづけては靴裏を地面になじってまた笑う。
彼らはコルシカ島唯一の大学〈パオリ学院〉の生徒たちだ。詰め込み型の授業から解き放たれて、開放的な気分になっているのだろう。
夕刻すぎになるといつも、パオリ学院前の銀杏通りは帰路につく学生たちで一様ににぎわいをみせる。
「ほんと、くっせえ」
はしゃいでいた学生のうちの一人が、紐で縛られた絵筆の束ををぶんぶんと振りまわしながら鼻をつまむ。彼はなにか冗談を口にしながら、道に転がっていた銀杏の実をつま先で蹴った。
実は思った以上に空を飛び、不運なことに前を歩いていた男の背中にコツンとぶつかった。
「あっ」
彼らは揃って小さく声をあげた。前を歩いていた男がぴたりと立ち止まる。裾がボロボロに擦り切れた薄汚いコートの、腰のあたりに小さな染みができている。
男は古びたおもちゃのようにギリギリと首を回して振り返り、あらん限りの力を込めて学生たちを睨みつけた。
白髪の顎鬚を口まわりにたっぷりと蓄えた、神経質そうな老人だった。
「いいい、いい加減にせい!」
老人は白髪眉をつり上げて、間を置かずにうわっと叫んだ。びっくりして学生たちは思わず飛び退る。
噂通りだ。気の狂った野犬のように憤怒する老人。呂律の回らない喋り方では、はっきり言って何を叫んでいるのか分からない。
老人はその後もひと通り喚き散らした後、最後に「これだから若造は!」と吐き捨てた。
「でたでた、妄言じいさん」
「オレ、遭遇したの初めてだ」
「そうなの? 俺三回目」
右足を引きずりながら歩き去っていく老人の、薄汚れた背中を見つめながら、学生たちは口々に言いあった。
「名物の妄言は聞けなかったけど」
「いや、言ってたのかもよ。オレらが聞き取れなかっただけで」
「――妄言って、たとえばどんな?」
突然、背後から女性の声がした。びくっと肩を揺らし、学生たちは揃って後ろを振り返る。
「えっと、たとえば、絵画は人の手によって匿われるべきだ、とか……」
「わしは美術館長だ、とか……」
彼らはごにょごにょと舌をもつれさせながらなんとか答えた。が、心ここに在らずといった様子で、突然現れた女性を失礼なほどじろじろと見つめている。
それもそのはず、目の前に佇む女性はすらりとした長身で、うっかり見惚れてしまいそうなほど整った容姿をしているのだ。ショートカットの髪型のせいか顔が驚くほど小さい。鮮やかな赤い髪とエメラルドグリーンの瞳が、イチョウの黄色と合わさってとても色鮮やかだった。
「ふーん。ありがと」
これ以上聞いても無駄だと思ったのか、彼女はにこりと笑うとさっと青年たちに背を向けた。スタイルが良いから後ろ姿まで美しい。背丈の半分ほどある足だ。少し歩いただけで彼女の姿は随分と遠ざかった。
「どっ……美人、だったな」
ここの生徒かな、と青年はうわ言のように続ける。同じように惚けていた青年が、驚いた顔で彼の肩を小突く。
「バカお前、知らないのかよ。一時期美人で有名になった新入生だよ」
その青年はぐっと腕を前に伸ばし、突き立てた親指を女性の背中に重ね合わせた。「名前、なんて言ったかな。えーと」などとぶつぶつ呟きながら、デッサンのモデルにするみたいに片目でバランスを測っている。豆粒のような頭で頭身を割り出せば、七、八はいきそうだ。
「いやいや、美人だけじゃないよ。ほら、あの子も相当な変わり者って噂じゃん」
「変わり者ってどういう」
何も知らなかった青年が、ぐっと首を突き出して問いただす。
「学校に置いてある絵を見てさ、なんていうの、『うっとり』するんだって。ハンサムな男を見つめるみたいにさ。人物画とか風景画とか関係なくだぜ。絵に恋してんだよ」
「うっとりねえ。うーん」
分かりやすく顔をしかめる青年の肩に、今度はデッサンの真似を終えた青年が反対側から体をぶつけて身を寄せる。
「それに比べて人間のオトコには全く興味ないってよ。言い寄ってくる男のことけちょんけちょんに言い負かすらしい」
「うへぇ。性格に難ありか。残念」
思い上がったことを口々に呟いて、青年たちは揃ってほうっとため息をつく。
「あんなに美人なのに。もったいねえ」
視線の先ではちょうど、渦中の女性が街角を曲がって姿を消したところだった。
*
「結局、サンジェルマン伯爵はルカを囲い込みたくて拉致したってことだよな」
荒いよなあ、と言ってアダムは顔をしかめた。
「さぁ……その件に関しては断ったけど」
「いんだよ、そんなもん断って。それこそその後何されるか分かったもんじゃねェぞ」
コルテまでの道中、車内はここ数日に起きた出来事の話題で持ちきりだった。
エネルギー価格の低落を待って、一行は二日ほどミュラシオルに滞在していた。その間各々の話せる範囲で詳細を語りあったのだが、いまだ話題が尽きることはない。
サロン・ド・コルシカの目玉としてエリオの絵画が出展されたこと。その手引きをしたシャルルのこと。サロンを主宰していた男が、エリオの記憶に出てきた傲慢な態度の男であったこと。
それからルーヴル。海を越えて発電所に忍び込み、そこで見聞きした様々なこと。
神妙な面持ちで指輪に目線を落とすルカの横顔を、ニノンはそっとうかがい見た。殺されてしまった母のことを想っているのかもしれない。そう考えると、なんと声を掛けてよいものか分からなかった。
「しっかし、ルカのお袋さんが突きとめた事実は分からずじまいか。アイツら、なに隠してやがんだ」
相当やべェことだなきっと、とアダムは鼻息荒く腕を組んだ。ぎょっとしてニノンは思わず目を丸くする。だがルカは別段表情を変えることなく、平然と話を聞いている。
もうずっと昔のことだから、案外落ち込んだりしないのかもしれない。自分ならもっと塞ぎこんでしまう自信があるだけに――と、ニノンは昔の記憶を引っ張り出してきて思う。
ルカの母ほどではないにしろ、ニノンの母も若くして亡くなっている。
病死だった。
彼女もまた〝脱色症〟を患っていたのである。
先天性のものは女系にのみ遺伝が認められるという脱色症。その病を患った人間の寿命は、平均より短い場合が多いといわれている。
雪のように白い髪。朝焼けの空のような桃色の瞳。ニノンの記憶の中の母は、常に笑顔を絶やさない人だった。そしてその傍らでは父がいつも、母を心配そうな眼差しで見守っているのだった。
「研究所でも妙な実験がされてたしよ。なんだっけ、オート……」
「『絵画制作の自動化』だね」
耳馴染みのない単語が聞こえて、ニノンは記憶の海から頭をもたげた。フロントガラスの向こう、くねる山道から目を離さずにニコラスが助け舟を出したのだ。アダムが「そうそう、それ」と手のひらで膝を打つ。話はいつの間にか、彼らが研究所で忍び込んだ際に目にした研究内容に移っていた。
「つまり将来絵画は全部機械で作られるってことだぜ。画家も必要なくなるのかもなぁ」
どことなく他人事のように呟くアダムをちらりと見てから、ルカは小さく肩をすくめた。
「修復家もそうなっていくのかもしれない」
「の前に、まずは淘汰するんだろ。あいつらが。どうすんだよ、ルカ。取り締まりがはじまったらさ」
「淘汰か……」
ルカは上の空で答えた。アダムの問い掛けなどまるで聞こえていないような返答だ。その横顔は、何か別のことを考え込んでいるみたいにぼうっとしているのだった。
ややあって、彼の咽頭が意を決したように上下した。
「実は」
と、三文字だけ吐き出して、ルカの口はぱたっと動きを止める。不審に思ったアダムがわざわざ首を捻って後ろを覗き込んだ。
「実は?」
「……いや、なんでもない」
中途半端に会話を切り上げて、ルカは視線を窓の外に向けた。
車窓の外を流れる景色は、いつの間にかごつごつとした岩肌の壁に変わっていた。道の反対側は切り立った崖で、覗き込めば遥か下にうねる渓流が見える。
「なんだよ、気になるだろ」
と、アダムは唇を尖らせた。ルカが言葉を渋るなんてかなり珍しい。普段の彼なら迷わずすっぱり意見を口にするし、悩むくらいなら初めから口に出したりしない。
なぁなぁ、と何度かせっつかれ、ルカはようやくルームミラーの中からこちらを覗いているアダムと目を合わせた。
「もうすぐお昼だ」
「あ?」
「 腹、へってないか?」
「ああ? おう。へったどころじゃねェ。ペコペコだ」
うまく話を逸らされたとも気付かずに、アダムは自分のお腹をさすりながら唸った。
「コルテについたらまず飯にしようぜ。俺、ラザーニャにしよっかな」
「私もラザニャーがいい!」
「ラザーニャだよ」
アダムがいつにも増して饒舌なのは、彼が珍しく助手席に座っているからだった。運転を任されたニコラスは、慣れた手つきでハンドルを握り、荒削りの勾配をぐんぐん登っていく。
別れの夜だからと、昨晩は日が落ちるのを待たずしてささやかな宴会が開かれた。
食卓に並べられたベル手製の料理はどれもみな豪勢で、集まった者たちを胃袋の底から幸福にさせた。乾杯のグラスにはマロンビールやジュースだけでなく、地元のワイナリーで作られたぶどう酒なんかも注がれた。
『アダムおにいちゃんにこれ、いっこあげる』
ミュラシオルでの最後の夜だ。その日ばかりはコニファーも夜更かしを少しだけ許された。
めぼしい食事も終えて、銘々がリビングのソファやテーブルでくつろぎ始めた頃のことだ。食事中からずっとアダムにべったりだったコニファーが、唐突にポケットから何かを取り出してアダムの手のひらに乗せた。
ん、とアダムは上体を起こして手の中を覗き込む。
『貝殻?』
それは小さな二枚貝の片割れだった。全体的にラベンダーを絞って薄めたような綺麗な紫色をしている。
『きゃぷてんからもらったの、おすそ分けしてあげるね。ないしょだよ』
『ありがとな。つーか前から気になってたんだけど、きゃぷてんって誰だよ?』
『きゃぷてんは、きゃぷてんだよ』
哲学的な返答にアダムが曖昧な笑みを浮かべていると、なぜか隣でジャックが『ああ』と納得したような声をあげた。
『キャプテンはここの畑からひまわりを買い付けてたのか』
『だから、キャプテンって誰だよ』
『ウチの一員だ』
『またアガルタかよ?』
ジャックは『文句あるか』とでも言いたげにじろりとアダムを睨めつけながら、皿に盛られた骨つき鶏にかぶりついた。ダッチオーブンでこんがりと焼かれたローストチキンは今晩のメインでもある。
『彼は造船師で、今はアジャクシオに住んでいるんですよ。港街ですからね。色々と便利なんでしょう』
ジャックに代わって補足したロロは、途中まで説明したところで、ん、と首を捻った。
『といいますか、アダムさんたち泊まってたじゃないですか。キャプテンさんのホテル』
『ああ、アジャクシオのホテルね――なんだって?』
ローストチキンに伸びかけていたアダムの手が、かくっと空を切る。
『アジャクシオの、』
『ホテル・トリトン?』
ニコラスとニノンが声を揃えて叫んだ。懐かしい名前に、ルカも思わず首を伸ばしている。
『なんだお前ら、キャプテンのこと知ってるのか』
む、と顔をあげて、ジャックは意外そうに訊ねた。
『知ってるもなにも……』
ニノンは隣で同じように目を丸くするニコラスに目配せする。ニコラスは頷いて、ニノンの後に言葉を続ける。
『私たち、あそこで一ヶ月くらいお世話になったからね』
インテリアが海で統一された懐かしい風景を思い出す。日中から爆睡しているおかしなオーナーだと思ってはいたが、まさかアガルタの一員だったとは驚きだった。
思い返せばあのホテル、夜中になるとどこからかカンカンと金槌を打ち鳴らすような音が響いていた。あれは、船を造っている音だったのか。
『でもどうしてキャプテンさんがひまわりを?』
まさか船をひまわりで飾るわけではあるまい。ニノンが問えば、ジャックは食べ終えた鳥の骨を壺に放り込みながら答えてくれた。
『あいつは電動式じゃなくて、オイル式の船を作ろうとしてるんだ。で、稼働にひまわり油を使いたいらしい』
『油で船が動くの……?』
そもそもどうしてそんな船を作ろうとしてるんだろう、とニノンは首をかしげながら疑問を口にした。
『さぁな』
ジャックは興味なさげに言い捨てて、次のローストチキンに手を伸ばした。
『今度本人に会う機会があれば直接聞いてみるといい』
そのあとも宴は続いた。ちらほらと就寝する者が現れても、アダムはカヴィロやエリオと共に、空白だった時間を埋めるように酒を飲み続けた。彼らなりに積もる話もたくさんあったのだろう。
朝起きて階段を降りてみると、いい大人が三人してリビングで伸びていた。どうやらそのまま明け方近くまで語り明かしたらしい。寝不足気味の男に運転を任せるのは危険すぎると、ニコラスが代行をかって出たのだ。ルカとニノンも同意見だったので、大丈夫だと言い張るアダムの声は無視されることになった。
「コルテは山ん中の街だからさ、やっぱ猪肉だよ」
「アダムってほんと、肉、肉、肉、肉」
「男はみんな肉好きなんだよ。なぁルカ?」
「え、うん」
「えー? じゃあブロッコリは?」
「野菜なんて草じゃねェか、草! 羊かよ」
ルカに尋ねた言葉を勝手に奪い取り、アダムは苦い葉っぱでも食べたような顔をして「うえっ」と舌を出した。ヘッドシートを挟んで昼食談義に明け暮れる彼の様子を見るに、これだけ調子が良いのなら本当に問題なかったかもしれないな、とニノンは思った。
「ま、あと十分ほどで着くはずだからね。どの店に入るかはゆっくり選べばいい。コルテは旧首都だから、レストランやカフェなんて星の数ほどあるよ」
終わりのなさそうな会話を、ニコラスがそう言って締めくくった。頭の中できらきらしいカフェやパティスリーがひしめき合い、ニノンは知らず満面の笑みを浮かべる。
と、弧を描くようにぐんと車が大きくカーブした。荒削りの岩壁が視界から消え、突如、前方に巨大な鉄橋が現れた。等間隔に並ぶ柱に支えられて、橋は渓谷と道路を高いところでまたいでいる。
「わっ、おっきな橋!」
ニノンは鼻先をこすりつけるようにして窓にべったりと張りついた。
「ベッキオ橋だよ。このあたりは山が険しいからね、他にも橋はいくつか建ってるはずだけど」
へえ、とニノンは感嘆の声を漏らした。ニコラスはこうしてたまに雑学を披露してくれる。特に地理に詳しく、その土地の特産品などもよく把握していた。おそらく、サーカス団員時代に島を転々としていた時に身についた知識なのだろう。
この橋を設計した建築家は著名な人物らしく、パリのランドマークであるエッフェル塔を設計したことでも有名なのだと教えてくれた。
「たぶん、コルシカ島で一番大きな橋じゃないかしら。一日に何本か、あの上を列車が走るよ」
と、ニコラスは顎をしゃくってみせた。隣でアダムが思い出したように「あー」と声を出す。
「あの線路、確かアジャクシオからカルヴィまで繋がってるぜ。コルテで線路が二股に分かれてんじゃなかったっけ。もう一方は北の港町バスティア行きでさ。俺、移動は車ばっかりだから詳しいことはわかんねェけど」
以前より一人で島を回っていたというアダムも、実は島の地理には詳しかったりする。山間の村から出たことのなかったルカや、そもそも何も覚えていないニノンは、彼らの博識ぶりにいつも素直に感動する。
「いいなあ列車。見てみたいな」
それ以上近づけないと分かっていながらも、ニノンはぐいぐいと頬を窓に押しつける。左から右へ。ゆっくり流れる景色の中、目を細めて鉄橋の上部を観察する。
「タイミングよく通らないかな……ん?」
と、右端にぽつんと何かが見えたような気がして、ニノンは思わず目を留める。
はじめ、それは飛び出た鉄の針金のように見えた。太陽の位置が悪く、ちょうど逆光になっているためよく見えない。やがて車が橋に近付くにつれ、その突出した棒の正体が徐々に鮮明になってくる。
棒じゃない。
パリの壁でよく見かけた落書きの、針金人間に似ている。
いや――人間だ。
「ちょっとまって、鉄橋の上に人がいるよ!」
ニノンは弾かれたように鉄橋のてっぺんを指差した。
「人?」
ルカがこちらに身を寄せる。背を屈め、指の先を辿るように視線をやる。隣であっと小さく息を飲む気配がした。
「んなわけねーだろ、あそこは列車が通るんだぞ。誰がそんな危ねェこと――は!?」
素っ頓狂な声をあげるなり、アダムはダッシュボードに身を乗り出して鉄橋の上を凝視した。その慌てぶりが、橋の上にいるのが本物の人間であることを物語っている。
「なんだってあんなところに突っ立ってんだよ、危ねェな!」
アダムはサイドのハンドルを回し、窓を開けると、そのまま窓から顔を出して「おーい!」と大声で呼びかけた。が、肝心の人物がこちらの声に気がついていない。チッと舌打ちをして、アダムは殊更声を大にして叫んだ。
「おーい、何やってんだよ! 危ないぞ!」
その時、ふとルカが何かに気づいたように耳に手を当てた。窓から入り込む風に聞き耳を立てているようだった。
「音が聞こえる」
「あ? なんだって、音?」
一旦呼びかけるのをやめて、アダムはごうごうと風のうなる窓の外に耳をやった。ニノンも彼らに倣って風に耳を澄ます。
言われてみれば確かに、山道を駆けるタイヤの音に混じって異質な音が聞こえるような気がする。カタンカタンと、何かが振動するような小さな音だ。
微かだった振動音は、徐々にくっきりとした音に変わってくる。まるで、何か大きなものがこちらに近づいて来ているような……。
「列車だ」
ぽつりとルカが呟いた。
「列車が近づいてる」




