盲目の操り人形
その日の夜、サンジェルマンは乗り気しない気持ちにはっぱをかけて、ルーヴル発電所からそう遠くないレストランに赴いていた。
目線の先で灰黒い夜空を背に、エッフェル塔が黄金の杭のごとく輝いている。無数の光の粒が塔のたもとに広がっていて、それらは黄色や赤や、様々な色を放っている。
サンジェルマンはこうして煌びやかな夜の街を眺めるのが好きだった。いかに人々がエネルギーを必要としているかを、肉眼で把握できるからだ。特にこのレストランはフランス大統領御用達とあって眺望がとても良い。おかげでパリ市街をすみずみまで見渡すことができる。
「サンジェルマン伯爵」
上質なクラシック音楽に紛れて己の名を呼ぶ声が聞こえ、サンジェルマンはガラス窓の向こうの景色から目を離した。
円卓には彩り豊かな前菜が一食分だけ並べられている。その向かいで、品の良いスーツを身に纏った男が困ったように眉尻を下げた。
「やはり何か頼みましょう。せっかくの三つ星レストランだ。それに、会食と言って私だけが料理を口にするのもなんだかね。これなんかほら、とてもおいしい」
男は鮮魚のカルパッチョをぱくりとやってみせた。彼はいつもとてもうまそうに食事をする。残念ながら、その食べっぷりを見たところでサンジェルマンが興味をそそられることはない。
「お気持ちだけで、ルロワ閣下」
と、小さく首を振れば、相手の眉はまたも分かりやすくハの字になった。サンジェルマンは弁明のために言葉を続ける。
「遠慮しているわけではないですよ。何度も申し上げている通り、私は消化の良いものしか口にしないのです。出先で食事は摂らないんですよ」
「ああ、そうだったね。でも本当にいいのかな」
「お気になさらず」
ルロワ閣下はそれでもしばらく粘ったが、やがて諦めたように笑みを浮かべると、再びフォークで前菜をつつきはじめた。
「それで、話の続きはなんでしたかな。閣下」
「ああ。この前久しぶりに甥に会ったんだ。今年で十六になるかな。礼儀の正しい良い子でね」
ルロワ閣下は妹やその息子の話になると途端に顔を綻ばせる。それ自体はまあ良いのだが、問題は今がわざわざ時間を割いて設けた会食の席だという点である。
ふた月に一度開催している会食は完全にプライベートなものであり、接待としての場ではない。つまり、親しい友人同士の単なる集まりということになっている。少なくとも相手はそう思っている。したがって、部屋に二人以外の人間を入れることはないし、だからこそ彼が他愛もない話をしたがるのも分かる。
だが、サンジェルマンとしてはもっと実のある話がしたいのだ。
どうでもいい話に耳を傾けるほど暇ではないと心では思いつつ、表向きは興味深げに相槌を打つ。
「私がそれくらいの頃は、ちょうどエネルギーショックから世の中が立ち直りつつあった時期だったなあ、なんて。懐かしく思ってね」
給仕係がやって来て、空になったアペリティフのグラスを下げる。代わりに大きなワイングラスを並べ、一つにはスパークリングワインを、もう一つには水をなみなみと注ぎ込んで去っていった。
「あなたと出会ってからもう五十年も経ったなんて」
感慨深げにルロワ閣下は呟いた。口元に深く刻まれたほうれい線が、唇の動きにあわせてくっと持ち上がる。悲しいかな、過ぎゆく時間は人から確実に何かを奪っていく。
「時の流れなど、針の穴から瞬く間に流れてゆく砂粒と同じ。あっけないものですよ」
それもそうだね、と同調するように軽く笑ってから、ルロワ閣下はワイングラスを手に取った。
「今でもよく覚えているよ。エネルギーショックの混乱に乗じて血祭りにあげられそうになった私と父が、死に物狂いでコルシカ島に逃げた時のこと。そこで神の遣いのごとくあなたが現れたこと……」
気泡立つシャンパンゴールドの向こうに、遠い昔を見つめる閣下の眼差しが見える。
エネルギーショックが勃発した当時、ルロワ閣下はまだ幼く、十になろうかという年齢だった。父親は大統領を務めていた。きっと誰よりもパリを一望できる場所で、宝物のように大切に育てられたことだろう。
そんな折、ある噂が民衆の間を駆け巡った。
――世の中が急速にエネルギー不足に陥る中、フランス大統領はあろうことか身内の治療に莫大なエネルギーを使用している。
先代のフランス大統領の妻、つまり現ルロワ閣下の母はもう長いこと病に侵されていた。治療には最新技術を要し、継続して治療を行うには膨大なエネルギーが必要だった。
世間からのバッシングに耐えかねた大統領は、幼い息子を連れて地中海に浮かぶ小さな島に逃げ込んだ。
そこで手を差し伸べたのが他でもない、サンジェルマン伯爵であった。
人類を救うことができる”代替エネルギー”を携えて。
「もうすぐそこまでこの世の終わりが見えていた。コルシカ島の浜辺で青い空を見上げた時、『ああ、私はここで死ぬのだ』と思ったよ。恐怖に嗚咽が止まらなかった。一斉に向けられた暴徒の目、漠然とした死への恐怖。思い出すだけで気分が悪くなる」
あまりにも分かりやすく口元を押さえる男に、伯爵はこれ以上ない優しい声色で諭してやった。
「しかし、暴徒の野次はエネルギーショックによる精神の不安定さが生んだもの。母君の治療にエネルギーを費やしていたというのも、世間の過度な思い込みでしょう」
本当は違う。先代の大統領が多くのエネルギーを注ぎ込んで妻の命を優先したのは事実だ。
だがエネルギー問題解決に歓天喜地する世の中にかこつけて、大統領はその問題を揉み消したのだ。それだけでは飽き足らず、事実無根であると声高に訴えすらした。
世間もそうであると信じるようになったのは、おそらく大統領を介してAEPが発表されたからだろう。人々は非を責めるよりも希望に沸いたのである。
「あなた方は悪くない。被害者だ。何かを攻撃していないと恐怖に押しつぶされてしまう、そういう人間はいつの時代にも多く存在しますからね」
「あなたにそう言ってもらえると、私も心が休まる」
ルロワ閣下は頬を緩めた。まるで嫌な思い出ごと呑みくだすようにワインを一気にあおると、空になったグラスをたん、とテーブルに置いた。
「あの時は仕方なかった……皆、どうかしていたのだ。誰も責めることはできない。だが、」
ふと、閣下は言葉を切ってサンジェルマンを見つめた。
「尊ぶことはできる。世界を救ったあなたを。伯爵、あなたがいなければ今の世は存在しない」
「私は助力したに過ぎません。ほとんどが世界のリーダーであるあなたや、その前任であるお父様の功績ですよ」
心酔しきった眼差しを受けてなお、伯爵はひたすらに謙遜した。薄っぺらい言葉の裏でほくそ笑んでいることを、目の前の男は知る由もない。
――やはりこの国を選んでおいてよかった。
AEPの運用を行う拠点をどこにするかで今後の流れが大きく変わってくる。サンジェルマンは慎重に考え抜いた末に、共に歩むパートナーとしてフランスを選んだ。
エネルギーショックによる民衆のフラストレーションが国家トップのスキャンダルを呼び込む。国を追われた親子は心身ともに疲弊する。そんな時、もしも目の前に救いの手が差し伸べられたとしたら?
とりわけまだ幼い息子の方は人一倍臆病な性格で、大人に従順だった。心を掌握するのは赤子の手をひねるより容易い。
サンジェルマン伯爵がフランスを選んだもうひとつの理由。それは、この国が実質的に世襲制をとっている点だった。
フランスの国家元首は代々ルロワ家という血筋が受け継いでいる。時が来れば、この臆病な子どもは自ずと世界のリーダーになる。
やがて期は熟し、〈フランス大統領 カミーユ・ド・ルロワ〉はサンジェルマン伯爵の盲目の操り人形へと成り下がった。
「私の甥が――」
ルロワ閣下が言いかけて口を噤んだ。音もなく給仕係が入ってきて、ポタージュの器を一人分だけテーブルに運ぶ。店内は相変わらず落ち着いたクラシック音楽が流れている。
やがて給仕係が部屋から去っていくのを見届けて、ルロワ閣下は視線を元に戻した。
「私の甥が、ここ最近のエネルギー価格高騰にひどく不安感を抱いているみたいでね。我々には伯爵がついているから大丈夫だと宥めておいたのだが」
言葉とは裏腹に、怯える目線は彼が半信半疑であることを証明している。
サンジェルマンはふっとため息をついた。
「あの時代を生きていないのに危機感を抱けるなんてたいしたものです。だからぜひ、閣下はその慎重さを褒めてあげてください」
慎重というより、臆病者だ。臆病者で誰かに手を引かれていないと落ち着かない人間や、軽石のように中身のない人間ほど心を掌握するのは容易くなる。だからそういう人間は、サンジェルマンにとっては大歓迎だった。
問題は慎重すぎる人間だ。
慎重とは立ち止まること。立ち止まれば疑問を抱きやすくなる。人は疑問の答えを探そうとする本能がある。そうやって無遠慮に歩き回り、綺麗に均した大地を踏み荒らされるのは困るのだ。
だから、きちんと管理しなければならない。
「それからエネルギー問題に関してですが。安心してください……と胸をはって言いたいところなのですが」
熱心に耳を傾けていた閣下の顔が途端に曇る。
「ここのところ還元量が減ってきているのは確かなことです」
「ではやはり、AEP還元装置になにか問題が……?」
その言葉運びにサンジェルマンは違和感を覚えた。装置やエネルギーに関する小難しい話題は不得手な男だ。今まで自らその問題に切り込んでくることもなければ、こんなに椅子から腰を浮かして迫ってきたこともない。
だとしたら、今問われていることは全てルロワ閣下の甥が口にしたことか、もしくは影響されての発言なのかもしれない。
閣下の甥は臆病というよりは慎重で、いらぬところに目がいくようなタイプの人間なのか?
――と、そこまで考えて、サンジェルマンは首をふった。ルロワ閣下には娘がいる。次に国家元首になるのはその娘だ。それに、閣下の妹とその息子は既にルロワ一族から除名されている。少々目の鋭い子どもだとしてもさほど問題はない。
サンジェルマンは手のひらを掲げ、椅子に腰掛けるよう閣下を諭した。
「対策は万全です。研究員も日夜開発に勤しんでおりますし、ひと月ほど前に施行した法案のおかげもあって、有力な絵画も着々と集まりつつあります。エネルギー価格の高騰は一時的なもので、来週あたりには通常値に戻るはずです」
「そうか。それならいいんだ」
「どうしました? 珍しいですね。閣下がこれほどまでに気を揉むだなんて」
「いや、すまない。あなたを疑うような真似をした」
自らの言動を恥じるように、ルロワ閣下は俯きながら詫びた。
「AEP還元装置は機械です。何かあってもメンテナンスすれば元どおりですから、何も心配することはありません。問題があるとすればそれは、人間が生みだすものの方でしょう」
「……と、いうと?」
ぱっと顔をあげて閣下は訊ねた。口を半開きにしたまま、まったく見当もつかないという顔をしている。
「絵画の精度ですよ。原料の製造には人の心が関わってくる。具体的に言えば画家や修復家ですがね。最近どうも精度にバラつきがあるようなのです。――そこで閣下にひとつ、お願いしたいことが」
サンジェルマンはテーブルの上で両手を握りこんだ。ちらりと目の前に座る男に視線をやれば、ルロワ閣下は主人を前に瞳を輝かせる忠犬のような顔をして「なんだい」と続きを促した。
「絵画の質を向上させる為に、画家と修復家に基準を設けたいのです。例えば国家資格にするとかですね。そうすれば今よりもっとエネルギー還元率は安定するはずです。いかがでしょう。そのようにはたらきかけることは……」
「もちろん、尽力しよう。安定的なエネルギー供給の為なら皆喜んで賛同するに違いない。そうだな、まずは――」
それからの閣下は酒の力もあってか、ことのほか饒舌だった。甥の疑問に触発されてむくむくと膨らんだ不安が、一気に霧散したからというのもあるだろう。
しかも、喋る呑むだけでなくよく食べた。次々と運ばれてくる料理をぺろりと平らげる姿は見ているだけで胃がむかつきそうになる。サンジェルマンはさり気なく窓の外に視線を移した。
パリの夜景はさながら見下ろす星空だ。
この街を掌握すると、あたかも世界中のすべてを、そして宇宙までをも手に入れたような気分になる。だが同時に、心の中心はいつも空洞で、満たされない気持ちに付き纏われている。
どうすればその穴が塞がれるのか、サンジェルマン自身にもそれだけは分からない。
だから募る苛立ちを振り払うように無理やり世界に目を向けるのだ。もっとうまく統率し、もっと効率的に人類の未来を確保する。そうすれば今度こそ心はすべて満ち足りて、慢性的な渇望感などなくなるに違いない。
「サンジェルマン伯爵、って名前の由来はね。都市伝説なんだ」
もの思いに耽っていたサンジェルマンはふと視線を前方に戻した。
赤ら顔の男は気持ち良さげにまぶたを伏せている。そして「こんな風に知れ渡るならもっとちゃんと考えたのに」とも言った。
〈サンジェルマン伯爵〉という名はルロワ閣下が幼い頃に授けてくれたものだ。名乗るほどの名はないと言えば、律儀にもうんうんと悩み考えてくれたのだった。
「都市伝説――時空の旅人とも称される、不老不死の男の話ですか」
サンジェルマン伯爵。年齢不詳。あらゆる学問に精通し、博識で多才、歴史的な事件に幾度となく立ちあい、その姿はヨーロッパじゅうで目撃されているという。
不可解なのは、どの時代においても彼の容姿が若々しいままであるという点だ。数十年の月日を経て再びサンジェルマン伯爵を見かけた人々は皆、口を揃えてこう証言する。
「あなたは昔の姿のまま何ひとつ変わっていない。まるで不老不死のようだ」と。
「あの時は本当にそうだとすら思ったよ。現に今だって、相当な年齢のはずなのにあの頃から全くと言っていいほど老いていない。まさか本当に……?」
「飲みすぎですよ、閣下」
好奇心の塊のような視線を微笑みで打ち返すと、ルロワ閣下は陽気な声で笑った。
「冗談だ。ただ、あなたはあまりにも秘密が多い。私はあなたのことをほとんど何も知らないんだ。つまりね、それが少しだけ悔しくて」
大の大人が子どものようなことを言う。
「どこで生まれ、どんな幼少時代を送ったのか。感動した出来事は? 驚いた事件は? なんでもいい。古くからの友人のように語り合えたらさぞや楽しいんだろう――なんて、思うこともあるんだよ」
閣下の言葉はだんだん尻すぼみになっていき、最後はごまかすようなぼそぼそとした声になった。そして言い終わると同時にグラスをあおり、残っていた雨溜まりほどのワインをぐいっと喉の奥に流し込んだ。
「別に隠しているわけではないですよ。ただお話しするほどではないだろうと思いましてね」
「そんなことは」
「いえ、取るに足らない話ばかりですから。ああ――名前」
最後の一皿もとうに下げられて、そろそろ席を立とうという頃合いだった。「え?」と口を開け、ルロワ閣下は口元を拭ったナプキンをテーブルに置く。
「私の昔の名前。〈ベルナール・ド・ボニファシオ〉と言うんです」
赤ら顔のまま、閣下はふわふわとした声で「ベルナール」と繰り返した。聞こえてはいるのだろうが、もう会話のほとんどは脳まで届いていないようだった。
「そう、コルシカ島の一大財閥でした。まぁ、もう滅びた一族ですがね……。今日はこれくらいで。閣下。例の件、よろしくお願いしますよ」
気前よく返事をする男の肩を、サンジェルマンはしっかりと二度叩いた。




