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コルシカの修復家  作者: さかな
9章 盤石のルーヴル、あるいは偽りの楽園

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第91話 VSレンブラント(2)

side:アダム&ニコラス

「あんた、それはコニファーじゃないよ! オイルの臭いで頭がおかしくなっちまったのかい!?」

 顔を青くしてよろよろと後ずさるアダムに立ち代わり、今度はニコラスがエリオを揺さぶった。

「ああ、ベル。今日のお昼ごはんを持ってきてくれたんだね。いつもありがとう」


 ニコラスは愕然として掴んでいた肩から手を離した。幻想を見ているのか。嬉しそうに笑うエリオの表情には、一点の曇りも見受けられない。


「エリオ、どうしちゃったんだよ……なんでそんな幸せそうに笑ってんだよ」


 アダムの口から思わず本音がこぼれ落ちる。傷心した様子もほとんどなく、彼は笑っている。本来なら喜ぶべきことなのだろう。けれど無邪気に喜ぶ瞳には、現実が何も映っていないのだ。つまり――と、その先を考えようとして、そら恐ろしさにアダムの肌はぞわぞわと粟立った。


「しあわせ」


 口の中で小さく反復した後、エリオはぼんやりとした視線を自身の手のひらに落とした。指先には様々な色の絵の具がこびりついている。その手は農夫のそれではない。彼が捨てたはずの、画家の手だった。


「そうだな。幸せだよ。だってここには何もしがらみがないから。妬みや、卑しさや、世の中での価値や、そういった全てのものから解放された場所なんだ」


 壁をぐるりと埋め尽くす大量のキャンバスの向こうで、黄金色のひまわり畑が揺れている。目に鮮やかな青色の夏空に、耳をすませば蝉時雨が響き渡っているような気がした。


「大事な人たちがそばにいる。大好きな景色もここにある。そして俺は何にも臆することなく自由に絵を描いていられるんだ。これ以上の幸せはないよ」


 ここは花畑のただなか。

 煩わしいものなど一切ない楽園。

 愛する人たちと共に、エリオは永遠に終わらない夏の中を生きているのだ。


「そんなの、幸せでもなんでもねェよ」

 唸るように言って、アダムはエリオの胸ぐらに掴みかかった。

「わかってんだろ、ここには誰もいないって。ちゃんと現実見ろよ! コニファーはずっとあの村で父親が帰ってくるのを待ってんだぞ!」

「ちょっと、アダムちゃん」

 止めようとするニコラスの手を振り払い、アダムは相手の息遣いが聞こえるぐらいまでぐっと顔を近づけた。


「エリオが脅されてここにいるんだって、俺たちはちゃんと知ってる。それがコニファーを守るためだってことも。だけどな、お前の頭ん中にもしも、ちょっとでも()()()()()()って気持ちがあるんなら――俺はぶん殴ってでもお前をここから連れて帰るからな!」


 アダムは鼻息荒く言いきった。しかし当の本人の心はさざなみひとつ立ってやしない。あたたかな窓辺でゆったりと椅子に腰掛けているような、まるで別の世界にいるかのような顔をしているのだ。

 アダムの目の奥でカッと何かが爆ぜた。身体中を駆け巡る怒りにまかせて、掴んだままの胸ぐらをいっとう激しく揺さぶる。


「コニファーの願いはてめーがカッコつけていなくなることなんかじゃねェ! またあの村に戻ってきてくれることだ、親がそばにいてくれることだ!」

「……コニファー?」

「いい加減目ェ覚ませ! お前は魔法使いなんだろ!?」

 ぴく、とエリオの眉先が震えた。

「その筆で魔法をかけろよ、あの時路地裏で俺にしたみたいに! 悲しむ人の顔を笑顔に変えてみせるんだろ!? コニファーに笑顔を取り戻してやれよ、お前にしかできねェんだよ、エリオ!」

「笑顔、に……俺は…………」


 言葉が途切れ、エリオはぱちっと目を瞬いた。くすんでいた瞳に一筋の光が宿る。死んでいた表情が息を吹き返し、ついに視線が通じた。

 と、あまりの近さにだろうか、エリオは「うわっ」と一声発し、アダムの体を思いきり押し退けた。


「うげっ」

 蛙がひしゃげたような声を出して、アダムは床に転げ落ちた。

「アダムちゃん、大丈夫?」

 心配というよりも気の毒そうにニコラスが声をかける。アダムは膝を強く打ち、床の上で身悶えていた。


「アダム……え、アダム? あのアダムか?」


 懐かしさと驚きと、他にも様々な感情がない交ぜになったような声で、エリオは目の前にいる少年の名を何度も呼んで確かめた。


「エリオ! 正気に戻ったのか!」


 アダムは飛び上がって喜んだ。その声があまりにも大きかったので、エリオは思わず頭を抱えてよろけた。寒換気もろくにせず絵を描き続けていたからひどい頭痛を催したのだろう。

 こめかみを押さえてズキズキとした痛みをやり過ごすと、エリオは今一度周囲をぐるりと見渡した。


「ここは……?」

 その目は四方八方を取り囲む、おびただしい量の絵画に向けられていた。

「この絵は、全部俺が描いたのか?」

「え、覚えてねェのか?」

 エリオは曖昧に頷いた。

「今はまだ、寝起きの時みたいに頭がボーッとしてるんだ。きっと時間が経てば思い出せる気がするけど――ところで、あなたは誰ですか?」


 動きやすいようにとジャケットを脱いでいる最中だったニコラスに、エリオの不思議そうな視線が投げかけられる。

 ニコラスは脱ぎきったジャケットを畳んで腕にかけ、「説明はあとでたっぷりしてやるよ」と手招きした。

「とにかく今はここを離れよう。追っ手に見つかる前にね」

「追っ手?」


 突然、背後でバタンと扉の開く音がした。


「残念。もう見つかってるんだなーこれが」


 三人は弾かれたように声のした方を振り返った。

 扉に半身をもたれかけさせた状態で、白衣の男が気怠げに入り口を塞いでいた。痣ほどに色濃い隈の上で、白目の多い目玉が確かめるようにこちらを向いた。


「ふぅん。ドブネズミが二匹も入り込んでたわけね。しかもあんた」と、男は枝のような人差し指をニコラスに差し向ける。「うちのシュリー翼長に超似てるじゃん。ウケるね。どんなワザ使ってんの?」


 こりゃダーナが騙されるのも仕方ないか。などとぶつぶつ独り言を呟きながら、男はグキッと首を鳴らした。


「お前は、シモン・レンブラント……!」


 震える声で男の名を口にしたのはエリオだった。アダムは横目に彼を見てぎょっとした。血をすべて抜かれたような、ひどく青白い顔をしていたのだ。漠然としていた記憶が今、はっきりと戻ってきたのかもしれない。

 首を曲げたままの状態で、男はびっくりしたように目を丸くした。


「あれ、催眠(ヘミシンク)解けちゃったの? けっこう強めにかけたつもりだったんだけどなー」

 レンブラントはさも残念そうに肩をすくめた。

「催眠ってなんだよ、お前エリオになにしたんだよ!」

 勢い余ってアダムは前に一歩、力強く足を踏み込む。

「なにって。ちょこっと電波あてて脳波をいじくっただけ」

「だから、電波ってなんだよ!」

 向けられた熱気を鬱陶しそうな目で払いのけ、レンブラントはゆっくりと扉から体を離した。ポケットに両手を突っ込み、靴底をずって少しずつ歩んでくる。


「画伯には普段通りに絵を描いてもらわなきゃなんないのに、その人ぜんぜん乗り気じゃないんだもん。欲しいデータも取れないし。だからここをちょーっといじってさ、普段通りの生活に浸ってもらうことにしたんだよ。おかげさまでコンディションが最高の状態の画伯の思考データをたくさん得られたよ。はい、説明はこんな感じでいいかな、不良少年?」


 鼻から息を吐き出して、レンブラントは見下すように笑った。実際見下していたのだろう。説明したって理解できないだろと、弓なりに曲がる目がそう言っている。


「いいわけねーだろ。お前がなんの研究してるか知んねェけどな、とにかくエリオは返してもらうぞ」

 アダムはふざけた態度の男を睨みつけた。

 すると、何がおかしいのか、ぶっとレンブラントは大げさに吹き出した。

「返すって。まるで俺らが画伯をかっさらったみたいな言い方はやめてくれよ」

「事実だろが」

「はぁ?」

 今度は小馬鹿にしたように首をかしげる。

「画伯は自ら志願して研究に協力してくれたわけ。まさか、ネズミちゃんたちの目的はその人をかっさらうことなの?」


 ポケットから取り出した小ぶりのタブレットケースからざかざかと大量の白い粒を手にとって、レンブラントは一気にそれを頬張った。

 白々しい嘘だ。協力せざるを得ない状況に持っていっただけのくせに――ニノンの力を介して見た映像を思い出しながら、アダムは声に出さずに悪態をついた。胸の内でぐつぐつと怒りが煮詰まっていく。


「言っとくけどな、俺たちはお前らがどういう根回ししてエリオを脅したのか、全部把握してんだぜ」


 依然として男はもぐもぐと口を動かし続けたままだ。口からでまかせを言っているとでも思っているのだろう。それがアダムをさらに苛立たせる。


「はったりじゃねェぞ。なんなら今ここでお前らの汚いやり方全部、説明してやろうか?」

「ほぉ……随分な自信だね。お前みたいなバカ正直なやつ、嫌いじゃないよ」


 ガリガリとタブレットの噛み砕かれる音が響く。やがて、ごくんと喉を鳴らして口の中のものをすべて飲み下すと、レンブラントはぺろりと舌で唇を舐めた。


「知ってるか? AEPの還元量が年々減ってるって事実」

「あ?」

 いきなり何を言い出すのかと、三人は一様に顔をしかめた。

「原因は不明。ただひとつだけ言えるのは、様々なアプローチをしてその減少を止めなきゃなんないってことよ。昔みたいにエネルギーが枯渇するの、ヤでしょ。俺たちは今そういうことをやってんのよ。ま、のうのうと暮らすしがない一般人にゃ関係ない話だろうけどね」


 あからさまな当て擦りに、アダムは眉根を寄せる。


「で、俺は考えたわけ。『資源のクオリティ』が落ちてきてるのも理由のひとつなんじゃないかってね」


 もちろん他にも要因の候補はあるけど、と付け足しながら、レンブラントはそばに立てかけられていたキャンバスをひとつ抱え上げた。


「人間にはムラがある。そのムラが絵画の質に波を起こす。だったら作り手の能力を均質化――つまり機械化(オートメーション)すればいい。思考パターンを解析してさ、人間の代わりにAIに絵を描かせるんだ。でも一定の出力じゃ供給がおっつかないから、最高の出力で絵画を作り続けなきゃいけないわけ。AIの基準として選ばれるのが誰かは……必然的に決まってくるでしょ?」


 キャンバスの上で盛り上がる黄色い絵の具から目を離し、レンブラントは試すような目線を三人に向けた。


「つまり、アンタの想定した成果に行き着くためにはどうしてもエリオの力が必要だったってことだね。本人の同意がなくても、世の中を納得させられる結果が得られればいいって、そういうことだろ?」


 ニコラスは語気を強めて言った。ニコラスもアダムも、ミュラシオルに残された絵画を伝ってエリオの過去を追体験した。その時に感じた身を削られるような選択や、度重なる失望や孤独、どれほどの覚悟を持って画家という人生を捨てたのか、またその決意も虚しくキャンバスの前に舞い戻ることとなった彼の境地――すべての感情を生々しく思い出せるからこそ、それらの原因を作り出したルーヴルに鋭い視線を向けたくなってしまうのだ。

 対してレンブラントは、ハッと吐き捨てるように笑うと、急に真面目な顔になった。


「おたくらが怒る意味がわからないって言ってんの。俺の研究が完成すれば、近い将来絵画はすべて機械で作れるようになる。しかもエネルギーの供給は今以上に安定する。そんな研究に関われたんだ、名誉なことだろ? 俺なら泣いて喜ぶね!」


 わっと両手を広げ、レンブラントは天を仰ぎ見た。四方のキャンバスには彼を賞賛するように青空が広がっている。歯嚙みするしかないアダムとニコラスの隣で、エリオだけは青い顔で浅く息をしていた。


「絵画がすべて機械で作れるだって? じゃあ今活動している画家たちは――」

「必要なくなるねぇ。だってそんな非効率なもん、残してたってしょうがないでしょーが」


 エリオは今度こそ閉口した。瞳に依然として反抗と後悔の色を残したまま。

 その脳内ではきっと、道を隔ててしまったかつての友の顔や、別れた妻の姿が映し出されているのだろう。そうアダムは思った。彼らの行く末を案じ、またそんな計画に加担してしまった自らを呪っているのかもしれない。エリオ・グランヴィルという男は、どこまでも心根の優しい人間なのだ。

 そんな人が悩み苦しむ姿を見るのは、アダムにとってはたまらなく辛いものだった。


「たかだか資源を作り出すのに、そもそも人の手が必要だって時点で時代遅れだと思うね、俺は」

 エリオがぎゅっと唇を噛み締めるのが見えた。アダムはぐっと握りこんだ拳で、青白く不健康な鼻面を殴り飛ばしたい衝動に駆られる。男はおかまいなしにぺらぺらとしゃべり続ける。

「良かったじゃないの。おたくの名は歴史の一ページにしっかりと刻まれる。世の中から無駄を排除した男、ってね」

「……だまれよ!」


 衝撃がビリビリと空気を震わせる。

 アダムが吠えた。我慢の限界はとっくに超えていた。レンブラントは口を薄く開けたままこちらに目を向ける。驚きというより、好奇の眼差しと言った方が近い。


「さっきからごちゃごちゃ言いやがって。良かった、じゃねんだよ。相手が嫌がってんだから”良くねェこと”に決まってんだろ! そんなこともわかんねェのかよ、バーカ!」

「うわあ、強引だねー。理屈もへったくれもないじゃん」

「お前、大事なモン欠けてるぜ」

「言ってくれるじゃないの。おたくらよりは欠けてないと思うけどね」

「ふん……行こうぜ」


 アダムはエリオの腕を引っ掴むと、ぶつかる勢いでレンブラントの傍を通り過ぎた。

「ちょっと待ちなって、アダムちゃん!」

 慌ててニコラスも二人の背中を追う。


 一節おいて、背後から、押し殺したような癪に触る笑い声が聞こえてきた。


「『アダム』ってもしかして、この前サロンに出展して会場を賑わしたあの()()()画家か?」


 ぴた、とアダムの足が止まる。


「噂はこっちにまで届いてるんだよね。威勢のいい若いのがいたって。あーこりゃ確かに。クク、噂通りの威勢のよさだね」


 背中の向こうから聞こえる嘲笑に、ニコラスとエリオは冷や汗を垂らす。誰も何も言い返さないのを良いことに、男のいたぶりはさらに続く。


「絵を資源としてではなく、趣味や娯楽の対象と勘違いしてるんだって? そういう規律を乱す行為は誰のためにもならないのにさぁ。まるで我慢を知らない野生動物だな。しかもお仲間も揃ってバカだったんだってね」


 辛抱たまらず口を開きかけたニコラスを、スッと伸びた手が制する。アダムはゆっくりと振り返り、張りつめた顔で男を睨めつけた。


「好きなだけ笑えよ。俺のこと、惨めだ哀れだって笑えばいい。んなモン痛くも痒くもねんだよ。だけど今後もし、お前らが俺たちの仲間を傷つけてみろ――そん時は許さねェ。お前らの悪事を全部バラしてやるからな」


 最後に相手の顔をもう一度強く睨みつけて、アダムはくるりと背を向けた。これ以上言い合うつもりはない。空気を掻っ切るように肩を動かし、足を突き出し、出口へと向かう。もはや同じ空気さえ吸っていたくなかった。


「バカはお前だよ」

 遠く後ろの方で、微かに男が呟いた。


「どこの馬とも知れないヤツの意見なんざ誰が聞くかよ。世の中は結局見かけだけで人を判断する。どれだけ真実を語ろうと、お前の話を誰かが信じる可能性は0%だ。レッテル持ちの人間はな、スタートラインにすら立てない」

 アダムは何も言い返さず、その言葉に背を向け続ける。

「なぁ、アダム・ルソー。全身に貼られたレッテルは一生剥がれない。お前は始まる前から敗者なんだよ。わかったらほら、とっとと画伯を置いてけよ」


 冷水のように浴びせられる罵倒。その冷や水に心まで濡らされないようにと、人知れず力のこもっていた握りこぶしが、さっと飛び出したスーツの陰に隠れて見えなくなった。ダニエラの顔をしたままのニコラスが、けれどその瞳には怒りの炎を携えて、アダムを庇うように立ち阻んだのだ。


「なんだよ、偽物」


 明らかな苛立ちを声に含ませ、レンブラントは問うた。

 アダムは驚いてニコラスの大きな背中を凝視した。言い返したところで意味がないことはわかっているはずだ。何か確信があるのか、それともただ怒りに身を任せているだけか。分からないが、ニコラスはどこか落ち着き払った態度でじっと相手を見つめ続けていた。



――おいオカマ。

 失礼極まりない言葉で、ふいにニコラスは引き止められた。腕を組み生意気な目でこちらを見上げてくるのはジャック・アンデルセンだ。二組に別れてルーヴルとオルセーに侵入する、直前のことだった。


『もしものことがあった時に使える文言を、お前にだけ伝えておく』


 やけに声を潜めるものだから、ニコラスは思わずあたりを窺った。侵入前にと化粧室へ行ったきりニノンもアダムもまだ帰ってきておらず、二人の姿は見えない。


『どうして私に?』

『あのアホはカッとなったらすぐゲロッといくだろう。お前の方が信用できるからな。いいか、どうしようもなくなった時にだけ使うんだぞ。もしも研究所長に見つかってしまったら、その時はあいつの目を見て、こう言え――――』



「アンタに言伝(ことづて)を預かってるよ」

「は?」

 思わぬ申し出にレンブラントは眉をひそめた。

「『元気でやってるか』と――ジャック・アンデルセンからね」


 その瞬間、男の顔からさっと表情が消えた。

 アダムとエリオはなんのことだか分からずに、ひたすら困惑の表情を浮かべて両者の顔を見比べた。


「光栄な地位に就いてるんですもの。元気でしょうね」


 そこまで言ってニコラスは口角をぐっと吊り上げた。ジャックから教えられた言葉はこれだけだったので、他に伝えることもなかったのである。悟られてはいけないという気持ちが、うまい具合に挑戦的な色を作り出す。

 確かめるような視線が二度ほどニコラスに飛んだ。じれったい沈黙が続く。油の臭いが濃度を増してあたりを漂い始めたところでやっと、レンブラントは観念したように溜め息を吐いた。


「なんだよ。おたくら、ジャックの知り合いなの?」

 態度を一変させ、「こりゃ敵わねーな」と体を翻した。

「ま、もう一通りの研究は終わったし、その人連れて帰るなりなんなりすれば? どうせどっかにチクる気もないだろうし」


 それからレンブラントは「ひどいなぁ」とか「嘘つきだなぁ」などとぶつぶつひとりごちながら頭を掻きむしった。

 あまりの変貌ぶりに驚いたアダムとエリオは、どういうことだと視線で催促する。ニコラスだってジャックの言葉をそのまま口にしただけで、詳しいことを知っているわけではない。けれど二人は、ニコラスが何か彼のとんでもない弱みを握ったのだと思った。途端に心強さが背中を押す。三人は互いに目配せし、頷きあった。何よりも先決なのはここを早く脱することだ。


「ジャックにさ、伝えといてくれよ」


 猫背気味の背をさらに丸めていたレンブラントが、突然声をあげた。三人はそれぞれ注意深く男の背に視線をやる。

 レンブラントは首だけをごりっと回して、不気味な笑顔をこちらに向けた。


「モグラの巣穴を潰すぐらいわけないんだぜ。まさか忘れたわけじゃないよなあ――おい、どーせどっかで聞いてんだろ?」


 最後は見えない敵に向かって叫ぶように、空中を睨みつけながら言った。

 今まで静寂を貫いていたイヤフォンの向こうの空気がざわついたのを、アダムは確かに感じ取った。


「ああそれから……ロロにもね。よろしく言っといてよ。聞いてるかもしんないけど」


 ハハ、と乾いた笑いをもらしながら、レンブラントは顔の向きを元に戻した。耳元で、誰のものかわからないが、ごくりと唾を飲み込む音が聞こえたような気がした。

 まったく話が読めない。彼は何の話をしているのか。アダムは思わず顔をしかめて問いただした。


「お前、ロロと一体どういう関係なんだよ」

「おたくと話すことはもうないよ」

「おい――」

「いいから、さっさと出てってくんないかな」


 薄汚れた白衣の向こうに確かな苛立ちが揺らめいていた。なにかゾッとしたものを感じ、三人はそれ以上口出しするのをやめた。そうして一歩、二歩と後ずさり、潔くアトリエを後にしたのだった。




 再び静けさを取り戻したひまわりだらけの部屋。時計もないから秒針の音すら存在しない。オイルの混ざった臭いが部屋じゅうに沈殿している。窓から射す光はオレンジ色で、気がつけばいつの間にか夕暮れ時になっていた。

 その真ん中で、ぽつりと佇む白衣の男。

 鮮やかな夏の青空も、輝く太陽の花も、男の目には今や腐りきった白黒の景色としてしか映らない。


 世界最高峰機関、ルーヴル。しかもその研究所のトップという地位を意のままにしたというのに、男はまるで自分が深く暗い地下の穴に閉じ込められたままであるような感覚に囚われていた。


 突然、咆哮をあげて、男はそばにあった丸椅子を蹴飛ばした。それから壁をぐるりと囲むキャンバスのひとつを鷲掴むと、己の膝に叩きつけて破り壊した。さらに唸り声をあげ、次から次へとキャンバスをビリビリに破っていく。最後に、男は描きかけの絵画をイーゼルごとなぎ倒した。


「目障りなウジ虫どもが……邪魔ばかりしやがって」


 地を這うような声でボソリと呟き、男はぐいっと口元を拭った。キャンバスを破いたときに付着したのであろう青い絵の具が口元を汚す。


「いつか絶対、ぶち壊してやる」


 男の顔がぐにゃりと歪む。唇の両端が引き攣れたように持ち上がっている。笑っているというのに、酷く恐ろしい形相だった。

 壊れたキャンバスに埋もれた部屋からは、壊れた玩具のような奇妙な笑い声がいつまでも響いていた。

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