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コルシカの修復家  作者: さかな
9章 盤石のルーヴル、あるいは偽りの楽園

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第90話 VSレンブラント(1)

side:アダム&ニコラス

『道路を挟んだ研究所の向かいに、今はもう使われていない博物館の跡地があるの』


 数年前の記憶からではあるが、ウィンはできうる限りの情報を提供した。廃墟のようなたたずまいに、外壁に垂れたボロボロのタペストリー。外観の特徴は一致しているという。


「向かいか。近いな」

「すぐにでも向かおう」


 頷くや否や今にも部屋を飛び出していきそうな二人を、ウィンは慌てて引き止める。

『間違ってたら引き返せないから、念のためもう一度外観の詳細な情報を教えてくれる?』

「あ? ああ、そっか、そうだよな。オーケーオーケー」


 アダムは振り上げていた左足と右手をひっこめた。急いでモニターに向き直ると、今度は『大変です!』とロロの裏返った声が二人の耳を突き刺した。


「大声出すなよロロ。耳がいてェだろ」

 アダムは眉間にぎゅっとしわを寄せてうめいた。

『すみません――じゃなくて、大変なんですってば!』

「あ?」

『侵入してるのがバレちゃったんですよ! 研究所長はおそらく今その部屋に向かってるはずです!』

「侵入が」

「バレた?」

 現実が脳に追いつく前に、二人は口先だけで言葉を繰り返した。

『綺麗にハモってないで、とにかく逃げてください!』


 アダムとニコラスはゆっくりと、示し合わせたようにお互いの顔を見た。



――エレベーターの前までやって来たレンブラントは、△のボタンを叩くように押した。指先でパネルがパッと光る。

 (くま)のひどい目がちらりと視線を向けた先では、「5」の数字が疑いようもなく堂々と点灯している。だんだんと光る数字が小さくなっていくのを見つめながら、男は縦筋のはいった親指の爪をがりっとかじった。



「おいおいおい、しばらく戻ってこないんじゃなかったのかよ」

 アダムは情けない声で嘆いた。これ以上小さくならないほど縮み上がった肝は、冷や汗までかいている。

『本物のダニエラさんのところに連絡がいっちゃったんですよ!』

「想定外だね」

「だね、じゃねーよ、大ピンチだぞ俺たち!」


 二人は躍起になって廃墟の鍵を探しまわった。デスクの引き出しを片っ端からめちゃくちゃに開けていくが、中はものの見事に(から)ばかりである。

 アダムは最後に一番下の引き出しを力任せにガチャガチャやった。鍵がかかっている。小さく舌打ちをして、アダムはポケットから歪な形の針金を取り出した。指の腹でそれを擦りあげ、まっすぐになったところですかさず鍵穴に突っ込んだ。


 開錠に奮闘するアダムの脇を抜けて、ニコラスは窓辺に駆け寄った。ブラインドを急いで巻きあげ、窓を開け放つ。たちまち風がビュオッと音を立てて部屋の中に吹き込んだ。

 目線の先でセーヌ川が光を受けて輝いている。ここは五階。ニコラスは窓から体を突き出して真下を覗き込んだ。歩道を歩く人の頭が、地面を這うアリのように小さくうごめいている。

 尻の底がきゅうとすぼまる感覚を振り払うように、ニコラスは顔を横にそらした。窓のすぐ隣で大きな時計盤のふちが弧を描いている。その向こうに小さな足場が見えた。足場は細い階段となって、下の階の非常扉へと続いている。


 扉が左右に開くとともに、レンブラントはさっとエレベーターに乗り込んだ。迷わず五階のボタンを押す。

 扉が閉まり、頭上からかすかにワイヤロープの擦れる音がして、エレベーターは上昇を始めた。


『鍵がなければ別のアプローチで侵入しましょう。時間がないわ、とにかく逃げなきゃ』

 イヤフォン越しでもウィンの焦りはじゅうぶんなくらい伝わってくる。

「わかってる、けど、もうちょいで……開いた!」

 勢いよく開けた引き出しの中には大小様々な鍵が無数に散らばっていた。アダムの表情が歓喜から一瞬でぎょっとしたものに変わる。


――2、3、4……。


「アダムちゃん、はやく!」

「わ、わかってるけど……!」

 ニコラスが窓に手を掛けたまま急かす。鍵はある。が、どれが本物か分からない。

『もうダメ、逃げて!』

 耳元でウィンが叫ぶ。汗を垂らしてまごついていたアダムは、えいやっと引き出しの中の鍵をひとつ残らず掴み取り、ポケットに乱暴に突っ込んだ。


――5。


 チン、と音が鳴りエレベーターの扉が開いた。廊下には目もくれず、レンブラントは大股で自室の扉に近付いた。ガチャリ、と扉が開かれる。


 デスクに積まれた紙の束。暗く影を落としたままのパソコンのモニター。逆さまの時を刻む時計盤。

 レンブラントは左手を首の後ろに回して、コキコキ、と骨を鳴らした。

 傾きはじめた太陽の光がやわらかく射し込むこの部屋は、退室前となんら変わっていないように見える。


 気怠げにあたりを見回していた男の目は、ふとかすかな違和感を覚えてある一点に留まった。本棚のちょうど真ん中のあたりだ。靴底を擦るようにして本棚に近付けば、違和感の正体ははっきりとした形でそこに残されていた。

 ところどころ、本の背表紙が逆さまになっている。

 レンブラントは弾かれたように本棚から本を引き抜いて、次々と背後に投げ捨てた。それから棚の奥に隠されていたスイッチを押し、現れた扉の向こうに飛び込んだ。


 ビョオビョオと、音を立てて強い風が部屋の中に吹き込んでいた。

 締め切ってあったはずの窓が開け放たれている。


 レンブラントは大股で窓に近づき、そこから体を突き出して下を覗き込んだ。バサバサと風にあおられるツヤのない金髪を鬱陶しげに手で押さえ、人が隠れられそうな場所をすばやく目で探す。

 壁を這う人影はない。雨どい用のガーゴイルにもぶら下がっていない。時計盤の飾りにも。それからレンブラントは遥か下に広がる地面を見やって、さすがにそれはないなと飛び降りた可能性に斜線を引いた。ふと、視線が時計盤の下、四階へと続く非常階段に吸い寄せられる。


「害虫ねぇ」


 呟いた声は、苛立ちを押し殺したような低いものだった。レンブラントは白衣を翻し部屋を出て行こうとした。が、ふと思い直してデスクまで引き返した。

 胸騒ぎがしたのだ。モニターに映る映像に変わりはない。かの一室で、男はもくもくとキャンバスに絵筆を運んでいる。レンブラントが安堵したのも束の間のこと、またしても視界の隅に違和感を見つける。

 施錠してあったはずの一番下の引き出しがわずかに開いているのだ。

 男の目が、疑うように細くなる。

 引き出しを開ける。

 中身は空だった。


「こりゃ害虫じゃなくて、ドブネズミだな」


 口元に浮かぶ微笑とは裏腹に、レンブラントの眉間には深くしわが刻まれていた。



 *



 オルセーを飛び出してすぐに、二人は目の前を走る道路のふちに二列のレンガ飾りを見つけた。そこから視線を上げれば、廃墟同然の建物がパリのただなかに溶け込むようにして佇んでいた。


「それにしても、ニコラスが外の壁を這って逃げるなんて言い出さなくてよかったぜ」


 蔦だらけの鉄柵の前で、アダムはがちゃがちゃと南京錠を弄った。くすねてきた鍵はよく似た形が多いが、南京錠にフィットするものは数えるほどしかない。すべて試してみてもそんなに時間はかからないだろう。


「私はできてもアダムちゃんが無理でしょうが」

「待て待て、俺だけに限定すんなよ。そもそも一般人には無理だ」

 ガチャンと音を立てて南京錠が外れる。絡まる蔦をむしりながら、アダムは錆びついた鉄柵をこじ開けた。

「私たちが四階に逃げたって勘違いしてくれれば、少しは時間も稼げるだろうけど。どうだろうね」

「どっちにしたって俺たちはエリオを助け出すまでさ」


 建物に足を踏み入れてみると、内部はモニター越しで見るよりも明らかに廃れていた。一歩進むごとに靴の裏でじゃりじゃりと砂の擦れる音がする。

「博物館……だったんだっけ」

 ひどい有様だな、とまでは口には出さなかったが、アダムは哀れみの気持ちで天井や壁を見渡した。死んだ空間とはまさにこういう場所を言うのだろう。かつては人で賑わっていたのだろうかと思うと、胸に少しだけ切ないものが過ぎった。


 小ぢんまりとした円形のエントランスホールを抜け、埃っぽい廊下を進む。その先にもいくつか部屋が続いていた。おそらく何かの展示室だったのだろうが、今や見る影もない。いたるところにガラス片が飛び散り、窓ガラスは割れ、天井の隅には蜘蛛の巣が蔓延っている。

 廃墟の中を進むうちに、アダムの中では不安がどんどんと頭をもたげてきた。本当にこんなところにエリオがいるのかということ。侵入する建物を間違えてやしないかということ。それから――


「ねぇ、アダムちゃん」

 考え込んでいると、ふとニコラスが名を呼んだ。

「監視モニターがあるとはいえ、随分雑な監禁だと思わないかい?」

 ニコラスも同じことを考えていたのだろう。問われて、アダムは頼りなく頷いた。

「逃げ出そうと思えばいつだってできたはずなんだ。でも一年以上もなにも行動を起こさなかった。エリオが逃げなかったのはコニファーのため、だよな」

「そこだよ」

 と、ニコラスは同調した。

「私たちが迎えにいったところで、素直に頷いてくれるかどうか」


 結局のところ、危惧すべきはそこだった。エリオは今でも身内を人質に取られているようなものだ。なんとかなるならとっくに逃げ出しているに違いない。


「いつまでもアイツらの好きにさせてたまるかよ」


 アダムは己を鼓舞するようにぐっと拳を握りしめた。

 ただの強がりであっても口にせずにはいられなかった。そうしないと、勢いがしぼんで進めなくなってしまいそうだった。

 エリオが相当な覚悟を持って故郷を離れたことは承知の上なのだ。それでも彼をミュラシオルに連れ帰らなくてはならないのは、ひとえにコニファーの笑顔を取り戻すためだった。


 小さな部屋を抜けて廊下に出ると、一番奥の右手にある扉から、わずかに室内の光が漏れているのが見えた。赤いビロードの絨毯に、光の水たまりができている。

 二人は目配せした。そっと扉に近づくと、一気に部屋へと踏み込んだ。


 途端に、重厚な油の臭いが鼻をつく。

 ウッと顔をしかめて二人は口元を手で覆った。水に浮く虹色の汚れのように、尋常ではない油の臭いがギトギトと空気中に漂っている。

 この部屋が異常なのはにおいだけではない。四方八方の壁という壁に、あらゆる大きさのキャンバスが立てかけられている。

 そのどれもにおびただしい数のひまわりが描かれていた。まるでミュラシオルの未だ咲かないひまわり畑の中に、迷い込んでしまったような。そんな錯覚に囚われるほど、見渡す限り一面に大輪のひまわりが揺れている。


 絵の具でできた花畑の真ん中に、こちら側へ背を向けたままぽつんと椅子に腰掛ける男がいた。


 相当乱暴に部屋へと押し入ったのに、男は何事もなかったかのようにキャンバスへ筆を運び続けている。フィルム一枚を隔てて別の世界にいるのではないかというほど、動じることもなければこちらを振り向くこともない。


 アダムは懐かしいその背中を見て、思わず泣きそうになった。


「エリオ」


 自然と声が震えた。もう一度その名を繰り返す。

 だが男は呼びかけに応えない。

 アダムはエリオの前に回り込んで、すっかり痩せてしまった両肩を力いっぱい掴んだ。


「エリオ、俺だよ。アダムだよ。覚えてるか? アンタが絵を教えた、路地裏の生意気なガキだよ」


 ゆさゆさと体を揺らせば、色のない瞳も同じように揺れた。振動でエリオの手から筆が滑り落ちる。筆はカランと音を立てて床に転がり、落ちたところに黄色い絵の具がべったりとついた。


「もうすぐで完成なんだ」


 エリオはふわふわとした声でそう言った。


「エリオ……?」


 そこはかとなく奇妙な心地がしたのは、再会して久しいからという理由ではないだろう。顔は笑っているのに、まるで精気が感じられないのだ。

 アダムは掴んだ肩からそっと手を離し、一歩後ずさった。そうしてエリオが床に転がる絵筆をゆっくりと拾い上げるのを注意深く見守った。エリオはたっぷり時間をかけて描きかけの絵画に向き直った。

 大きなキャンバスには、夏の青空のもと満開のひまわりがいく万本も風に揺れている。


「約束したろう、出来上がった絵は誕生日プレゼントにするって。だからもう少しだけ大人しくしているんだよ、コニファー」


 エリオは隣に置かれた小さな丸椅子を、まるで我が子をあやすように優しく撫でた。

 ほほえみを向けた先には誰もいないのに。

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