第89話 オンファロスの眠り姫
side:ルカ
今まで生きてきた世界が、はじめから、そっくりそのまま塗り替えられてしまったような気分だった。
胎の外で母親と同じ時を共有したという事実は、ルカに得も言われぬ幸福感と、また同時に途方もない孤独をもたらした。相反する思いが、もっと速くと走る両脚をさらに急かす。
気がつけばルカは地下階へと繋がる扉の前に立っていた。無意識に扉を見上げ、は、と短く息を吐く。
もし事前に「このあたりに扉がある」と知らされていなければわざわざ立ち止まることもなかったかもしれない。それほどまでに壁に擬態した、味気ない扉だった。
ドアノブの代わりの凹みの横に、壁と扉を繋ぐようにして雲母に似た物体がへばりついている。レヴィの工房の地下にあった、不思議な鍵と同じ形だ。
深呼吸をひとつして、ルカは自身の右薬指にはめられた指輪をつるりとした鍵の表面に当てがった。待ち構えていたように青白い光がまばゆく沸き立つ。それは一瞬手元を明るく照らし、次の瞬間にはすでに霧散していた。
凹みに手を掛け押してみると、扉はキィ、と奇妙な音を立てて簡単に開いた。
扉をくぐると、薄暗い空間の中に錆びれた螺旋階段がひとつ、まっすぐ地下へと伸びていた。階段の踏み場のそばでは蛍ほどの小さなエネルギー灯が等間隔に光っている。足元を照らすには少々心もとない明るさだ。ルカはできるだけ音を立てないよう注意して階段を下りた。
『母さんは村一番のべっぴんさんだったんだよ』
なぜだかルカは、レヴィの小高い丘の上でだらしなく目尻を垂らして笑う父の顔を思い出していた。母親の話を口にする時は、いつもそうやって幸せそうに笑う人だった。
光太郎はすべて知っていた。マリアのことも、ルーヴルのことも。
すべて知った上で一切の事情を話してくれなかったことに、ルカは微かに苛立ちを覚えていた。亡き妻からの願いであったとはいえ、実の息子に嘘をつき続けるほど自分は頼りなかったのだろうか、と。
ふと、今度はまた別の記憶が蘇る。今よりずっと古い日の記憶だ。
扉の向こうからかすかに漏れ聞こえる怒鳴り声に、ドアノブを引こうとしていたルカの手が止まる。ヒョウが降った、もの珍しい春先の午後のことだった。
扉一枚隔てた向こう側で、間借りのクロードと父親の光太郎が言い争いをしていた。まだ学校へ通っていたルカは、幼いなりに空気を察して扉を開くことはしなかった。
父親の怒りを耳にしたのは後にも先にもこの一度きりで、その理由がなんだったのか、ずっとわからなかった。わからないうちに、そんなことがあったということも忘れてしまっていた。
今思えば――ルカは、今更頭のなかで細い糸がするすると繋がっていくのを感じた。あの時父親は、ルーヴルへ足を踏み入れようとするクロードを必死になって止めていたのかもしれない。
記憶の中の扉をそっと押し開き、ルカは家の中を覗き見た。
苛立ちに顔を歪ませながら、二人の男が対峙している。
クロードには訳のわからない反対だったことだろう。それでも光太郎は真実を口に出せず、胸の内に膨らむ焦りと怒りだけを相手にぶつけてしまったのだ。結局分かり合えず、その日を境にクロードはレヴィを出ていった。
当たり前だ。真実を何ひとつ伝えていないのだから。
すべて、憶測に過ぎない。
けれど、たとえそれが真実だとして、ルカの胸の内からやるせない気持ちが消えることはない。
すっかり考え込んでいるうちに、螺旋階段の最後の一段まで降り終えた。辿り着いた地下階は思ったよりも明るかった。壁はゴツゴツした岩がレンガのように積み重ねられていて、古く要塞時代の面影をにおわせる。そしてどこか、ピラミッドの内部のような静けさも感じられた。
やはり絵画が保管されているという噂は事実とは異なっていたようだ。空調設備もしっかりと成されていないような場所に絵画を置いておくなど、劣化を早める原因になるだけだ。噂がただの嘘でよかったと、ルカは場違いにも安堵した。
ため息をこぼし、壁にそっと触れてみる。ごつごつとした岩は驚くほどひんやりとしている。
壕の壁にそって湾曲する地下道を進み、最後にくっと曲がった道を抜けると、ふいにその扉は現れた。行き止まりの壁に、ひっそりと埋め込まれるようにして口を閉ざしている。
この扉の向こうに母が見た「何か」がある。その「何か」を知った時、自分も同じような末路を辿るのかもしれない――ルカの心臓は今や、早鐘よりも早く胸を内から打ちつけている。恐怖からではない。真実への好奇心が心臓を打ち鳴らすのだ。
ルカは扉の横の鍵に指輪を押しつけた。
視界が青白い光に包まれる。
やがて光は消え、同時に薄く閉じていた瞼を持ち上げる。冷えきった指先でドアノブを掴み、ゆっくりと扉を開いた。
――――光。
柔らかな自然光が部屋じゅうに満ちていた。
地上に立っている時となんら変わらないその明るさに、ルカは今しがた螺旋階段を下ってきたことを忘れかけるほどだった。
セラミックのような、光沢のないつるりとした白い壁が不思議な曲線を描き、前方からの光を柔らかくあたりに散らしている。同じように緩やかに歪んだ天井を目で辿っていくと、少しいったところでそれはぷつりと途切れていた。きっと吹き抜け構造になっているのだろう。
暑くもなく寒くもない。無音で無臭。
まるで外界と切り離されたような不可思議な空間を、ルカは一歩一歩、確かめるように進んだ。
そうして天井が断ち切れたところまでやって来ると、射す光を見上げるようにして天を仰いだ。
「……オンファロスの、内部だ」
眼前に広がる景色を前にして、ルカは思わず呟いた。遥か高いところを、格子柄に張り巡らされた鉄骨とガラスが覆っている。
立ち入り禁止の中庭にそびえたつガラスのピラミッド。世界中の人々が傾倒し敬う沈まぬ太陽、絶対のエネルギー源。
地下階は、オンファロスの地下にそのまま繋がっていたのだ。
ガラスから透ける空は雲ひとつない抜けるような青空だった。だからこんなにも明るかったのかと、ルカはひとり納得する。
ふっと視線を左上空に流すと、中空に浮かぶようにして巨大な銀色の球体が設置されているのが目についた。球体のてっぺんからピラミッドの頂点に向かって、稲妻のようなオレンジ色の光の線が一本放たれている。
まるでシュルレアリスム絵画を目にしているような、なんとも不思議な光景がそこには広がっていた。
『ルーヴルが世を立て直せた要因について、影の立役者が存在したことを知っていますか?』
そう語ったのは歴史の教員だっただろうか。あるいは理科だったかもしれない。ふいにルカの頭の片隅で思い出されたのは、遠い日の一コマだった。
『もちろんAEPの発明が人類の生活を支える基盤になっていることは代えがたい事実ですが』と女性教員は前置いた。
エネルギーショック以前より、世の中で活用されるエネルギーの主流は徐々に「電気」にシフトしていた。身の回りの機械――衣食住に必要なものから乗り物や、あるいは仕事をする上で必要なありとあらゆるもの――はほぼ全て電動式へのすり替わりを終えていた。なぜなら、電力を無線で送電できる装置が世に誕生したからだ。どんなに遠く離れた土地へも一瞬で電力を送ることができる。まさに画期的な発明だ。
古くからのこうした技術があってこそ、AEPも鳥が羽を広げ自在に空を飛ぶように、世界へエネルギーを容易に提供できたのです――教壇の上で熱弁をふるう教師は、眼鏡の奥できらりと目を輝かせていた。
ルカは巨大な球体を見上げながら、あれが多分世界に電力を送電し続けている『無線送電装置』、すなわちオンファロスの心臓なんだろうと思った。
世界は身体。電力は血液。
ならば血液の源は、絵画だ。
球体の底から伸びる一本の棒は、そのまま床へと続いていた。
床というより穴だ。ルカは落ちないようにそっと顔だけを突き出して覗き込んだ。まるでアリ地獄のように、四角錐を逆さにしたような形で掘り下がっている。滑らかにくだる四面は全て、組まれた格子鉄骨とガラスでできている。さながら逆さまの小さなオンファロスだ。
棒は四角錐の頂点を突き抜けて、さらに下へと続いている。
ガラスから透ける下の階は、オンファロスの青とは対照的に一面黄色で埋め尽くされていた。
なぜだかそれが無性に気になって、ルカは下へ降りるための通路がないかとあたりを見渡した。逆さのオンファロスを飛び越えた向こう、日差しの陰ったフロアのすみに、下へと伸びるスロープがあった。ルカはそっと入り口に近づいた。どうやらそれはそのまま地下階へと繋がっているようだった。
緩やかにカーブを描くスロープを下りながら、ルカはいよいよここが夢か現か分からなくなっていた。オンファロスの内部は一般に公開されたことも情報が開示されたこともない。中身の見えないブラックボックスは、しかし確実な恩恵を人類に与え続けているために神格化すらされている。
そんな場所へと足を踏み入れている現実を、未だに受け止めきれていないのかもしれない。
ふと、風もないのに鼻先をかすかなスパイスの香りが掠めた。気がつけばスロープの終わりまで来ていた。
そこでルカはぴたりと足をとめた。
――地下に、花畑……?
視線の先に広がる光景に圧倒されて、声も出なかった。
天井から突き出た逆さピラミッド。太陽のように輝く逆三角のたもとで、一面に咲き誇る黄色の花々。逆さピラミッドの真下には、頂点と頂点を触れ合わせるようにしてもうひとつのピラミッドが佇んでいる。逆さピラミッドが集めた太陽光が、この花畑をこんなにも瑞々しく生かしているのだろうか。
匂いの正体はコルシカの大地を彩るヘリクリサム――別名不滅の花。永遠の命を司る、枯れない花だ。
だがルカがそこで立ち止まったのは、神秘的な花畑の光景に見惚れていたからではない。花畑のただ中に佇むもうひとつのピラミッド――その中に入ってゆく人影を見たからだ。
ダニエラ・ダリが、誰かを乗せた車椅子を押して、小さなピラミッドの中に入っていったのだ。
よく見れば、ダニエラが消えた入り口とは真反対の面に、太いレールのようなものが繋がっている。レールを目で辿っていくと、それは壁まで続いており、接合部には四角くシャッターのようなものが降りていた。
逆ピラミッドの光は部屋の隅まではうまく届かないようで、そのあたりは随分と薄暗い。ルカがぎゅっと目を凝らしていると、唐突に、シャッターがギシギシと音を立てて持ち上がった。ぽっかりと空いた穴の中からレールに乗って何かが運ばれてくる。斜めに突き出た爪の部分に立てかかった状態のそれは、ぺったりと薄く、また大きさもある。
――絵画だ。
ルカは反射的に花畑へと分け入った。イモーテルが擦れてカサカサと音をたてる。途中までいったところで体を隠すようにしゃがみ込み、花々の隙間からそっと前方を覗き見た。大きなキャンバスは吸い込まれるようにしてピラミッドの中に運ばれていく。
――この小さなピラミッドが本物のオンファロスなんだ。
オンファロス。つまり、AEP発電装置。
母親が目にしたものはきっと、このピラミッドの中にある。ルカはそう直感していた。
だとすればなぜ、死をもって口封じされなければならなかったのか。
技術の盗用を恐れて?
世間に公表すれば神秘性が薄まるから?
それとも別の理由が…………
瞬間、パッと視界が白く飛んだ。
花畑も、逆さまのピラミッドも、広大な空間も。すべてを飲み込む膨大な光が、視界から一切を奪い去った。
やがて視界はすぐにもとの花畑へと戻った。鼻先で、風もないのにイモーテルが揺れている。ルカはそれが、地面に押しつけた自分の握りこぶしが無意識に震えているせいだと気がついた。
ドッドッドッと心臓が音を立てて血液を送り出している。
視界が白く塗りつぶされる直前の光景が、まぶたの裏に焼き付いて離れない。ピラミッドが黄金に輝いた、あの瞬間の光景が――。
早くこの場から逃げ出さなければならないと分かっているのに、足が動かない。
母が見たもの。母が知ったもの。ルカはクラナッハが伝えてくれた、母の言葉を意味もなく頭の中で反芻した。知ってはいけなかったもの。偽りの楽園……。
「よくもここまでやって来れたものだ」
低く澄んだ声に、ルカの心臓がびくりと跳ねた。
見つかってしまった。
背中を冷たいものが伝う。顔を伏せたまま動くことができない。
そんなルカの様子をさして気にすることもなく、淡々とした声でダニエラは続けた。
「あんな話を聞いた後では怖気づいて逃げるものと思っていたが……母の死を乗り越えてこの場所に足を踏み入れた勇気に、賞賛ぐらいはおくってやろう」
パチ、パチと覇気のない拍手の音が、再びルカの胸の中に閉じ込めていた怒りや悔しさを呼び起こす。足元でイモーテルの固い茎がぐしゃっと潰れた。わななく唇を引き結び、なんとかそれらを嚙み殺したところで、ルカはふとダニエラの言葉の奇妙さに気がついた。
あんな話を聞いた後で?
俯いていた顔をあげると、なんの感情も灯っていないダニエラの目がこちらを見据えていた。その傍らには瞼を伏せ、車椅子に乗って眠る少女の姿がある。
「エリーゼ・フォン・クラナッハの裏切り行為についての処分は私がきっちりとつけておこう」
「あの人は関係ない」
「それは我々が決めることだ」
勢いに任せて立ち上がったルカを、ダニエラは氷のような眼差しをもって切り捨てた。
ルカは全身から血の気がサッと引いていくのを感じた。この男はすべて知っているのだ。どこにいて何をしていたのか。ここにやって来ることも、何もかも把握されている。母の死についてさえ――そら恐ろしさは次第に怒りへと変化する。
「俺の母さんだって、殺されるようなことはしていない」
声が震えないよう精一杯力を込めて、ルカは唸るように言った。
「クラナッハの話をきちんと聞いていなかったのか? お前の母親は事故死だ」
「ちがう!」
「判断したのは警察だろう」
ルカはぐっと顎を引いてダニエラを睨みつけた。あくまでも事件の関与を認めない姿勢のようだ。葬られた真実に、手をのばせば届きそうな場所まで来ているのに。近付けばそれは蜃気楼のようにふわっとどこかへ消えてしまう。一体どうすればこの手で掴みとることができるのだろう――。
その時、遠くでギシギシとシャッターの開く音がした。またしても絵画がレールに乗って運ばれてくる。
「――たった今、この目でAEPが生成される瞬間を見た」
ルカは一瞬たりともダニエラから視線を外さないまま告げる。
「ルーヴルが必死になって隠してるものも」
ぴく、とダニエラの片眉が動く。ルカは男のがらんどうの瞳をじっと見つめた。ダークブラウンの暗闇の奥に、ピラミッドが黄金色に輝いた瞬間の光景を思い出しながら。
その光は、内部の様子を影絵のように映し出した。絵画と思しき平たい影に向き合う、車椅子に乗せられた少女の影。不思議なことに、それ以外の大層な装置はかけらも見当たらないのだ。
黄金の輝きが真っ白な閃光に呑み込まれる間際、ルカはたしかに絵画が塵となり消し飛ぶ姿を、影として捉えたのだ。
「AEPの還元装置はずっと、機械だと思っていた。でもそうじゃなかった。オンファロスは、AEP発生の源は――その女の人だ」




