第87話 ルーヴル潜入(3)『ルカ』
side:ニノン&ジャック
「ちょっと待ってくれ。それは本当の話なのか?」
一通り経緯を話し終えたところでクロードからストップがかかる。彼は眉間のしわを指でつまみ、もう片方の掌をこちらに向けている。
「その連れ去った男ってのはうちのシュリー翼長で間違いないのか? なんでお嬢ちゃんはそいつの顔を知ってる?」
そもそもどうしてルカが連れ去られるんだ、お姫様にでもなったのかあいつは、云々。
ボソボソと呟きながら首を捻りだした男に、ニノンは堪えきれず憤慨した。
「もー、おじさんはルカが心配じゃないの!?」
「いや、心配っちゃあ心配だが……」
「じゃあ協力して!」
「協力っつってもな」
ついと視線を逸らす態度がじれったくて、ニノンは力任せに男の服の裾を引っ掴んだ。
「ルカはきっとサンジェルマン伯爵のところだよ。案内してほしいの、お願い」
「無茶言うなよ」
クロードはおどけたように両手を挙げて降参のポーズをとった。
「伯爵に会ったことがある人間なんてそういない。だから部屋の場所も知らないよ。そもそも伯爵のテリトリーは立ち入り禁止区域なんだぞ」
む、と頬を膨らませて、ニノンは長身の男を睨んだ。
無茶だと分かった上でのお願いだ。それを、賞味期限が一日過ぎたからとばっさり捨てられる食べ物のような扱いをされれば腹も立つ。
「それ、さっきの女も言っていたな」
言い返そうとした矢先、応戦の声がすぐ後ろから投げ込まれた。
「つまり伯爵に会うには、立ち入り禁止区域――シュリー翼棟に向かえばいいってことだ」
クロードの目線がニノンを通り越し、背後に立つ少年へと向けられる。
「だから、お前は一体誰なんだよ、ボウズ?」
「コイツの連れだ」
庇うように目の前に立ち阻んだジャックは、自身の肩越しにニノンを親指で指した。
握られた拳の薬指にはくすんだ指輪がはめられている。鈍い光に気がついたのか、クロードは一瞬目を細めた。
「その指輪、どこかで――」
言いかけた言葉を遮るように、ジャックがニノンの手を引いた。
「用件が済んだらさっさと出ていく。だから通報はするなよ」
「おいおい、随分な口の利き方だな」
「余計なことはしないと誓う」
それじゃ、と歩き出す二人を、クロードは「待てよ」と慌てて引き留める。
「分かったよ。伯爵は無理だがシュリー翼長の様子をしれっと見てくることはできる。だから、お前らは、ここで、大人しくしてろ。いいな?」
最後は言葉を区切り、一語一語刻み付けるように言い放った。
「それ本当? おじさん、いいの?」
思わぬ提案に、ニノンは瞳を輝かせて両手を組んだ。
「いいも何も、お前らどうせ捕まったら俺の名前出すんだろうが。そんなタイミングでSOS出された方が迷惑だ」
「だってここで頼れるの、おじさんしかいないんだもん」
クロードは息の詰まったような呻き声を漏らし、眉をひそめた。
「そういうことだ。よろしく頼む」
と、ニノンの無邪気な言葉の後を、ジャックが偉そうに続ける。
「はぁー」と盛大なため息を吐き出しながら、クロードはバリバリと頭を掻きむしった。
「お前らといい、かなちゃんといい、最近のガキはえらく態度がでかい奴ばっかりだな。流行ってんのか? まだルカの方が可愛げがある……」
クロードはぶつぶつと独り言を零していたが、時間がないことを思い出したのか咳払いをして空気を改めた。そのまま大きな人差し指をびしりとこちらに突きつける。
「とにかくお前ら、ここ動くなよ。絶対に動くなよ。いいな?」
揃って大きく頷く二人の顔を、クロードは何度も振り返りながら睨めつけた。よほど信頼がないのだろう。通路の角を曲がるまで、クロードはきっちりと二人に向けて念押しの視線を送ってきた。
男の姿が見えなくなったのを確認して、ニノンとジャックは互いに頷きあった。そこにはシュリー翼棟に向かうことへの合意が込められている。二人は迷うことなく東の建物へと向かった。
「立ち入り禁止区域だって。私、ちょっと緊張する」
「俺たちはどの棟に至っても立ち入り禁止だぞ。今さら怯えることじゃない」
手元で地図を確認しながら、それもそうかとニノンは納得する。
「あのおっさんの報告を待つまでもない。反応があればロロが教えてくれるからな」
ニノンは適当に頷いた。アジャクシオの一件から、ロロはその道のプロフェッショナルというよりは、見習いエンジニアという印象の方が強い。内心はレーダーが正常に反応しているのか疑わしかったのだが、それは口にしないでおく。
「あいつは自分に自信がないだけで、本当は良いものを持ってるんだ」
心の中を見透かしたように、ジャックが突然そんなことを言い出したので、ニノンはびっくりした。
「良いもの?」
「ああ。センスがある」
頷きながら、ジャックはポケットの中に手を突っ込んだ。ブツッと耳元で何かが途切れる音がする。イヤフォンからは何も聞こえなくなった。
「ラピシウム探知機を製作したのだってアイツだし、エネルギーの中に紛れて不可思議な電波が飛ばされてるのを見つけたのもそうだ。それにまぁ、いろいろある」
「不可思議な――なに?」
さらっと流された会話の中に不穏な単語を聞き取って、ニノンは思わず聞き返した。
「電波だよ、電波。別件を調べていたところ偶然発見したんだ。最初はノイズか何かだと思ったんだが、あいつはそのノイズに法則性があることに気がついた」
「その、電波ってなんなの?」
さぁ、とジャックは肩を竦めた。
「分かっているのは、オンファロスから送電されているエネルギーに混じって世界中に行き渡っているってことぐらいだ。事実、パリに近付くにつれてそのノイズは反応を大きく示している。耳につけたそれ――ノイズキャンセリングを内蔵してあるから、不気味な電波は心配しなくていい。言ってなかったか?」
ニノンは首を横にふった。そんな説明はされていない。けれど内容が難しくて、突っ込んだ話もできそうにない。ニノンは細かいことを考えるのはやめて、話を元に戻すことにした。
「認めてるなら、ロロにもうちょっと優しくしてあげたらいいのに」
「それはあいつの為にならないだろう」
むすりとした顔でジャックは言った。自分が厳しく接している自覚はあるらしい。現に今だって、褒めるような言葉が本人に届かないよう通信を遮断するほどだ。
「本当は優しいのに」
一瞬ジャックの丸くなった目がこちらをギロリと睨む。だがすぐさま逸らされ、今度はわざとらしく咳払いをした。
「あいつには鞭が必要なんだ。プロフェッショナルになるには才能や努力はもちろん必要だが、もうひとつ大切なものがある」
「もうひとつ?」
「プライドだ」
「プライド……」
「貶された分だけ悔しがればいい。虐げられた分だけ泣けばいい。それはあいつの力になる。あいつにプライドがあればあの時だって――」
ジャックはハッと目を見開いて、不自然に会話を終わらせた。何を言いかけたのだろうか。問い返す間もなく、ジャックはポケットの中のスイッチを操作した。イヤフォンからまたブチッと音がして、『大丈夫?』と心配そうなウィンの声が続く。問題ないと、何事もなかったようにジャックは返答する。
「そういえば、あれから体調はどうだ? もう頭は痛まないか?」
唐突に問われ、ニノンは一瞬まごついた。
あれから、というのはおそらく、忘れてしまった記憶を機械で無理に引き出そうとした時のことを指しているのだろう。
「うん、もう大丈夫。あの時はごめんね、その……なんだか突き放すみたいになっちゃって」
いやいいんだそれは、と言って、ジャックはそっぽを向きながら顎をかいた。
「良かれと思ってやったんだが、ちょっと強引すぎたかもしれない。俺も少しは反省してるんだ」
ニノンはぎょっとしてジャックの横顔を見つめた。
「なんだ」
「えっと……」
反省なんて言葉が彼の口から出てくるなんて思ってもみなかったのだ。ニノンが笑ってごまかしていると、廊下の右手にまたもや共同スペースと思しき部屋の入り口が見えてきた。扉がついておらず、壁をトンネル型にくりぬいただけの簡単な構造になっている。通り過ぎる時、中から楽しげな笑い声が聞こえてきた。
「それで」
「え?」
「なにか思い出せたのか」
「ああ――うん」
あの日眼裏に蘇った記憶のことを、ニノンはまだ誰にも話していない。思い出せた記憶がほとんどが取るに足らない日常的なものばかりだったからということもある。けれど本当の理由は、もっと別のところにある。
ニノンは話すべきか考えて、やがて決心したように口を開いた。
「私、大きなお屋敷で暮らしてたんだ。ニコラスと、ダニエラさんがいて、お姉ちゃんがいて……。それと、もうひとりいたの。私と同じくらいの年の男の子。髪の毛が黒くて」
蘇る記憶の中でその男の子は、悲しい時も不安な時も、気がつけばいつも側にいた。
「その子の名前、『ルカ』って言うの」
じっと耳を傾けていたジャックの顔が、そっとこちらを向いた。
「それは……あいつは、知ってるのか?」
ニノンはゆっくりとかぶりを振った。
「私だってついこの間急に思い出したばっかりだもん」
「言えばいいだろう」
「そんなの、無理だよ」
「どうして」
「どうしてって、それは」
言い淀んで、ニノンはそのまま口を引き結んだ。
思い出したことを伝えても、もし相手が何も思い出さなかったとしたら。記憶違いだと否定されたら。胸にうずまくもやもやとした気持ちの正体は『臆病』かもしれないし『不安』でもあるかもしれない。単純な言葉で表現するのは難しい。そして、全てをあけっぴろげに打ち明けるのには勇気がいる。
「いいの。思い出してくれるまで、待つの」
それが逃げることだとしても。それでもニノンはひとりきりで、思い出した記憶を信じ続けることを選ぶと決めた。マキの森でルカに出会った時、どこか懐かしいような気持ちになったのは――ルカの存在を心のどこかで覚えていたからだ。何もない真っ白な状態の中で、唯一感じた『懐かしさ』。そんな心の拠り所とも呼べる存在を、一か八かで失う勇気はない。
「ふん。まぁどっちでもいい。俺は変わらずお前を護るだけだ」
少し不機嫌な声でそう言い放ったジャックは、不自然にそっぽを向いていた。怒ったり強引だったり、かと思えば変に優しかったり。うまく掴めないだけで、悪い人ではないということを、この頃のニノンは十分に理解し始めていた。
「ありがとう、ジャック。知り合って間もないのにこんなに協力してくれて」
ぐるんと勢いよく首を回し、ジャックはものすごい形相でこちらを見た。ニノンは驚いて目をパチパチと瞬く。
「知り合って間もないだと? こっちはな、ずっと待ってたんだぞ。いつか使命をまっとうする日を。お前が現れるのを、ずっとずっと待ってたんだ。それでいざ見つけたと思ったら、こんな弱そうな女で――」
そこまで一気にまくし立てると、ジャックはしまった、という顔をして口を噤んだ。
「……というのは建前で、本音は貴重な被験者だからだ。何度も言ってるだろうが」
「本音って普通は口にしないものだと思うけど……建前はともかく」
「ええい、うるさい!」
ジャックは顔を赤くして地図を奪い取った。それから、道を間違えられたら困る云々とぶっきらぼうに言い放ち、歩速も合わせずさっさと先に進んでしまった。
前言撤回。やはり基本的には傲慢で乱暴者だと、ニノンは少年の背中に非難の目を向ける。
その時、二人の耳をロロの叫び声が同時につんざいた。
『反応がありました!』
二人は揃ってぴたりと動きをとめる。数秒遅れてニノンはジャックの手から地図を奪い返す。手元で地図を広げれば、ジャックもその見取り図を一緒になって覗き込んできた。
『場所としてはシュリー翼棟の一階ですね。お二方のいる場所からそう遠くはないです。あ、消えた……』
不穏な言葉を残しつつも、ロロは矢継ぎ早に続けた。
『とりあえず案内しますから、指示通り動いてください』
反響定位を使った指示のおかげで、職員との鉢合わせは確実に回避できた。二人は柱から柱へと、監視の目をうまくごまかしながら移動していく。
シュリー翼棟の一階。やはりルカはサンジェルマン伯爵の元にいるのだ。確信にも似た思いがニノンの足を焦らせる。
そうして二人はついに、立ち入り禁止区域へと足を踏み入れた。




