15 死霊術士の殺人鬼
「やあ、ミチカ。エミリオ。ベイル。いらっしゃい」
上からかけられた言葉に反射的に顔が歪む。そんな優しい言い方したところで、二度と騙されるものか。
「うるさい黙れ死ね!」
私の叫びに、頭上のリパー・エンドは綻んだように笑う。罵られて喜ぶ辺り変態を通り越して変人である。
「あんたの望み通り、殺しに来たわよ! リパー・エンド!」
私の虚勢を知っててか、その笑みは深まるばかりである。
見上げたままの私の背後に気配がして、慌てて振り向いた時には遅かった。フィリップの部下のナイフが私の胸に一直線に向かっていた。思わず痛みを覚悟して目を閉じる。
「ミチカ! この馬鹿!」
エミリオの叫び声と共に部下の刃先が逸れた。どうやら彼の飛ばしたナイフがその腕に突き刺さったようで、ずれた刃先が肩を掠める。ぴり、と焼けるような痛みが私の肩に走った。
「目をつぶるな! 自分の身は自分で守れって言っただろ!」
そう言いながら彼は、向かって来た部下の長棒を避けて、その懐に入り込むと鋭くナイフを振るった。下がることも防ぐことも出来なかった部下の首が宙に飛ぶ。
ついリパー・エンドに気をとられていた。何事もなかったかのように気安く話しかけられて、頭に血が上ってしまったのだ。
「悪かったわよ!」
叫び返して、私は腕を怪我した部下から距離をとった。私は手ぶらである。一応体の各急所にはナイフなどを防ぐための鉄が入った服を着てはいるが、出ている首や顔を狙われたら死ぬ。せめてナイフか何か持たせてくれてもいいと思うのに、スパルタ教官二人とも揃って首を振ったのだ。
「得物を過信して死ぬくらいなら手ぶらで逃げに徹したほうがいいぞ」
「お前じゃうっかり自分で自分を刺すくらいの結果にしかならないだろ」
狂人世界には配慮とかオブラートに包むという言い方はないようである。
「よっ、と」
ベイルが腕を怪我した部下の首筋に丸太のような足を叩き付けた。ごき、と言う音と共に彼の体は吹っ飛んだ。それと同時に遠くのエミリオが最後の一人の首を切ったのが見えた。
周囲は死屍累々である。屋敷内の広いホールには、血や死体が転がっている。私だってリパー・エンドのことは言えない。フィリップを殺さなければ私が死ぬから、殺しに来ているのだ。
一階に動く者が私達以外いなくなったところで、三階の手すりをひょいと乗り越えて、リパー・エンドが降りてきた。ボス降臨である。
そのまま地面に降り立つと、周囲をぐるりと見回してにこりと笑う。
「すごいな、エミリオ強くなったね」
「!」
エミリオが頬を赤くした。なんだその嬉しそうな顔。リパー・エンド教の信徒が。
こいつ絶対リパー・エンドと一緒にいられるとなったら裏切るよね。
思わずフィリップを見たが、彼は三階の手すりの向こう側で、顔を顰めたまま静観していた。目をすがめてその周囲を見ると、魔力は殆ど無いように見える。やはり彼も魔力を限界まで奪われているようで、もう一人の契約は不可能だろう。ほっとした。
「ベイルとミチカも一緒にやる?」
首を傾げてリパー・エンドが言うが、エミリオがずいっと私達の前に出た。その頬は興奮で紅潮している。
「いえ、僕とお相手お願いします! 今度は負けませんから!」
「ん、いいよ。あ、ベイル。フィリップを殺す時は邪魔するからね?」
階段に向かったベイルに牽制の一言を投げて、リパー・エンドはゆらりと殺気を立ち上らせた。エミリオも神聖魔法のかかったナイフを構える。
牽制されたベイルは苦笑しながらも、気にせずに階段を登る。三階のフィリップは腰の長棒を抜いた。
私はそそくさと後ろに下がった。エミリオが言うには「僕とエンド様が戦いだしたらお前は邪魔にならないところで突っ立ってろ」とのことだ。ううん、最近主人って何だっけと思ってきた。
何にしても彼らの戦いに割って入る根性も実力もないため、遠距離で応援しようと思う。頑張れエミリオ。問題は私に応援されるとエミリオが嫌そうな顔をするくらいかな。主人って何だっけ。
「行きます、エンド様!」
ダッ、と床を蹴って、エミリオはリパー・エンドの腰の辺りに体ごとぶつかるようにナイフを叩き付けた。振りかざすと弾かれるので、しっかりと持ったそのナイフは、リパー・エンドの出した刃に弾かれた。リパー・エンドは珍しく長めの刃を出した。牛刀のようなそれでエミリオの勢いを流して、横からエミリオの首に向かって振り抜いた。
「っと」
その刃をかがんで避けながら、そのままリパー・エンドの足を狙うエミリオ。神聖魔法のかかっているナイフに一度切り飛ばされると、その部分はなかなか復活しないはずだ。
エミリオのナイフを飛んで避け、ナイフの平の上から踏みつけるように足を振り下ろすと、リパー・エンドの足と床の間にナイフは押さえ込まれた。リパー・エンドは左足でナイフを持ったままのエミリオに蹴りを向ける。
「っ!」
ナイフに執着することなく手を離すと、エミリオは後ろに避けて、そのままくるりと回転して立ち上がった。
すぐさま隠し武器である小さなナイフを両手に構えた彼に、リパー・エンドは楽しそうに笑う。エミリオも表情に笑みを浮かべている。
彼らの戦いは、猫が、いや虎とライオンがじゃれ合うようなものだった。お互い牙と爪をむき出しにして。常人ならば気が狂っていると言うだろう。殺し合い、という名の彼らの楽しみは恐らく長引くだろうと予想がついた。
私は視線を上へ向けた。三階まで上っていったベイルは、素手で長棒を持ったフィリップと対峙している。素手対長棒ではあるが、フィリップの振り下ろした長棒を片手で跳ね上げるベイルの右手に何が埋めこまれているのか気になって仕方ない。何も入ってないという予想が最有力なのが恐ろしい。
意外とベイルが苦戦しているのは、フィリップの周囲に数人の部下がまだいたせいだろう。一人対五人になっている。フィリップを狙うベイルと、逃げ気味のフィリップ。そしてベイルを殺そうとする部下達。
その時一階で高い金属音が聞こえた。いつの間にかエミリオは神聖魔法のナイフを奪い返していた。牛刀と火花を散らしながら、打ち合っている。腕力的には五分か、少しエミリオが悪い。更にリパー・エンドは魔法を使っていない。お互い多少の傷を負っているようだが、かすり傷だ。
「エンド様! 遠慮なさらずに魔法を使って下さって、構いませんよっ」
牛刀を受け止め、身を逸らしながら言うエミリオだが、リパー・エンドは首を振る。
「そんなつまらない真似、しないよっ」
その言葉ににぃと口を笑みの形にすると、エミリオは牛刀に強くナイフを当てて、その勢いで後ろに飛んだ。遠くにエミリオ。真ん中にリパー・エンド。そして私、という位置取りである。
「ミチカ、そこから五歩前!」
いきなりエミリオに叫ばれて私は眉根を寄せた。何か嫌な予感がする。しかしちらりと視線を向けられ、その鋭さに渋々言われたように前に出た。何をさせる気だ。
「エンド様、ご存じですか?」
打って変わって丁寧な口調になってエミリオが言う。あのねエミリオ、そっちが敵で私が主人だからね? 絶対対応が逆だよね。人生について愚痴りたくなってきた。
リパー・エンドが首を傾げると、エミリオは神聖魔法のナイフを左手に持って、少し大きめのナイフを手にした。
「死霊は主人を殺せない。例えナイフを投げても、攻撃したものが全て消えてしまうから」
昔リパー・エンドの手がナイフごと消えたことを思い出した。どこに消えているのかは分からないが、ここではないどこか別の世界のようである。
ヒュッ、と音がしてエミリオからナイフが飛んだ。それは真っ直ぐに私に向けられて……っちょ、待っ!
目を閉じた私の目の前で、ナイフは消えたようだ。なんの嫌がらせ!?
私がエミリオを睨むが、彼は私など一縷だにせずにリパー・エンドに笑いかける。
「ね?」
「うん。知ってるよ? 僕もやったし」
どいつもこいつも主人をもう少し大事にしよう! 具体的に言えば私の人権を認めて欲しいな!
「でもね、エンド様。これは知ってますか?」
ヒュッっと空気を裂いてエミリオの大きめのナイフが天井に向かって投げられた。それは私の頭上につり下げられた丸く大きな照明器具の根元の鎖に突き立った。そしてもう一投。更に一投。
ビキ、と嫌な音が真上からする。
「二次災害……僕のナイフで落下した照明器具は消えないんですよ」
見上げた私の上に、ぐらりと重そうな照明が落ちてきた。
自分の元死霊に殺されて死ぬ。私の人生で二度も三度もあることではないと思ったが、二回目は現死霊にである。運と人選と……とりあえず私はありとあらゆるものが悪いのだろうと思う。
死ぬ寸前って走馬燈が見えるというが、ただぐんぐんと近づいてくる重い塊しか見えない。目を逸らすことも走って逃げることも出来なかった。
落下してくる照明器具が、私を押しつぶす寸前に何か黒いものが視界の端を掠めた。死を覚悟して、私は眼を閉じた。
ガシャン、という激しい物音が、鼓膜を揺らす。
ああ、短い人生だった。とりあえずあの世に行ったらエミリオの首を絞めたい。私が死んだら彼も死ぬというのに、ためらいゼロである。チキンレースなら壁に激突する勢いでためらいゼロである、死ねばいいのに。死んでるけど。
耳元でため息のようなものが聞こえた。
「……エミリオ、君も結構……手段を選ばないね」
呆れたようなその声が、耳に近い。あれ? 押しつぶされて死んだにしては、何故か痛みがない。
恐る恐る私が眼を開けると、視界には黒い服と、私の背中に回った手。上には傾いた重い照明器具が、私を押しつぶす寸前で止まっている。それを支えているのはリパー・エンドだった。
「ふふ、エンド様に褒められると嬉しいです」
そう言ってエミリオは神聖魔法のナイフを振りかざす。私を突き飛ばすように照明器具の下から押し出したリパー・エンドの左手が、血しぶきをあげた。
突き飛ばされて床に座り込んだ私は、エミリオのナイフがリパー・エンドの左腕を飛ばすのを呆然と見ていた。
……何で?
私を殺すんじゃなかったの? 何で助けるのよ!
左腕を押さえてリパー・エンドはエミリオから距離を取る。私の数歩前に立ったエミリオに、私は視線を向けた。
非難するようなそれに気付いてか、エミリオは眉を上げる。
「……言っただろ。僕はお前なんかどうでもいいって」
例え照明器具に挟まれて圧死したところで、彼はそれを悪いとは思わない。リパー・エンドをおびき寄せるための手段として、主を使っただけなのだ。
エミリオの憎々しげな声音には嫉むような響きがある。羨ましく恨めしい。そんな響きが。
「僕の知る限りな、エンド様が今までにためらい傷をつけた奴なんかいないんだよっ!」
吐き捨てられた言葉に、私の左胸の傷が小さく痛んだ。
* * * * * * * * * *
階下の轟音に、ベイルとフィリップ、そして一人残った部下の気が逸れた。重い照明器具が落下したのだ。その下には。
「――ミチカ!」
叫んだベイルの背中に、刃物が突き刺さった。残った一人の部下の刃が、彼の隙をついた。
とっさにベイルは刺された背後に向かって右肘を回す。部下の体が吹っ飛んで、そのままぴくりとも動かなくなった。ベイルの背中では、分厚い筋肉が刃をそれ以上中に入れるのを防いだが、勢いよく刺されたその傷口からは血が溢れてきた。
しかも、ベイルの視界が揺れた。
「――毒か」
刃先に毒が塗ってあったのだろう。ベイルはぼやける視界を目を擦ってどうにか維持しようとした。
向かい合ったフィリップの笑顔がぐにゃりと歪む。
「敵が多いものでしてね」
そう言って彼が長棒を振るうと、その棒を避け損ねたベイルはこめかみに重い一撃を食らった。そのまま手すりを超えて階下へと落下していく。
どん、と衝撃音がする。おそらく死んではいないだろう。あの男の頑強さは前々からカトールで知っている。
とどめをさそうと、周囲に転がった部下には見向きもせずに、毒の塗られた剣を拾ってフィリップは階段を下りた。
途中、視界に信じられない光景が映った。
左腕を飛ばされたリパー・エンド。対峙する少年。呆然と座り込むミチカ。
あの殺人鬼が少年に押されている。そんな目を疑う光景だった。
リパー・エンドが、負ける? 馬鹿な、ありえない!
フィリップは思わず二階の踊り場で、身を乗り出して階下を見る。少年もまたおそらく死霊。そしてそれを操っているのは。
「――ミチカ・アイゼン!」
やはり殺しておくべきだったのだ。だから懸念したのだ。リパー・エンドに影響を与える存在など残しておくべきではないと。
主を裏切ってでも殺したいという殺人欲は、ある意味執着に近いものがある。ミチカ・アイゼンを殺したいという欲求故にリパー・エンドは今追い詰められている。
少年がリパー・エンドを追撃する。お互い死霊なため切ってもバラバラにしても死にはしない。だが神聖魔法のかかったナイフで細切れにされれば、再びの復活は難しかろう。
「死したる隣人よ。あまねく眠りの民。この地に蘇れ!」
早口でフィリップは言葉を紡いだ。彼の左手を戻さなくては。
「死者に再び命を!」
――しかしリパー・エンドの左手に戻る様子がない。恐らく、術者と死霊の間が遠いのだ。もっと近寄らなければいけない。だがあんな激戦の最中に近寄って、さらに自分が狙われない保証などない。彼は唇を噛みしめた。
苦戦しているように見えるリパー・エンドは、それでも右手一本で少年をいなしていた。少年は両手で、ナイフを振るっては、時々リパー・エンドの傷を増やしていた。
その近くでは座り込んでいるミチカ・アイゼンの姿がある。彼女を狙えば、彼女を殺せばその少年も死ぬというのに、リパー・エンドに狙う気配はない。
ギリ、と歯をかみしめてフィリップは手を振り上げた。右手には毒付きの刃。頑強なベイルならばともかく、あんな細い娘ならばこれで死ぬだろう。
閃光のように、その刃は彼女の元へと走った。
* * * * * * * * * *
本当はもう、目を閉じてしまいたかった。
でも私は呆然として、ただ目を見開いて彼らを見ていた。
追いかけるエミリオ、避けるリパー・エンド。左腕がないせいか、バランスが悪いのか時々エミリオのナイフが体を掠める。そのたびにリパー・エンドの体には傷が増えた。
バランスが崩れた戦いで、じわりじわりとエミリオが押していった。
その時、風切り音と共に、何かが走った。最初に気付いたのはリパー・エンドだったのだろう。ハッとして彼は左腕を上げたが、その先に手はない。私の元へ飛んでくる何かを防ごうと出したらしき魔力が、そこから歪んで暴発した。
ドォン!
それは間近にいたエミリオにぶつかり、激しい爆発と共に彼を吹っ飛ばした。私の髪の毛も爆風で揺れる。
その爆風で刃は逸れ、飛んで来たそれは私の少し左に突き刺さった。
「……! エミリオ!?」
叫んだのは私、そしてリパー・エンドも。
飛んだエミリオの上半身が爆発に巻き込まれて消えていた。とっさに盾にしたのか、彼の傍に転がった神聖魔法のナイフは完全に歪んで一部溶けてしまっている。
私は立ち上がるとエミリオに駆け寄った。足元に転がるエミリオの半身に再度の召喚をかける。飛び散った彼の肉体が回復するのは時間がかかる。そんな酷い様で放っておけなかった。
「死したる隣人よ。あまねく眠りの民。この地に蘇れ!」
膝をついて、言葉を続けた。
「この死者に再び命を!」
即座にエミリオの上半身は元通りになり、少し揺らいだ視界に苦しげなエミリオの顔が見えた。
「……っくぅ」
ごふ、と咳き込んで、上半身裸のエミリオは地面に転がった。ごほごほと苦しそうに咳き込んでいる。
「お前……魔力低い、から、回復……遅っ……無能っ!」
申し訳ない。そしてこんなときも悪態をやめないその気概にはある意味感動する。
何とか立ち上がったエミリオは、やはり調子が悪そうに見えて、すぐに膝をついてしまった。武器もない、平衡感覚もおかしそうだ。
せめて武器でも落ちてないかと周囲を見たときに、刃が転がっているのが見えた。先ほどフィリップが私に投げてきた刃だ。毒でも塗ってあるのか、先端がうっすらと黒くなっている。それを拾うと、視界の端に氷のような視線でフィリップを睨むリパー・エンドが見えた。思わずそちらに目が向いた。
「……邪魔、しないでくれるかな?」
取繕う気もないほどに不機嫌そうに睨むリパー・エンドに、フィリップは眉根を寄せた。
「邪魔されたくなければ、もっと圧倒して下さらないと困ります! あなたが死んだら私も殺されるのですから!」
その言葉にリパー・エンドは片眉を上げた。戦いが休止したと見て、フィリップは階段から駆け下りてくると、彼の傍で術を唱えた。見る間にリパー・エンドの左手が戻る。
回復した状態でも、彼は不満そうな表情をしている。宥めるように声を低めたフィリップが一言二言話しかけているがその声は聞こえない。
「ミチカ、それ寄越せ」
「へ? きゃっ!」
彼らを見ていた私にしびれを切らせたのか、エミリオが私の肩を掴んで手の中にあった刃を奪った。
それはエミリオに鋭く投げられて、真っ直ぐにリパー・エンドの後ろのフィリップに向かって飛んだ。
無駄だ。だって、彼の目の前にはリパー・エンドが彼を守っている。
だからすぐさまたたき落とされるはずだ。
空気を裂いて飛んでくるそれに気付いたリパー・エンドは、右手のナイフを上げた。頬に少し笑みを浮かべて。
――そして、一歩左に避けた。
黒く光るその刃は、吸い込まれるように障害物のない空間を走り、フィリップの腹に飛び込んだ。
「っぐあっ!!」
まるでスローモーションのようだった。ゆっくりと倒れ込むフィリップと、それを冷ややかに見下ろすリパー・エンド。
守るはずの主人を見殺しにした彼に、膝をついたフィリップは信じられないと視線を向ける。
「どう……いう……貴様っ……」
致命傷なのだろう。腹を押さえながらも彼を罵る主に、リパー・エンドは笑う。
「――君を守るのは、つまらない」
あっさりと告げられたそれに、フィリップは目をむいた。面白いつまらないの問題か、と思ったに違いない。
しかし彼はそんな主には見向きもせずに気楽な足取りでこちらに向かって来た。追いすがるように上げられたフィリップの手が、空をかいて倒れ込む。
フィリップの命が尽きるまで。ほんの少しの時間が、この史上最悪の殺人鬼の残り時間だった。
隣に膝をついていたエミリオは、苦々しい表情のまま一歩私から離れた。え、ちょ、何で!?
思わず私も逃げようかと思った瞬間に、目の前にリパー・エンドがいた。座り込んだ私と視線を合わせるようにしゃがみこんで、笑みを漏らす。
なんだかやけに楽しそうだ。死ぬのが嬉しいのだろうか。主人を守らないような狂人だし、ありえそうだ。うんごめん、最後の最後までこいつの思考は理解できなかった。
「ねぇ、ミチカ?」
「……なによっ」
遺言なら聞いてやらなくもない。そんなつもりで私が彼を見ると、彼は脳が沸いたような言葉を漏らした。
「また僕と契約しない?」
「……はぁ!?」
ば、馬鹿じゃなかろうか! このままあと数分経てば、フィリップと共に消え去る殺人鬼を誰が喜んで再契約するというのだ。しかも一度自分を裏切ったような奴を!
「嫌に決まってるでしょうが! 絶対お断りよ!」
「ほんとに?」
笑顔のまま、リパー・エンドが私の首を撫でて、そのまま両頬を包む。少しひんやりとしたその手に、私は身震いした。
「そんなに嫌なら君も殺して、一緒に連れてっちゃうけどそれでもいい?」
「……!?」
脅迫である。殺されるのが嫌ならば再契約しろということだ。私は思わず助けを求めに左右に視線を向かわせたが、エミリオは我関せずとばかりに目を閉じてそっぽを向いている。ちょっと主のピンチなんだけど! 助けようよ!
リパー・エンド教の信徒から何の助けもないことを確認した私は、諦めてリパー・エンドを睨み付けた。
命は惜しい。死にたくない。自分の命と天秤にかけて、私はフィリップを殺しに来たのだから。エミリオが殺した彼だって、他の部下だって、私の意志にそって殺したのだから私が殺したも同然だ。
前と同じように私を殺しに来た相手だけ殺すならば、これからリパー・エンドが殺す数もそう多くはないだろう。でも、それでも。
「……あんたと再契約するなら、死んだ方がましよ」
私の震える声に、リパー・エンドはため息をつく。
「……ずるいなぁ」
「はぁ!?」
何がずるいのか意味が分からない。あんたに脅迫されている私がずるいと非難される覚えは全くない。
「ミチカはさ、生きてる方がいいよ。そのほうが見てて楽しいし、どうせ無理矢理連れていっても、僕と同じところには行けないだろうし」
ふぅ、と残念そうな声で言うと、彼は右手を私の頬から外し、服の中から何かを取りだして私の手に握らせた。
「あげる。いつでも呼んで。君が生きてるのを見るのは好きだからね」
手に気をとられた瞬間に、唇に何かの感触を感じた。え? と思った時にはそれは離れていた。
何今の? え、リパー・エンドの顔が。離れていって。
……!?
「何すんのよあんたは!? 乙女の肌に傷付けた上に、人のファーストキスを!?」
私が怒鳴って殴ろうとすると、彼はひょいと身を後ろに逃げた。
まさか、まさかこいつ私の事が好きとか……いやまさか!?
しかし彼は立ち上がって、赤い目を細めて笑う。
「え? 素直に消えるのもつまらないし、嫌がらせ?」
「……」
神聖魔法のナイフをもう一本手に入れるべきであった。刺したい。ほんと刺し殺したい。
私の半眼も気にせずに、リパー・エンドは隣のエミリオにも笑いかけた。
「じゃ、エミリオもバイバイ。楽しかったよ」
「あっ、僕も行きます! エンド様!」
心棒者は頬を紅潮してさっさと私との契約をぶち切った。ずっと突っ込みたかったけど……エミリオあんたもしかしてそういう趣味でも……。
すぅっと姿を消す少年を見て、リパー・エンドは再び私に顔を向けた。
「じゃあ、またね。ミチカ」
……また?
冗談ではない、お断りだ! そう叫ぼうとした瞬間、彼の姿はかき消えた。
本当にあっさりと。
また何か騙しているのかと思っても、周囲を見回しても誰もいなかった。壊れて散らばった照明器具や、破壊された壁、血に濡れた床に座りこむ私。
残っているのは私ただ一人だった。
リパー・エンドを蘇らせた一年後の今日。
ついに私は解放された。奴はかき消えたのだ。
めでたいことであり、花火でも上げて祭りでもしたい。おめでとう私。おめでとう世界。
「……ってぇ、頭痛ぇ。ミチカ?」
後ろから聞こえたその声にばっと振り向くと、そこには巨大な体躯を持った男が、頭をかくようにしてふらりと歩いてきた。ベイルだ。
「ベイルさん! 無事だったんですね!」
「ん、まあ一応……」
後で解毒しねぇとな、と呟きながら近寄ってきたベイルは、目を丸くした。
「……お前、何で泣いてんだ?」
「な、泣いてないですよ! 心の汗が喜びになって噴き出したんですよ!」
私は慌てて頬を拭った。周囲を見回したベイルは、ああ、と頷いた。
「消えたのか、あいつ」
「はい! もう今日は国家の祝祭日ですね! 乾杯しましょう、ベイルさん! お店借り切って全品一つずつ注文とかしてお祝いしましょう!」
「あーはいはい、分かったから。分かったから無理して笑わなくていいから」
ぐす、と鼻をすすると、ベイルにぽんぽん頭を撫でられる。違う、別に悲しんでる訳じゃなくて。ホッとしたせいで涙が出るだけなのだ。
外では鳥の声が聞こえてきた。ああ、もう夜が明けたのか。私の夜も明けたのか。
安堵の気持ちのせいで涙が止まらない。
そうして、死霊術士の殺人鬼はこの世から消えたのだ。




