12 生者と死者の境界線
何が起こっているのか分からない。いや、分かりたくなかった。
私は呆然と座り込んだまま彼を見上げた。
目を細めて私を見下ろす彼は、いつもと同じように、いやそれ以上に楽しそうに見えた。
黒い髪をした赤い眼の殺人鬼。彼が黒い服装を好んでする理由は「返り血が目立たないから」と言っていた。ベイルと比べたら、細いとも言えるような体つきなのに死霊だからかリパー・エンドは異様に腕力がある。片手で人の首をへし折れるくらいには。
しかし彼が一番好きなのは、ナイフで人を切り裂くことだろう。以前、楽しくてたまらないといった様子で彼は刺客を始末していた。
狂人であり、快楽殺人者。リパー・エンドはそんな歪んだ存在なのだ。
なのに私は最近、変に気を許していた。彼が私に対して威圧的な行動にでることもなく、むしろ優しいともいえるような振る舞いをしていたことで、愚かにも心の奥底で頼っていたのだ。
――リパー・エンドは私を殺すような真似はしないと、いつから勘違いしていたのか。
歯噛みするような思いだった。それ以上彼を見ていられずにうなだれた。床に頭をたたきつけたい。自分の馬鹿さ加減に吐き気がする。
喉元を過ぎれば熱さを忘れるように、憎しみも怒りも持っていたはずが、いつしかそれは緩やかに変わっていった。
認めるのも嫌な話ではあったが、この胸の痛みと喪失感、そして絶望に近い感情を覚えたのは、そのせいだ。
私はこいつに、リパー・エンドに情が沸いていた。無意識のうちに親しみすら感じていたのだ。
こいつは何一つ変わらない、殺人鬼のままで、顔色一つ変えずに私を殺すだろうに!
「……はは」
自嘲の笑い声が漏れた。ぐるぐると頭の中を死という文字が駆け巡った。
死ぬのか。ここで死ぬのか。私が死んでも誰も悲しみもしないだろうことが寂しかった。ああ、もしかしたらベイルは嘆いてくれるかもしれない。お別れの挨拶すらしていないけれど。
「ではリパー・エンド。その娘の始末はよろしくお願いします」
微笑んで言い放つフィリップの声に、私はビクリと身を固くした。
逃げなきゃ、逃げる――にしても私は丸腰だ。武器の一つも持ってない。数歩進んだところで彼のナイフに貫かれて死ぬだろう未来しか見えない。
「うんうん、じゃ、行こうかミチカ?」
死後の世界にか。私がのろのろと顔を上げると、にこにこと笑っている殺人鬼は目の前に立っていた。彼の手が私の体に伸びる。
嫌だ。怖い。死ぬのは、怖い。
ぎゅっと目を閉じた私の体が、ふわりと浮いた。
「……っ」
衝撃に身構えた私に痛みも苦しみも襲ってこなかった。首を折られるのかナイフで喉を切られるのか。どちらにしても一瞬で終わるだろう。
だがそのどちらでもなく、私の体はリパー・エンドに抱き上げられたまま、何故か肩に担がれた。衝撃がないことに驚いて目を開けると、そのまま驚いた顔のフィリップが逆さまに映った。また荷物のようにリパー・エンドの肩に担がれている。
「……」
何これ、どこか落ち着いたところでなぶり殺し?
私はそんなにこいつから恨みをかっていたのだろうか。ああそういえば解放された後に鬱憤を晴らすと言われた記憶が蘇る。大きな螺旋階段を下りていくリパー・エンドの足を見ながら、絶望で色々な事を思い出した。
初対面のときに、リパー・エンドに「お礼に細かくゆっくりと殺してあげる」と言われたっけ……。ああ駄目だ。もう、嫌な想像しか出来ない。もういっそ舌でも噛んだ方が楽に死ねるのではないだろうか。
どんどん陰鬱な思考に染まっていると、私を担いだままのリパー・エンドが吹き出した。
「……ぷっ、あははは! ミチカ、魂抜けたような顔してるよ!」
「……」
今からあんたに魂抜かれると思えばそりゃあ死んだような顔にもなるというものだ。
「……あんた、私をなぶり殺しにする気?」
「へ?」
きょとんとした表情でリパー・エンドが左肩に抱えた私を見る。逆さまに映った彼の顔に、殺気はない。……今は。
「そんなことより、ミチカ一人でカトールまで戻れる? 送ってあげたいところだけど、契約かわしたばっかりだからフィリップとあんまり離れると糸が切れちゃいそうなんだよね」
戻る? カトールへ?
私は瞬きを繰り返した。私を殺すのではないのか? もしかして逃がしてくれるのだろうか。
糸とはおそらく術者と死霊の間の繋がりのことだろう。私との距離はどれくらいだったか分からないが、フィリップとリパー・エンドは現在、ネロの屋敷とカトールを繋げられるほど長くないということらしい。ならばカトールまで逃げれば助かるのだろうか。
しかし解せない。こいつは、私を殺したいと言っていたのに。
「……あんた、何で私との契約切ったの?」
「ええ? さっき言ったでしょ? ミチカを殺したいからだよ」
「……」
駄目だ話が通じない。狂人と意思の疎通をしようと思った私が馬鹿だった。
キィと音を立てて玄関の扉が開いた。外のひんやりとした空気が流れてくる。リパー・エンドは鼻歌を歌いながら庭を歩いて行った。逆さまになってそろそろ頭に血が上ってきたため、私は体を起こした。
頭上には丸い月が光っている。満月ではない少し欠けた月の光が庭に降り注いでいた。先ほどと同じように犬は距離をとって周囲をうろついているが、やはりその距離を縮めようとはしなかった。
すたすたと軽い足取りでリパー・エンドは私を門前まで運んでいった。大きく重そうな鉄門を内側から片手で押し開けると、私を地面に下ろす。いつもならば、ぽいと投げ捨てるのだがちゃんと私の足が地面に付くのを確認して、微笑んだ。
「はい。一人で帰すと多分あの辺の犬に襲われちゃうからね。寄り道しないでまっすぐカトールまで帰るんだよ?」
私は瞬きを繰り返した。逃がしてくれた、と思うのは何かおかしい。どこか違和感がある。
彼は屋敷の門の内側にいる。私は外側にいる。その間に酷く深い溝のような、境界線のようなものがある気がした。
この屋敷に来たときはリパー・エンドは私の死霊であったが、今はそうではない。彼が私を殺そうとしても妨げるものは何も無いのだ。
しかしカトールに戻れば武器もある、他に門士もいる。こいつは一体何を考えているのだろうか。
眉根を寄せた私に、月明かりに照らされた彼は微笑んだ。彼の赤い目が細められ、唇の端がゆっくりと上がる。
その瞬間、ぞくりと背筋が粟立った。
「カトールに帰って助けを求めてもいいし、逃げ出してもいいよ、ミチカ。ああその場合ちゃんとベイルから神聖魔法のナイフは取り返すんだよ? 武器の一つも持ってないと身を守る手段もないってことが分かったでしょ?」
明るく楽しそうな彼の声が、遠い。ぴりぴりと肌に突き刺さるような威圧感はまさしく、史上最悪と呼ばれる殺人鬼から漏れる殺気である。
リパー・エンドの唇からちらりと赤い舌が覗く。
「絶望したまま丸腰で殺されるんじゃつまらないでしょ?」
そう、親切げに囁いたリパー・エンド。彼は我慢したのだ。楽しみは後に残しておきたいと、そんな気持ちで。
「だからね、ミチカ」
そっと私の頬に触れて、彼は笑った。ぴり、と一瞬肌が何かに反発した気がした。
「明日、君を殺しに行くね?」
何気ない様子で、何気ない笑みで。今までと何一つ変わらない笑顔で、彼は私の殺害予告をした。
自身を支えきれず、ぺたりと地面に座り込んだ私の前で、大きな鉄の扉がゆっくりと閉じた。
彼と私の間を、断ち切るかのように。
* * * * * * * * * *
鉛のように重い足を動かして、私がやっとカトールの自分の部屋についたのは既に朝に近かった。恐らく二時間以上歩いただろう。
うっすらとした太陽の明かりが木々を照らし、私は倒れ込むように自分の部屋に入ると寝台にうつぶせた。
「つか、れた……」
何と酷い一日だったことか。リパー・エンドは主人の鞍替えをするわ、ネロは殺されているわ、ああ、結局リパー・エンドの死体の一部も奴が持ったままだ。一体何のために私はネロの屋敷に行ったのだろう。全てが裏目に出てもうため息すら出ない。
敵の巣窟に馬鹿正直に飛び込むような真似をするような人間は愚かだと分かっていたはずなのに、どこかで私も自分の事を死なないと思っていたようだ。その理由の一つにリパー・エンドの存在があったことは否定できない。
「ほんと、馬鹿みたい」
自分自身の馬鹿さ加減に笑いが漏れた。
リパー・エンドはフィリップの死霊になって、今夜私を殺しにくる。あの場で殺さなかったのは彼なりのイカレた理屈ゆえなのだろう。まな板にのせられた無力な鯉をさばく気はないということだろうか。分からないし、理解したくもない。これ以上何も考えたくない。
私はゆっくりと目を閉じた。
「眠い……」
もう嫌だ。疲れた。眠い。このまま夜まで眠ろうか。眠っている間に彼は私を殺してくれるだろうか。いっそそれが一番楽かも知れない。
とろとろとまどろんで、私はそのまま眠りに落ちた。
ぽろり、と目の端から涙が一粒零れた。
* * * * * * * * * *
長い時間眠ったような気がしたが、意外なことにそんなに時間は経ってなかったようだ。
酷い悪夢にうなされて私が飛び起きたら、日はまだ陰っていなかった。冷や汗に背中が濡れている。
ああ、酷い夢を見た。どんな内容だったか覚えていないが嫌な夢だった。現実も同じように夢だったらいいのに。
それでも私の側には誰もいないし、いつもならリパー・エンドに吸い上げられてほぼ空っぽの魔力がこの身に溢れているのを感じる。夢じゃなかった。
寝台にぼんやりと横たわったまま、しばらく起き上がる気力すら沸かなかった。
そういえば今日の訓練をさぼってしまっている。ベイルが私を起こしにも来なかったのは、全て私の自主性に任せているからなのだろう。その気のないものに教えるほど彼は暇ではないのだ。
「……あ、ナイフ」
取り返すんだよ、という殺人鬼の含み笑いが脳裏に浮かんで、反射的にイラっとした。もはや条件反射ともいえるものだった。
なんなのよもう、本当に。あの外道、狂人、後で殺しに行くとか馬鹿じゃないの? 殺したいから契約切ったとか意味がわからない。
何が丸腰で絶望してるから殺さない、よ。そんなのあんたに出会った時から基本絶望してるわよ!
心の中で全力で罵った後に、私は寝台から起き上がった。眠ったことにより少しは正常な思考が戻ってきたのだろうか。素直に殺されようと思ってしまうくらいには正気を失っていたようだ。
体は少し重いが移動に支障はない。殺人鬼と対峙出来るほどに元気一杯ではないが、そもそも元気一杯でも殺人鬼と対峙はしたくない。
私はため息をついた。どこかから、ため息をつくと幸せが逃げちゃうんだよという幻聴がどこかから聞こえたがうるさい黙れ。そもそも幸せになったことなんてついぞ記憶にない。
「……よし」
ぱん、と頬を叩いて私は気合いを入れた。逃げるにしろ戦うにしろ、どっちにしても着替えてベイルのところに行こう。ナイフを返してもらわなくては。何も思いつかなかったらナイフ持って逃げよう。
私は冷や汗に濡れた黒い服を脱ぐと、いつもの死霊術士の服装に着替えて部屋を出た。
大体ベイルがいるのは飼料小屋や馬小屋、その近辺である。今日はその中にいなかったため探しに行った。
馬小屋の間を通ってしばし歩いたところで井戸がある。そこでベイルは日に焼けた肌を太陽の下にさらしながら、ひょいひょいと水汲みをしていた。私が三十秒くらいかかる水の汲み上げを数秒で……。いやうん、いいんだけど……。あまりに腕力に差がありすぎると羨むどころかいっそ恐ろしい。
そう思った時にベイルが私に気付いた。
「お、ミチカ。寝坊か……って、あれ?」
井戸の桶から手を離して、私に話しかけてきたベイルは眉根を寄せた。怪訝そうな顔で私を上から下まで見る。まさか涙の跡でも残っているのかと慌てて頬に手をやると、ベイルは不審げに尋ねた。
「お前……魔力どうしたんだ?」
「へ?」
あ、そうか。私の身には今魔力が溢れている。ロザリオ教官に引き上げてもらったせいか、以前と比べものにならない量だ。
肉体強化中心のベイルではあるが、魔力探知は出来るようである。昨日まではリパー・エンドに奪われていたためカラカラだった私の魔力が急に溢れていたら、何があったのかと彼が不審に思うのも当然だろう。
「話すと長くなるんですけど、簡単に言うとリパー・エンドが私と契約切って他の主人に鞍替えしました」
「……」
ベイルは頭痛をこらえるように頭に手を当てた。大丈夫、私も出来れば頭をかかえたい。
「なんつーか、……意味が分からん。どうしていきなりそんな状況になってんだ?」
「私が聞きたいですよ! あの馬鹿、急に『ミチカを殺したくなった』とか言ってフィリップと契約しなおしてるんです!」
「フィリップ!? 待て待て、一体どうなってんだ?」
「説明しますけど、いつリパー・エンドが私を殺しに来るか分からないので、とりあえず私のナイフ返して貰えますか?」
「……」
ベイルはやれやれと言いたげな表情で汲んでいた水桶を片手で持つと、飼料置き場の方へ向かった。
「いいけど、道すがら説明してくれ」
頷いて私も彼の後を追う。今日来るはずの彼に、今の私の剣術で対応出来るはずもないのだが完全に丸腰というのも不安がある。あとはベイルに相談して、何の解決策も出なかったらもう逃げるか隠れるしかない。ああどっちも死にそうな予感しかしないのだが。
「昨日の夜なんですけれど……」
歩きながらでは当然話し終わらず、そのまま飼料小屋の木箱にそれぞれ腰をかけつつ、ベイルは私の話を聞いてくれた。長い話の途中で、野良だか飼い猫だか分からない猫が時々ベイルの膝に体をすり寄せている。無意識にその頭を撫でつつ、最後まで聞き終わるとベイルは「うーん」と唸った。
私は木箱に座ったまま、手持ちぶさたにナイフに触れた。湾曲したナイフの鞘を握っても、正直違和感しか感じない。そもそも死霊術士でナイフがお友達になれる気がしなかった。私の友達になれるのはモヤシくらいである。
「……逃げた方がいいような気がするが、多分あいつお前に目印的な何かをつけていそうだよな」
「……」
不幸なことに、私はそれを思い当たってしまった。ネロの屋敷から帰る直前、リパー・エンドに頬に触られた。その時、電気か何かが流れたような変な感じがあった。アレが目印か。これは逃げても隠れても無駄ということか。詰んだ。
「カトールの運営のほうに助力を仰いでみるか? 一級や二級門士を呼ぼうにも、素直に手伝ってくれる奴らじゃないからな」
「……」
何故だろう、死体の山の間を悠々と歩いてくるリパー・エンドしか想像できない。
「……その人達、協力したらリパー・エンドに勝てると思います?」
「リパー・エンドと対峙するんだろ? 多分きついな。何十人も犠牲にしてなんとか追い払えるくらいじゃねぇかな」
「……ええと、うん。助力はなしの方向で」
それだけの犠牲を出して出来ることが「追い払う」だけって。もう一度来たら終わるではないか。最近忘れていたけれども、そういえば生前は国の警備隊が出動しても仕留めきれなかったんだっけ。人間でも凶悪だったのに、それがまさかの死霊。最悪だ、誰だ蘇らせたの。私だった。本当にすみません。
またどんどん思考が暗くなっていくのを追い払うように私は首を振った。
腰につけたナイフを叩いて、ベイルに尋ねる。
「……このナイフでどうにかなると思いますか?」
「絶対無理。お前だったら一分とかからずに俺でも殺せる」
「……」
結局詰んだ。
「今までお世話になりました、ベイルさん」
「おいこら、諦めるの早いぞお前!」
深々と頭を下げる私に、ベイルは苦笑した。そんなことを言われても、もう今から楽に死ねそうな方法を探すしかないではないか。
逃げても駄目で戦っても駄目ならば、どうすればいいのだろう。
「結局のところ、死霊である以上弱点は同じだろ」
私を見ながらベイルは言う。弱点。リパー・エンドの命を繋ぐもの。以前は私だったが、今は。
「フィリップを殺せば、あいつも死ぬだろ」
あっさりとベイルは口にするが、そもそもリパー・エンドがフィリップの傍にいる以上そんなことは無理なのではないだろうか。私の視線に彼は眉を上げた。
「まあ、真っ当な方法でいくなら運営にフィリップのことを伝えればいい。死霊の強奪は罪にはならねぇけど同じ門士であるネロ殺害は立派な重罪だからな。捕縛命令がでたらどさくさに紛れて『抵抗されたので殺しました』とかいう手もある」
意外とベイルも殺人をためらわないものだ。私は少し考えてから言った。
「でもベイルさん、リパー・エンドが多分邪魔をすると思うんです」
主人が死んだら彼は塵になってしまう。当然まだ遊びたい彼がフィリップの殺害を阻むだろう。
「だから真っ当なほうは時間的にも無理だ。運営と連絡してネロ殺害の証拠を確認して……時間がかかる。今日リパー・エンドがお前を殺しに来る以上、そっちの方法をとったらお前が死ぬな」
「……」
眉尻を下げる私に、ベイルは笑いかけた。
「そんな情けない顔をするな。リパー・エンドとフィリップが離れていれば、フィリップ殺害は阻めないだろ」
「だってあいつ、基本は離れないで傍にいますよ」
私の身に危険がある場合、彼は私の側から離れなかった。フィリップに対してもそうなのではないだろうか。彼が新しい主と離れるなどあるのだろうか。
「それはお前が非力だったからだろ。フィリップはそうじゃないし、確実に離れるだろう時がある」
「え、いつですか?」
驚いた私が尋ねると、ベイルは飼料小屋の開けた窓から空を見た。既に日は傾いていて、夕暮れの赤い光が差し込んでいる。
「今日だ。お前を殺しにくるんだろ? あいつは多分その楽しみにフィリップは連れて来ないと思うぞ。多分だけどな」
言われた私は、当然のように納得した。
ああ、確かにそうだ。彼はとても楽しそうに私を殺しにいくと囁いた。
彼にとってのエミリオのように、私は「いつ殺そうかと楽しみにしていた」存在なのだろう。その「いつ」が今だ。誰に邪魔されるのも好きではないだろうし、変な口出しをされたくもない。
今度の主は自分の身は守れるのだから、彼は一人で来て、そして一人で帰るだろう。私の死を心から楽しみに。
本当に狂ってる。私は顔を歪めた。胸の痛みは恐怖のせいか、怒りのせいか……それ以外の感情のせいか分からなかった。
そんな私の肩をぽんと叩いてベイルは立ち上がった。こきこきと首をならす。
「ってことでちょっと行ってくるわ。門士同士の死闘は禁じられてるけど、相手が殺人犯なら話は別だしな」
「え、ちょっ、待っ」
行くって、ベイルが? 慌てて止める私に彼は不思議そうな顔をした。
「なんだ? 急がないとやばいんじゃないか?」
「だって、ベイルさんが行くってどういうことですか!?」
「フィリップを殺すのは今しかないだろうが」
「そりゃそうですけど!」
話した時点で私がベイルしか頼る人がいないのは明かであるが、そこまで巻き込むつもりはなかった。むしろそこまで巻き込まれてくれる人だと思わなかった。
リパー・エンドに闘技場に引き込まれた時のように、一歩引いてアドバイスだけでもくれるものだと思ったが、私を助けるためにフィリップを殺しに行ってくれるらしい。いやいやいや、ありがたいけれど何で!?
「ああ、別にお前のためだけってわけじゃない。俺にも得はある。リパー・エンドとその主人の殺害って、懸賞金かかってんだよ」
「……」
絶句した。新聞に載ったらしき話は聞いてたが、懸賞金もかかっているのか。時々リパー・エンドが姿を消しているときがあったが、あれはそれを片付けていたのだと今更ながら思い至った。
懸賞金目当てならば何故ベイルは今まで私を殺そうとしなかったのだろうか。見上げる私に彼は笑う。
「お前が自分でどうにかしようとしているうちは手伝うし、そうじゃないなら殺すのもまぁ仕方ねえだろうと思ってたからな。正直、お前みたいな弱いのを殺すのはちょっと抵抗があるから、ヤツがフィリップに鞍替えしたおかげで遠慮なく殺せるな」
「……あ、ありがとうございます」
引きつった声でお礼を言うと、彼は私の頭をくしゃりと撫でて飼料小屋を出て行った。何でもないような足取りだが、行き先はおそらく、フィリップのところ。
諦めていたら私も殺されていたのだろうか。うん、やはりこの人もただのお人好しではないのだ。ただ私の周囲では彼はお人好し呼ばわりされるだろうことは確実だ。
懸賞金目当てといいながらも、私の死に間に合うように今出かけてくれるのだから。
問題はただ一つ。
彼が死にそうな予感がひしひしとして止まらないことだけだ。
* * * * * * * * * *
完全に日が暮れた夜道をベイルは歩いていた。獣道であり、舗装されていない道は石がごろごろとしているが、彼に気にした様子はない。
カトールとネロの屋敷は普通に歩いて一時間半くらい。近道をして三十分を超える程度だろう。
行きがけにカトール運営に寄ってフィリップのこと、ミチカのことをそれぞれ伝えておいた。その際聞いたがネロの父であるオーバン・ドミトリーが今日は来ていないらしい。
殺られたんだろうな、と小さく笑った。
フィリップがネロに純粋に従っていないことは推察していた。全く気付いていないのはネロくらいのものだろう。何故ならフィリップはオーバン・ドミトリーの隠し子なのだ。生まれてすぐにノベル家に養子に出されたらしい。
ドミトリー家には黒い噂があった。裏の組織と手を繋いでいると。平たく言えば暗殺者集団の本家と繋がっているのだ。ネロに供給されていた合成死霊はそこから流れてきたものだと思われる。
何にしてもベイルには気にしなかったし、強さを求める以上多少の裏取引など日常茶飯事である。気にしていたらカトールにはいられない。
フィリップがネロを殺害し、リパー・エンドの力を背景にその組織と手を組んで地位を確立することは想像できた。おそらくその過程でオーバンは邪魔で、彼を始末してもどうにかなる目安がついたのだろう。リパー・エンドを手中に収めることによって。あの殺人鬼は武器というよりは兵器だ。投入すれば国を揺るがす大惨事になる。
ベイルにとって、少々不快なことでもあった。強いものが強さ故に戦いあい、死ぬのはいい。だが弱い物に一方的に振るわれる暴力は好きではない。
ミチカに従うリパー・エンドならば、渋々ではあれども反撃のみを主軸にしていた。だがフィリップは違うだろう。逆らう者をためらいなく殺せと殺人鬼に囁くのだろう。
ミチカのためもあるが、自分が嫌だからベイルはフィリップを殺しにいくのである。彼女はある意味囮として、殺人鬼を引きつけてくれればいいと思っていた。
だが。
「いつまで付いてくる気だよ」
ベイルの呆れた声が後方にかけられると、闇が少しだけ震えた。木々の隙間から含み笑いが聞こえる。
「いやぁ。ベイルこそ、どこにいくの?」
そこには黒い衣をまとい、平凡な顔立ちの非凡な存在が木に寄りかかっていた。リパー・エンド、伝説の殺人鬼である。
「ちょっとそこまで。野暮用だな」
「困るなぁ。僕さ、邪魔はされたくないんだよね」
本当に困った様子で眉根を下げる殺人鬼を一瞥して、ベイルは立ち止まった。見てみると確かに前と少し違う。彼の周囲を流れる魔力はフィリップのものだ。えらくあっさり裏切ったもんだ、とベイルは苦笑する。
「少なからずお前も、ミチカのこと気に入っていると思ったけどな」
「うん、気に入ってるよ?」
ベイルの言葉にリパー・エンドは頷いた。微笑む顔には悪意はない。ただ純粋に殺意が浮かぶだけである。
「気に入りすぎて、我慢できなくなっちゃったんだよ」
「……そりゃあ嬉しくない気に入り方だな」
肩をすくめるベイルに、リパー・エンドは笑う。
木々がざわざわと風に揺れて、音を立てた。暗い闇の下、少しだけ月明かりが差し込む森の中で彼は首を傾げた。
「ミチカ、泣いてた?」
「多分な」
そっか、と呟いてリパー・エンドは右手に持ったナイフをくるりと回した。
「昨日、殺してあげたほうがよかったのかな?」
「アホか。ミチカは死にたくないと思ってるぞ」
彼女は弱い。呆れるほど弱いし、殺人鬼に振り回され操られる傀儡でしかないと思っていた。
だけど彼女には一つ、曲げようのない意識がある。死ぬことを恐れ、生きたいと願う生き物としての本能だ。
彼女はずっと、罪悪感と生きたいと思う気持ち、そしてこの殺人鬼に対する恐怖と怒りとほんのわずかな情で揺れていた。
「でも僕はミチカを殺したいんだよねぇ。どうしたらいいのかな?」
くるくると回るナイフの光が、月光を反射する。リパー・エンドは何の感情も見せずに、仮面のような笑みを見せる。
「知るか。お前が死ねばいいだろ」
「ううーん」
彼は首を傾げた。自分が死ねばこの渇望は無くなるのだろうか。彼女を境界線のこちら側に落としたいという、この暗く歪んだ欲望は。
彼女の姿を脳裏に浮かべ、彼は唇の端を上げた。
そして首を振った。
「やっぱ嫌だな。エミリオみたいに僕のいないところで死なれるのも嫌だし、僕じゃない誰かがミチカを殺すのは許せない。第一、僕が死んでもミチカも死ぬだろうし」
例えリパー・エンドが消え去っても、彼が殺した多くの人々の身内は怒りの矛先をミチカに向けるだろう。抗う能力のない彼女には、悲しい結末しか残っていない。
ならば自分が殺すべきだ、と彼は結論付けた。彼女が望む望まないは関係なく、自分が殺したいから殺すのだ。
それは強者の理論であり、喰う者が喰われる者の嘆きを聞かぬのと同じ理屈である。
「ベイル、死ぬのと、僕の邪魔をしないのとどっちがいい?」
「……」
向けられる笑顔と殺気には何のためらいもない。リパー・エンドは既に両手にナイフを持っているし、ベイルもまた指を鳴らして身構えた。
「愚問だろ。分かってて聞くな」
「あははっ」
カラカラと笑って、リパー・エンドは一歩踏み出した。
「じゃあ、やろうか? 殺し合い」




