10 大貴族ネロ・ドミトリー
そんなつもりはなかった、と彼は思った。
叩きのめしてやると言ったし、その通りに彼はするつもりだった。彼が金にものを言わせて作らせたアルデチカは大変優秀な死獣であったし、その実力は既に裏で試し済だった。
通常の獣であれば死獣となったら親密な意志の疎通は出来ない。かろうじて主人を襲わない程度の意識しか残らないからである。ところがアルデチカは違った。醜悪なその形状にも関わらず、彼の意志……即ち彼以外の全てをかみ殺してしまえという指示にも従った。来いと言えば来るし、あいつを殺せといえば優先して殺した。
なんと優秀な死獣だと彼は満足した。
その獣に勝てるものなどいないはずだった。アルデチカの外装は細かく編み上げられた細い金剛の毛で急所を庇ってあり、また真正面からこの獣に睨まれて怯えないものはいなかった。
どのような人間、そして死霊であろうとも自分を一瞬で喰い殺せる殺気溢れた異形の肉食動物と、真っ正面から対峙して恐怖を覚えない訳がないのだ。
だが今、その獣に対峙した青年は、薄笑いを浮かべたまま虎の顔をみしみしと片手で押さえつけている。
そんなつもりではなかった、と彼は再度思った。
それはネロにとってはまるで遊戯のようなものだった。この試合場の中であれば戦っても死なないのだから。
当然のことのように受け止めていたその前提条件を、あの男は打ち砕いた。壊れないはずの四隅の柱を破壊して。
内側の戦闘の影響をどれだけ受けても壊れなかったその柱は、外からの衝撃で折れた。当然だ、そもそも場外から馬鹿みたいな魔力をぶっ放されるという想定などされていなかったのだから。
アルデチカが殺人鬼を喰い殺し、小娘には痛い目を見せてやって、リパー・エンド恐るるに足らずということを周囲に見せつけてやるつもりだっただけなのだ。殺人鬼を僕とした時に、リパー・エンドがネロの従順な死霊になるように、思い知らせてやろうと思った。自分ならば、史上最悪と呼ばれた殺人鬼の手綱すら握れると思っていたのに!
「躾の悪い猫だね」
含み笑いをしながらリパー・エンドは、虎と山羊の頭を片手ずつで掴んで、背中から生えた山羊の頭を引き千切った。虎が咆吼をあげる。痛いのか痛くないのか、あるいは怒っているのかはネロには分からない。そんなものは興味がなかったからだ。
異形の姿を見せつけるために付けられたその山羊の繋ぎ目は確かに少しの隙を見せたのかもしれない。それでも細い金剛糸で何千回と繋がれたそれを素手で引き千切る青年に頭を掴まれたとしたら、ネロの頭は柔らかな果物のようにひしゃげるだろう。
これはもう試合ではない。殺戮だ。アルデチカが負けたならネロは死ぬ。殺されるのだ、あの殺人鬼に! 震える声でネロは叫んだ。
「アルデチカ、娘だ! 娘を狙え!」
叫んだ声にアルデチカは反応した。虎の目には血の涙を流したかのようにぽたぽたと赤い血が流れていた。獣から無理矢理離された山羊の頭から、血が虎の顔にぼたぼたと垂れてきている。
ネロの叫びにミチカは「げ」という声を漏らして小さくなった。試合場の隅に隠れていた彼女に、アルデチカの目が向く。
ミチカ・アイゼン。殺人鬼の主でもあり、弱いだけの無力な傀儡。彼女を殺せばリパー・エンドも消えてなくなる。ネロは自分の死と秤にかけて、当然のようにミチカの死を選んだ。
轟、と吠えたアルデチカの尻尾となっていた蛇が、リパー・エンドの顔に向かって牙をむいた。一歩下がってそれを避けたリパー・エンドに、追撃のように蛇の尾が振られる。彼はその蛇の首を右手のナイフで弾いた。ガキンと固い音がした。その首を切り裂くはずの刃は阻まれた。金剛で編まれた糸がリパー・エンドのナイフから蛇を守ったのだ。
その瞬間、アルデチカは両足に力を溜めて跳躍した。無力な娘を喰い殺すために。
* * * * * * * * * *
少し時は遡る。
柱を壊したリパー・エンドに、ありとあらゆる罵声を叫んだ私は、「はいはい」とリパー・エンドに軽く流されて試合場に連れて行かれた。二階の柵の上から、ひょいと試合場に降り立ったリパー・エンドは、鼻歌を歌っている。上機嫌だ。死ねばいいのに、私が安全地帯に逃げた後に。
壊れた柱をちらりと見るが、バチバチという青白い光が周囲に舞っている。この中で死ぬ程の怪我を与えられた場合に、ちゃんと先ほどの強制退場は発動するのだろうか。この身で試して見たいとは露ほども思わないので勘弁してください。
「お、おま……お前……っ」
試合場の中央で、わなわなと手を震わせて目を見開くネロに、リパー・エンドは首を傾げた。
「ん? だっていいんでしょ? 君だって了承したじゃない。かけられたのは君の命、君の首だよ?」
言葉もないネロに、にこりと微笑む殺人鬼。潜めたはずの殺気がじわじわと床からせり上がってきている気がする。
からかうように殺人鬼が笑う。
「アルデチカが負けたら君は死ぬ覚悟があるんだよね?」
もはや否と言ったところで、彼が止まる気はないだろう。そんなリパー・エンドに轟と吠えて応じたのは異形の獣、アルデチカだった。慌ててネロが「黙れ!」と叫んだ。
低く唸るアルデチカを、目を細めて見るとリパー・エンドは私を下ろした。
「ミチカはこの辺で腰抜かしてていいから。ネロからの攻撃はないと思うけど、来たら逃げておいてね?」
言われて私は、立ち上がろうとしても立ち上がれない事に気付いた。足が震えて、上手く動かない。中央にいるのは恐ろしい死獣。殺気に溢れた肉食動物に、勝てるのだろうか。先ほどかなり大量の魔力を放出したはずのリパー・エンドが。つい視線が彼に向くと、片眉を上げて彼は笑った。
「そんな不安そうな顔しなくても、僕は大丈夫だよ」
「……あんたの心配なんかしてないわよっ。私は私の心配してるの!」
こいつが負けたら、喰い殺されるのは私なのだ。自分を心配しているのであって、断固としてこんな殺人鬼を心配などするものか。勝手に死ね。
睨む私に、けらけらと彼は笑う。
「だから僕は大丈夫だって言ったんだよ? 僕が大丈夫なのに、君に危険なんてあるはずないだろ?」
あ。と殺人鬼はいきなり真顔になった。
「でも僕時々遊ぶのに夢中になっちゃって、君の事忘れてしまうかもしれないから、そういうときは自力で逃げてね?」
死ね、と私は再度叫んだ。
* * * * * * * * * *
どこが大丈夫だ、嘘つき! 私は殺人鬼に対して心の中で罵声をあびせかけた。
彼の脇をすり抜けるようにして、死獣が跳躍した。それは真っ直ぐに私に向かって来ている。私の首を食いちぎろうと、開いた虎の口から鋭い歯が見えた。
逃げようと思ったけれども、足が動かなかった。腰が抜けたまま動かない。逃げられない。喰われる!
私は頭を抱えるように身を縮めて目を閉じると、悲鳴をあげた。
「きゃ……っ!!」
どすん、と地響きのような音が聞こえる。空気が舞い上がるように、砂が宙を舞った。
ぎゅっと目を閉じたまま固まっていたが衝撃はこない。
おそるおそる目をあけると、ほんの数歩先に、虎の顔があった。思わずのけぞった。
遠くで肩を震わせて笑いをこらえている奴が見える。私が涙の滲んだ目で、呪うような視線を向けると彼は堪えられない様子でけらけら笑い出した。あとでナイフを持って斬りかかろうと私は強く決心した。
そんなリパー・エンドの右手には虎の尾である蛇の頭が掴まれており、紐で繋がれた犬のように、私へのあと数歩の距離を死獣アルデチカは埋められなかった。
ぐぉう、と呻く声がアルデチカから漏れる。暴れる獣の尾となった蛇をぎりぎりと握りしめたリパー・エンドは、そのまま引きずるようにアルデチカを中央近くまで引き戻した。
「駄目だよ。僕のご主人様は意地っ張りなくせにすぐ泣くんだから、虐めないでよ」
くくっと笑って彼は暴れる死獣の腰の辺りに足を置くと、そのままナイフを山羊の頭があったところに突っ込んだ。
ぎゃう、と憎しみの悲鳴か痛みの悲鳴か分からないものがアルデチカから放たれる。
「外は固くても、一部が取れちゃったらそこは柔らかい弱点になるからね」
そう言って彼がナイフを内側からふるい出すと、獣は真ん中から切り裂かれた。
顔色一つ変えずに獣を解体している途中で、リパー・エンドは一つナイフを横に投げた。
「うぎゃあ!」
悲鳴があがる。驚いて私がその声のほうを見ると、逃げだそうとしていた足をナイフで貫かれたネロ・ドミトリーは尻もちをついたまま怯えた目でリパー・エンドを見た。
「君の首はこの賭けの代償でしょ?」
両手を血に染めて、殺人鬼は首を傾げる。
「負けたんだから、ちゃんと払わないと駄目だよ」
にこにこと笑うその笑顔は凶悪な顔の死獣よりもよほど恐ろしく見える。私は涙の滲んだ目をそっと擦った。
* * * * * * * * * *
ネロは首を振った。足が痛みで動かない。自分が相手を痛めつけるのならばまだしも、痛めつけられるのは初めてだった。痛みと恐怖で涙が滲んだ。
笑顔の殺人鬼の足元には解体されたアルデチカが見えた。この役立たずが、とネロは心の中で罵った。
「……フィリップ! フィリップ!?」
彼の忠実な僕でもあるフィリップの姿が見えない。一階の選手席にいるはずがそこには誰もいなかった。あいつの持っている死霊もアルデチカほどではないが強い。それが足止めしている間に逃げられれば、と思っていたのに。役立たずだ、どいつもこいつも。
焦ってネロは近寄ってくるリパー・エンドに向かって叫んだ。
「お、俺を殺したらドミトリー家が黙ってないぞ!」
彼は嫡男だ。厳しい父親ではあるが、ネロを殺されたらきっとあの小娘もリパー・エンドも、どちらも許さないはずだ。必ず報復措置がある。
「え、ホント!? 刺客とか沢山来るかな?」
むしろ嬉しそうに殺人鬼は声を弾ませた。待て、待てよ。なんで笑ってるんだ。床に尻をついたまま、後ずさろうとしても貫かれた足が杭のように動きを阻害した。痛みに苦痛の声が漏れるが、何も気にせず殺人鬼は血塗れの手にナイフを握った。
「ちょっ、やめなさいよ、馬鹿っ!」
遠くで叫ぶ声が聞こえる。ミチカ・アイゼンだ。主の言葉も完全に無視して死霊はネロと目を合わせた。
その時ネロは気付いた。リパー・エンドの目をどこかで見たことがあることに。
それはネロの指示で人間を喰い殺そうとするアルデチカと全く同じ目だった。蹂躙するだけの、何一つ情のない獣の目だ。命乞いをしようとした相手に、言葉が通じないことを悟って、ネロは血の気の引いた唇を震わせた。
「お、俺は、俺が」
何故死ななければならない。彼の人生において敗者となったことは一度もない。門士の戦いでも彼は勝ち続けた。新しい死霊を次々と手に入れて。体を動かすのが嫌だったネロにとって、剣士も武闘家も合わなかった。死霊術士は自分が何一つ苦労することなく死霊に戦わせるだけで、とても彼に合っていた。死霊は彼が望めばいくらでも手に入ったのだ。
着々と級を上げ、一級まであと少しというこのときに、何故死ななければならないのだ。
呻くような震える声で、目の前に立ったリパー・エンドに言った。
「い、嫌だ、死にたくない! 金で済むならいくらでも望むだけやる! 女だって地位だって希望のものを約束してやる!」
リパー・エンドは目をぱちくりと瞬かせた。足元のネロに、顔を寄せるとにこりと笑う。空洞のような虚無の闇のような、殺人鬼の赤い目がネロを怯えさせた。捕食者が捉えられた得物を見る目だ。覗き込むほどに深く落ちてしまいそうだった。
「あはは、予想外な提示品だね。でも僕はお金よりも何よりも」
血塗れのその手は無情に振り下ろされた。
「人を殺すのが大好きなんだよ」
彼の視界に最後に映ったのは、とても楽しそうにナイフを彼に突き立てる殺人鬼の笑顔だった。
* * * * * * * * * *
ヴヴン、と鈍い音が響いた。
思わず目を逸らそうとした私の目の前で、ナイフを振り下ろされたはずのネロ・ドミトリーがかき消えた。一体何が起こったのか。
「あらら」と無感動にリパー・エンドは呟いた。
「ちょっとアルデチカに時間かけ過ぎちゃったみたいだね」
苦笑するリパー・エンドは両手の血をごしごしと服で拭くと、私の方へすたすた近寄ってきた。思わず右手でナイフを探したが、そういえばベイルに預けていたのだった。
「……あんた、あとで一回刺させて!」
「えぇ! なんで!?」
心外そうに叫ぶリパー・エンドだったが、アルデチカに怯えるこっちを見て笑っていたあの恨みを忘れるものかと睨み付ける。
あーあ、とため息をつくリパー・エンド。
「せっかく壊したのになぁ」
ぼやくリパー・エンドの視線が向いた先には、折れた黒い柱が布のようなもので巻かれて修復されている姿だった。まだバチバチと青白い光を放っていたが、四隅の柱が全て立った状態になっていた。死にかけると医療室に飛ばされる魔法がぎりぎりのところで復活したのだろう。
その倒れていた柱を持ち上げ、支えていたのはベイルで、それを保持しようと走り回っていたのはフィリップのようだった。フィリップは素早く指示を出し終えると困ったような顔で私とリパー・エンドを見てから、医療室へと走った。多分飛ばされたネロ・ドミトリーがそこにいるはずだ。
柱が完全に布とその周りを覆うように立てられた柵で保持されると、ベイルは周囲の人間にいくつか声をかけてから柱を支えていた両手を回しながらやってきた。あの柱、ものすごく重そうというか、人の一人や二人は軽くつぶせそうな重さだったっぽいのだが。そんな柱を一人で支えていた彼もまた化け物だ。近くまで来たベイルの顔は完全に呆れていた。
「……お前らなぁ……」
できれば、お前らじゃなくてお前にしてほしい。そんな私の心の訴えをよそに、立ち止まったベイルはため息をついた。
「上級門士に、危機感もたせられたでしょ?」
あっけらかんと言うリパー・エンドだったが、がしがしとベイルは髪の毛をかいていた。
「……あの柱、壊せると思ってたのか?」
「うん。内側からは無理そうだったけど、外からならね」
手に持っていたナイフをどこかにしまって、リパー・エンドは笑顔で答える。死人の出ない戦いに興味はないのだという殺人鬼は、一貫としていた。壊せない柱であったならどうするつもりだったのだろう、と思わないでもなかったが、特に聞きたくもなかったため尋ねなかった。
「あいつを殺そうとした割には、柱を直そうとしてた俺達には攻撃しなかったな」
気付いてはいたんだろ? というベイルの問いにリパー・エンドはにこりと頷く。
「君たちが彼の勝利に賭けていたなら、攻撃してもよかったんだけど。まあそういう訳でもないし?」
理解できないとばかりにベイルは首を振った。狂人には狂人の理屈があるのだろう。理解など早々に放棄した私は思う。
私は周囲を見回した。観客席から向けられるのは、敵意と恐怖と、そして一部の賞賛。
「頭おかしいんじゃねぇかあいつら!」
「柱を壊すとか……おい警備はどうなってんだよ」
「良くやった! けけけ、ネロざまあみろ!」
ざわざわとざわめく声はリパー・エンドを受け入れる内容が一部あって、彼らの実力主義はこんな凶悪な暴力すら許容するのかと苦笑した。あと、あいつらって言わないでください。複数形反対。
「で、この後どうなるかな?」
何かを期待するような顔でリパー・エンドが弾んだ声をだした。こいつの期待なんてろくなもんじゃない。ベイルはこきこきと首を回して言う。
「まあ……呼び出し来るんじゃねぇの? 俺もお前らも」
警備をしているらしき門士達はこちらに近寄ってこない。リパー・エンドを押さえるべき彼らに、ベイルが先ほど声をかけていたのでそのせいだろうか。多分「死ぬからやめとけ」とでも言われたのだろう。
その時、ザザという雑音と共に落ち着いた男性の声で放送があった。
『三級門士ベイル・デイタ。およびその弟子ミチカ・アイゼン。死霊リパー・エンドは早急に一階事務室まで来てください』
な? と面倒くさそうな顔でベイルが言うと、楽しい結果になるといいねとリパー・エンドは笑った。
雨が降りませんように、と私は祈っていた。
* * * * * * * * * *
事務室にいたのは眼鏡をかけた老年の男性だった。彼は武術大会の運営責任者だそうだ。カトール運営陣の上層部の一人である。
「オーバン・ドミトリーだ。ドミトリー家当主でもある」
そう言って彼は皺の多い顔を苦笑の形に歪めた。
……あれ、ドミトリーってもしかしてネロの、父親?
驚くことにそこには彼一人だった。もっと刃物と敵意の視線に囲まれるものと思っていたのに。
大貴族である彼は、ネロが入門する前からカトールに資金援助と運営補助を行っていたらしい。その結果が現在の上層部の一員としての立場なのだろう。
「まあ……かけたまえ」
ちょこんと椅子に座る私と、どすりと隣に座るベイル。そして座らないで立っているリパー・エンド。
反対側の椅子に座ってオーバンは眼鏡をかけ直した。
「……どこから言ったらいいのかわからんが……とりあえず、息子がすまないことをしたな」
皺のある眉間をのばすようにして、彼は指を当てた。
「急にあんなことを言い出したから、こちらでもどうするか話していたところだったのだよ。まあ」
オーバンは笑みを浮かべる。
「あれで君たちが負けていたら、息子は二級に昇格しただろうがね」
「……」
ありなんだ、あれ。
私がぽかんと口をあけると、オーバンは片眉を上げた。
「別に息子だからといって贔屓をする訳ではないが、ここカトールでは変則的な出来事が頻繁に起こる。あの程度なら許容範囲なのだよ」
「オーバンさん、あの、ネロは?」
私が尋ねると彼は肩をすくめた。
「……医療室で呆然としている。あいつにとっては人生初めての屈服だからね。立ち直るか、立ち直れないかは分からんが」
そうあっさりと呟く彼には、息子に対する愛情のようなものは見えなかった。親のいない私には分からないが、普通息子が殺されかけたらもっと怒るものではないのだろうか。
……自分にいないせいか、変に親という者に幻想のようなものでも抱いているのかも知れない。私は首を振った。
「まあそんな訳で、息子のことはどうでもいいんだが、リパー・エンドくん」
「うん?」
ぴし、と空気が張り詰める。私は体を強ばらせた。何気なく返事をしている殺人鬼も、彼が何事か口を滑らせるのをわくわくと待っているようだった。
「君は次の武術大会も、柱を壊す気かね?」
「うーん、また中から呼ばれれば、かな」
にこにこと笑顔で答えるリパー・エンドに、オーバンは苦笑した。
「……中から場外の人間を呼ばないように規則を追加しようか。今後武術大会に参加する予定は?」
「ないよ。あの柱四つとも壊してくれるなら参加してもいいけど」
殺人鬼の軽い言葉にオーバンは頷いた。
「それならいい。毎回あれを修復するのは骨だからな。出来れば今後は控えてもらいたい」
「うんうん、特に理由もなく壊すような真似はしないから安心して」
安心とほど遠い、誠意のない笑顔で応じるリパー・エンドだった。
私とベイルが事の成り行きを見守っていると、オーバンは立ち上がった。
「話は以上だ。帰って貰って構わない。柱の修復請求書に関してはベイル・デイタに送るよ」
「げ……了解しました」
ある程度予想していたのか、ベイルは渋い顔で頷いた。
……え? あれ? これだけ!?
あまりにあっさりと断罪もなく終わった呼び出しに私は驚いた。処罰とか、死ねとかないの!?
驚く私を促すようにベイルが背中を押す。
「では失礼します。ミチカ、帰るぞ」
「あーあ、つまんない」
ぼやくリパー・エンドはさっさと部屋の外に出て行ってしまった。私は慌てて頭を下げて、ベイルに促されるまま部屋の外に出る。
「くっそ、給与数ヶ月分飛ぶなアレは」
苦虫を噛み潰したような表情のベイルに、私は尋ねた。
「え、あの、ベイルさん! 処分とか、何もないんですか?」
「何がだ?」
きょとんとしたベイルにむしろ慌てて私は詰め寄った。
「だって柱壊して、ネロの死霊分解して、ネロを殺そうとしたのに?」
「柱は請求書が来るだろ。ネロは自業自得。弱い方が悪い」
……。
当然のことのように返事をするベイルを見て、私は口を開けた。
やはりカトールもベイルも皆ちょっとおかしいのではないか、あるいはおかしいのは私のほうなのかと少し悩んだ。
引き返してきたリパー・エンドが私の耳に囁いた。
「ミチカ、ここってあんまりまともな人がいないよねぇ」
お前が言うな、と私は力なく突っ込んだ。
* * * * * * * * * *
武術大会から数日。確実に注目を浴びたらしき私達だったが、予想外に何事もなく平穏な日常であった。
いや私個人は平穏というにはほど遠かった。ベイルはスパルタ教官であった。まずは走り込み、筋力強化、柔軟をみっちりとやらされた。
「出来ないならやめてもいいぞ」と平然と言われたらもうやるしかない。泣きそうである。
予想していたネロからの嫌がらせや刺客は特にこなかった。リパー・エンドが暇そうにしているから確かである。
「脅かしすぎちゃったかなぁ」と残念そうに呟くので、しごかれてぐったりな私の溜飲が下がったのは蛇足だが。
そんな数日が過ぎた頃に、ベイルが一通の手紙を持って来た。請求書かと思ったそれは、私とリパー・エンド宛の手紙だった。
ひっくり返すと裏にはネロ・ドミトリーと銘があった。見なかったことにしたい。
開けかけた手紙を閉じると、後ろでそれを見ていたリパー・エンドがひょいと私の手から手紙をとった。私がぴょんぴょんと飛び上がって手紙を奪い返そうとするも、彼は上のほうに手を上げてそのまま開けてしまう。身長差が憎らしい。
「ちょっと、嫌な予感がするからやめてよ!」
「まあまあ、別に毒も刃物も入ってないし」
「そういう意味じゃなくて内容が嫌な予感するんだってば!」
私の叫びを頓着せずに、リパー・エンドは手紙をあけてしまった。紙にちらりと目を走らせてから私に渡してくる。
「はい、ミチカ」
「……」
開けた手紙はたったの二行だったせいで、私の目にも飛び込んで来てしまった。
そこにはこう書かれていた。
『リパー・エンドの死体の一部が見つかった。
ドミトリー家の屋敷に来られたし』




