1 殺人鬼リパー・エンド
残酷描写注意。普通に人も死にます。殺人描写も出ます。
以上のことをご了承の上で、ご覧下さい。
「うーん。暇だなぁ、ねえミチカ。ちょっと人殺してきてもいい?」
私の隣から、聞きたくもない御託が聞こえる。うっさいだまれだまれ。
「あ、大丈夫、ちょっとだけ。すぐいってささっと帰ってくるし。心配なら君も行く?」
誰が殺人鬼を心配などするものか。
私は睨み付けるように正面に座って喋り続けるイカレ野郎を見た。ガラガラと私達を乗せた馬車、いや護送馬車の轍の音がする。
「なんだい、ミチカ」
「その口を閉じるか、首を吊って死ねばいいのに」
「あっはは。僕の口は死んでも閉じないし、そもそも死んでるよ?」
カラカラと笑うそいつの声に、私の額にじわりと汗が滲む。そいつの視線が私と絡んだ瞬間に、粘つくような恐怖と殺気が蔓延した。
彼は死者である。
史上最悪の殺人鬼とも呼ばれ、生きている最中に殺した人間は数知れず。警備隊が死者の数を掴んでいる限りでは、数百人とも、千人を超えるとも言われている。表に出なかった死人ならばどれほどだろう。老若男女かまわず、そいつが通った道筋には死体の山が築かれるという、本当に狂った生き物だ。人間ではないと言いたいところだが、残念なことに人間らしい。私が蘇らせてしまった最悪の殺人鬼だ。
私、ミチカ・アイゼンは死霊術士である。名乗ることさえおこがましいほどの新人というか、学生だ。先月までは地方にある学園の死霊術士クラスの生徒だった。が、今や世界を絶望と恐怖に陥れた重罪人だ。
「地方の我々の手には負えない、君は移籍してもらう」と真っ青な顔で学園長が言った言葉を思い出す。
私は彼を睨み付けた。
「あんたのせいで私は中央の学園に行かないといけないんだから、余計なこと言わないで黙ってて」
そう、彼と私は今、共に中央の学園に向かっているのだ。厳重に警戒された馬車の中、既に半日も殺人鬼と対面している私の気持ちを察して頂きたい。
そんな私の視線を意にも介さずに、彼の赤い瞳は面白げに私を見る。一瞬私の足が震えた。私の虚勢などどうでもいい様子で彼は尋ねてきた。
「ミチカ、君が不満ならその学園の人間を一人残らず全員殺してこようか? 君さえ許可をくれれば、どこにでも赤い絨毯を敷いてあげるよ?」
朝食は何にする? とでもいうように軽く笑う彼に、私は返事をするまいと口を結んだ。こいつに常識も理性も情もない。生き返ったその瞬間から、戦慄におののく私の周囲の人間、教官や級友を一人残らず殺した時のままだ。
その名をリパー・エンド。稀代の快楽殺人者であり、死霊であり、狂い人であり、私の命を握っている存在だ。
* * * * * * * * * *
それは蛇が蛙を丸呑みするのに近かった。
死霊術士の初級授業、小さな鼠を死者として生き返らせるというだけの授業で、惨劇が起こった。
大きめの机が六つほどと教卓が一つ入った教室での実習授業だった。私は学園の死霊術士クラスの生徒で、級友達と同じように配られた鼠の死体にきゃあきゃあ怯えながらも教官に教わった通りに呪句を紡いだ。
その瞬間、視界がふっと暗くなった。
「……?」
目の前の机に突然、誰かの足が表れた。私は目を瞬かせて机の上に現れた青年を見上げる。その瞬間あふれ出した強くどす黒い気配に、息を呑んだ。青年は黒い髪と赤い瞳をした平凡な顔立ちで、彼の開いた胸元には、精霊石がいくつか埋めこんであった。その彼が目を細めて私を見下ろした瞬間、恐ろしいほどの威圧感に私は固まった。
時が止まったようなしんとした静寂の中、誰もが彼の放つ圧倒的で陰鬱な力に押され、言葉を失っていた。
最初に言葉を発することが出来たのは死霊術の教官であった。彼はかろうじて掠れる声で「逃げろ」と言った。声がしたから、というだけの理由で彼はまず教官に襲いかかった。一息で距離を詰めると教官の首を片手で絞め、持ち上げた。教官の体が空に浮かびながらもがく。彼はその様子を漫然と笑みを浮かべながら見た後に、私達に視線を回した。
その視線だけで、私達は誰一人動けなくなった。もしその場で誰が動いたり逃げ出したりしたら、多分もう一つの手はその人の喉にのびたに違いない。
ヒュウ、と教官の喉から息が漏れて、そのまま動かなくなるのをただ私達は見ていることしかできなかった。青年は恍惚の表情でその首から手を離すと、薄い笑みを浮かべながら出入り口に近い生徒を端から殺していった。血しぶきが飛んだ。
彼の両手にはいつの間に手に入れたのか、元から持っていたのか、大きなナイフが光っていた。首を切られ崩れ落ちる生徒達は抵抗という抵抗も出来ないままに、教室は地獄絵図になった。床が真っ赤に染まる。
数分後、彼が私に再度視線を向けた瞬間に、私の膝が崩れてぴしゃりと血まみれの床に座り込んだ。
周囲に動く物はもういなかった。私と殺人鬼以外は。
彼は感情のない仮面のような顔を、笑みの形に歪めた。
「君が僕を蘇らせてくれたんだろう?」
「……」
私の喉を行き来出来たのは、空気だけだった。息を潜めるようにして私はただ震えながら呼吸をしていた。
「お礼に君は、細かくゆっくりと殺してあげるね。この僕、リパー・エンドが」
呼吸すら一瞬止まった。脳裏に浮かぶのは今から数百年前に死んだと言われている伝説の凶悪な殺人鬼リパー・エンドの名前。目の前の青年がそれだというのか。喉の周りが粘ついたように声も息もでない。
多分私の顔が絶望に染まったのだろう。彼はその表情を満足そうに見ると、一瞬にして距離を詰めて、私の足に大きなナイフを振り下ろそうとした。
その瞬間、ぴたりと彼の手が止まった。
殺すのをためらった訳ではない。彼はそんな優しい心など一欠片も持たない。
「……?」
そもそも攻撃を止めた彼自身が、不思議そうな顔をしているのだ。
彼は動かない右手を無理矢理動かした。そして私の足にナイフが吸い込まれようとしたその瞬間。
彼の右手が肘のあたりまで一瞬にしてかき消えた。
「!?」
バランスを崩して、地面に左手をついた彼は不思議そうに自分の右手を見た。そこには何も無かった。肘より先がかき消されたかのように無くなっていたのだ。血は出ていない。
「……君、何かした?」
間近で見る彼の顔立ちは、冷ややかで仮面のように表情が変わらなかった。怒っている様子ではない。私に尋ねる彼に、私は小さく震えながら首を横に振った。私は本当に何もしていない。
「……ふぅん」
彼は左手のナイフを私に向かって放ってきた。避ける間もなく、それは真っ直ぐに私の眉間に吸い込まれるようにして。
消えた。
影も形も残さずに消えて、私には傷一つ残らなかった。
「何か、したでしょ?」
無表情な視線が私の視線と絡まり合う。蛇に足から呑み込まれるような、根源的な恐怖が私を襲った。誰しも目の前の捕食者から、こちらの命を一切加味しない視線を向けられて無事でいられるはずもない。
私はただただ首をふって、無罪であると訴えるしかなかった。
その私の首に彼の手がゆっくりと伸びてきた。それは指先だけそっと喉に触れて、するりと私の首に絡まるように広げられた。
その左手が一瞬のうちに私の首をへし折ろうと力が入った瞬間、彼の左手もかき消えた。両手を失った彼は、ただ震えるばかりの私を見ると、目を細めた。
少し上から見下ろしてくるその視線は、攻撃手段がなくなったところでなんということもないといった様子であった。
「君の名前は?」
「……ミ、ミチカ・アイゼン……」
喉がひきつれるような、強ばった声がでた。
「どうやって僕を生き返らせたの?」
本当は、引き裂きながら聞こうと思ったのに、と彼は呟く。
「し、死霊術士で、授業の、死者召喚が……」
「ふぅん」
彼は私の目を覗き込むようにして顔を寄せてきた。その目の色は深くどす黒い赤で、まるで血のようだ。
「僕をもう一回召喚してみて?」
「……」
「嫌だと言うなら、今からこの周りの人達を全員殺してくる」
彼は器用に足で血まみれのナイフを拾うと、片足で立ち上がった。私は思わず彼の足にすがりつくようにして止めた。
「ま、待って」
学園には、沢山の人がいる。私達のように死霊術士クラスもあれば、神聖魔法クラスもあり、剣術体術クラスもある。だがそのどのクラスの人間も、教官も、彼を殺すことなどできないだろう。
死霊というのは生前よりも耐久度があがり、ちょっとやそっと殴ったり切ったり燃やしたりしただけでは死なない。むしろ死んでいるのだから死ぬ訳がない。
身体を端から引き千切ったところで、焼き捨てたところで、一定期間経つと蘇るのだ。
それを防ぐためには召喚者が死霊を解放し土に戻すか、神聖魔法の聖なる呪文で消滅させるかのどちらかのみだ。一応第三の選択として、召喚者を殺すという手もあるが。
ここにいる神聖術士の人達は、あくまでも地方の学校の教官だ。例え彼の両腕がなかったとしても、死者の耐久度と殺人者の威圧感を持ち、殺人に手慣れている彼に敵う気がしなかった。
分かるのだ。彼の桁外れの強さが。これほどの血の海を目の前にして、表情一つ変えない彼の。
「いいよ。待つから僕を召喚して」
彼は素直にナイフを下げた。私は震える両手を印の形に組むと、小さな声で解放の呪印を呟いた。土に、戻さなきゃ。早く、早く!
「死したる隣人よ、あまねく眠りの民。夢の中に消えよ」
興味深そうに私を見下ろしている彼は、私の解放の呪印によって消え去るはずだ。そうでないといけない。
「死者に永遠の安らぎを」
そうでないといけないのに!
「……で? ミチカ、どれくらい死体の山を築いたら君は素直になるのかな?」
と楽しそうに呟く彼を、私は歪む視界で見上げた。何故消えないのか分からない。私の力が足りないのだろうか。
「君自身を傷つけることはできないみたいだね、召喚主だからかな。死体は他で調達しようか。じゃあね」
彼はナイフをひょいと口にくわえると、そのまま部屋を歩いて出て行った。凍り付いたように足が動かない。固まった私に、小さな悲鳴が耳に届いた。隣の教室だ。
私が震える足で隣の教室……神聖術クラスの教室に辿り着いたときには、既に静寂が広がっていた。一つの傷もついていない彼と凄惨な血の匂いに、耐えきれずに教室の隅にうずくまり吐いた。ただ吐いた。何も出なくなっても胃液が喉元にせり上がってきた。
「不便」
彼は教室の机に座って、足下の死体を足で切り裂いていた。声が不満そうだった。
「両手が使えないとやっぱり不便だね。ねぇミチカ。もう君を傷つけようとは思わないから、僕を召喚し直してよ」
玩具が手に入らないときの子供のように不満げな様子の彼に、私は首を振った。口元を拭うと、苦しい息を吐きながら言った。
「人を傷つけないと約束できないなら、いや……」
彼は天性の殺人鬼だ。息を吸うように気軽に人を殺していく。
楽しいのだろう、人が死ぬことが。私が両手を戻したら、彼は喜々として人を殺しに行くに違いない。死んでいた間の恨みを晴らすかのように、退屈を解消するかのように。
「どうして? 君は傷つけないよ? ミチカ。君以外の人間も、ちゃんと君の見えないところで殺してあげる」
譲歩するのはここまでだと言わんばかりの言いぐさである。私はどうにか彼の矛先を逸らそうとした。
「こ、殺したいなら私を殺せばいいじゃない」
「できないって。さすがに僕もこれ以上身体を無くしたくないし」
片足になったら動くのも大変、と彼は肩をすくめた。
「ねえ、僕は人を殺すのが日常なんだよ。それをとりあげようとするなんて、なんて君は酷い人なんだ」
ため息のように嘆く彼の顔立ちは、大量殺人鬼という言葉が似合わないほど平凡だ。少しつり上がり気味の赤い目、鼻筋は通っていて、薄い唇は緩やかに弧を描いている。
腕だって筋骨隆々という訳でもなく、黒衣に包まれた彼は細身とも言える程度の体つきだった。
どこにでもいる青年が、どこにでもいる体つきで、どこにもいないくらいあっさりと人を殺していく。当たり前のことをするために両手が必要なんだよ、と私を責める彼の表情は平然としていて、まるで私が悪いのかと思ってしまいそうなほどだった。
私の実力じゃ彼を封じられない。解放するための魔力の絶対量が足りないのだ。召喚は出来たのに土塊にもどせないなんて、なんてことだ。
そもそも、なんで私は彼を召喚できてしまったのだろう。今日の授業では、死者は死者でも、小さな鼠を蘇らせるような純粋な練習だったのに。
「君は殺さない。君以外の人も君が殺すなと言う人は殺さない。これならいい?」
軽い口調で妥協点を探す彼を、私はじっと見つめた。
「今の言葉は、本当?」
ぱっと彼の表情が明るくなる。微笑んで頷いた。
「いいよ! 君が僕を蘇らせてくれたんだから、出来るだけ譲歩するよ。君が殺すなという人間は殺さない」
「じゃあ、私以外の全ての人を絶対に殺さないで」
彼は顔を歪めて嘆息した。
「却下だよ。君や君のお友達、両親とかを殺さない……この辺で勘弁して。息を吸うように人を殺してるんだから、そんな縛りはきついんだよね」
「私には両親はいないわ。孤児よ。私のお友達はさっきあなたが全員殺したじゃない」
しまった、失敗したという表情で彼は固まった。
「それは……悪いことをしちゃったね。つい生き返ってはしゃいじゃったんだ。ごめんね?」
死んだ人は人質になり得ない。もし級友が生きていて、私の目の前で殺されるから助けてと懇願されたなら、私はその言葉に応じたかもしれない。貴族の多い級友達は、奨学金を貰って通っている私と立場が違うためか、そんなに親しい人はいなかった。それでも毎日顔を合わせれば挨拶もするし会話もする。少なくとも死んで欲しいなんて思わない。
だけど私の周りに生きている人はもう、誰もいないのだ。
まだこれが現実なのか信じられない。私は俯いた。
「ほんとごめんね。でも死んじゃったものは仕方ないし、諦めてよ」
感情という物がない様子の殺人鬼は、軽い口調で言う。
「じゃあほら、逆に君の嫌いな人を殺してあげるよ。それでどう?」
「……私の今一番嫌いな人は、あなたよ」
あちゃーと、天を仰ぐ彼の様子はとても普通に見えて、だからこそ怖い。
「誰も殺すなと言うんだったら、手を戻す意味なんてないんだよ。だってこの両手はそのためのものだもの。そうじゃないんだったら出来るだけ譲歩するけど、無理なら仕方ないんだ。僕は両腕なしでもまあ、それなりに何とかなるからね」
殺人鬼はあっさりと交渉を諦めると、両手に代わって両足と口でどうにかしようと思っている様子で、足元のナイフを器用に足で持ち上げ、先ほどと同じように放り投げた。
――それはまるで、今から人を殺してくるという合図のようで。
彼に対抗出来るはずの神聖術士クラスでもこの惨状。剣術体術クラスでも、彼を止めることなんて出来ないに違いない。そしてまた私も死霊解放が出来ない以上、何をすることもできない。
せいぜい走って警備隊へと連絡するくらいか、いや彼ならばすぐにその警備隊を殺すことも容易いだろう。
かつて生前のリパー・エンドを殺すのに、百人単位の警備隊や魔法士、騎士が犠牲になったという話がある。伝説に尾ひれがといたのだろうと思っていたが、この様子を見るに真実かも知れない。
死者となった彼には、千人向かっても恐らく無駄だろう。神聖術士の上位クラスが出て初めて何とかなる……かもしれない位である。
「分かった、あなたの手を戻す。人を殺すなとも言わない」
おや、と目を丸くして彼は立ち止まった。咥えていたナイフを落とすと、首を傾げる。
「いいの?」
「ええ、一つだけ条件を呑んでくれたら」
「条件次第かな?」
「殺してもいい、ただしその前に一年、一年だけ私の言うことを聞いて。誰も殺さないでほしいの」
「……」
一年で、私の死霊術士の能力がどれだけ上がるか分からない。
私が召喚したのだ。私が責任をとらなくてはいけない、と震える両手を叱咤するようにぎゅっと握りしめた。
「だからお願い、一年だけ何もしないで。それが条件よ」
魔力を上げて、彼を土に戻さなくてはならない。一年以内に。
「……一年、かぁ」
彼は悩むような声をあげた。彼の頭では今「殺したい」という欲望と、「両手を戻したい」という不便さに対する不満が拮抗しているだろう。
何かを考えるようにじっと立ち止まっている彼は、私を見て、小さく笑った。
「いいよ、一年だね。その間だけ君の言うことを聞こう。ただし」
彼が私の言葉を受け入れたという安堵は。
「一年経ったら、君を生きたまま僕の精霊石に封印して、永遠に僕の中に閉じ込める」
彼の言葉で霧散した。
精霊石とは非常に硬く魔力の高い宝石で、封印の石としても使われる。
彼の死体は、精霊石と一緒に燃やされたと言われている。彼の胸元にはからっぽの精霊石がいくつも埋め混まれていた。二度と蘇らないように、封印の呪がかかっていたのだろう。
そのうちいくつかは既に割れている。どれほど足掻いたというのだろうか。私はぞっとした。精霊石を砕けるほどのその力に。
私がもし精霊石に閉じ込められたら、恐らくもう浮上することなどできないだろう。眠り続けるだけである。勿論、死霊解放もできない。彼は私を石の中に閉じ込めて、永遠に私を死なせないように、彼が死なないようにしようとしているのだ。
これからの彼の楽しみのために。
「あと、その一年の間に君を殺そうというやつがいたら、どういう状況であろうと殺すよ?」
私が死んだら彼は召喚解除されてしまうからだろう。彼は笑顔のまま付け加えた。
「以上が僕のほうからの条件だ。君はのめる?」
彼の仮面のような笑顔が、私に向けられる。その声は恐ろしいほど淡々としていた。私は震える手を彼の胸の一番大きな精霊石に触れると、頷いた。
「……分かった、契約するわ」
その瞬間、彼の目に灯った狂った喜びの光を見たくなくて、私は視線を逸らした。
「いいね、ご主人様。契約をしよう。僕は生きていろんな人を殺したい。君は僕を殺したい」
リパー・エンドはうやうやしく跪くと、血にまみれた私の靴に口付けた。
「一年間の忠誠を君に。代わりに君はその後の一生を、僕に与える覚悟をするんだよ」
「……死したる隣人よ。あまねく眠りの民。この地に蘇れ」
私は呟くように言った。声が震えてしまうのは本能的な恐怖ゆえのものだろう。
「目の前のこの死者に再び命を」
その言葉と同時に彼の両手が復活した。何事も無かったかのように、その右手にはナイフが握られている。彼はナイフを床に捨てて顔を上げる。跪いていた彼の目が、怪しく光った。
「……っ!」
攻撃していると思われない程度の強さで、彼は私を引き寄せた。
「一年も待っていられない。僕は今、人を殺したいんだよ」
くっくと笑う彼は、私を精霊石に閉じ込めようとしているのだと気付いた。
私が死ななければ彼も死なない。強大な能力を持つ快楽殺人者の彼を倒すのは難しい。彼を倒そうとするものは、私を殺すためにまず彼を殺さないといけないというジレンマに陥るだろう。
彼の胸元の精霊石は、光って。
「……」
そして消えた。
驚いた表情で、彼は胸元の精霊石を見た。彼は恐らく何度か精霊石を使ったことがあり、また魔力も持っているのだろう。精霊石を発動させる様を見て分かった。
しかし今、彼の精霊石は反応しない。関知しないとばかりに沈黙を保っている。
「さっきあんたは約束したわ。私の言うことを聞く、代わりに一年後に精霊石は私を閉じ込める。既に私の身体はその精霊石と契約済みよ。一年後にその中に入る代わりに今はどの精霊石も私を閉じ込められないわ」
売約済みという状態の私の身体を捕らえようとする精霊石はいない。
そこでやっと彼も失敗を悟ったようだ。苦々しそうに顔が歪む。
「……最初に誰も殺さないって、嘘を言っておくべきだったかな?」
「残念だけどそれも契約になるから、もしそう言っていたら人を殺せなくなっていたわよ」
「ああ、そう」
それならまだこっちのほうがマシかも知れないね、と苦笑したまま唇の端を上げる彼は、非常に残念そうだった。お預けをくらった動物のように眉が下がった。
「仕方ないね、ミチカ。一年だけ待つよ。君に、殺したいほど憎い人間が早急に沢山出来るように祈っているよ」
名残惜しそうに周囲の死体を見回すと、彼は肩をすくめた。
「今のところ、一人だけよ」
「おやおや」
自分を見られていることに気付いたのか、彼は笑った。
「僕がもう一人いて、殺して良いなら大歓迎だ。楽しく殺し合いできそうなんだけどね」
殺し合いに「楽しく」という冠詞がつくことに理解できないが、そもそも彼は理解されようとも思っていないだろう。
血まみれの教室で私は彼を睨み付けた。声が震えるのを抑えるように低い声で。
「リパー・エンド。少なくとも一年は、あなたは私の言うことを聞くのよ。人を殺すのは許さないわ」
「はいはい、一年ね。覚えててミチカ」
彼は私の視線など、虫の羽音ほどにも気にしていない。
「この鬱憤は、一年後に晴らすから」
ぞっとするような凄惨な殺気を、私に向けてから彼は微笑んだ。
「君は石の中で、それを一生見続けるんだよ」
* * * * * * * * * *
その後の混乱は、思い出したくないほどに酷かった。
学園の関係者はその死者の数に悲しみ嘆き憎み、世界はリパー・エンド復活に恐怖した。死霊術士という職の地位が地に落ちた瞬間でもある。
私の扱いは揉めに揉めた。
私は学園の一室に軟禁されるかのように厳重に閉じ込められ、周囲は剣を持った警備隊でびっしりと囲まれていた。
何でもないように私の隣で佇んでいる彼は、どれほど剣を向けられ殺気を向けられても気にしていない。一度だけ、私が警備隊員に引きずられるようにして一室に閉じ込められたときに、含み笑いをしながら「そいつら殺そうか?」と尋ねてきただけだ。私は黙って首を横に振った。
その次の日に、事情聴取という名の弾劾裁判が広い会議室で開かれた。
呼び出された私は椅子に座って、学園長及び学園関係者や教官、警備隊隊長に囲まれていた。視線が痛いし辛い。私の緊張に強ばる表情を、興味深げに観察する殺人鬼もいる。
呼びもしないのにリパー・エンドもついてきたのだ。私の隣に立っていた。来なくていいというか、来ないでくれと言ったのだが「君に命の危険があるところでは、君の言うことは一切聞かない」と鼻で笑われるだけだった。
別クラスの死霊術士の教官は厳しい視線を私に向けた。
「君は何故リパー・エンドを呼び出した」
「呼んでません、勝手についてきたんです」
「違う、何故こんなやつを召喚したのか、ということだ」
それこそ私にだって分からない。首を振る私に、無関心な様子でリパー・エンドは周囲を見回している。
周囲の人達はその視線に、ぞっとするもの感じているようだった。ああ、恐怖が形をとったならば隣の男の姿をしているかも知れない。
「我々にはどうにもできない」
早々に神聖術士の教官が両手をあげた。じっとりと汗が額に滲んでいる。
「能力に差がありすぎる……攻撃したところで、ここが血に染まるだけだ」
木の棒で虎に立ち向かえといわれたような、そんな表情をしていた。
「おや、やってみればいいのに」
からからと乾いた笑いを見せるリパー・エンドに、周囲は血の気を上らせる者と引かせる者に別れた。前者は剣術体術関係者及び警備兵。そして後者は神聖術死霊術関係者だ。
魔術を使う者達はこの禍々しさに気付く。しかし殺気を引っ込めている今、弱そうな見た目だけを見ると、何とかなりそうだと思ってしまうのかも知れない。
だが実際に、なんとかなるか否かはすぐに周囲にも分かることになった。
「彼女を殺しててもリパー・エンドに消えて貰うべきだ!」と叫んだ警備兵の一人は、そのまま一生言葉を発することなく崩れ落ちたのだ。疾風のように姿を消して、彼の首をねじ切った男は笑った。
「殺せると思うなら、どうぞ?」
にこにこと、ご機嫌な様子で彼は微笑む。彼にとってはそちらのほうが嬉しいに違いない。私を殺そうとしてくる人だけは、私の許可もなく殺せるから。
その圧倒的な力と顔色一つ変えずに、いやむしろ嬉しそうに人を殺す彼の姿に、体術系の教官達も言葉を失った。
恐怖と緊張に張り詰めた会議場で、私は口を開いた。
「一年間の猶予の間に、私は出来るだけ死霊術士としての能力を上げようと思っています」
隣で不敵に笑っている男を、永遠の眠りにつかせるためにも。
「お願いします、そのための力を貸して下さい。それでも一年以内に私の力がこいつを封じられるほど強くならなかったら」
ごくり、と喉を鳴らして私は言った。周囲の視線を一身に感じながらも、こればかりは仕方がないと私は言葉を絞り出した。
「私ごと殺して下さい」
彼が喜々として生きている者を殺し回るような、生き地獄と呼ばれる世界など見たくない。彼は私に見せたいようだが。
「死なせないよ?」
隣の殺人鬼は、楽しそうに笑った。