壱
《黎音》
声が私に呼びかける。白い髪、白い着物の青年。虎の面を被った彼は言う。
《鬼を狩れ》
面に嵌った金の目が、彼の心情を表して細まった。
《人を狩りたくなくば》
彼の額には、2本1対の角。
《飢えれば、構わず喰らうぞ》
口が、艶やかに弧を描く。
《喰われたくなくば――鬼を、狩れ》
喰うものと、喰われるもの。彼に人も鬼も関係ない。飢えれば、喰らう。容赦のない思考。その残忍さは、正しく、真に。――鬼。
「……わかってるよ、雷閃」
相棒の名を紡ぎ、そっと目を伏せた。
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「黎音」
不機嫌な男の声が言う。泥になったかの如く寝こけていた私は、一度浮上しかけた意識でそれを聞いた。けれど、まだ、寝足りない。男を無視して、再び夢の中へ沈下させる。その選択は、果たして間違いだったわけだが。
「いつまでグースカ寝てんだ阿呆」
「いッ……!?」
男が枕を蹴る。達磨落としのように、枕だけがすっぽ抜け、右顔面を強打して目が覚めた。なんでだ、何が起こった。頭を支えていた筈の枕はどこに行った。飛び起きて探すと、布団から飛び出し、畳の上に投げ出された枕を見つけた。なんであんな遠くに。寝相はいい方ではないが、流石に寝ながら枕は投げられないぞ。奇妙な現象に、まさか妖怪か、なんて寝惚けたことを本気で考えていると、おい、と不機嫌そうな男の声が降ってきた。一応、声の方を見上げる。嫌な予感しかしない。
「朝稽古サボってこんな時間まで寝こけてるたあ、いいご身分だなあ……?」
どす黒い空気をまとった青年――御社 将太郎が仁王立ちしていた。米神に青筋が立っている。やばい、これはやばい。
「ええーっと、ほら、昨日は仕事してたし、ね? 寝るのが遅くなったし」
「炯はきっちり掃除までやったぞ。そもそもお前、夜遅くまで起きてたのはネット見てたせいだから自業自得だろうが。自己管理しろって俺は何度お前に言った?」
「いやだって充電は大事――」
「言い訳は帰ってきてから聞いてやる。早く学校行け」
見せられた時計にぎょっと目を剥いた。針は8時の10分前を指している。ええと、学校まで走って10分、着替える時間も合わせて考えると。
「間に合わないわ。サボって――」
「行け。1秒でも遅刻したら10本追加。安心しろ、お前の担任には話をつけてある」
性悪な笑顔の将太郎に苛ついた。が、稽古に10本もプラスされるのは嫌だから、渋々従う。担任にまで話をつけられたんじゃあ仕方ない。稽古は将太郎が監修しているから、逃げたら即バレるし。
舌打ちをして、将太郎を部屋から追い出した。しっかり襖を閉めて、急いで着替える。早着替えは苦手じゃない。スカーフは後でいい。寝癖も仕方ない。刀と貌、それから鞄をひっ掴んで廊下へ出る。
廊下からはすぐに庭が見える。というのも、壁がないからだ。時代劇とかのお屋敷を思い浮かべてもらいたい。大体あんな感じだ。部屋と外とを隔てるのは襖一枚しかないものだから、冬はどうしても寒い。
庭に転がっているローファーをつっかけて、行く準備は完了。
「よし、らいせ――」
「禁止だ馬鹿が。仕事以外で使うなっつってんだろ」
嬉々として刀に触れた私の背を、将太郎が蹴り付ける。意外に力が込もったそれのせいで、私は床に抱きつく羽目になった。足癖の悪い、というか居たのかよ。わざわざしっかり気配を消してまで注意することでもないだろう。
「雷閃禁止って、それ遅刻確定!」
「仕事時しか許可されてねえのに使うな。走れ、朝稽古サボった罰だ」
朝飯くらいは渡してやる、とオニギリを寄越された。別にそんな気遣いはいい、あと何分。針は7時53分を示している。残り7分でどうやって遅刻するなと? そっと覗き見た将太郎の顔は、ニヤリと極悪な笑みを模っていて。
「残り6分」
「ッ、しょーちゃんの鬼! 引き篭りの癖に!」
言い放って、出口を目指して走り出す。うるせえ、好きで引き篭もってんじゃねえ! と怒鳴り声が追いかけてきたが、知るか。
ああもう、広い屋敷はこういう時に煩わしい。