弍
逢魔が時。古来からそう呼ばれる夕暮れの時間は、鬼の活動も著しい。オレンジ色に染まった大海は、幻想的で好きではあるが。
「太陽のバカヤローって叫びたくなるねえ」
「随分と昔のネタを引っ張ってくるな」
残念ながら漫画で知っただけで、元ネタが何かはまったく知らない。そんなくだらないことはどうでもいいとして。
柔らかい砂を踏みつけて、波打ち際へと近づく。鬼が棲息していることが判明してから、この海水浴場は封鎖され、今や人っ子一人居やしない。周辺住民は避難しているし、多少暴れても大丈夫だ。
「うん、確実に居る感じかな。匂いが強くなってきてるし、近づいてきてるのかも」
貌をつけ、磯の匂いの中から、鬼の匂いを嗅ぎ分ける。金行魅子である私は、貌をつけると嗅覚が過敏になる。
貌は、鬼の貌そのものだ。決して魅子であることの証というだけの代物ではない。縛刀の鬼から力を借りるための媒体であり、力を扱うのに必要なものである。鬼の力を借りることで、鬼と同化し、擬似的に鬼になり、鬼に対抗できる。鬼と相対するには生身の人間では負担が大きい。ある意味魅子は鬼になりかけの人と言えるだろう。
貌は縛刀の鬼との繋がりを示す証で、媒体。簡単にいうなら、縛刀の鬼が発する、力という電波の受信機だろうか。ただの面ならばくり抜かれているはずの目の部分に、金の瞳が嵌っているのは顔そのものだから。
雷閃は嗅覚に優れている。貌をつければ普段よりも五感が敏感になるが、嗅覚が特に強化されるのはそのためだ。
徐々に強くなる悪臭のせいで鼻がイカレそうだ。まだ姿を現さないことだし、一度貌を外す。
「流石に海の中じゃ戦えないね」
「流石にそれはちょっとなあ」
特に炯は弱体化するだろう。浜辺なだけあって、水の気が強い。水乗火。水が強過ぎれば火は完全に消火される。水中ともなれば、どうなるかは考えるまでもない。
苦笑を零した炯が、焔煌の名を呼んだ。途端、ひらりと舞った火の花弁。そこからぶわりと炎が吹き出し、鳥を形作る。それは悠々と私たちの周りを一回転すると、炯の肩に舞い降りた。
《呼んだか、炯》
「ああ、焔煌。この辺りを飛び回って、挑発してやってくれ」
《了解した》
炯の肩から飛び立った焔煌は、海面すれすれを滑るように飛び回る。出てくるまでヒマだしと、爪先で穴を掘っては埋めてを繰り返す。面白くない上に靴に砂が入ってきた。脱いでひっくり返して砂を出していると、炯が生暖かい目で眺めていることに気づいた。やめてくれ、恥ずかしい。視線から逃げるように顔を逸らす。
夕陽に染まった海、飛び回る炎の鳥、男女の人影がある浜辺。どこまでも幻想的だが、この場でこれから起こることといえば、血生臭い殺し合いだ。
「物騒な世の中だねえ」
「それを終わらせるために、俺たちが頑張ってるんだろ」
それもそうだ、と返そうとした瞬間、炯がハッとしたような顔をして海を睨む。つられて視線を移すと、丁度焔煌が垂直に飛び上がり、炎の柱を迸らせながら消えていくところだった。どうやら見つけたらしい。
「来た」
一単語呟き、炯は貌を着ける。貌の金の瞳が剣呑に光った。
瞬間。
ずるりと。海面に這い出てきたのは一本の肉芽。途端、悪臭が一気に強まる。あまりの臭いに顔を顰めた。炎天下で生ゴミを放置した臭いと、磯の香りが混じり合って、とんでもないことになっている。
「さっさと出て来いよ、焼き尽くしてやる」
鞘走りの音とともに炯が吠える。それに呼応してか偶然か、三本の肉の触手が襲いかかってきた。串刺しにされまいと逃げたのは私だけ。戦闘モードの炯は、無慈悲にそれをぶった斬る。
「開幕早々……可哀そうに……」
「ワケわかんねえことほざくな。負けた奴が醜悪なだけだ」
はいそうですね、と肩を竦める。本当、普段とはまるで別人だ。
火行の魅子は苛烈である。他の魅子よりも、縛刀の鬼と、強く深く繋がっているらしい。そのため、貌を着けると豹変するし、鬼化の危険性が高い。どの魅子よりも火力が高い、その代償だろう。
悲鳴ともつかない甲高い怪音を上げて、蛸が姿を現す。海水を滝のように振り落としながら見えたのは。
「うわあ……」
人間を半解させて混ぜてできた粘土で、作り出された蛸の泥人形、とでもいえばいいだろうか。腕やら足やら、水にふやけてぶよぶよになった人間の一部が、そこかしこから突き出している。切り取られた三本の足が徐々に回復していくが、そのスピードは全然遅い。
体に取り込んでも自分のものにしきれていない、回復も遅い。進化したての雑魚と判断、これなら魅子二人でお釣りがくる程度だろう。そもそも魅子が二人掛かりで対峙しなくてはならないほどの鬼はそうそう出ないが。
にんまりと口元で半月を作った炯が、地面を蹴った。たった一度のそれだけで、蛸へと肉薄する。
抜刀、と同時に斬りつける。炎を噴いた刀が、胴のような部位を切り裂き焼いた。腐肉が焼け爛れる悪臭が撒き散らされる。貌がなくともこの臭いだ、着ければ酷いことになりそうだが、そうも言っていられない。
ポケットからケータイを取り出す。将太郎へ戦闘開始とメールを送り、タイマーを立ち上げる。
隙あり、とでも思ったのか、足の一本がこっちに向かって来た。銛のように迫るそれ、しかし見もせずに手で払う仕草をする。示し合わせるようにして、金属音。生成された鋼の棒が、蛸の足を貫き地面へと縫い止めていた。
30分後にタイマーをセット。ポケットの中へ大事にしまい込み、そこでようやく蛸を見据えた。どうやら炯は目にご執心のようで。いつの間にか刺刀がねじ込まれている方とは逆、まだ健在する目へ、熱心に攻撃をしかけている。蛸は蛸で唯一の視界を封じられないように、頑張って防いではいるが。
貌を装着する。縛刀を抜く。鞘を砂浜へ放って、【雷閃】を構えた。
「さて――狩りますか」
肺の空気をすべて絞り出すかのごとく、深く深く息を吐く。鬼は、狩れ。染み付いた言葉を胸に、一歩踏み出した。




