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傍陽物語  作者: 志摩譲治
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2 幼なじみの相木琴乃

向井家の住居表示は、2006年3月6日に「小県郡真田町傍陽」から「上田市真田町傍陽」に変わりました。じいちゃんは住所から「小県」の名前が消えてしまったことに違和感と寂しさを隠し切れませんでしたが、「上田」「真田」「傍陽」の名が同居するようになったことには、また別な感慨があったようです。ちなみに、その2年前の2004年4月1日には、海野宿がある小県郡東部町と、隣接する北佐久郡北御牧村が合併して東御市となっています。 

じいちゃんが話してくれた向井家の歴史の中で、我が向井家と、かの有名な真田一族との間にとても深い関係があったことを知りました。じいちゃんのお話は、真田信之・信繁兄弟の祖父である滋野一族の真田幸綱が、甲斐武田の軍師である山本勘助の口添えにより、同じ小県郡の依田一族に与する相木市兵衛と共に配下の将として、後に信玄と称する武田晴信に仕官するところから始まりました。

 

そうなのです。じいちゃんのお話には、まだ向井の名前が1回も出てきてないうちに、何とアイツの先祖の名前が登場してきてしまったのです。アイツというのは、私の家の二軒隣に住んでいる、幼なじみの弾丸娘「相木琴乃」のことです。もはや幼なじみと言うよりも、腐れ縁で結ばれている仲と言った方が適切なのかも知れません。

 

誕生日は琴乃の方が約2カ月早いので、その事実だけは一生変えることができません。ですが、幼少の頃は琴乃よりも小さかったはずの私が、小学校5年生を境に急成長を遂げ、今では身長で10センチほどリードしているので、琴乃にはかなりのコンプレックスとプレッシャーを与えていることに間違いありません。『それ以上大きくなったら、並んで歩いてやらないんだからねっ!』琴乃は悔しそうに私を見上げながら言いますが、こればかりは誰が努力をしてどうなることでもありません。

 

私たちは二軒隣に住んでいる関係なので、幼稚園から小学校、中学校が同じなのは仕方のないことですが、ついに高校生になっても離れることができない関係になってしまいました。琴乃のヤツは『高校は上田に行くから』と言っていたくせに、いざとなったら『やっぱチャユと一緒にいてやるよ』と、同じ傍陽総合高校の園芸科を選んでしまったのです。

 

こっちから頼んでいるわけでもないのに、何とも保護者振った言い方には多少のムカつきさえ覚えてしまいますが、琴乃が私の保護者であると言い張るのもまんざら嘘ではないのです。幼い頃からドジで短気でそそっかしい私のために、琴乃はどれだけの心労を重ねてくれたことでしょう。面倒見のいい琴乃がフォローしてくれたからこそ、私が安心して学校生活を送ってこられたと言っても決して過言ではありません。

 

『チャユっ!行くよっ!』今朝も琴乃が10メートルほど離れた砂利道から大声で叫んでいます。彼女もまたじいちゃんに負けず劣らずの元気印なのです。自転車から降り、玄関まで歩いてピンポンしてくれれば大声を出さずに済むのに、琴乃はいちいち自転車から降りることを面倒臭がっているのです。歩くのが面倒臭いわけではなく、一度降りてしまうと自転車に乗り直す際にスカートの裾を整えるのが面倒臭いのです。

 

というのも、私たちはバカみたいにスカート丈の短さを競っているのです。こんな田舎に住んでいるから許されることで、例えば東京でこのスカート丈で電車通学したら、それこそ痴漢に遇い放題のような気がします。全国的に見ても、新潟と長野の女子高生のスカート丈は異常に短いようですが、その中でも私たちは特に短い自信があります。

 

じいちゃんは『元気があってよろしい』と褒めてくれていますが、じいちゃん以外の家族と琴乃の家族は、何だか宇宙人を見るような不可思議な目で私たちを見ています。もしも私ひとりが短かったら、誰も許してはくれないのでしょうが、琴乃が私に対抗心を燃やして同じ格好をしてくれることで、辛うじて誰も口を出さずに我慢しているのではないかと思います。

 

もちろん、下着としてのショーツの上には見せてもいい用の可愛い短パンをはいているのですが、スカート丈がギリギリのラインで絶妙に調節されているため、誰もが一様にドキッとしてしまうのです。私たちは、そんな人々の驚く姿を見て快感に浸っている「傍陽の小悪魔」なのです。

 

琴乃の家が二軒隣だと言いましたが、この辺りの二軒隣と都会の二軒隣を一緒に考えてもらっては困るのです。向井家の隣にある池谷家までの距離が約百メートル、その隣にある相木家までは更に百メートル以上あるので、私の家と琴乃の家の間には一軒しかないにもかかわらず、距離は二百メートル以上もあるのです。 

私たちが生まれる二十数年前までは、上田から本原駅乗り換えで傍陽駅を終着点とする上田交通の1輛か2輛編成の電車が走っていたようですが、今では日中の時刻表がスカスカのバス便が、傍陽住民の唯一の足になってしまいました。

 

しかも私たちが通う2008年に開校したばかりの傍陽総合高校は、山城だった傍陽城址公園内に存在しているので、バス便すらない状態なのです。帰りは下りになるので楽チンなのですが、行きは約17分間の反り立つ壁のような道程を、ひたすらお尻を持ち上げて必死にペダルを漕ぎ続けなければ辿り着けないのです。

 

田舎娘の太股やふくら脛が都会の娘よりも逞しいのには、こんなところにも理由の一端があるのではないでしょうか。そして、私たちが自転車で走っているこの山道こそ、その昔は真田の草の者たちの修業の場だったに違いありません。私のご先祖様も、琴乃のご先祖様も、真田一族と傍陽の地を死守するために、過酷な鍛練に耐え続けていたことでしょう。

 

傍陽の地は徳川の山中忍びや甲賀忍びの急襲を受け、幾度となく根絶やしの危機に陥ったことがあるそうです。領民の生活を第一に考える昌幸・信繁親子が、草の者の安全を祈願するために建立したのが裾野にある宮原神社であり、有事の際にも安心して退避できる場所が山の頂きにある傍陽城だったのでしょう。

 

その証拠に、傍陽城とは名ばかりで、実際には天守がなかったようです。そこに存在していたのは、そびえ立つ石垣に頑丈な鉄門と深い堀、千人余が不自由なく生活できる広大な屋敷、数十箇所に及ぶ物見櫓、そしてアスレチックのような草の者の訓練施設だったのです。真田氏といえば上田城を想像してしまいますが、私は傍陽城こそが真田氏の郷土愛の源だったように思います。


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